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「ミア、ミア! 私よ、ロザリン! いるなら今すぐにあけて頂戴! 水晶玉に、すごいものが見えたのよ!」 

 ロザリンの声に混じり、黒い仔猫のフーチの小さな鳴き声も聞えた。 
 ミアは慌てて羽を隠すと、さっきまで着ていたグレイのスーツに身を包んだ。 
 そして、ジャスティンはミアよりも早く、そして優雅に、ミアと同じようにスーツ姿へと自分の身を変えた。 
 その如才なさが鼻につき、ミアは声を出さず口の動きだけで、天使とは思えないような悪態を彼についた。 
 そんなミアさえ可愛いと言わんばかりのジャスティンの余裕がなんだか悔しくて、ミアは地団太を踏む。

「お待たせしました、ロザリン」 

 ミアが扉を開けたと同時に、髪をもしゃもしゃさせた大柄なロザリンが、転がるように部屋の中に入ってきた。 

「なんだかすごい音がしたけど大丈夫? って、あぁ、そうそう! わたし、すごいのを見ちゃったの! あなたにとっての一大事よ! あら、お客さん?」 

 ロザリンは、ミアの側に立つ長身の男性に目をとめ驚いた。
 ミアはこのアパートメントに越してきて、五か月になる。
 彼女の仕事柄、いろんな人物の出入りがあるが、彼はそういった人たちとは明らかに違った。
 豊かな黒髪に男性的でありながらも優雅な顔立ち。
 質のいいスーツに加え、それを着こなす立派な体躯。
 こんな上等な男性は、そうそうお目にかかれるものではない。
 ロザリンに賛成とでも言いたいのか、フーチも小さな喉をゴロゴロと甘く鳴らした。  

「お気になさらずに。僕は今帰るところですから」 
 男性が、柔らかな微笑みをロザリンに向けてきた。

 ロザリンは目の保養となる男性が帰ってしまう残念さと、これからミアに告げる話のワクワク感を天秤にかけてみた。 
 すると、若干ではあるが、自分が水晶玉で見たことをミアに話すことのほうが勝った。 

「残念だけど。では、またお会いしましょう。あなた、お名前は?」 
「ジャスティンです。ミセス・ロザリン」 
「あぁ、ミスター・ジャスティン。ではまた、お会いできる日を――」
 ミアが二人の会話に割り込む。
「彼と会うのは二か月も先よ、ロザリン。残念よね」 
 ミアはそう言うと、にこりと笑った。 
 肩をすくめたジャスティンが、おどけたようにロザリンを見た。 
 ロザリンもやれやれと言わんばかりに、苦笑いを浮かべている。 
 まるでミアが悪者になったかのような、二人のやりとりだ。
 ……仕方がない。
 挨拶くらいはきちんとしよう。
 ミアはジャスティンを見上げた。
 目の前のジャスティンは、少年だったころの面影を一つも残してない。
 どこからどう見ても、隙一つない大人の男性なのだ。
 それがなんだか、ミアを不安にさせたし、居心地を悪くもさせていた。
「では、またね。ジャス――」 
 ふいに、目の前に影が落ちる。
 ミアの口はジャスティンのそれで塞がれたのだ。 
「またね、ミア」 

 ジャスティンはそう言い残すと、アパートの階段を駆け下りていった。 
 ミアはといえば、驚きのあまりその場に立ち尽くしていた。 

 キスだ。 
 初めてのキス。 
 しかも、あのジャスティンと!

「あら。あの人、ミアの恋人だったのね。あら、まぁ……」 
「違います。全然、違うんです。今のは間違いです」

 ミアは冷静になろうと、頭の中に冷たいものを思い描いた。 
 アイスティー。
 グラスの中は氷が一杯。 
 一口飲んだだけでも、頭がキーンとなるような。 

 しかし、それだけでは今のキスは消えない。 

 ミアは、南極を思い浮かべた。 
 南極でバケツ一杯に入ったアイスクリームを食べるのだ。 
 飲物は氷がごろんと入ったアイスティー。 
 テーブルも椅子も全て氷。

 これは、寒すぎるわ。 
 思わず、ぞくぞくっと鳥膚がたった。 

 しかしこれで、ようやく今起きたことについて、冷静に考えられるというものだ。  

 ジャスティンは、ロザリンの前ならミアが暴れないとふんで、キスをしたのだろう。 
 その計算高いところが、全く気に食わない。 
 しかし、されたものはしょうがない。 
 いくら天使のミアだって、時間を戻すことはできないのだから。 

 ミアは大きく深呼吸をした。
 とるべき方法はただ一つ。
 最善にして唯一の策。
 つまり、忘れることにした。 

 キスなんて、つまりは口と口の接触じゃない。
  
 そう思えるミアは、ある意味大人で、ある意味子どもだった。 


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