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第四章 空と大地の交差

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「下がれ、ラニーニャ!」


 その声と共にラニーニャの目の前で炸裂しそうな樽が、横合いからの衝撃を受けて何もない海上へと吹き飛んだ。


「よっちゃんさん!」


 ラニーニャは水面を蹴って跳躍しようとするが、全身を走る痛みから空中で態勢を崩し、ヨハンの胸の中に飛び込む形となる。


「無事か?」

「え、ええ……。助かりました、よっちゃんさん」

「その呼び方は何とかならないか?」

「親しみがあっていいじゃないですか。っと」


 ゆっくりと、トルエノ・エスパーダの甲板にラニーニャの身体を降ろす。

 白兵戦のための橋を挟んで睨み合う敵は一人。大海賊ベアトリス。

 老年の海賊はヨハンの目から見て、全く衰えた様子もないほどに鋭い眼光で、こちらを睨みつけている。

 その視線は挑発的とも思えるが、またある意味ではその闖入者を楽しんでいるようでもあった。


「お前がヨハンかい?」

「そうだ。大海賊ベアトリスだな?」


 ヨハンの武装はいつものローブと、ショートバレルを構えている。

 それだけでなく服の中には大量に、武装を抱えてきた。

 他でもない、自分の力でカナタを連れ戻すために。


「そうさ。マーキス・フォルネウスの船長、アランドラの大海賊。色々と異名があるが、あんまり関心はないみたいだね」

「カナタを返せ。そうすればすぐに戦いを止めて、お前達のことは見逃そう」

「はんっ。その権利がお前にあるのかい?」

「無理にでも認めさせる」

「ほう」


 感心したように、ベアトリスは笑う。

 だが、それで大人しくこちらの望みを受け入れてくれるような相手ではない。

 今の彼女にとって重要なのは、単なる利ではない。

 この戦いを、未知への挑戦をどれだけ楽しめるか、どれだけ味わえるか。


「だがまぁ、答えは拒否だ。あの子はアタシ等のクルーにする」

「話は平行線か」

「そうさ。だから、海の上でのルールに乗っ取って決めようじゃないか」

「ラニーニャ。俺がベアトリスとの戦いを始めたら、クラウディアをこっちの船に避難させろ」

「判りました。お手並み見せていただきますね、よっちゃんさん」

「アタシを前によそ見するとは、いい度胸だね!」


 彼女の手の中にある、フリントロック式のピストルが火を噴き、弾丸がヨハンの足元に着弾する。

 それは決して脅しではない。性能の低い銃では、この嵐の中で確実に狙うことができなかっただけだ。

 ヨハンはその偶然に感謝しながら、改めてショートバレルを構える。

 手ずから造り上げ、何度も改造を施してきた愛銃は、この世界の製銃技術よりも遥かに先を行っている。

 それは魔法弾を撃ち出す特性だけでなく、命中精度や連射速度に関しても言えることだ。

 だが、それでもベアトリスには当たらない。

 嵐の中で弾を相手に当てるには、相当な技量が必要だ。ヨハンにそれだけの技術はない。

 それでもベアトリスは、遠距離での打ち合いは不利と判断して、橋を駆けてこちらに距離を詰めてくる。

 ヨハンも彼女に習うように距離を取るのではなく、接近戦を仕掛ける。


「ほう」


 橋の中央で二人はぶつかり、ベアトリスのカトラスが閃く。

 ヨハンはショートバレルを盾にするようにしてそれを受け止めて、銃床を振り回してベアトリスの身体を打ち付ける。


「……ははっ」

 海賊は嗤う。

 銃口が自分の身体を捉え、引き金に指が掛かろうと。

 それを紙一重で避けて、すぐさま反撃の刃を叩き込んできた。


「ぐっ……」


 年老いていても、その膂力はヨハンを上回っている。

 一撃一撃が重い。

 そもそも、今日まで滅多なことで接近戦をやってこなかったのだから、それも当然のことではあるが。


「どうした! あの二人の後に戦うのがお前じゃ、拍子抜けもいいところさね!」


 上から叩きつけるように、カトラスが襲い掛かる。

 それに対してヨハンは懐から一枚の鏡を取り出して、それを張り付けた掌で受け止めた。


「反射鏡……!」


 ドスンと、重々しい音を立てて、ベアトリスの身体が上空に吹き飛ぶ。


 彼女から与えられた衝撃を、増幅して相手に跳ね返す魔法道具。攻防一体の道具だが、あくまでも跳ね返すのは『衝撃』だけであり、致命傷には至らない。

 だからすぐにショートバレルを構えて引き金を引く。

 散弾にその身を晒されながら、驚くことにベアトリスは空中で姿勢を変えてこちらに投げナイフを放って来た。

 それを全て避けきることができず、ヨハンの肩に突き刺さり、一本は足を掠める。

 それでもこの機を逃すことはできないと、次の弾丸を装填する。

 炎の魔法が込められた魔法弾は、甲板に着地したベアトリスのカトラスに弾かれたものの、そこで炸裂し船の上に炎を巻き上げる。

 慌てる船員達に、ベアトリスは一喝した。


「ビビるな! この雨だ、火はすぐ消える! ……それよりも判ってるね。こいつらは強いよ!」


 彼女のその一声で浮足立とうとしていた海賊達は落ち着きを取り戻し、それどころか勢いを増して水夫達と斬りあいを続けている。


「さあ来なよ小僧。戦いはまだ始まったばかりさ」


 マーキス・フォルネウスの甲板に乗り移り、二人は戦いを再開する。

 ショートバレルの射撃だけではベアトリスを押し留めることはできず、すぐさま接近を許してしまう。

 もうあの鏡を使うことはできないので、炸薬、飛翔する短剣、幾つもの隠し武器を持ちいて距離を取ろうとするが、ベアトリスはすぐさまそれらに対応し、斬り伏せて襲い掛かってくる。


「くだらない、本当にくだらない小僧だ!」

「なにを……!」

「そこまでして力が欲しいかい? あの嬢ちゃんのギフトが!」

「……俺は……!」


 胸倉を掴まれ、地面に引き倒されそうになる。

 そこに爆薬を放り投げて、どうにかそれを防ぐ。

 銃床を振り回す。

 今度はベアトリスはそれを腕に抱えるように受け止めて、ヨハンの手から捥ぎ取ろうと身体を捻った。

 仕方なくそこから手を放すと、ショートバレルは甲板の上に落ちた。


「カナタを取り戻しに来た」

「だからくだらないって言ってんだよ!」


 カトラスが頬を掠める。

 どうにかベアトリスの手首を掴んでそれを無力化しようとするが、ヨハン如きの技術ではそれは敵わない。


「あの子の力は凄いよ。あの子自身が大したことなくても、それを一流の戦士並みに引き上げちまってる。だからこそ、お前みたいな権力に憑りつかれたような奴には必要なんだろうね!」


 カトラスが大きく振り上げられた。

 ヨハンは覚悟を決める。

 右腕を上に掲げる。

 カトラスがローブに食い込み、鈍い痛みに顔を顰める。


「勝手に言っていろ! 俺にはあいつが必要だ。だからここに来た」

「そう言ってんじゃないかい!」


 ヨハンの両腕は斬れない。

 防御性能を高めたローブは、痛みこそ通したものの、どうにか彼女の鋭い斬撃を防いでくれた。


「違う!」


 ヨハンは叫ぶ。

 以前ならば黙っていただろう。自分だけが知っていればいいと高を括って。

 腕ごとヨハンを斬り損ねたことに動じたベアトリスが、次の挙動を鈍らせた。

 ヨハンはその隙に乗じて、左手の拳を固く握り、至近距離からベアトリスの腹に打ち付ける。


「ギフトのあるなしが関係あるか。俺にはあいつが必要だから、連れ戻しに来たんだ」

「虫のいい話だね!」


 よろけたベアトリスだが、追撃を許すほど甘い相手ではない。

 突きだされたカトラスはヨハンのローブを貫き、身体に浅く刺さる。

 それを抜き払いながら、ベアトリスはよろけた身体を立て直すために一度距離を取った。


「守れなかったじゃないか! だからあの子は一人でいた、それをアタシが拾ったんだ。今更出てきた男がさ!」


 ヨハンの手は、甲板に転がっているショートバレルに伸びている。

 それを掴みあげて、すぐさまベアトリスに向けて引き金を引いた。


「女一人護れない小僧が、粋がるんじゃないよ!」


 その言葉はヨハンの胸を抉る。

 名無しのエトランゼは、『彼女』を護ることができなかった。

 その手を掴んでくれていたのに気付かなかった、神を気取った愚か者はそれを護りきることができなかった。

 ――それでも。

 ――だから。


「今度は護って見せる!」


 弾丸がベアトリスの腹を撃ち抜く。

 彼女が投げた火薬樽が、ヨハンの至近距離で炸裂する。

 炎に包まれながら、ヨハンは甲板を蹴った。

 お互いに示し合わせたように、ベアトリスもカトラスを構えてそれを迎え撃った。


「あの子はね、自由に生きるべきだ。行きたいところに行って、旅をして、世界を見て、色んなものを愛するべきだ」


 それは好奇心旺盛で、かつて海に憧れていた少女が父に言われた言葉だ。

 だが、現実は非常だった。そう言った父は、彼女が海に出ることを拒んだ。結局のところ、それは幼い子供に聞かせるために詭弁でしかなかった。

 少女はそれに反抗した。海賊になる道を選んで、海に出た。未知を知るために。


「アタシみたいになるべきじゃない。お前みたいなのに騙されるべきじゃない」


 海賊になった少女は、自由になるために戦った。奪って、恋をした。

 仲間ができた。護るものができた。権力を持った。権力と争って、負けた。

 得たものは私掠船団船長。大海賊マーム・ベアトリスの称号。

 失ったものは――自由。


「悪党になってでも、自由にやるべきなのさ!」

「そんな理屈が……!」


 ヨハンは同じ人を知っている。

 自由に生きようとした、世界を見ようとした。

 仲間ができた。人々の期待を背負った。

 そこに自由はなかった。

 これはその少女だった老人の最期の航海だ。

 そして神を気取った愚かな男の、後悔を拭う戦いだ。

 カトラスを構える。

 二人は大雨の中、互いを睨みつけて対峙する。

 海賊は大半が打ち取られたか、降伏した。

 部下達の声がする。「船長、降伏してください!」と。

 そんな言葉は聞こえない。耳に届いても相手にしない。

 ベアトリスはこの海で最も自由な悪党だ。

 全ての立場を返上して、私掠船団を解体して、自分の命が尽きる前に。

 同じように鼻つまみ者だった連中だけを部下に。未知に命を賭けられる大馬鹿だけを連れて、旅をしてきた。


「あの子はね、アタシの若い頃にそっくりなんだ。純真で真っ直ぐで、自分の気持ちに嘘がつけない。嘘をつくのが何よりも苦しいんだ。そのうちに我慢できなくなって爆発しちまうよ」

「……だから、カナタを悪党にすると? そんな押しつけが通ると思うな」

「通る通らないじゃないよ。アタシはね、悪党で婆なんだ。受け入れようが入れまいが、勝手に世話焼くよ。そう言うもんさ。相手の感情なんか知るか。アタシが、そうしたいからするのさ」

「……そうか。マーム・ベアトリス」


 ざあざあと雨が降る。

 航海するには最悪の日だ。船は揺れるから酔いは酷いし、魚もろくに獲れやしない。

 馬鹿共はこんな日でも酒を飲んで酔っ払って吐き散らすし、海に落ちる大馬鹿だっていやがる。


「あんたに感謝する」

「首を刎ねられても同じことが言えるかね?」


 神の座を降りた青年には必要なものがある。

 英雄なんかではない。感情のままに行動して、時には失敗して泣きついて来て、そして時には――。

 何の根拠もなく、それでも信頼してくれて、背中を押してくれるカナタが必要だ。少なくとももうしばらくは。


「あいつは連れて帰る」

「理由を言えよ、何でもいい。愛してるからでも、利用したいからでも、お前の心の中を語れ。別に言われても納得はしないが、そっちの方が盛り上がるだろ?」

「目指すものがある。語るも恥ずかしい、子供の理想にも劣る馬鹿げた世界だ」


 彼女は言った。

 この世界に来て、よかったと思おうと。

 それをそのまま受け継げるほどに、ヨハンは純粋ではない。

 だが、それでも。

 その言葉の欠片を集めて、出会った人の言葉を受けて、そして目指した場所ができた。


「エトランゼも、そうでない者も。前を向いて生きることができる世界だ」

「……身体が痒くなるような話だね」

「自分で語れと言ったんだろう。それをあいつに見てほしい。それだけだ」


 そこに、労いの一言でもあればそれでいい。

 手伝ってくれとも言わない。その目指すものがカナタにとって肯定しうるものであるかも判らない。

 だが、それは。

 具体的な理由は判らないが。

 確かに、ヨハンの原動力となる。


「そうかい」


 二人が交差する。

 カトラスがヨハンの首を狙って突きだされる。

 ショートバレルの身体でそれを受けて、銃口をベアトリスに突きつけて、弾丸を放った。


「ぐっ……! おおぉぉぉぉぉぉぉおおお!」


 弾は彼女の身体を貫通したというのに、血を吐きだしながらもその動きが止まることはない。

 カトラスが、ショートバレルを打ち据えて拉げさせる。もう発砲はできそうにない。

 ショートバレルを投げ捨てた。

 ベアトリスは油断せず、ヨハンが袖を振ってアイテムを取り出そうとしたのも見逃すことはない。

 得意の飛び道具は、手から離れる前に打ち落としてやる。近距離で斬りあうなら、傷ついていてもベアトリスに利がある。


「終わりだよ、小僧!」


 ヨハンが取り出したのは、小さな短剣。

 白い刀身の、刃の部分に文字が掘られたそれは、恐らくは投擲用の武器だろう。

 そう判断したベアトリスは容赦なくカトラスをその腕に振り下ろす。

 例えそれで受け止めようと、態勢を崩したヨハンに勝ち目はない。

 そう、判断した。


「いや」

 短剣の刀身が光を放つ。

 それは、聖別騎士と呼ばれる神の加護を受けた鎧から削りだされた金属の欠片で作られた短剣。

 御使いの力を源流とするそれを利用した金属は、セレスティアルによく似た薄い光を発して、圧倒的な防御力を得ていた。

 それを攻撃に、カナタがやっているように剣のような形を発生させるように転用した。

 薄い、カナタの出力の半分以下の疑似セレスティアルとでも呼ぶべき代物。

 展開時間は五秒程度。


 それでも、ベアトリスのカトラスを受け止めて、そのまま刃の部分を断ち切るには充分な切れ味を持っていた。

「なぁ……!」

「俺の勝ちだ。大海賊。海のルールに従い、カナタはいただいていく」


 熱が入ってこんな物言いをするなど、らしくはない。

 そんなことを思いながら、ヨハンはそのセレスティアルの刃を振り抜き、ベアトリスの首もとにそれを向けた。
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