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さんにんめ
第2回
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夢を見た。
また、平本部長に怒られる夢だ。
傍らでは、呆れたように冷たい視線を僕に向ける、楸さんの姿もあった。
夢の中で、僕が一体どんなミスをしでかしたのかは覚えていない。
ただ、その場面だけが強烈に頭に焼き付いて、全身汗だくになっていた。
「大丈夫? うなされてたけど――」
そんな彼女の心配そうな顔に、僕は、
「昨日も暑かったからね」
とあいまいに答える。
本当はクーラーが効いていたはずなのだけれど、彼女も納得しかねる顔で、けれどそれ以上は追求してこなかった。
多分、何かは感じているんだと思う。
気を使ってくれているのだ。
彼女に笑顔で見送られながら、僕はいつものように家を出た。
重い足取りで、何度もため息を吐きながら。
昨夜わずかに軽くなった気持ちも、今は大きな石を胸に抱いているかのようだ。
会社のドアを前にして一度大きく深呼吸して、
「おはようございます!」
気持ちを入れ替えるように、大きく声を発する。
だけど。
「……近藤くん、ちょっと」
平本部長に険しい顔で呼ばれて、僕は一瞬で、すべてを悟った。
僕が出社する直前、ある取引先から電話があったらしい。
『聞いていた話と違うじゃないか!』
開口一番、あちらの担当者はそう叫んだという。
何があったのかはわからない。
部長から何を言われていたのかも、覚えていない。
頭の中は真っ白で、僕はただただ頭を下げて謝ることしかできなかった。
部長が何とか先方をなだめて事なきを得たらしいのだけれど、結局僕がどんなミスをしてしまったのか、頭が理解することを拒んでいた。
「……もういいから、ちょっと頭を冷やしてこい」
そう言われて、僕は自分のデスクに体を向けて。
「――あっ」
そこには、眉間にしわを寄せる楸さんの姿があった。
夢と同じだ。
平本部長に怒られて、楸さんの冷たい視線に睨まれて。
思わず泣きだしそうになりながら、僕は楸さんの横を、
「……ごめんなさい」
小さく謝りながら、トイレへ向かって駆けていた。
一日中、僕はデスクに向かい簡単な書き物だけをこなした。
それが、トイレから戻った時の、楸さんからの指示だったのだ。
当面、僕の営業活動は停止。
代わりの者が取引先に赴き、それまで携わっていた企画チームからも外された。
同僚や後輩たちはよそよそしい態度で、誰も僕には話しかけてこなかった。
申し訳なくて、情けなくて、自分が本当に嫌になった。
昨日と同じく、定時帰宅を申し渡され、僕は一人、帰途に就く。
夕方の、けれど強い日差しの中、とぼとぼと力なく歩く僕は、相当に滑稽に違いない。
僕は果たしてここにいてもいいんだろうか。
こんなに迷惑をかけるのなら、もういっそ、会社を辞めた方が良いんじゃないだろうか。
――彼女は何というだろう。
幻滅してしまうだろうか。
付き合い始めてからもう五年、同棲を始めてからは一年が経とうとしている。
口に出さずとも、お互いにそろそろ結婚を、と意識していたのに。
もしここで会社を辞めたら、もうそれどころじゃない。
もしかしたら、このまま別れを言い渡されるかも――
大きなため息を一つ吐いて、昨日のように、イベントホール沿いの道を歩いた。
このまままっすぐ帰るのが何だか怖くて、少しだけ心を落ち着かせる必要があった。
自動的に動く足が向かったのは、昨日、麦わら帽子の女性が歌を歌っていた場所だった。
ふと耳をすませば、今日もあの歌声が聞こえてくる。
僕は彼女に、『今日も残業で遅くなるから』とメールを送り、昨日と同じように、近くのベンチに腰を下ろした。
目の前には、昨日と同じように、大きな麦わら帽子を被った女性がこちらに背を向け立っていた。
ひまわりの飾りがついたゴムで髪を束ねた女性は、英字のプリントされた白い半袖シャツに茶色の短パン。そこからすらりとした白い足が伸びており、白いスニーカーを履いていた。
相変わらず川に向かって歌っているせいで、その顔ははっきり見えない。
けれど、夕陽に照らされた女性のその佇まいはどこか神々しくて、とても美しかった。
そんな女性の歌声を耳にしながら、僕は思う。
このままで、本当に大丈夫なんだろうか。
彼女と結婚するつもりだったけれど、こんな状態では、ただただ不安しかなかった。
いずれまた大きな失敗をして、会社をクビになりでもしたら――
そう考えると、彼女へのプロポーズなど、夢のまた夢にしか思えなかった。
果たして僕は彼女と結婚して、幸せにしてやれるのだろうか。
もし子供が生まれて、路頭に迷わせるなんてことになりでもしたら……
はぁ、と大きく深いため息を吐き、僕は瞼を閉じた。
ダメだダメだ。僕は何を弱気になっているんだ。
大丈夫、大丈夫だ。まだ、大丈夫――
そう自分に言い聞かせながら、僕は目の前で歌い続ける女性の、その綺麗で優しい歌声に耳を傾けた。
女性の歌声は僕の心を柔らかく、温かく包み込んで。
やがて僕は、昨日と同じように、いつしか眠りに落ちたのだった。
夢を見た。
また、平本部長に怒られる夢だ。
傍らでは、呆れたように冷たい視線を僕に向ける、楸さんの姿もあった。
夢の中で、僕が一体どんなミスをしでかしたのかは覚えていない。
ただ、その場面だけが強烈に頭に焼き付いて、全身汗だくになっていた。
「大丈夫? うなされてたけど――」
そんな彼女の心配そうな顔に、僕は、
「昨日も暑かったからね」
とあいまいに答える。
本当はクーラーが効いていたはずなのだけれど、彼女も納得しかねる顔で、けれどそれ以上は追求してこなかった。
多分、何かは感じているんだと思う。
気を使ってくれているのだ。
彼女に笑顔で見送られながら、僕はいつものように家を出た。
重い足取りで、何度もため息を吐きながら。
昨夜わずかに軽くなった気持ちも、今は大きな石を胸に抱いているかのようだ。
会社のドアを前にして一度大きく深呼吸して、
「おはようございます!」
気持ちを入れ替えるように、大きく声を発する。
だけど。
「……近藤くん、ちょっと」
平本部長に険しい顔で呼ばれて、僕は一瞬で、すべてを悟った。
僕が出社する直前、ある取引先から電話があったらしい。
『聞いていた話と違うじゃないか!』
開口一番、あちらの担当者はそう叫んだという。
何があったのかはわからない。
部長から何を言われていたのかも、覚えていない。
頭の中は真っ白で、僕はただただ頭を下げて謝ることしかできなかった。
部長が何とか先方をなだめて事なきを得たらしいのだけれど、結局僕がどんなミスをしてしまったのか、頭が理解することを拒んでいた。
「……もういいから、ちょっと頭を冷やしてこい」
そう言われて、僕は自分のデスクに体を向けて。
「――あっ」
そこには、眉間にしわを寄せる楸さんの姿があった。
夢と同じだ。
平本部長に怒られて、楸さんの冷たい視線に睨まれて。
思わず泣きだしそうになりながら、僕は楸さんの横を、
「……ごめんなさい」
小さく謝りながら、トイレへ向かって駆けていた。
一日中、僕はデスクに向かい簡単な書き物だけをこなした。
それが、トイレから戻った時の、楸さんからの指示だったのだ。
当面、僕の営業活動は停止。
代わりの者が取引先に赴き、それまで携わっていた企画チームからも外された。
同僚や後輩たちはよそよそしい態度で、誰も僕には話しかけてこなかった。
申し訳なくて、情けなくて、自分が本当に嫌になった。
昨日と同じく、定時帰宅を申し渡され、僕は一人、帰途に就く。
夕方の、けれど強い日差しの中、とぼとぼと力なく歩く僕は、相当に滑稽に違いない。
僕は果たしてここにいてもいいんだろうか。
こんなに迷惑をかけるのなら、もういっそ、会社を辞めた方が良いんじゃないだろうか。
――彼女は何というだろう。
幻滅してしまうだろうか。
付き合い始めてからもう五年、同棲を始めてからは一年が経とうとしている。
口に出さずとも、お互いにそろそろ結婚を、と意識していたのに。
もしここで会社を辞めたら、もうそれどころじゃない。
もしかしたら、このまま別れを言い渡されるかも――
大きなため息を一つ吐いて、昨日のように、イベントホール沿いの道を歩いた。
このまままっすぐ帰るのが何だか怖くて、少しだけ心を落ち着かせる必要があった。
自動的に動く足が向かったのは、昨日、麦わら帽子の女性が歌を歌っていた場所だった。
ふと耳をすませば、今日もあの歌声が聞こえてくる。
僕は彼女に、『今日も残業で遅くなるから』とメールを送り、昨日と同じように、近くのベンチに腰を下ろした。
目の前には、昨日と同じように、大きな麦わら帽子を被った女性がこちらに背を向け立っていた。
ひまわりの飾りがついたゴムで髪を束ねた女性は、英字のプリントされた白い半袖シャツに茶色の短パン。そこからすらりとした白い足が伸びており、白いスニーカーを履いていた。
相変わらず川に向かって歌っているせいで、その顔ははっきり見えない。
けれど、夕陽に照らされた女性のその佇まいはどこか神々しくて、とても美しかった。
そんな女性の歌声を耳にしながら、僕は思う。
このままで、本当に大丈夫なんだろうか。
彼女と結婚するつもりだったけれど、こんな状態では、ただただ不安しかなかった。
いずれまた大きな失敗をして、会社をクビになりでもしたら――
そう考えると、彼女へのプロポーズなど、夢のまた夢にしか思えなかった。
果たして僕は彼女と結婚して、幸せにしてやれるのだろうか。
もし子供が生まれて、路頭に迷わせるなんてことになりでもしたら……
はぁ、と大きく深いため息を吐き、僕は瞼を閉じた。
ダメだダメだ。僕は何を弱気になっているんだ。
大丈夫、大丈夫だ。まだ、大丈夫――
そう自分に言い聞かせながら、僕は目の前で歌い続ける女性の、その綺麗で優しい歌声に耳を傾けた。
女性の歌声は僕の心を柔らかく、温かく包み込んで。
やがて僕は、昨日と同じように、いつしか眠りに落ちたのだった。
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