上 下
8 / 20

アイを唄う人魚と鏡の魔法 Ⅶ

しおりを挟む
  
  4 
 
 空気をビリビリと引き裂くような機械の音色。
 いつもは非日常の幕が上がる期待と喜びに満ちているはずなのに唐突に響いたそれはひどく不吉に聞こえました。

「…………開演、するのか?」

 片理さんはふらふらとロビーに上がろうしましたが、数歩歩かないうちに腰が抜けたように床に座り込んでしまいました。

「大丈夫ですか?」

 透火さんが手を差し伸べると片理さんは震えた手で握り返します。そして、緊張で顔を引きつらせ、苦笑いを浮かべました。

「はは、会わなきゃ会わなきゃと思っていたのに、いざ始まったらこれだ。なんて情けないんだ、ちくしょう……」
「…………」

 空いたばかりのベンチに片理さんは座ると場内に消えていくお客様たちを羨ましそうに見つめます。その顔をもう一つの小さな顔が物言わず静かに見上げていました。

「彼方さん、もう開演しちゃったんですか?」
「いえ、あれは『1ベル』といって開演5分前を知らせるものなのですよ」

 ただし、それは“普通”の舞台であれば。
 事実、1ベルの直後に流れるはずのアナウンスが流れません。

『白亜! 白亜! 白亜、答えて! 本当に開演するのですか?』

 久しく使っていなかった魔力のパスを繋げて白亜に直接呼びかけます。

 ―――っ!

 脳が真っ白に焼き切れられるような魔力の奔流に生存本能が自動的にシャットダウンしました。今夜の公演のために白猫座は今、魔力が充満していますが、これはあまりにも異常です。
 白猫座は魔力という水を貯める器ともいえます。その有限のはずの水が零れるかのように大きく揺れている。自然発生なのか、それとも―――。

「透火さん、内線で連絡をとってください! 音響室、楽屋、事務室、どこでも、誰でもいいから片っ端から捕まえるのですよ!」
「は、はい!」

 その場を透火さんに任せて私は場内に向かいます。
 ロビーは人でごった返していました。場内への扉は開かれていましたが、お客様の後頭部が見えるばかりで列がちっとも進んでいません。

「ごめんなさい! 先を通してください!」

 憤懣やるかたないお客様たちの一人一人に頭を下げつつ、扉を潜ると現在の状況が見えてきました。
 場内の照明が消され、非常灯の緑の光が僅かに灯るばかり。開演中であれば舞台照明がありますが、これでは全く何も見えません。引換券を手にしたお客様の多くがその場で途方にくれていました。そして、そこに係員がひょっこり現れたのですから利用しない手はありません。

「順番にご案内しますので少々お待ちくださいませ!」

 明らかに異常な状況ですが、劇場のスタッフとして困っているお客様を放置することがどうしてできるでしょう? それにこの人数です。下手な騒ぎなど起こせば大事故に繋がりかねません。私はそう判断し、内心では不安と焦りを覚えつつも、手にしたペンライトでお客様をお席までご案内するしかありませんでした。

「…………霧?」

 その霧に気づいたのは4人目のお客様が案内していたときでした。場内を見渡すといつの間にか霧で包まれ、最前列がどこにあるのか見分けられないほどです。そして、どこからか何かの音が囁くように聞こえてきます。
 
 swash-swash-swash-swash-swash-swash-swash-swash-swash-

 …………これは波の音?
 
 ―――遠い、遠い、海の底に人魚たちが住んでいる城がありました。
 ―――お城の中には6人の小さな美しいお姫さまがいました。
 ―――一番下のお姫さまは特に美しく、陸の上にも海の中にも誰もが持っていない素晴らしい歌声を持っていたのです。

 息を吸い込むように場内の空気が一瞬緊張すると波音は拍手の音に呑み込まれました。ハッとして舞台を見ればいつの間にか幕は上がり、白い霧が舞台を包み込んでいます。
 舞台中央には岩礁と思われる一つの岩、そして、その上には一人の女性が座っているのが見えました。霧に覆われているので顔は見えません。影絵のようなシルエットが浮かび上がるばかりなのですが、“彼女”は“私”を見ていました。どうしてかそれがわかるのです。
 “彼女”の視線がニュートリノのように“私”という存在の中心を通り抜けていく。

 ―――La-La-La-LAAAA

 歌が聞こえました。
 どこまでも透明なその声。 
 メロディと一体となった歌詞は世界の全てを内包し、そして、等しく意味を持たない。
 自らを“空”とし、世界と共鳴する秘儀。
 其は魔法。
 魔法は全であり、無である。
 故に魔女は唄う。
 世界の果ての唄を。

「あ―――」

 世界が書き換わる独特の感覚。でも、それは決して不快なものではなく、むしろ“あるべきもの”に戻るような懐かしさすら覚える快さ。以前、友人が時空を相手にした「整体」と表現しましたが、まさに言い得て妙です。
 陶酔のような心地よさとともに頭の内側と外側の境界がぼやけていきます。
 魔法というものは大抵気持ちがいいものですが、この魔法は特にヤバイです。深い眠りに入る直前の自我がバラバラになってベッドの中に溶けていくような感覚、それが眠くならずにずっと続いていくと言えばわかってもらえるでしょうか?
 これが「境界」の才能タレント
 私は今、空の絨毯の上を歩いています。
 あはは、ゆかもてんじょうもみんなふわあふわだあ…………………………………………………… …………………… ………   …………

「―――アホか、目を覚ませ!」

「ぐへぇっ」

 腹部に強烈な痛みを覚えると私は膝から崩れ落ちました。そして、同時に胃の中から巨大な鯉が駆け上り、床の上に壮大に嘔吐いたのですよ。

「ゲホゲホ、ううぇ、げほ、うえー」

 産卵するウミガメのように両目に涙を溜めていると目の前に銀色のペルシャ猫が立っていました。「ばっちぃ」と言わんばかりに短い肢を竦めて私由来のスープを避けています。どうやらこの毛玉が私の鳩尾に体当たりをかましたようですね。

「―――は、白、」

 しかし、猫はひらりと躱すと一目散にロビーに駆け出していきます。これには普段はマリア様のように温厚で優しい私も堪忍袋の緒が切れました―――ってアレ?

「私はそもそも何に対して怒って―――!?」

 そういえば場内にたくさんいたお客様の姿が見えません。いえ、違います。目の前に確かにいらっしゃいました。今、この瞬間までは―――。

「…………………………」

 黄昏のような赫橙色の照明が場内を照らしています。
 その光は恍惚と歌に聴き惚れるお客様の姿を透かしていました。比喩ではありません。身体の先の座席や壁がうっすらと透けて見えるのです。そして、顔だけでなく服やアクセサリーにさえ浮かぶ無数の“泡”。泡は細かく弾けては浮かび、その度にお客様の輪郭がまたぼやけていくのです―――まるで泡が意思を持って喰らっているかのように。

「みゃーっ!」

 猫が場内扉の向こうから叫びます。私はハッとすると通路を駆けだしました。立っていたお客様たちは既に質量を失っていて逆に自分が幽霊になったかのような感覚を覚えます。
 …………助けられなくてごめんなさい!

「ハア、ハア、ハア…………」

 ヒューと空気が漏れるような音を残して扉が閉まると私はそのまま背中からずり落ちていきました。歌はもう聞こえません。舞台とそれ以外の館内には魔法の影響が出ないように高度の魔力障壁が設けてあります。とりあえずこれで一安心、です。
 恐る恐る掌を見ると無数の小さな泡が消えていきます。どうやらこの泡は幻ではなかったようです。間一髪だったといったところでしょうか。

「彼方さん!」

 見上げると透火さんが猫を腕に抱えて心配そうに立っていました。どうやら透火さんは場内には入っていなかったようです。ホッとするとまた体から力が抜けてしまいました。

「え、えへへ、ごきげんよう、透火さん」
「彼方さん、いったい何が起きたんですか!?」

 さて、何が起きたのでしょうか? 透火さんの腕に抱かれた猫を見つめると猫は力なく「にゃあ」と短く鳴きました。どうやら事態は相当に深刻なようです。

「彼方さん、み、みんな、目の前であ、泡になってと、溶けてしまいました!? わ、私はどうすれば―――っ!?」
「透火さん、どうか落ち着いてください。どうやら魔法が暴走しているようです」
「魔法が暴走!? そ、そんな!? そういえばお客様が消える前に舞台から歌が聞こえました。こ、これはお姉ちゃんがやったことなんですか!?」
「透火さん、どうか落ち着いて! まだそうと決まったわけではありません。今は考えるよりもやるべきことをやりましょう。まだ残っているお客様はいらっしゃいませんか?」

 しかし、透火さんは首を横に振りました。

「開演ベルが鳴ってからすごい勢いで場内に、トイレに行っていた人も慌てて出てきて。そうしているうちに場内からすごい拍手がしたかと思うと歌が流れてきて―――」

 透火さんはその先の言葉を続けることができません。

「…………泡になって溶けてしまったんですね」

 だから、年長者の私が代わりに言葉にしたのです。

「…………そうです。まるで人魚姫の最期みたいでした。泡になって溶けてしまって……こんな……ひどい!」

 いつの間にか腕から抜け出た猫が心配そうに見上げています。

「もう大丈夫。透火さん、頑張ってくれましたね。ありがとう」

 抱きしめた腕の中で声にならない嗚咽が漏れます。
 浅はかな自分の判断のせいで私はこの少女に一生消えない心の傷を残してしまった。そして、その罪はこの先どんなことをしても償うことはできないでしょう。
 ―――けれど、それは生き残ってからの話なのです!

「透火さん、泣くのは一旦後まわしにして今は逃げるのです、ですよ!」

 ロビーから正面玄関までは走れば1分もかかりませんが、駆け出したい気持ちをどうにかこらえて私たちは生存者がいないか大声で呼びかけながら階段を一歩ずつ降りていきました。その一歩は蜃気楼目指して砂漠の砂を踏むかのように痛みと熱を帯びていきます。

「…………片理さん?」

 正面玄関の前で人が独り座り込んでいましたが、それはあの仙洞せんどう片理へんりさんでした。

「か、係員さん! 早くここを開けてくれ!」
「えっ、開かないのですか!?」

 思わず聞き返すと血の気を失った片理さんの顔がさらに蒼くなっていきます。

「彼方さん、ダメです! 扉が開きません!」
しおりを挟む

処理中です...