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第2部 第3章・闇の抱擁
第6回
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4
どこをどう走ったのか、どこへ向かって走っているのか、響紀には何が何だか全く解らなかった。ただ結奈に引っ張られるがまま、いまだどこか夢見心地の残る意識の中で、彼は自分の身体が自分のものではないかのような、何とも表現し難い違和感を覚えていた。過ぎ行く景色はどこかで見た覚えがあるような、けれど初めて見るような、そんなことすら判らなかった。
いったいどれくらいの時間を、距離を、結奈に引っ張られ続けていただろうか。あっという間だったような気もすれば、悠久の時を走り続けていたような気さえする。まるですべての感覚を置き去りにしてきたかのような――
「あいたっ!」
次の瞬間、響紀は全身を強く叩きつけられたかのような激痛で、その曖昧だった意識を取り戻した。全身を強く叩きつけられたような、というのはただの表現などではなくて、事実として響紀の身体は地面に――神社の境内、むき出しの地面の上に、結奈の手によって、勢いよく放り投げられたのだった。
仰向けに倒れ、うめき声を漏らしながら結奈の姿を見上げれば、彼女は激しく肩を上下させながら、はぁはぁと荒い息を整えつつ、ちらちらと後ろの方を気にしている。
「……たぶん、大丈夫。アイツらは、ここまで、入ってこれないはずだから」
ふぅ、と結奈は深い深いため息を吐き、それからギロリと響紀を見下ろしてきた。それは悪行を働いた子を戒めようとする親のような、どこか後ろめたさを感じてしまう視線だった。
「それで? なんであんたは、直接敵地に乗り込んでいったワケ?」
がんっ、と響紀のすぐ目の前に、結奈の足が勢いよく飛んでくる。白いスカートから覗く太ももなど気にする様子もなく、彼女は目を見張り響紀を睨んだ。
響紀は「そんなこと言われても」と口を濁し、結奈から視線を逸らす。
「お、俺だってよくわかんねぇよ! お前と分かれてから、妙な不安に駆られたんだ! どこからどう調べればいいかわからなかったし、とにかく心を強く持って、俺は俺でやるべきことをやらなきゃって思ったんだ!」
「だからって、いきなりあんな所に行く馬鹿がいる? いったい何考えてんの? あり得ないでしょ? どんな目にあわされるか解らないのに、どうしてそんなことしたのよ? 私が駆け付けなかったら、今頃あんたはアイツに飲み込まれていたかもしれないのよ? わかってんの? あんた、奈央ちゃんを助けたいんじゃなかったの? お父さんやお母さんを、アイツらから守りたかったんじゃなかったの?」
「守りたいに決まってんだろ! だから俺は、そのために、あの女に会いに――」
……どうして、そう思った? なんで俺は、あの女のところに行こうと思ったんだ?
改めて考えてみれば、確かに結奈の言う通り、響紀がとったのはあり得ない行動だった。女に対する恐怖心を抱えながら、一人で行ってどんな目に遭うのかも分からない状況で、あえて響紀は女の下へ向かってしまったのだ。
――何故?
それは響紀自身にも全く分からなかった。今にして思えば、まるで体が勝手にそちらの方へ向かってしまったような気がしてならない。本来の思考とは裏腹に、響紀は女に会うために、あの峠の廃屋に足を向けたとしか思えなかった。
「なによ、そんなに考え込んで。何か言いなさいよ」
結奈の言葉に、響紀は大きく息を吐いて、
「すまん、俺にもよく解らないんだ。気が付いたらあの廃屋に足を向けていた、としか言いようがない。結奈と分かれて孤独を感じて、不安に駆られて、どこから調べればいいのかわからないまんまさ迷い歩いて。何とかしようと思ったんだ。自分が今するべきことを、ずっと考え続けていたんだ。そうしているうちに、俺の足はあの廃屋に向かっていた。怖い怖いと思いながらも、それに抗うことができなかったんだ」
そこまで言って、響紀はじっと結奈の目を見つめた。
結奈はそんな響紀の視線を真っ向から受け止めて、けれど何も言葉を口にしなくて。
ただただ視線だけを交わらせたまま、いったいどれだけの時間が経ったか。
「――それにしても、ちょっとのどが乾かない?」
そんなことを結奈は言って、肩に提げていたショルダーから小さな水筒を取り出すと、それを響紀に手渡しながら、
「ほら、あんたにあげる」
「あ、あぁ、ありがとう」
響紀は何も疑うことなく水筒を受け取ると、機械的にふたを開けて口を付ける。のどが渇いているのか、と問われれば、特に乾いてなどいない、と答えるところなのだけれど、ここまでのやり取りでその好意を無下にしてまた言い合いをする羽目になるのも何だか嫌で、素直に響紀は水筒に収められた水を飲みこむ。
その瞬間、響紀は胃の腑から込み上げてくる激しい吐き気に襲われた。その感覚に、響紀は確かに覚えがあった。あれはそう、結奈と初めて出会った駅前の大きな神社、その御神井の水を飲んだ時に――
まさか、と思ったときには、響紀は盛大に赤黒い塊を吐き出していた。結奈はそれを予期していたのだろう、ぱっと響紀の吐き戻したものから逃げるように、避けるように、さっと響紀から遠のいた。
響紀は反射的に手をついてうつ伏せになり、おえおえと胃の腑からあふれ出てくる赤黒いナメクジを、ぼとぼとと地面の上に吐き出し続けた。気持ちが悪くて仕方がなかった。のたうつナメクジを見ているだけで、次から次へとその不気味な悪い物体は響紀の口からあふれ出ていった。赤黒ナメクジはびちゃびちゃと地面の上を苦しそうにもだえ苦しみ、やがて先に吐いたものから順番にパンッパンッと弾けて散った。
ただただ気味が悪かった、気持ちが悪かった。
やがて吐き出すものがなくなって、ようやく響紀は結奈の方に顔を向けた。
「お、お前、これ、まさか」
それに対して、結奈は小さく頷いて、
「もちろん、御神井の水だけど?」
どこか勝ち誇ったかのように、そう口にした。
響紀はもう一度「おえっ」と水を吐き出し、口元を拭うと大きくため息を吐いた。身体を反転させて地面に尻をつき、うなだれるようにして視線だけ結奈に向ける。
結奈は仁王立ちになったまま腕を組み、じっと響紀を見下ろしながら、
「でも、少しは気分が落ち着いたんじゃない? これだけ穢れを吐き出したんだもの」
雨に打たれておでこに張り付いた前髪を、すっと指でつまんで横に流した。
彼女のその衣服もまたびしょびしょに雨に濡れ、肌に張り付いて浮き出た身体のラインが何とも艶めかしかったが、けれど響紀はそんな結奈を見てもさして何も感じなかった。これがこんな状況でなければ、響紀もまた一般的な男子よろしく結奈に見惚れでもしただろうが、今はそんな気分には到底ならなかった。今はただ、自分を騙すかのように御神井の水を飲ませたこの女を、どこか忌々しく思うほどだった。
響紀は「ちっ」と舌打ちをひとつしてから、
「ふつうに渡せばよかっただろ。なんでひとこと言わなかった」
すると結奈は小さくため息を吐く。
「……たぶん、普通に渡したらあんたはこの水を拒んでいた。そんな気がしたから」
「どういう意味だ?」
訊ねると、結奈は首を横に振って、
「あんたは、朝に私と話していた時からどこか様子がおかしかった。何かに執着しているようだった。たぶん、あんた自身も気づいていなかっただろうけど。なんて言えばいいんだろう。もうすでに何かに囚われようとしているように見えた。私はそれが怖くて、だからあんたと分かれて行動しようと思った。私は、これまでもそういう霊たちを見てきたから。何度も何度も、執拗に絡まれてきたから、とにかく面倒で逃げようとしてしまった。それはごめん。私の言い訳。本当は、ちゃんとあんたについててあげるべきだったと思う。一緒に行動してあげるべきだったと思う。そうすれば、少なくともあんたはあの女のところに無意識的に戻ったりはしなかったかもしれない。これは私の落ち度。最初、おばあちゃんにあんたを投げようとしたのも、たぶんそう。本当は関わりたくなかっただけ。でも、それじゃぁいけなかったんだ。おばあちゃんだって言ってたんでしょ? 何か困ったことがあったら、私を訪ねろって。だから、あんたと分かれてしばらくして思い直したんだ。今のあんたを放ってちゃいけない。逃げちゃいけないって」
そこまで言って、結奈はまた、深い深いため息を吐いた。
雨はざあざあとその強さを増し、結奈の身体と地面を強く叩きつけた。響紀には何も感じられなかった。ただ雨音だけが耳に聞こえ、けれど響紀の身体は一切濡れてなどいなかった。今の今まで、結奈をじっと見つめるまで、雨が降っていることすら彼は忘れていた。意識していなかった。たぶん、だから響紀は濡れていなかった。身体を持たないがゆえに、雨に濡れるわけがないから。響紀の周りはあの赤黒いシミに囲まれていたが、そのシミも雨に流され、徐々に徐々に薄まっていこうとしていた。薄暗い空に、響紀はどこか不安を覚える。
結奈は続けた。
「たぶん、その身体――って言っていいのかわからないけど、とにかく、あんたという存在はあの女と触れ合ったその瞬間から、半分くらい、あの女の虜になってしてしまったんじゃないかって、そう思った。あんたが吐き出した赤黒いナメクジ、あれがたぶん、あんたの中に淀んで支配しようとしている穢れなんじゃないか。もしそうなのだとしたら、もしあんたがあの女のところに戻った時、あの女はもう一度、あんたを内側から支配しようとするんじゃないか。もしそうなったら、それこそあんたが助けようとしていた奈央ちゃんを、あんた自身が、あの女のところまで連れて行ってしまうんじゃないかって、そう思ったんだ。だから私は、すぐに神社に行って御神井の水を汲んできた。もし私の思った通り、あんたがあの女のところに戻ってしまったとしたら、必ず必要になると思ったから」
響紀はじっと結奈を見上げていた。自分が今しがた吐き出した赤黒いナメクジ――穢れ、と結奈は言っていたが、アレに俺は支配されていたのか、と思うとどこか納得がいくような気がした。それと同時に、いまだに自分の中にわだかまる不安と違和感に、妙な恐怖と焦りを覚えた。
「――俺は再びあの女に支配されようとしていた。だから、普通にあの水を飲ませようとしたところで拒んでいたかもしれない、というのは解ったよ。俺もそんな気がする。あの女とキスした時、俺はそれが嬉しくて仕方がなかった。あの女の口から飲まされたんだろう、赤黒いナメクジみたいなやつ……穢れか? そのせいで俺の意識が朦朧としていたというか、曖昧な状態だったのも覚えてる。たぶん、お前の言う通り、無意識的に拒絶していたかもしれない。だから、まぁ、礼を言っておく。ありがとな」
「うん」
と結奈は返事したが、
「けど、いくらかはもう完全にあんたの中であんた自身とくっついちゃってるのかもしれない」
「なんだそれ、どういうことだ?」
首を傾げる響紀に、結奈は肩を落としながら、
「あんたは――響紀は私と初めて会ったとき、さんざん御神井の水を飲んで、あの穢れを吐き出したはずでしょ? もうこれ以上吐き出せないほど、たくさん穢れを出したはずだったでしょ?」
「まぁ、たぶん……」
「それなのにあんたがあの女のところに無意識的に向かってしまったってことはたぶん、その穢れとあんたの魂? そのものが、いくらかひとつに結合しちゃってるのかもしれない」
「……なんだよそれ、どういう意味だ?」
「だからね」
と結奈はまた大きくため息を吐いてから、
「もうすでにあんたの何割かは、あの女に支配されてしまってどうにもならないってことよ」
どこをどう走ったのか、どこへ向かって走っているのか、響紀には何が何だか全く解らなかった。ただ結奈に引っ張られるがまま、いまだどこか夢見心地の残る意識の中で、彼は自分の身体が自分のものではないかのような、何とも表現し難い違和感を覚えていた。過ぎ行く景色はどこかで見た覚えがあるような、けれど初めて見るような、そんなことすら判らなかった。
いったいどれくらいの時間を、距離を、結奈に引っ張られ続けていただろうか。あっという間だったような気もすれば、悠久の時を走り続けていたような気さえする。まるですべての感覚を置き去りにしてきたかのような――
「あいたっ!」
次の瞬間、響紀は全身を強く叩きつけられたかのような激痛で、その曖昧だった意識を取り戻した。全身を強く叩きつけられたような、というのはただの表現などではなくて、事実として響紀の身体は地面に――神社の境内、むき出しの地面の上に、結奈の手によって、勢いよく放り投げられたのだった。
仰向けに倒れ、うめき声を漏らしながら結奈の姿を見上げれば、彼女は激しく肩を上下させながら、はぁはぁと荒い息を整えつつ、ちらちらと後ろの方を気にしている。
「……たぶん、大丈夫。アイツらは、ここまで、入ってこれないはずだから」
ふぅ、と結奈は深い深いため息を吐き、それからギロリと響紀を見下ろしてきた。それは悪行を働いた子を戒めようとする親のような、どこか後ろめたさを感じてしまう視線だった。
「それで? なんであんたは、直接敵地に乗り込んでいったワケ?」
がんっ、と響紀のすぐ目の前に、結奈の足が勢いよく飛んでくる。白いスカートから覗く太ももなど気にする様子もなく、彼女は目を見張り響紀を睨んだ。
響紀は「そんなこと言われても」と口を濁し、結奈から視線を逸らす。
「お、俺だってよくわかんねぇよ! お前と分かれてから、妙な不安に駆られたんだ! どこからどう調べればいいかわからなかったし、とにかく心を強く持って、俺は俺でやるべきことをやらなきゃって思ったんだ!」
「だからって、いきなりあんな所に行く馬鹿がいる? いったい何考えてんの? あり得ないでしょ? どんな目にあわされるか解らないのに、どうしてそんなことしたのよ? 私が駆け付けなかったら、今頃あんたはアイツに飲み込まれていたかもしれないのよ? わかってんの? あんた、奈央ちゃんを助けたいんじゃなかったの? お父さんやお母さんを、アイツらから守りたかったんじゃなかったの?」
「守りたいに決まってんだろ! だから俺は、そのために、あの女に会いに――」
……どうして、そう思った? なんで俺は、あの女のところに行こうと思ったんだ?
改めて考えてみれば、確かに結奈の言う通り、響紀がとったのはあり得ない行動だった。女に対する恐怖心を抱えながら、一人で行ってどんな目に遭うのかも分からない状況で、あえて響紀は女の下へ向かってしまったのだ。
――何故?
それは響紀自身にも全く分からなかった。今にして思えば、まるで体が勝手にそちらの方へ向かってしまったような気がしてならない。本来の思考とは裏腹に、響紀は女に会うために、あの峠の廃屋に足を向けたとしか思えなかった。
「なによ、そんなに考え込んで。何か言いなさいよ」
結奈の言葉に、響紀は大きく息を吐いて、
「すまん、俺にもよく解らないんだ。気が付いたらあの廃屋に足を向けていた、としか言いようがない。結奈と分かれて孤独を感じて、不安に駆られて、どこから調べればいいのかわからないまんまさ迷い歩いて。何とかしようと思ったんだ。自分が今するべきことを、ずっと考え続けていたんだ。そうしているうちに、俺の足はあの廃屋に向かっていた。怖い怖いと思いながらも、それに抗うことができなかったんだ」
そこまで言って、響紀はじっと結奈の目を見つめた。
結奈はそんな響紀の視線を真っ向から受け止めて、けれど何も言葉を口にしなくて。
ただただ視線だけを交わらせたまま、いったいどれだけの時間が経ったか。
「――それにしても、ちょっとのどが乾かない?」
そんなことを結奈は言って、肩に提げていたショルダーから小さな水筒を取り出すと、それを響紀に手渡しながら、
「ほら、あんたにあげる」
「あ、あぁ、ありがとう」
響紀は何も疑うことなく水筒を受け取ると、機械的にふたを開けて口を付ける。のどが渇いているのか、と問われれば、特に乾いてなどいない、と答えるところなのだけれど、ここまでのやり取りでその好意を無下にしてまた言い合いをする羽目になるのも何だか嫌で、素直に響紀は水筒に収められた水を飲みこむ。
その瞬間、響紀は胃の腑から込み上げてくる激しい吐き気に襲われた。その感覚に、響紀は確かに覚えがあった。あれはそう、結奈と初めて出会った駅前の大きな神社、その御神井の水を飲んだ時に――
まさか、と思ったときには、響紀は盛大に赤黒い塊を吐き出していた。結奈はそれを予期していたのだろう、ぱっと響紀の吐き戻したものから逃げるように、避けるように、さっと響紀から遠のいた。
響紀は反射的に手をついてうつ伏せになり、おえおえと胃の腑からあふれ出てくる赤黒いナメクジを、ぼとぼとと地面の上に吐き出し続けた。気持ちが悪くて仕方がなかった。のたうつナメクジを見ているだけで、次から次へとその不気味な悪い物体は響紀の口からあふれ出ていった。赤黒ナメクジはびちゃびちゃと地面の上を苦しそうにもだえ苦しみ、やがて先に吐いたものから順番にパンッパンッと弾けて散った。
ただただ気味が悪かった、気持ちが悪かった。
やがて吐き出すものがなくなって、ようやく響紀は結奈の方に顔を向けた。
「お、お前、これ、まさか」
それに対して、結奈は小さく頷いて、
「もちろん、御神井の水だけど?」
どこか勝ち誇ったかのように、そう口にした。
響紀はもう一度「おえっ」と水を吐き出し、口元を拭うと大きくため息を吐いた。身体を反転させて地面に尻をつき、うなだれるようにして視線だけ結奈に向ける。
結奈は仁王立ちになったまま腕を組み、じっと響紀を見下ろしながら、
「でも、少しは気分が落ち着いたんじゃない? これだけ穢れを吐き出したんだもの」
雨に打たれておでこに張り付いた前髪を、すっと指でつまんで横に流した。
彼女のその衣服もまたびしょびしょに雨に濡れ、肌に張り付いて浮き出た身体のラインが何とも艶めかしかったが、けれど響紀はそんな結奈を見てもさして何も感じなかった。これがこんな状況でなければ、響紀もまた一般的な男子よろしく結奈に見惚れでもしただろうが、今はそんな気分には到底ならなかった。今はただ、自分を騙すかのように御神井の水を飲ませたこの女を、どこか忌々しく思うほどだった。
響紀は「ちっ」と舌打ちをひとつしてから、
「ふつうに渡せばよかっただろ。なんでひとこと言わなかった」
すると結奈は小さくため息を吐く。
「……たぶん、普通に渡したらあんたはこの水を拒んでいた。そんな気がしたから」
「どういう意味だ?」
訊ねると、結奈は首を横に振って、
「あんたは、朝に私と話していた時からどこか様子がおかしかった。何かに執着しているようだった。たぶん、あんた自身も気づいていなかっただろうけど。なんて言えばいいんだろう。もうすでに何かに囚われようとしているように見えた。私はそれが怖くて、だからあんたと分かれて行動しようと思った。私は、これまでもそういう霊たちを見てきたから。何度も何度も、執拗に絡まれてきたから、とにかく面倒で逃げようとしてしまった。それはごめん。私の言い訳。本当は、ちゃんとあんたについててあげるべきだったと思う。一緒に行動してあげるべきだったと思う。そうすれば、少なくともあんたはあの女のところに無意識的に戻ったりはしなかったかもしれない。これは私の落ち度。最初、おばあちゃんにあんたを投げようとしたのも、たぶんそう。本当は関わりたくなかっただけ。でも、それじゃぁいけなかったんだ。おばあちゃんだって言ってたんでしょ? 何か困ったことがあったら、私を訪ねろって。だから、あんたと分かれてしばらくして思い直したんだ。今のあんたを放ってちゃいけない。逃げちゃいけないって」
そこまで言って、結奈はまた、深い深いため息を吐いた。
雨はざあざあとその強さを増し、結奈の身体と地面を強く叩きつけた。響紀には何も感じられなかった。ただ雨音だけが耳に聞こえ、けれど響紀の身体は一切濡れてなどいなかった。今の今まで、結奈をじっと見つめるまで、雨が降っていることすら彼は忘れていた。意識していなかった。たぶん、だから響紀は濡れていなかった。身体を持たないがゆえに、雨に濡れるわけがないから。響紀の周りはあの赤黒いシミに囲まれていたが、そのシミも雨に流され、徐々に徐々に薄まっていこうとしていた。薄暗い空に、響紀はどこか不安を覚える。
結奈は続けた。
「たぶん、その身体――って言っていいのかわからないけど、とにかく、あんたという存在はあの女と触れ合ったその瞬間から、半分くらい、あの女の虜になってしてしまったんじゃないかって、そう思った。あんたが吐き出した赤黒いナメクジ、あれがたぶん、あんたの中に淀んで支配しようとしている穢れなんじゃないか。もしそうなのだとしたら、もしあんたがあの女のところに戻った時、あの女はもう一度、あんたを内側から支配しようとするんじゃないか。もしそうなったら、それこそあんたが助けようとしていた奈央ちゃんを、あんた自身が、あの女のところまで連れて行ってしまうんじゃないかって、そう思ったんだ。だから私は、すぐに神社に行って御神井の水を汲んできた。もし私の思った通り、あんたがあの女のところに戻ってしまったとしたら、必ず必要になると思ったから」
響紀はじっと結奈を見上げていた。自分が今しがた吐き出した赤黒いナメクジ――穢れ、と結奈は言っていたが、アレに俺は支配されていたのか、と思うとどこか納得がいくような気がした。それと同時に、いまだに自分の中にわだかまる不安と違和感に、妙な恐怖と焦りを覚えた。
「――俺は再びあの女に支配されようとしていた。だから、普通にあの水を飲ませようとしたところで拒んでいたかもしれない、というのは解ったよ。俺もそんな気がする。あの女とキスした時、俺はそれが嬉しくて仕方がなかった。あの女の口から飲まされたんだろう、赤黒いナメクジみたいなやつ……穢れか? そのせいで俺の意識が朦朧としていたというか、曖昧な状態だったのも覚えてる。たぶん、お前の言う通り、無意識的に拒絶していたかもしれない。だから、まぁ、礼を言っておく。ありがとな」
「うん」
と結奈は返事したが、
「けど、いくらかはもう完全にあんたの中であんた自身とくっついちゃってるのかもしれない」
「なんだそれ、どういうことだ?」
首を傾げる響紀に、結奈は肩を落としながら、
「あんたは――響紀は私と初めて会ったとき、さんざん御神井の水を飲んで、あの穢れを吐き出したはずでしょ? もうこれ以上吐き出せないほど、たくさん穢れを出したはずだったでしょ?」
「まぁ、たぶん……」
「それなのにあんたがあの女のところに無意識的に向かってしまったってことはたぶん、その穢れとあんたの魂? そのものが、いくらかひとつに結合しちゃってるのかもしれない」
「……なんだよそれ、どういう意味だ?」
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