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第一章 エトランゼ

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 世界がゆっくりと溶けていく。

 何処か遠くから、トウヤの声がカナタを呼んでいた。

 伸ばされたその手は余りにも遠くて、自分で動くことのできないカナタでは掴むことも叶わない。

 仰向け倒れたまま、首を動かしたその目に映るのは聖別騎士に蹂躙されるエトランゼ達。

 真っ赤な絨毯はその身体の下にある草木を濡らし、カナタの着ているメイド服を赤黒く染め上げる。

 最早薄れて消え去りそうな思考の底で、「ヨハンさんに怒られるなぁ」などと、栓無き言葉が現れては消えた。

 もう痛いのも嫌だ。怖いのも嫌だ。

 目を閉じて楽になろう。そうすれば、トウヤも自分を無視して逃げられるかも知れない。

 そんな都合のいい言葉で自分を騙して、何もかもを手放そうと決意したとき。

 身体の中を撫であげられるような悪寒を感じて、閉じようとしていた目がありえないほどに大きく見開かれた。


『うふふ。ようやく繋がれた、ようやく声を伝えることができた! ねぇ、あなた死にたくないの? 怖いの? 不思議な気持ちね。でもとっても心地よいわ! ウァラゼルはそういうの大好きだから!』


 頭に響く音量で、それは聞こえてきた。

 無邪気な、幼子のような少女の笑い声。

 喜びとも狂気とも取れない熱を孕んだその声は、早く目を閉じたいカナタの奥底で遠慮なしに暴れまわる。


『ねぇ? あなた、死んじゃうの? 死にたくないでしょう? 違う? 人間は死ぬのが嫌な生き物だって、ウァラゼルは思っているのだけれど、あなたは違うのかしら?』

「な…に…?」

『ねぇねぇ。ウァラゼルはウァラゼルよ。今、あなたの身体の中にいる。ううん。厳密にはちょっと違ってね、あなたの身体の中にある剣の中にいるの! 意地悪な奴にこの中に入れられたのだけど、驚いちゃった! ウァラゼルの声が聞こえる人間がいるんですもの! そう! あなたよ、あなた! お人形さんの中でもとびっきりに素敵なあなた!』

「うる…さい……なぁ」


 戦いは激化し、カナタの唇から漏れる声は誰の耳にも届かない。

 ウァラゼルと名乗るその声も、他の誰にも聞こえている様子はなかった。


『違っていたらごめんなさい。でもね、あなたは力の使い方を知らないの? どうしてとっても素敵なセレスティアルを持っているのに、お人形さん達と同じようなことをしているの?』

「セレ…? 知ら……ない、よ」

『ふぅん。そうなんだ。知らないのね。かわいそう! あなたとってもかわいそうよ! そうだ、いいことを思いついたわ! わたしがセレスティアルの使い方を教えてあげる! ううん、いいの! 久しぶりに誰かとお話しできたから楽しくて、嬉しいから!』


 カナタの言葉など全く無視して、ウァラゼルを名乗る声は話を進めていく。


『ええそうね。カナタ、貴方のことは死なせないわ』


 頭の奥に声が響く。

 心の中に、何かが注がれる。

 まるで泥のように不愉快で、かきだしたい衝動に駆られるが、心の中にあるものをどうしていいかなど、カナタには判らない。

 どうせ身体も動かないのだからと耐えていると、少しもしない間にその泥は透き通る水のようなものに変わった。

 その感触が、カナタは嫌いではない。

 むしろ最初からずっと触れていたようによく馴染む。

 多分、これが触れているのは身体ではない。

 魂とか、形のない何かがそれで満たされていくのだ。

 それはとても怖いことだが、今のカナタには受け入れるしかなかった。


『さあ、立ち上がって、お人形さん? あなたは生きて、わたしに出会うの。そしてたくさん遊びましょう? たくさん、たくさん、たくさん遊びましょう。あなたにはそれができるわ。だから今、ウァラゼルに少しだけ見せて。あなたのセレスティアルを』


 その声を最後に、ウァラゼルの声が消える。

 ウァラゼルを引き抜いて、とどめを刺そうとしていたカーステンの身体が、反射的に動きを止める。

 まず一度、身動ぎするように。

 それから確実に、意思を持ってカナタの身体が立ち上がる。


「き、貴様……!」


 上擦った悲鳴のような声が、カーステンの中から零れた。

 もう痛みはない。

 流れる血も、他人事のようにしか思えなかった。


「死にたくない」


 その呟きが全て。

 判っていた。彼女の提案を蹴ることもできたことぐらい。

 あのまま自分の運命を享受することだって不可能ではなかった。

 でも、そんなのは嫌だ。


「こんなところで……。訳も判らず死にたくない。ボクは生きる。絶対に生きてやる」

「神に逆らう不届き者めが!」

「セレスティアル!」


 ――知らないはずの言葉があった。

 ――知らないはずの力があった。

 ――何処かで、カナタはそれを知っていた。

 極光が、これまで小さな玉を作る程度の光しかなかったその力が手の中に生まれ、広がっていく。

 カーステンが真っ直ぐにカナタに振り下ろした聖別武器、ウァラゼルの刃をその手の中に生まれた極光の剣が受け止める。


「な、」


 それは剣というには余りにも細く、頼りない輝きだったが、極光はウァラゼルに打ち負けず、それどころかカーステンの腕ごと上に弾いた。


「やはりエトランゼは化け物だ! 神々の理を乱す、この世界に在ってはならぬもの!」


 カーステンが後退する。

 その際に放った声が、カナタを押し留める枷を破壊する。

 何故、こんなに誰もが傷ついているのか。

 やりたくもない戦いを強いられているのは誰の所為か。

 責任の所在を求めるなど愚かなことだと、ヨハンならば言うだろう。


「貴方達みたいな人がいるから……!」


 カナタは踏み込んで、彼を逃がすまいと極光の剣を振りかぶる。

 振り下ろされた極光は、カーステンが咄嗟に地面を転がって避けたため、本来の狙いを大きく外れる。

 綺麗な切断面を持つカーステンの左腕が、宙を舞って地面に落ちた。


「いっ……!」


 こうまで直接的に人を傷つけたのは、カナタにとって初めてのことだった。

 それでも、後悔はない。いつかはやらなければならないと覚悟はしていたことだ。

 ――そして、誰かの命を奪うことも。


「いぎゃあああぁぁぁぁぁぁぁあああ!」


 大声を上げて、無様に悲鳴を上げるカーステン。

 本来ならばそれだけでもう剣を収めていただろう。カナタはそういう少女だった。

 今は違う。

 死にたくないという意思が暴走しているのか、それとも先程の声、ウァラゼルが何か影響を与えているのか。

 自分でも理由は判らないが、カーステンの命を奪うことに躊躇いはなかった。

 剣を振り下ろそうとする刹那、目の前に巨大な壁が聳え立つ。

 草木を薙ぎ倒しながら、その全身を鎧に包まれた巨体とは思えないほどの速度で目の前に立ちはだかったのは、先程までトウヤと交戦していた聖別騎士だった。

 彼等の持つ聖別武器が、カナタの極光の剣を受け止める。


 カナタは即座に剣を引き、なにも持っていない左手に光を出現させる。

 呆気にとられた聖別騎士の鎧を、カナタが左手に持った剣が掠めた。

 両手で構えていなかったため力が入りきらなかったその斬撃は、他の誰もが傷つけることのできなかった聖別騎士の鎧を削り取る。

 まさかその鎧が傷つけられるとは思っていなかったのだろう。

 一瞬の動揺を付いて、聖別騎士を爆炎が吹き飛ばした。


「トウヤ、君……?」


 そこまでが、カナタの限界だった。

 持ち直したはずの意識が薄れる。

 視界が揺らぎ、熱いぐらいだった全身が血を失ったことによる寒さに襲われる。

 まるで地面に吸い寄せられるように、その身体が倒れる。


「て、撤退だ! 一度イシュトナルに戻り、態勢を立て直すのだ!」


 聖別騎士に引きずられながら叫ぶその声が、カナタに聞こえた最後の言葉だった。

 カナタの意識は今度こそ、一切の抗いを許さずに深奥へと落ちていった。



 ▽



 かつて、彼等は誰も到達したことない場所に辿り付いたことがある。

 幾多の苦難を乗り越え、多くの敵と戦って打ち倒し。

 エトランゼとは、ギフトとは、そしてこの世界はいったい何なのか。

 その真理に触れかけた者達がいた。

 だが、それも全ては過去のものだ。

 忌まわしい記憶。

 忘れえぬそれへの追憶は終わることはない。

 朽ち逝く身体。

 聞こえてくる怨嗟の声。


「どうしてこうなったのか?」

「お前は判っていたんじゃないのか?」

「何故止めなかった?」

「知りたかっただけだろう。そこに何があるのかを。これまでに苦楽を共にした全てを犠牲にしてまで」


 幾つもの声から耳を塞ぎ、目を背けて走る。

 たった一人残された誰かの熱だけを免罪符にして。それを護るために仕方がないことだと自分に言い聞かせて。

 真っ白な世界をひた走った。

 何度も足を取られて、転びながらもその度に立ち上がり。

 その時のことはよく覚えていない。果たしてどうして諦めてしまわなかったのか。

 理由は簡単だ。

 死にたくなかったのだ。

 死が怖かっただけの話だ。

 結局のところ、何と呼ばれていようが、人知を遥かに超越した力を持っていたとしても。


 心は人間だ。

 弱くて脆い。一皮むければ軽蔑の視線を向けていた幾人と代わりはしない。

 生きたいと、ただそれだけを願う矮小な存在が一つ。

 その後のことはよく覚えていない。

 ただ今でもこうして夢に見るのだから、きっと鮮烈な思い出として心に刻み込まれているのだろう。

 例え記憶の奥底に何度封印したとしても、こうして蘇ってきてしまうぐらいには。

 そうして何年。


 残された希望の残骸は、目を背け続けて、同じ過ちを繰り返す。
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