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第5章 繰り返す悪夢
第6回
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わたしは咄嗟に榎先輩の腕を抱きかかえ、彼女の後ろに逃げるように身を隠した。
そんなわたしを榎先輩は庇うように半歩前に出て、楸先輩の方へ右腕を伸ばし、手のひらを見せる。
力の魔法を唱えた矢先、楸先輩の身体が何かにはじかれたようによろめいた。
榎先輩の唱えた魔法が楸先輩の勢いを弱めたのだ。
けれどそんなのはただの気休めでしかなかった。
楸先輩はすぐに態勢を立て直すと、榎先輩と同じようにわたしたちに向かって右手のひらを向け、風の呪文を口にした。
わたしたちの周囲に激しい風が巻き起こり、ふわりと身体が宙に浮く。
「ひゃぁ!」
思わず声を漏らした時だった。
「やめろ、真帆!」
叫び声が聞こえ、わたしたちと楸先輩の間にシモハライ先輩が飛び出してきたのである。
シモハライ先輩の身体も同じように宙に浮きかけたが、その両腕を必死に伸ばし、楸先輩の両肩を掴みながら、
「落ち着いて、真帆! 話を聞いて!」
「うるさい!」
その途端、わたしたちの身体を包み込んでいた風の勢いが弱まったかと思うと、代わりにシモハライ先輩の身体が大きく宙に浮かび上がった。
楸先輩の肩を掴んでいた手もその勢いに負けて離れ、そして――
「うわぁ!」
次の瞬間、シモハライ先輩の身体がガンッ! と床の上に叩きつけられた。
「先輩!」
「シモハライくん!」
シモハライ先輩は呻き声をもらしながら、それでももう一度立ち上がり、楸先輩と真正面から対峙する。
「真帆、僕は――俺は、お前を裏切ったりなんかしない」
「ウソ! なら、どうしてその子たちと一緒に居るの? なんで私と一緒に居てくれないの? わたしのことが好きなんでしょう? なら、私とずっと一緒にいてよ! 私を一人にしないでよ! もう、こんな真っ暗いところに居るのはイヤです! 誰もいない、独りぼっちの世界に閉じ込められて、私は、私は……!」
「ひとりになんかしてない。ずっと一緒に居るじゃないか」
「居なかったじゃないですか! いったい、どれだけこんなところに私ひとりで居たと思います? どれだけ長い時間、孤独に耐えてきたと思っているんですか! それなのに、ユウくんは呑気に他の女と連れ立ってこんなところで! この間もそうだったじゃないですか! 私のことを放っておいて、鐘撞さんと一緒にカウンセラー室でイチャイチャして!」
「い、イチャイチャなんてしてなかったじゃないか!」
「どうだか」
楸先輩は鼻で笑い、わたしの顔をじっと睨みつけながら、
「やっぱり、ユウくんもこんな可愛らしい、小動物みたいな女の子が好きなんですよ。私みたいに自分勝手で、大雑把で、いい加減な見掛け倒しの女になんて愛想を尽かしたんでしょう?」
「だから、違うって言ってるじゃないか! 俺はそんな自由奔放な真帆が好きになったんだ! 真帆以外の女の子になんて興味ない!」
「興味ない? だったら、鐘撞さんのことなんて放っておけば良かったじゃないですか! 私、あの時なかなか秘密基地に来ないユウくんを迎えに行ったんですよ? それなのに、ユウくんは呑気に鐘撞さんとカウンセラー室で――」
「それは、だから説明したじゃないか! 遅刻した鐘撞さんがカウンセラー室のことを知らなかったから、教えてあげようと思っただけで」
「なら、カウンセラー室まで案内したら、すぐに私の所に来なかったのはどうしてですか? なんで私と一緒に登校することも断って、初めて会う女の子をカウンセラー室まで案内して、そのまま一緒に過ごしていたんですか? 私のことは? 忘れていたんですか?」
「忘れてたんじゃない。そもそも、僕も真帆も家を出る時間はいつもバラバラじゃないか。こないだも一緒に行こうって約束してたのに、そのことをすっかり忘れてホウキで学校に行っちゃったのは真帆の方だっただろう?」
「あの時は仕方がなかったんです! お姉ちゃんと朝から喧嘩して、勢いに任せてそのままホウキで飛び出しちゃったから――忘れてたわけじゃありません!」
……何なんだろう、このやり取りは。こんな二人の為に、わたしはこんな大変な目に遭っているってこと? 夢に閉じ込められたり、夢魔に追いかけられたり、楸先輩に脅されて、馬屋原先生に利用されて――ん?
そこでわたしはふと馬屋原先生の方に顔を向けた。
馬屋原先生は口元に笑みを浮かべながら、相変わらず痴話喧嘩を繰り広げている楸先輩とシモハライ先輩の様子を眺めている。
「――そうだよ、シモハライくん」
馬屋原先生はそこで二人に声を掛ける。
「悪いのは全てキミだよ。キミがこんなに可愛らしい美人さんを彼女にしておきながら、他の女の子にまで手を出そうなんてするからいけないんだ。反省しなさい。そして大人しく飲み込まれてしまいなさい」
「飲み込まれる?」
眉間に皺を寄せるシモハライ先輩。
「そう、その化け物に」
ひゅっと一陣の風が吹き抜けていったかと思うと、次の瞬間、再び楸先輩の身体が黒い靄に覆われ、その顔が渦巻く闇へと変貌を遂げた。その向かう先は目の前のシモハライ先輩。
「えぇっ!」
シモハライ先輩は目を丸くし、
「ウソツキ! ウラギリモノ!」
夢魔がくぐもった声をもらしながら、シモハライ先輩へとにじり寄っていく。
それまでそこに居たはずの楸先輩の面影はすでになく、真っ黒い人型の闇が両腕を伸ばし、シモハライ先輩の肩をがっしと掴み、じわりじわりと顔を近づけていく。
「や、やめろ、真帆!」
「ウルサイ、ウラギリモノ、ウソツキ、ユルサナイ」
夢魔の顔がシモハライ先輩の顔に触れるほど近づき、魔力が、生命力が吸い上げられていくのが見えてわたしは反射的に体が動いていた。
「先輩!」
「シモハライくん!」
同じく叫び声を上げた榎先輩とともに、二人の方へ駆け寄ろうとしたところで、
「――駄目だよ、ふたりとも」
馬屋原先生の声が聞こえた途端、
「ぎゃ!」
「いたっ!」
見えない壁がわたしたちの前に現れて、身体をしたたか打ち付けた。
イタタタ……なに、これ!
馬屋原先生に顔を向ければ、先生は気味の悪い笑みを浮かべながら、
「――彼女は今、食事中なんだよ。邪魔しないであげてくれないかい?」
言って、すっとわたしたちの方へ、左腕を伸ばしてきた。
先生が呪文を口にしたその途端、わたしたちの身体が金縛りにあったかのように、ぴくりとも動かなくなってしまった。
声を発しようにも口は動かず、指先にすら力が入らない。
この魔法を解く呪文すら唱えることができず、手も足も出せなくなったわたしたちに、馬屋原先生はニヤニヤと笑いながら、
「無駄ですよ、諦めて君たちも夢魔の餌になりなさい」
「――冗談じゃない!」
叫んだのは、榎先輩だった。
驚いたのはわたしだけじゃなくて、馬屋原先生も同じで、
「ほう、僕の魔法が効いてませんか」
さらに呪文を口にしようとしたところで、榎先輩もそれに合わせて何か小さく呟いた。
いったいそれが何の呪文なのか解らないけれど、馬屋原先生の口が急に閉じられ、もごもごと慌てたように口元に手をやる。
その隙に榎先輩はさらに解呪の呪文を口にして、わたしたちは再び体の自由を取り戻した。
「榎先輩、ありがとうございます」
「お礼は良いから、とにかく馬屋原を何とかしないと!」
言うが早いか榎先輩は地を蹴り、いまだに口をもごもごさせている馬屋原先生の身体に飛び込んでいった。
「むぐうぅっ!?」
馬屋原先生は呻き声をもらし、榎先輩に押し倒される形で後ろに倒れた。
榎先輩は馬屋原先生の上に覆いかぶさるように倒れ、そのまま先生の両腕を強く押さえ込む。
「アオイ! 何か縛るものない?」
「えぇ! そんな、急に言われても……!」
わたしは辺りを見回してみたけれど、そんなものどこにも見当たらなくて。
何か、何かない? いっそ魔法で――そんなことを考えている時だった。
「きゃあぁ!」
突然、何者かに押し倒され、私の身体はがんっと激しく床に叩きつけられる。
い、痛い! なに? なに? なに?
慌てて起きようとするわたしの身体を、けれどそいつは――夢魔は強く押し付けて。
「い、いやぁ!」
ぐいっと近づけられた闇の渦巻くその顔に、わたしの魔力がぐんぐん吸い上げられていく。
全身から力が抜けていくのを感じながら、それでも必死に夢魔に抵抗していると、
「やめろ、真帆!」
すぐ近くで声がして、わたしに覆いかぶさっていた夢魔――楸先輩を、シモハライ先輩がどんっと激しく突き飛ばした。
「……ひどイじゃないデスか、ワタシを突き飛バスダナンテ」
むくりと起き上がった夢魔の顔は、その半分が楸先輩になっていて、声も掠れて聞き取りづらかった。
その眼は大きく見開かれ、じっとわたしとシモハライ先輩を睨みつける。
「真帆、落ち着いて!」
「ウルサイウルサイウルサイ!」
激しくかぶりを振る楸先輩の目には涙が浮かんでおり、
「ユうクンは、私ノモノです! 誰ニモ渡さナイ! ワタシは、私ワ!」
そう叫びながらその視線をわたしに向けてくる。
「……言イマシタよね、ワタシ。優くんニワ近づクナって」
「そ、そんなつもりは、わたしは……!」
「ウルさいっ!!」
言い終わらないうちに、楸先輩はものすごい勢いでわたしの方へと突っ込んできた。
わたしは咄嗟に風の魔法の呪文を唱えて強風を巻き起こし、なんとか楸先輩の身体を壁に叩きつけて回避した。
そんなことをしたのは初めてのことだったし、人の身体を持ち上げられるほどの魔法を使ったことなんてただの一度もなかったのだけれど、わが身を守る為に思いもよらない力を発揮してしまったみたいだった。
楸先輩は「うぅうっ」と呻き声をもらし、どさりと地面に倒れると、悔しそうな表情を浮かべながらわたしをじっと睨みつけてきて、
「ユルサナイ、ユルサナイ、ユルサナイ……!」
何度も何度も、同じ言葉を繰り返した。
それは確かな魔法ではなかったけれど、明らかな呪いの言葉だった。
恐ろしい、気持ち悪い、けれど、それだけの想いを楸先輩はシモハライ先輩に抱いていて。
わたしは、それ以上どうしたらよいのかわからなくて、じっとその場に立ち尽くしていた。
「真帆!」
そんなわたしの脇を抜け、楸先輩に駆け寄るシモハライ先輩。
けれど、楸先輩はわたしから目を逸らすことなく、
「私カラゆうクンオ取ラナイで――!」
わたしに向かって右手を伸ばしてきた瞬間、わたしの周りに激しい突風が渦を巻くように現れ、そのままわたしの身体は高く宙に浮かんで、
「きゃあぁっ――ぐぅっ!」
わたしの身体は叫び声と共に、激しく床に叩きつけられた。
鈍い痛みと眩暈に見舞われ、本当は夢のはずなのに、あまりにも現実的な感覚となってわたしの身体に襲い掛かった。
「アオイ!」
榎先輩の声がする。
「やめるんだ、真帆!」
シモハライ先輩の叫びが聞こえる。
痛みに耐えながらうっすらと瞼を開いて見てみれば、馬屋原先生は榎先輩に押さえつけられたまま、楽しそうにニヤニヤと笑みを浮かべてわたしを見ていた。
なに? 何がそんなに楽しいわけ? なんでわたしがこんな目に遭わないといけないの? おかしいでしょ? わたしが何をしたって言うの?
……ううん、わたしだけじゃない。榎先輩もシモハライ先輩も楸先輩だってみんなそうだ。誰もなにも悪いことなんかしていない。
全部、馬屋原先生が悪いんだ。
楸先輩は誰かにシモハライ先輩を取られるのが怖くて、不安で、そのために自分の中に取り込んでいた夢魔を目覚めさせることになってしまった、ただそれだけだ。
その夢魔をより完成せられた存在にするためとか言って、馬屋原先生は榎先輩やわたし、シモハライ先輩を利用して、楸先輩のその感情を、不安を煽って、こんなことに……
わたしは歯を食いしばりながら、ぐっと体に力を込めて体を起こすと、馬屋原先生の方に向き直った。
シモハライ先輩は必死に楸先輩を説得している。
榎先輩は馬屋原先生がこれ以上何もできないよう、その身体を押さえ込んでいる。
いまのうちに、全部を終わらせるんだ。
わたしは強く思い、大きく息を吸い、そして長く吐き出した。
それから馬屋原先生の方に右手を伸ばして、
「わたしは、あなたを絶対に許さない」
言って、その呪文を口にした。
その途端、わたしの周囲にぶわりと突風が巻き起こった。
ブオンブオンと風は激しく音を響かせ、それを見た馬屋原先生の顔色が青く染まる。
わたしがこれからどうするつもりなのか、それを理解した榎先輩は慌てたように馬屋原先生から離れ、壁際へと身を寄せた。
「な、なにをするつもりですか!」
口の自由を取り戻した馬屋原先生が、飛び起きながら叫び声をあげた。そしてわたしの方へ腕を上げ、その魔法の力を打ち消そうと呪文を唱えるものの、けれど馬屋原先生には風の魔法を打ち消すほどの魔力はなかったらしい。わずかに私の巻き起こす風を弱めただけに終わり、先生は悔しそうに歯を食いしばった。
そんな私たちの横では、シモハライ先輩と楸先輩の取っ組み合いにも似た攻防が続いている。
「目を覚ましても、僕は真帆の事を愛してる! 真帆以外の女の子になんて、本当に興味はないんだ。僕を信じてよ!」
「信じられません!」
シモハライ先輩から数歩後ずさりながら、楸先輩はそう叫んだ。
再び闇に浮かびあがった楸先輩の目は、射貫くようにわたしに向けられ、
「だって、この間も鐘撞さんと――!」
「だから、それは違うんだ! 僕はただ、遅刻して困っていた彼女を先輩として――」
「信じられるものですか!」
「真帆……!」
一歩踏み出したシモハライ先輩に、楸先輩は一歩後ずさる。
それを見て、馬屋原先生は、
「そうですよ! 男なんて、相手が女とあれば誰だって浮気してしまう生き物なんです、信じてはいけない!」
「黙れ!」
わたしは思わず叫び、その手を馬屋原先生に向かってバッと伸ばした。
その瞬間、わたしを取り巻いていた風が一気に馬屋原先生へと襲い掛かる。
「ぐおぅっ!?」
先生の体は一気に上空へと巻き上げられ、先ほどわたしが楸先輩の魔法によってされたのと同じように――いや、もっと激しく、強く、床の上へと叩きつけられた。鈍い音があたりに響いたかと思うと、馬屋原先生の体はピクリとも動かなくなる。
もしこれが現実であれば、きっと骨の二、三本、或いは打ちどころ次第ではその命を落としていたかもしれないほどの衝撃を、馬屋原先生に与えたその感触が、わたしの手のひらに残っていた。
ホウキに乗れるということは、それだけ風を操る魔法に長けているということ。楸先輩が風の魔法でわたしの体を持ち上げて地面に叩きつけたように、わたしにも同じ魔法が使えるのだ。
けれど、わたしはまだまだ修行の身。それゆえに力のコントロールがへたくそで、おばあちゃんやママからは「絶対に人に向かって風の魔法を使ってはいけない」と、さんざん言われてきたはずだったのだけれど、
「うぐううっ……!」
馬屋原先生の、その痛みにうめく声でハッとわたしは我に返る。
「せ、先生――!」
思わず口にして、けれど駆け寄るほどには至らない。
先生がわたしたちにやったことと、今わたしが先生にやったことの間で、わたしの心はぐちゃぐちゃでどうしたらいいのかわからなかった。
榎先輩に目を向ければ「よくやった」とばかりに満面の笑顔で頷いている。
シモハライ先輩たちの方に目を向ければ、ふたりは対峙したまま睨み合い、
「信じて真帆! 僕は、本当に、真帆だけを愛しているんだ!」
「ウソだウソだウソだ!」
楸先輩は激しくかぶりを振っていた。
「だって、わたしは、いつも優くんを困らせてる! きっと愛想をつかされてる!」
「そ、そんなことない! そんなことないよ、真帆!」
「信じない! だって、だって私は、私は――!」
目に涙を浮かべながらこぶしを握り締め、そして、
「わああああああぁあぁぁっ!」
突然、大声で叫んだかと思うと、そのままシモハライ先輩の方へ駆け出し、再び襲い掛かろうと地を踏み出した、その瞬間。
「……あう?」
シモハライ先輩と楸先輩の間に、ひとりの赤ん坊が突如姿を現したのだ。
涎掛けをしたその赤ん坊は、辺りをきょろきょろと見回して、ふと楸先輩の姿に気が付くと、満面の笑みを浮かべてから、
「あぁっ!」
と両手を広げて見せた。
「え、あ、なんで……!」
楸先輩は立ち止まり、困惑の表情でその赤ん坊と視線を交わす。
「――え、なに、あの子」
榎先輩が口にして、
「わ、わかりません……」
わたしも、同じく困り果てる。
「な、なんなんだ、アイツは……! どうして、こんなところに赤ん坊が出てくるんだ! 誰だ、誰なんだアイツは……!」
馬屋原先生も、苦し気な声で目を丸くする。
当然のようにシモハライ先輩も驚いたような表情で、その赤ん坊の後ろ姿を見つめたままだ。
わからない。いったい、どうしてこんなところに突然、赤ん坊が?
どこから来たの? いったい、どうやって?
戸惑うわたしたちの視線の中、楸先輩はすっと膝を落とし、赤ん坊の方へ両手を伸ばして。
「あ、危ない!」
思わず口にして、赤ん坊に駆け寄ろうとした次の瞬間。
「……ごめん。ごめんなさい、カケルくん――」
楸先輩はつぶやき、ぎゅっとその赤ん坊を抱きしめた。
「あうぅ!」
赤ん坊は嬉しそうにきゃっきゃっ笑う。そしてまるで霧のように、その姿をすっと、消してしまったのだった。
楸先輩はそれでもなお虚空を胸に抱き続け、目には涙を浮かべていた。
カケルくん……? あの赤ん坊の名前? いったい、楸先輩とどういう関係なの……?
シモハライ先輩はそんな楸先輩のもとへ駆け寄ると、
「――真帆」
彼女の身体を正面からぎゅっと強く抱きしめる。
「愛しているよ、真帆。これまでも、そしてこれからも」
その言葉に、楸先輩も満面の笑みを浮かべながら。
「――はい」
その瞬間、楸先輩の身体を覆っていた闇が、急速に彼女の中へと吸い込まれるようにして収縮していき――やがて制服姿の、いつもの楸先輩の姿がそこにはあった。
何が起きたのか、まるで理解できなかった。
あれだけ頑なだった楸先輩の心を、あのカケルくんと呼ばれた赤ん坊は、一瞬にして……?
これまでまとっていた恐怖すらそこにはなく、シモハライ先輩も楸先輩も、ただ互いの身体を強く抱きしめ続けるだけだった。
わたしは肩の力が抜け、思わずその場にぺたんとおしりをついて座りこむ。
このまま倒れてしまうそうになるのを、駆け寄ってきてくれた榎先輩に支えてもらいながら、
「終わった……んですかね?」
「たぶん?」
榎先輩も、小さく息を漏らしながら首を傾げた。
その時だった。
「何故だ、何故だ 何故なんだ! ちくしょー! ちくしょー!!」
怒り狂ったような表情で、馬屋原先生が体をかばうようにして立ち上がる。
「なんなんだ! なんなんだあのガキは! チクショーが! あと少しで夢魔が完全に目覚めるところだったのに! くそがくそがくそが!」
悪態を吐きながら、馬屋原先生はふらふらと後ずさり、
「もういい! もういい! これでおしまいだ! どうせお前たちはこの夢から抜け出せないんだ、二度と目覚められないんだ! せいぜい仲良くやっていればいい!」
アハハハッ! と高笑いした馬屋原先生の姿はゆっくりと透明化していき、やがてその姿を完全に消してしまった。
「……二度と目覚められない?」
榎先輩が眉間にしわを寄せて口にしたところで、次の瞬間、ばっとわたしたちの周囲が真の暗闇に閉ざされた。
見えるのはシモハライ先輩と楸先輩、そして榎先輩の姿だけ。
今まであった書棚も何もなくなって、終わりのない闇だけが広がっている。
「お前ら全員、夢の中を永遠にさまよい続けるがいい!」
馬屋原先生の叫び声が、闇の中にこだました。
そんなわたしを榎先輩は庇うように半歩前に出て、楸先輩の方へ右腕を伸ばし、手のひらを見せる。
力の魔法を唱えた矢先、楸先輩の身体が何かにはじかれたようによろめいた。
榎先輩の唱えた魔法が楸先輩の勢いを弱めたのだ。
けれどそんなのはただの気休めでしかなかった。
楸先輩はすぐに態勢を立て直すと、榎先輩と同じようにわたしたちに向かって右手のひらを向け、風の呪文を口にした。
わたしたちの周囲に激しい風が巻き起こり、ふわりと身体が宙に浮く。
「ひゃぁ!」
思わず声を漏らした時だった。
「やめろ、真帆!」
叫び声が聞こえ、わたしたちと楸先輩の間にシモハライ先輩が飛び出してきたのである。
シモハライ先輩の身体も同じように宙に浮きかけたが、その両腕を必死に伸ばし、楸先輩の両肩を掴みながら、
「落ち着いて、真帆! 話を聞いて!」
「うるさい!」
その途端、わたしたちの身体を包み込んでいた風の勢いが弱まったかと思うと、代わりにシモハライ先輩の身体が大きく宙に浮かび上がった。
楸先輩の肩を掴んでいた手もその勢いに負けて離れ、そして――
「うわぁ!」
次の瞬間、シモハライ先輩の身体がガンッ! と床の上に叩きつけられた。
「先輩!」
「シモハライくん!」
シモハライ先輩は呻き声をもらしながら、それでももう一度立ち上がり、楸先輩と真正面から対峙する。
「真帆、僕は――俺は、お前を裏切ったりなんかしない」
「ウソ! なら、どうしてその子たちと一緒に居るの? なんで私と一緒に居てくれないの? わたしのことが好きなんでしょう? なら、私とずっと一緒にいてよ! 私を一人にしないでよ! もう、こんな真っ暗いところに居るのはイヤです! 誰もいない、独りぼっちの世界に閉じ込められて、私は、私は……!」
「ひとりになんかしてない。ずっと一緒に居るじゃないか」
「居なかったじゃないですか! いったい、どれだけこんなところに私ひとりで居たと思います? どれだけ長い時間、孤独に耐えてきたと思っているんですか! それなのに、ユウくんは呑気に他の女と連れ立ってこんなところで! この間もそうだったじゃないですか! 私のことを放っておいて、鐘撞さんと一緒にカウンセラー室でイチャイチャして!」
「い、イチャイチャなんてしてなかったじゃないか!」
「どうだか」
楸先輩は鼻で笑い、わたしの顔をじっと睨みつけながら、
「やっぱり、ユウくんもこんな可愛らしい、小動物みたいな女の子が好きなんですよ。私みたいに自分勝手で、大雑把で、いい加減な見掛け倒しの女になんて愛想を尽かしたんでしょう?」
「だから、違うって言ってるじゃないか! 俺はそんな自由奔放な真帆が好きになったんだ! 真帆以外の女の子になんて興味ない!」
「興味ない? だったら、鐘撞さんのことなんて放っておけば良かったじゃないですか! 私、あの時なかなか秘密基地に来ないユウくんを迎えに行ったんですよ? それなのに、ユウくんは呑気に鐘撞さんとカウンセラー室で――」
「それは、だから説明したじゃないか! 遅刻した鐘撞さんがカウンセラー室のことを知らなかったから、教えてあげようと思っただけで」
「なら、カウンセラー室まで案内したら、すぐに私の所に来なかったのはどうしてですか? なんで私と一緒に登校することも断って、初めて会う女の子をカウンセラー室まで案内して、そのまま一緒に過ごしていたんですか? 私のことは? 忘れていたんですか?」
「忘れてたんじゃない。そもそも、僕も真帆も家を出る時間はいつもバラバラじゃないか。こないだも一緒に行こうって約束してたのに、そのことをすっかり忘れてホウキで学校に行っちゃったのは真帆の方だっただろう?」
「あの時は仕方がなかったんです! お姉ちゃんと朝から喧嘩して、勢いに任せてそのままホウキで飛び出しちゃったから――忘れてたわけじゃありません!」
……何なんだろう、このやり取りは。こんな二人の為に、わたしはこんな大変な目に遭っているってこと? 夢に閉じ込められたり、夢魔に追いかけられたり、楸先輩に脅されて、馬屋原先生に利用されて――ん?
そこでわたしはふと馬屋原先生の方に顔を向けた。
馬屋原先生は口元に笑みを浮かべながら、相変わらず痴話喧嘩を繰り広げている楸先輩とシモハライ先輩の様子を眺めている。
「――そうだよ、シモハライくん」
馬屋原先生はそこで二人に声を掛ける。
「悪いのは全てキミだよ。キミがこんなに可愛らしい美人さんを彼女にしておきながら、他の女の子にまで手を出そうなんてするからいけないんだ。反省しなさい。そして大人しく飲み込まれてしまいなさい」
「飲み込まれる?」
眉間に皺を寄せるシモハライ先輩。
「そう、その化け物に」
ひゅっと一陣の風が吹き抜けていったかと思うと、次の瞬間、再び楸先輩の身体が黒い靄に覆われ、その顔が渦巻く闇へと変貌を遂げた。その向かう先は目の前のシモハライ先輩。
「えぇっ!」
シモハライ先輩は目を丸くし、
「ウソツキ! ウラギリモノ!」
夢魔がくぐもった声をもらしながら、シモハライ先輩へとにじり寄っていく。
それまでそこに居たはずの楸先輩の面影はすでになく、真っ黒い人型の闇が両腕を伸ばし、シモハライ先輩の肩をがっしと掴み、じわりじわりと顔を近づけていく。
「や、やめろ、真帆!」
「ウルサイ、ウラギリモノ、ウソツキ、ユルサナイ」
夢魔の顔がシモハライ先輩の顔に触れるほど近づき、魔力が、生命力が吸い上げられていくのが見えてわたしは反射的に体が動いていた。
「先輩!」
「シモハライくん!」
同じく叫び声を上げた榎先輩とともに、二人の方へ駆け寄ろうとしたところで、
「――駄目だよ、ふたりとも」
馬屋原先生の声が聞こえた途端、
「ぎゃ!」
「いたっ!」
見えない壁がわたしたちの前に現れて、身体をしたたか打ち付けた。
イタタタ……なに、これ!
馬屋原先生に顔を向ければ、先生は気味の悪い笑みを浮かべながら、
「――彼女は今、食事中なんだよ。邪魔しないであげてくれないかい?」
言って、すっとわたしたちの方へ、左腕を伸ばしてきた。
先生が呪文を口にしたその途端、わたしたちの身体が金縛りにあったかのように、ぴくりとも動かなくなってしまった。
声を発しようにも口は動かず、指先にすら力が入らない。
この魔法を解く呪文すら唱えることができず、手も足も出せなくなったわたしたちに、馬屋原先生はニヤニヤと笑いながら、
「無駄ですよ、諦めて君たちも夢魔の餌になりなさい」
「――冗談じゃない!」
叫んだのは、榎先輩だった。
驚いたのはわたしだけじゃなくて、馬屋原先生も同じで、
「ほう、僕の魔法が効いてませんか」
さらに呪文を口にしようとしたところで、榎先輩もそれに合わせて何か小さく呟いた。
いったいそれが何の呪文なのか解らないけれど、馬屋原先生の口が急に閉じられ、もごもごと慌てたように口元に手をやる。
その隙に榎先輩はさらに解呪の呪文を口にして、わたしたちは再び体の自由を取り戻した。
「榎先輩、ありがとうございます」
「お礼は良いから、とにかく馬屋原を何とかしないと!」
言うが早いか榎先輩は地を蹴り、いまだに口をもごもごさせている馬屋原先生の身体に飛び込んでいった。
「むぐうぅっ!?」
馬屋原先生は呻き声をもらし、榎先輩に押し倒される形で後ろに倒れた。
榎先輩は馬屋原先生の上に覆いかぶさるように倒れ、そのまま先生の両腕を強く押さえ込む。
「アオイ! 何か縛るものない?」
「えぇ! そんな、急に言われても……!」
わたしは辺りを見回してみたけれど、そんなものどこにも見当たらなくて。
何か、何かない? いっそ魔法で――そんなことを考えている時だった。
「きゃあぁ!」
突然、何者かに押し倒され、私の身体はがんっと激しく床に叩きつけられる。
い、痛い! なに? なに? なに?
慌てて起きようとするわたしの身体を、けれどそいつは――夢魔は強く押し付けて。
「い、いやぁ!」
ぐいっと近づけられた闇の渦巻くその顔に、わたしの魔力がぐんぐん吸い上げられていく。
全身から力が抜けていくのを感じながら、それでも必死に夢魔に抵抗していると、
「やめろ、真帆!」
すぐ近くで声がして、わたしに覆いかぶさっていた夢魔――楸先輩を、シモハライ先輩がどんっと激しく突き飛ばした。
「……ひどイじゃないデスか、ワタシを突き飛バスダナンテ」
むくりと起き上がった夢魔の顔は、その半分が楸先輩になっていて、声も掠れて聞き取りづらかった。
その眼は大きく見開かれ、じっとわたしとシモハライ先輩を睨みつける。
「真帆、落ち着いて!」
「ウルサイウルサイウルサイ!」
激しくかぶりを振る楸先輩の目には涙が浮かんでおり、
「ユうクンは、私ノモノです! 誰ニモ渡さナイ! ワタシは、私ワ!」
そう叫びながらその視線をわたしに向けてくる。
「……言イマシタよね、ワタシ。優くんニワ近づクナって」
「そ、そんなつもりは、わたしは……!」
「ウルさいっ!!」
言い終わらないうちに、楸先輩はものすごい勢いでわたしの方へと突っ込んできた。
わたしは咄嗟に風の魔法の呪文を唱えて強風を巻き起こし、なんとか楸先輩の身体を壁に叩きつけて回避した。
そんなことをしたのは初めてのことだったし、人の身体を持ち上げられるほどの魔法を使ったことなんてただの一度もなかったのだけれど、わが身を守る為に思いもよらない力を発揮してしまったみたいだった。
楸先輩は「うぅうっ」と呻き声をもらし、どさりと地面に倒れると、悔しそうな表情を浮かべながらわたしをじっと睨みつけてきて、
「ユルサナイ、ユルサナイ、ユルサナイ……!」
何度も何度も、同じ言葉を繰り返した。
それは確かな魔法ではなかったけれど、明らかな呪いの言葉だった。
恐ろしい、気持ち悪い、けれど、それだけの想いを楸先輩はシモハライ先輩に抱いていて。
わたしは、それ以上どうしたらよいのかわからなくて、じっとその場に立ち尽くしていた。
「真帆!」
そんなわたしの脇を抜け、楸先輩に駆け寄るシモハライ先輩。
けれど、楸先輩はわたしから目を逸らすことなく、
「私カラゆうクンオ取ラナイで――!」
わたしに向かって右手を伸ばしてきた瞬間、わたしの周りに激しい突風が渦を巻くように現れ、そのままわたしの身体は高く宙に浮かんで、
「きゃあぁっ――ぐぅっ!」
わたしの身体は叫び声と共に、激しく床に叩きつけられた。
鈍い痛みと眩暈に見舞われ、本当は夢のはずなのに、あまりにも現実的な感覚となってわたしの身体に襲い掛かった。
「アオイ!」
榎先輩の声がする。
「やめるんだ、真帆!」
シモハライ先輩の叫びが聞こえる。
痛みに耐えながらうっすらと瞼を開いて見てみれば、馬屋原先生は榎先輩に押さえつけられたまま、楽しそうにニヤニヤと笑みを浮かべてわたしを見ていた。
なに? 何がそんなに楽しいわけ? なんでわたしがこんな目に遭わないといけないの? おかしいでしょ? わたしが何をしたって言うの?
……ううん、わたしだけじゃない。榎先輩もシモハライ先輩も楸先輩だってみんなそうだ。誰もなにも悪いことなんかしていない。
全部、馬屋原先生が悪いんだ。
楸先輩は誰かにシモハライ先輩を取られるのが怖くて、不安で、そのために自分の中に取り込んでいた夢魔を目覚めさせることになってしまった、ただそれだけだ。
その夢魔をより完成せられた存在にするためとか言って、馬屋原先生は榎先輩やわたし、シモハライ先輩を利用して、楸先輩のその感情を、不安を煽って、こんなことに……
わたしは歯を食いしばりながら、ぐっと体に力を込めて体を起こすと、馬屋原先生の方に向き直った。
シモハライ先輩は必死に楸先輩を説得している。
榎先輩は馬屋原先生がこれ以上何もできないよう、その身体を押さえ込んでいる。
いまのうちに、全部を終わらせるんだ。
わたしは強く思い、大きく息を吸い、そして長く吐き出した。
それから馬屋原先生の方に右手を伸ばして、
「わたしは、あなたを絶対に許さない」
言って、その呪文を口にした。
その途端、わたしの周囲にぶわりと突風が巻き起こった。
ブオンブオンと風は激しく音を響かせ、それを見た馬屋原先生の顔色が青く染まる。
わたしがこれからどうするつもりなのか、それを理解した榎先輩は慌てたように馬屋原先生から離れ、壁際へと身を寄せた。
「な、なにをするつもりですか!」
口の自由を取り戻した馬屋原先生が、飛び起きながら叫び声をあげた。そしてわたしの方へ腕を上げ、その魔法の力を打ち消そうと呪文を唱えるものの、けれど馬屋原先生には風の魔法を打ち消すほどの魔力はなかったらしい。わずかに私の巻き起こす風を弱めただけに終わり、先生は悔しそうに歯を食いしばった。
そんな私たちの横では、シモハライ先輩と楸先輩の取っ組み合いにも似た攻防が続いている。
「目を覚ましても、僕は真帆の事を愛してる! 真帆以外の女の子になんて、本当に興味はないんだ。僕を信じてよ!」
「信じられません!」
シモハライ先輩から数歩後ずさりながら、楸先輩はそう叫んだ。
再び闇に浮かびあがった楸先輩の目は、射貫くようにわたしに向けられ、
「だって、この間も鐘撞さんと――!」
「だから、それは違うんだ! 僕はただ、遅刻して困っていた彼女を先輩として――」
「信じられるものですか!」
「真帆……!」
一歩踏み出したシモハライ先輩に、楸先輩は一歩後ずさる。
それを見て、馬屋原先生は、
「そうですよ! 男なんて、相手が女とあれば誰だって浮気してしまう生き物なんです、信じてはいけない!」
「黙れ!」
わたしは思わず叫び、その手を馬屋原先生に向かってバッと伸ばした。
その瞬間、わたしを取り巻いていた風が一気に馬屋原先生へと襲い掛かる。
「ぐおぅっ!?」
先生の体は一気に上空へと巻き上げられ、先ほどわたしが楸先輩の魔法によってされたのと同じように――いや、もっと激しく、強く、床の上へと叩きつけられた。鈍い音があたりに響いたかと思うと、馬屋原先生の体はピクリとも動かなくなる。
もしこれが現実であれば、きっと骨の二、三本、或いは打ちどころ次第ではその命を落としていたかもしれないほどの衝撃を、馬屋原先生に与えたその感触が、わたしの手のひらに残っていた。
ホウキに乗れるということは、それだけ風を操る魔法に長けているということ。楸先輩が風の魔法でわたしの体を持ち上げて地面に叩きつけたように、わたしにも同じ魔法が使えるのだ。
けれど、わたしはまだまだ修行の身。それゆえに力のコントロールがへたくそで、おばあちゃんやママからは「絶対に人に向かって風の魔法を使ってはいけない」と、さんざん言われてきたはずだったのだけれど、
「うぐううっ……!」
馬屋原先生の、その痛みにうめく声でハッとわたしは我に返る。
「せ、先生――!」
思わず口にして、けれど駆け寄るほどには至らない。
先生がわたしたちにやったことと、今わたしが先生にやったことの間で、わたしの心はぐちゃぐちゃでどうしたらいいのかわからなかった。
榎先輩に目を向ければ「よくやった」とばかりに満面の笑顔で頷いている。
シモハライ先輩たちの方に目を向ければ、ふたりは対峙したまま睨み合い、
「信じて真帆! 僕は、本当に、真帆だけを愛しているんだ!」
「ウソだウソだウソだ!」
楸先輩は激しくかぶりを振っていた。
「だって、わたしは、いつも優くんを困らせてる! きっと愛想をつかされてる!」
「そ、そんなことない! そんなことないよ、真帆!」
「信じない! だって、だって私は、私は――!」
目に涙を浮かべながらこぶしを握り締め、そして、
「わああああああぁあぁぁっ!」
突然、大声で叫んだかと思うと、そのままシモハライ先輩の方へ駆け出し、再び襲い掛かろうと地を踏み出した、その瞬間。
「……あう?」
シモハライ先輩と楸先輩の間に、ひとりの赤ん坊が突如姿を現したのだ。
涎掛けをしたその赤ん坊は、辺りをきょろきょろと見回して、ふと楸先輩の姿に気が付くと、満面の笑みを浮かべてから、
「あぁっ!」
と両手を広げて見せた。
「え、あ、なんで……!」
楸先輩は立ち止まり、困惑の表情でその赤ん坊と視線を交わす。
「――え、なに、あの子」
榎先輩が口にして、
「わ、わかりません……」
わたしも、同じく困り果てる。
「な、なんなんだ、アイツは……! どうして、こんなところに赤ん坊が出てくるんだ! 誰だ、誰なんだアイツは……!」
馬屋原先生も、苦し気な声で目を丸くする。
当然のようにシモハライ先輩も驚いたような表情で、その赤ん坊の後ろ姿を見つめたままだ。
わからない。いったい、どうしてこんなところに突然、赤ん坊が?
どこから来たの? いったい、どうやって?
戸惑うわたしたちの視線の中、楸先輩はすっと膝を落とし、赤ん坊の方へ両手を伸ばして。
「あ、危ない!」
思わず口にして、赤ん坊に駆け寄ろうとした次の瞬間。
「……ごめん。ごめんなさい、カケルくん――」
楸先輩はつぶやき、ぎゅっとその赤ん坊を抱きしめた。
「あうぅ!」
赤ん坊は嬉しそうにきゃっきゃっ笑う。そしてまるで霧のように、その姿をすっと、消してしまったのだった。
楸先輩はそれでもなお虚空を胸に抱き続け、目には涙を浮かべていた。
カケルくん……? あの赤ん坊の名前? いったい、楸先輩とどういう関係なの……?
シモハライ先輩はそんな楸先輩のもとへ駆け寄ると、
「――真帆」
彼女の身体を正面からぎゅっと強く抱きしめる。
「愛しているよ、真帆。これまでも、そしてこれからも」
その言葉に、楸先輩も満面の笑みを浮かべながら。
「――はい」
その瞬間、楸先輩の身体を覆っていた闇が、急速に彼女の中へと吸い込まれるようにして収縮していき――やがて制服姿の、いつもの楸先輩の姿がそこにはあった。
何が起きたのか、まるで理解できなかった。
あれだけ頑なだった楸先輩の心を、あのカケルくんと呼ばれた赤ん坊は、一瞬にして……?
これまでまとっていた恐怖すらそこにはなく、シモハライ先輩も楸先輩も、ただ互いの身体を強く抱きしめ続けるだけだった。
わたしは肩の力が抜け、思わずその場にぺたんとおしりをついて座りこむ。
このまま倒れてしまうそうになるのを、駆け寄ってきてくれた榎先輩に支えてもらいながら、
「終わった……んですかね?」
「たぶん?」
榎先輩も、小さく息を漏らしながら首を傾げた。
その時だった。
「何故だ、何故だ 何故なんだ! ちくしょー! ちくしょー!!」
怒り狂ったような表情で、馬屋原先生が体をかばうようにして立ち上がる。
「なんなんだ! なんなんだあのガキは! チクショーが! あと少しで夢魔が完全に目覚めるところだったのに! くそがくそがくそが!」
悪態を吐きながら、馬屋原先生はふらふらと後ずさり、
「もういい! もういい! これでおしまいだ! どうせお前たちはこの夢から抜け出せないんだ、二度と目覚められないんだ! せいぜい仲良くやっていればいい!」
アハハハッ! と高笑いした馬屋原先生の姿はゆっくりと透明化していき、やがてその姿を完全に消してしまった。
「……二度と目覚められない?」
榎先輩が眉間にしわを寄せて口にしたところで、次の瞬間、ばっとわたしたちの周囲が真の暗闇に閉ざされた。
見えるのはシモハライ先輩と楸先輩、そして榎先輩の姿だけ。
今まであった書棚も何もなくなって、終わりのない闇だけが広がっている。
「お前ら全員、夢の中を永遠にさまよい続けるがいい!」
馬屋原先生の叫び声が、闇の中にこだました。
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