さくらの剣

葉月麗雄

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最終章

最終回 はなびらひとひら

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夢幻との戦いのダメージから眠り続けていた泉凪が唐突に目を覚ました。

「桜。。」

目を覚ますなりいきなり起きあがろうとする泉凪を世話役の女中が止める。

「泉凪様、まだ起きてはなりません。お身体にさわります」

「桜は。。桜はどうした?」

「桜様はいつものように見廻りに出ています。じきに戻られるでしょう」

「。。嫌な予感がする。桜が無事か見に行ってくれないか?」

泉凪の申し出に女中は困惑していたが、そこに左近が入ってきた。

「桜がどうかしたの?」

「左近さん、気のせいかも知れないけど嫌な予感がするんです。桜の様子を見に行って下さい。お願いします」

嫌な予感と聞いて左近にも不安がよぎった。
左近も感じていた嫌な予感。

「わかりました。様子を見てきます」

左近は急ぎ部屋を出た。

⭐︎⭐︎⭐︎

「う。ああ。。」

激痛に顔を歪ませる桜。
右腕は切れた腱と折れた骨に加えて筋肉が裂けて血まみれになっていた。
度重なる桜流抜刀術の酷使により身体に限界が近づいていたところに、この五連続の技の発動で筋肉と骨が負荷に耐えきれず、右腕の骨が折れ、腱は切れてしまっていた。

〔右手が動かない。。〕

一方で斬られた養源斎は連撃による深手を追いながらもなお立ち上がる。
真っ向斬りまで食らわなかった事と桜の技に本来の威力がなかったため、辛うじて致命傷を免れたのだ。

「ほう、右腕が使えなくなったか。最後の最後に天は我に味方したようだな」

桜は激痛を堪えて左手で長刀を拾うと居合い抜きの構えを取る。

「笑止。左手の居合い抜きなど聞いた事もないわ。愚か者め」

養源斎はそう言うと剣を上段に構える。
互いに次の一撃が最後になる。
養源斎が桜にとどめを刺そうと一気に間合いを詰め寄る。

「最後に勝つのはわしだ!」

養源斎の最終技が放たれる。

「秘剣六乃型玲瓏(ひけんろくのがたれいりょう)」

それは養源斎が最後の局面まで温存しておいた居合い抜きによる剣撃であった。
恐るべき高速の剣が桜の首筋を斬り落とすと思われたその刹那、桜の左腕から抜刀術が放たれる。

「桜流抜刀術刹那夢(さくらりゅうばっとうじゅつせつなのゆめ)」

桜が放ったそれは超神速と恐れられた右の居合い抜きを凌駕する抜刀であった。
先に発動された養源斎の居合い抜きよりも速く相手の身体を捉えるほどの。

「な。。」

気がついた時には養源斎は胴体を逆袈裟斬りで斬られていた。
それはまるで夢の如く、養源斎にはその光景がゆっくりと時の流れが止まったかのように見え、やがて現実に帰り自分が斬られたという状況を把握するとその場に倒れ息絶えた。

「私は元々左利きなんだ。左で刀を持ったら右を遥かに凌駕する速度と威力の剣が放てる」

桜の脳裏にふと師匠美村紗希の顔が浮かんできた。

〔思った通りだ。お前は左手で抜刀する方が右よりさらに速い。その抜刀はいずれどこかでお前の命を救う事になるかも知れぬ。追い詰められて絶体絶命の状況に陥った時とかな〕

「紗希さん、ありがとうございます。紗希さんのおかげで絶体絶命の窮地を免れました。。」

桜は養源斎を倒したのを確認すると、その場に倒れ意識を失った。



「桜。。どこ?どこにいる?」

先程から胸騒ぎが止まない左近は大奥内のあらゆる部屋を探し回った。
そして書庫の前に来た時、扉の鍵が外されている事に気がついた。

「桜。。」

扉を開けて中に入った左近はおびただしい血の匂いに驚く。
そして倒れている二人を発見したが、あまりの惨状に声を失った。

「これは一体。。桜、その腕は。。」

あらぬ方向に折れ曲がり、血だらけの桜の右腕を見て左近はあの時感じた嫌な予感はこれだったのかと思い起こすが、今はそれどころではない。
すぐに源心と医師呼び、応急手当を頼み小石川養生所へ運んだ。

⭐︎⭐︎⭐︎

「。。桜」

「。。姉さん?」

「良かった。目が覚めたんだね」

「ここは?」

「小石川養生所だよ。あなたはあの戦いの後三日間ずっと眠ったままだったんだよ」

「三日間も。。」

桜は起き上がるが、腕と身体の痛みに耐え切れず、また倒れてしまう。

「桜、無理だ。しばらく安静にしていろ」

声を掛けた養生所の医師、榊原彩雲に桜は問いかける。

「彩雲先生、私また剣を使えるんですか?この怪我が治ったら御庭番として働けるのですか?」

桜の問いに彩雲は口籠もり、左近と源心もうつむいて黙ったままである。
その重い空気を振り払うように彩雲が口を開く。

「桜、この際だからはっきり言っておく。お前の右腕はもう桜流抜刀術はおろか剣を持つ事すら叶わぬ。残念だが御庭番の任も無理であろう」

「。。そうですか」

「いつかこうなる事はわかっていたであろう。その時が来てしまったという事だ。忠相から上様にはすでに申し伝えているそうだ。お前の身体が回復次第、江戸城にて上様からのお達しが下るであろう」

覚悟は出来ていたつもりだった。
でもいざ、そうなってみるとやはり気持ちは微妙だ。

〔紀州から出てきてたった一年弱でこうなるなんて。二十代前半まで大丈夫だろうなんて甘い見立てもいいところだった。私はどれだけ上様のお役に立てたのだろうか。。〕

三日月党を倒したが、その代償はあまりにも大きかった。
桜の右腕はもはや剣を持つのはおろか、動かす事も出来なくなってしまったのだ。

⭐︎⭐︎⭐︎

鬼頭泉凪はゆっくりと部屋に入ると大奥御年寄、宮守志信の前に立つ。

「無礼者!別式如きが妾の部屋に勝手に上がり込むとは。早々に立ち去れい!」

宮守が声を張り上げるが、泉凪は一歩も引かない。

「宮守志信。三日月党を使い月光院様、天英院様のお命を奪おうとした一件は既に上様のお耳にも届いている。追って沙汰があるだろう。それまで謹慎を申し付ける」

この泉凪の言葉で宮守志信は養源斎も敗れ去り、三日月党が全滅した事を悟った。

「お前如きの命令は受けぬ」

宮守の抵抗に泉凪が睨みつけると月光院が現れる。

「宮守、そなたが私の命を狙っておったのは検討がついていたが、三日月党まで使うとは。すでに罪状は明白となっている。泉凪が申したように追って厳しい沙汰があるであろう。覚悟しておくのじゃな」

月光院の言葉を聞き終えると宮守は突然笑い出した。

「ふふふ。。ははは。。妾の負けじゃ。だが、このままお前たちに囚われて極刑になどならぬ。このような事もあろうかと養源斎に作らせたものじゃ」

宮守志信は立ち上がると隠し持っていた火薬玉を取り出した。
泉凪は刀の鯉口に手をやり、いつでも刀が抜けるよう構える。

「月光院、お前を見くびっておった事が今日の敗北の原因。江島と一緒にお前も始末しておくべきであった」

宮守志信はそれだけ言うと火薬玉を破裂させ自らの身体に火をつけた。

「お前たちは妾を捕らえることは出来ぬ」

「月光院様、奴は囚われるのを嫌って自害するつもりです」

「泉凪、無理せず離れなさい」

「くそ。。」

炎が宮守の身体を包んでいく。

「ほーほほほ。はーはは。。」

高らかな笑い声が炎にかき消されていく。

「大奥の生んだ怨念の炎か。。」

泉凪がそう呟くと女中たちが木桶に水を汲んで火を消しにかかる。

「月光院様、泉凪様。ここは危のうございます。安全な場所へ避難して下さい」

その声に泉凪が素早く反応する。

「月光院様、急いで」

泉凪に誘導され月光院は避難のために部屋を後にした。
火は十分ほどで消し止められ、その後宮守志信の遺体も葬られた。

「宮守志信。復讐と権力闘争に生涯を掛けたか。。お前は本当にそれで良かったのか?他の生き方はなかったのか?」

月光院は何ともやりきれない気持ちであった。

「後味は良くありませんでしたが、これでこの一件は終わりです。月光院様、天英院様のお命を狙う者はいなくなりました。大奥に平穏が戻るでしょう」

「。。そうじゃな」

泉凪の言葉に月光院はそう返事をするに留めた。

大奥御年寄宮守志信の死が江戸城内に知らされたのはそれから数日後の事であった。
この一件は大岡越前の計らいにより事は公にはされず、宮守志信は病死として発表されたため、京の宮守家と小田原の秋津家にお咎めが降る事は無かった。


事件の終結を聞き、天英院は安堵の表情を浮かべた。

「宮守志信が徳川の転覆と共に妾と月光院の命を十年前に奪っていたら、今頃大奥も表も彼奴の思い通りの世になっており、今日の日を迎える事はなかったであろう。だがのう、錦小路。宮守志信は滝田春子の孫。孫は孫であって春子本人ではないと言う事じゃ」

天英院の言っている事を錦小路は理解出来ず、次の言葉を待つ。

「春子本人は孝子様に仕えて目の前でその不幸を見ていたから恨みや復讐心が出てこよう。しかしその子や孫はどうじゃ?直接見たわけではない。あくまで話しに聞いているだけじゃ。

志信にせよ、初めは忠実に徳川に復讐を晴らそうとしていたとしても、大奥で出世していき、最高位である御年寄の地位が手に届くところまで来たら、見た事もない人物の復讐よりも己の出世を優先させるのは当然と言える」

「なるほど、わかる気が致します」

「ゆえに当初の目的から大きく逸れたと言う事であろう。無論、妾とてそれを最初からわかっていた訳ではない。こうして一件落着してみて今にして思えばと気づいたのじゃ。妾がもう少し早く気づいておればこのような大事にならずに済んだのじゃが。。」

「天英院様、過ぎた事でございます。あまりご自分をお責めになさいませぬように」

錦小路に諫められ、天英院は「そうじゃな」とため息を一つ漏らすと微笑みを浮かべる。

「宮守が出世に目が眩んだおかげで我らには猶予が出来た。新しい若い力が育つ猶予が。じゃが、それは妾たちの時代が終わった事でもあるのう」

「はい、寂しくないと申し上げれば嘘になりますが、これも時代の流れというものでございましょう」

あとは吉宗を中心に新しい者たちが新しい時代を築いてくれよう。
激動の時代を生き抜いた天英院はそう思うのだった。

⭐︎⭐︎⭐︎

事件は一件落着し、月光院は泉凪に感謝の気持ちを伝えた。

「泉凪、ありがとう。何とお礼を申してよいか。お前にはどれほどの礼を言っても足らないほど感謝している」

「私如きに勿体ないお言葉。感謝致します」

「桜は本当に気の毒な事をしました。。小石川養生所の榊原彩雲から聞いた話では、もう右腕は動かないそうじゃ。刀を持つ事も御庭番を務める事も叶わぬであろうと。。私で出来る事があれば今後の彼女の支えになってやりたい」

「私が一緒に戦えたなら、いや、そもそも今回の一件を桜に協力を頼まなければこんな事になっていなかったのかと思うと悔やんでも悔やみきれません。。」

泉凪はぐっと拳を握りしめた。
自分がこの一件に協力を求めてしまった事と最後の戦いの時にその場にいて戦えたらという後悔だったが、もう起こってしまった事は変えようがなかった。

「私も江島の一件があるからお前の気持ちはよくわかる。たが、もう起こってしまった事なのじゃ。悔やむよりも桜のために何が出来るかを考えた方がよい」

「桜のために。。」

泉凪は考えたが、すぐに思い浮かんだ事は一つだけだった。

「これからは私が桜の右腕代わりになり、桜を守ります」

泉凪の言葉に月光院は笑みを浮かべる。

「私も出来る限りの事はするつもりじゃ。桜を助けてあげてくれ」

「はい!」

月光院は泉凪と話し終えると自分にもまだやるべき事があると座を立った。

「今回は天英院が影から色々と助けてくれたと聞いている。これより私は天英院の元に行って参る。長年対立していたと言われたが、町娘であった私と公家の天英院では壁があって当然。敷居が高くて近寄り難かったのは確かだが、これからはもう少し互いに歩みよれたらと思っている」



月光院が天英院の部屋に出向いたのはその日の午後であった。

「月光院殿、久しぶりじゃのう」

「天英院殿もご創建で何よりです」

「今日は如何様な用件で参ったのじゃ?」

天英院がそう言うと月光院は平伏した。

「月光院殿、何の真似じゃ?」

「天英院殿、この度は大変お手数をお掛け致し、私の命を守って下さったとの事。感謝致します」

「やめい。お主にそんな事されると何と申すか、こそばゆくて敵わぬわ」

「私とて感謝の気持ちは持っております。本当にありがとうございました。思えば我らは長年に渡り互いに敬遠しあっておりましたが、これからは少しずつでも歩み寄り、この大奥をより良くしていこうと思っております。

我らが長年歪みあっていた結果、宮守のような怪物を、江島のような悲劇を生むような事になってしまったのです。もう二度と大奥にこのような悲劇を繰り返してはなりません。少なくとも我らが生きている間には」

「月光院。。」

「時代は変わりました。吉宗殿が八代将軍になり、徳川家も大奥も大きな変革の時を迎えたのです。私たちはすでに出家した身。いつまでもここにいては若い者たちが動きづらいでしょう」

月光院の言う事が天英院にもよくわかっていた。
二人が大奥本丸を出る時が来たと言う事である。

「もう良い。。そなたの申す通りじゃ。妾も同じ事をずっと考えていた。さあ、頭を上げられよ」

天英院は月光院に近寄り、肩を軽く叩いて微笑む。

「本来なら妾から言うべき事をそなたに言わせてしまったのう。。月光院殿、これからは互いに交流してこれまでの時間を少しでも取り返すべく親交していきたい。よろしく頼む」

「こちらこそ。互いに協力してこの大奥と徳川家を守りましょう」

天英院と月光院は握手して互いに協力を誓いあった。
この日以降二人は尊重し合い、互いを招待してのお茶会なども設けて友情を築いていった。

月光院が吹上御殿に、天英院が二の丸に移ったのは共にその年の暮れであった。

⭐︎⭐︎⭐︎

それから一ヶ月後。
桜の怪我が回復して江戸城にて桜、左近、源心の三人は将軍吉宗と謁見した。
桜はまだ痛々しく右腕を三角巾で吊るしている。

「桜、忠相と彩雲から話は聞いた。どうしてそんな身体になるまで余に黙っていたのだ」

吉宗の怒りの声に桜は平伏して答える。

「上様、私は上様のお陰で今日まで生きて来られました。そのご恩を少しでもお返しするためにお側でお役に立ちたかったのです。。」

「このたわけ者が。そんな事をして余が喜ぶと思ったか。お前が一日でも長く御庭番を務めて無事な身体のまま一線を退く。それが余の望んでいた事なのだぞ」

「上様。。」

「松平桜、本日付けで御庭番の任を解く」

「上様、何卒。何卒それだけはお許し下さい。桜の身体が元に戻れば剣は無理でも諜報員として働く事が出来ます」

「私からもお願い申し上げます。何卒ご慈悲を」

左近と源心も平伏して吉宗に懇願するが、吉宗は二人にも声を荒げる。

「甘いぞ左近、源心。剣の持てない御庭番が、いざという時に己の身を守れるか。そんな生優しい世界でないことはお前たちが一番よく知っているであろう」

吉宗の言葉に左近も源心も反論出来ない。
桜はこの日が来る事を覚悟していたが、やはり吉宗の側から離れるのは辛く悲しかった。
平伏し、涙を流しながら吉宗にこれまでのお礼を述べた。

「上様、紀州より今日まで大変お世話になりました。このご恩は生涯忘れません。ありがとうございました。。」

桜はそれだけ吉宗に伝えると、部屋を退出しようと立ち上がった。

〔これからどうしよう。。右腕が使えないんじゃ源心の店でも働けないし。紀州に帰って紗希さんに相談してみようかな。。〕

桜がそんな事を考えて歩き出そうとすると、吉宗から「待て」の声がかかり立ち止まって振り返る。

「桜。余の養女となるがいい」

「え?いま何と?」

「余の養女になれと言った」

それを聞いた桜は再びその場に平伏して吉宗からの申し出に困惑しながら答える。

「上様。。私は貧しい農民の子供でございます。畏れ多くも上様の養女など務まりません」

「余も湯殿番だった母の子だ。生まれなどどうでもよい。ようはどう生きて何を成したかなのだ。そんな身体になるまで戦ってくれたお前を余が感謝の一つもせずにこの江戸城から追い出すと思うたか?」

「上様。。」

「お前は余の養女として今後はこの江戸城内で暮らすが良い」

「本当によろしいのですか?」

「こんな事で失った右腕の代償にはならないと思うが、お前の功労に余はこれくらいしかしてやれぬ。すまぬな」

「いいえ。。ありがたき幸せでございます」

桜は深々と平伏し、畏れ多いながらも吉宗の申し出を受ける事となった。

⭐︎⭐︎⭐︎

享保九年〔一七二四年〕十月十五日。
桜はこの日より「松平桜」から「徳川桜」となり、桜姫と呼ばれるようになった。

「義理父上(おとうさま)に一つお願いがございます」

「何なりと申してみよ」

「気分転換でたまには街に出歩きたいと思いまして。。お忍びで街に出歩く事をお許し頂けますか?」

「ははは。桜らしいな。それくらいは認めてやろう。ただし御庭番の時のような事はするでないぞ。左近、お前は今後は桜付きの御庭番として仕えるがいい。このじゃじゃ馬が羽目を外さぬよう、よく見張っておいてくれ」

「はっ!」

左近は吉宗の命により、桜姫付きの御庭番となった。

吉宗は桜姫のために江戸城内に桜御殿を建造し、桜は左近と共に桜御殿へ居住する事となった。
庭園には桜の木が植えられ、春には満開の桜が咲き、月光院や天英院たちを招待したお花見も開かれたという。

桜は右手がほとんど動かせなくなっていたが、元々左利きなのと左近を始めとするお付きの女中たちで補佐してくれたので、不自由を感じる事はなかった。

「桜姫様、素敵ですよ」

「姉さん。いつものように桜でいいよ」

「もうあなたは上様の養女桜姫。さすがにそうはいかないよ」

と言いながらも左近は悪戯っぽい笑顔を見せる。

「みんなの前ではね。こうして二人でいる時は今まで通り桜って呼ぶよ。お姫様からお許しが出た事だし」


桜の御庭番解任と左近の桜姫付きにより、御庭番は源心を長とする新しい組織体制に変わろうとしていた。
厳しい訓練を乗り越え、新たに御庭番に二人が加入したとの報告を受けると桜はにこりと笑ってこう答えた。

「演技を終えた役者は大人しく舞台から降りるのみ。私は自分の役目を終えた役者。後はみんなの舞台を袖から見させてもらうよ」

⭐︎⭐︎⭐︎

「。。そうか」

江戸からの報告を受けた美村紗希はそうひと言だけいってため息をつく。

「それだけ激しい戦いがあったという事か。予想よりもかなり早く身体に限界が来た。だが、これも覚悟の上だった事。桜、お前はやるべき事をやったんだ。後悔はねえんじゃねえか。にしても、あいつがお姫様とはな。の間違いじゃえねのか」

そう言って大笑いする紗希。

「これはいい。一度の顔でも拝みに江戸に行って見るか。右腕と引き換えに大奥と江戸を守り抜いたあいつに良くやったと褒めてやらねえとな」


桜姫となってからは吉宗の代参で大奥に出入りしたり、天英院、月光院への挨拶回りもあったが、その都度天英院からも月光院からも手厚いもてなしを受けた。

「桜、何が不自由な事があったらいつでも遠慮なく申しておくれ。私はそなたに命を助けられたのじゃ」

「月光院様、お気遣いありがとうございます。みんなが世話してくれるので不自由なく生活出来ております。むしろ御庭番だった時よりも楽でございます」

桜は冗談のつもりで言ったのだが、月光院も泉凪も笑っていいのかわからず戸惑い気味の表情であった。

〔しまった。笑いを誘うつもりで言ったのに引いちゃった。。〕

桜が気まずそうにしていると、それを察したのか月光院が話題を変えてくれた。

「私が以前に申した通り、そなたは姫になっても申し分ない容姿じゃ」

月光院の言葉に吹上御殿でも別式として月光院を守る任に付いた泉凪は桜を見てため息をつく。

「桜は町娘でもお姫様でも似合うからいいよね。私は武士以外の姿になれないや。ただでさえ男っぽいって言われてるのに」

「泉凪だってそれなりに化粧と着こなしすればいい顔立ちしているんだからさ」

「本当に?」

「本当だよ、ですよね?月光院様」

「そうじゃのう。いっそ泉凪も大奥に入ったらどうじゃ?」

「え?いえ。。私は大奥の女同士の争いは苦手でして。。とても務まりません」

慌てて拒絶する泉凪を見て笑う桜と月光院だった。

天英院も姫となった桜の気品と容姿を褒め称えた。

「そなたは妾が思っていた通り、大奥に入っても御台になれるだけの容姿と教養を持っておる。義理の姉弟でなければ長福丸〔後の九代将軍家重〕の御台にしたいくらいじゃ」

それを聞いた錦小路が「天英院様はまるで桜の母親のようでございますな」と言い笑いを誘う。

「桜。この度のそなたの働き、妾は感謝してもしきれぬ。その右腕は本当にすまない事をした。妾も残り少ない人生であろうが、そなたのために出来る事は労を惜しまぬ。困った事があれば何でも言ってくるがよい」

「天英院様、ありがたきお言葉を賜り感激しておりますが、私は後悔はしておりません。どうかお身体にお気をつけていつまでもお元気でお過ごしください」

「お前に元気付けられると、長生きしそうな気がするのう」

天英院はその後一七四一年、七十六歳まで生きた。
後年は桜を孫のように可愛がったという。

⭐︎⭐︎⭐︎

「泉凪、たまには外に出てお団子でも食べに行かない?」

「いいのか?いくら上様からお許しが出てると言っても。。」

「町娘の姿で源心のお店に行くから大丈夫だよ」

「それにしても御庭番だった時は情け容赦なく敵を斬りつける桜がお姫様になったらこんなにおしとやかになるんだからな。やっぱり姿格好って大事なのかな?」

「何か言った?」

「いや、何も。。」

まずは形からとはよく言うが、桜もお姫様の着物を着た事により、吉宗の養女で徳川の姫となった自覚が出てきたのかなと思う泉凪であった。

〔お姫様になった気持ちってのは私にはわからないけどさ。。〕

お姫様になっても桜はやっぱり甘い物が大好きで街の甘味処は外せなかった。

「いらっしゃいませ姫君」

「源心まで姫とか呼ばないで。町娘でいる時は普通に桜でいいよ」

源心のお店で甘味を食べた後は泉凪の鬼頭道場に立ち寄り、門下生たちに稽古を付けるのが一連の流れであった。

「さよちゃん。遠慮はいらないよ。思い切り打って来て」

「はい!」

桜は右手が動かないため左手で竹刀を構え、さよを始めとする門下生たちと試合をおこなうが、片手の桜から一本取れた門下生はいなかったという。

エピローグ

道場帰り、夕暮れの江戸の町に立つ一人の女武士。
懐かしい、忘れるはずもないその姿。

「よお!」

「紗希さん。。」

紀州時代に自分に剣術を教えてくれ、「桜流抜刀術」を授けてくれた師匠、美村紗希。

「お前が守ったこの町、見せてもらったぜ。なかなかいい町じゃねえか」

「来てくれるなら手紙をくれれば迎えにいったのに」

「いきなり行って脅かしてやろうと思ってな」

紗希はそう言いながら桜の右腕を見る。

「その右腕、もう動かないのか?」

「はい。江戸に来てから激しい戦いが続いて思ってたよりも早く身体に限界が来てしまいました」

「剣を学んだ事、桜流抜刀術を使った事を後悔してるか?」

紗希の言葉に桜は首を横に振る。

「いいえ。たとえどんな結果になろうとも、私が選んだ事。後悔などしてません。それに。。失ったものよりこれから先、得るものの方がはるかに大きいと思うんです。まだ十六歳だし、人生楽しいのはこれから!ですよね」

桜の言葉を聞いて紗希は優しく微笑む。

「何より命があって良かったじゃねえか。生きてりゃ何だって出来るぜ。生きている価値ってのはな、何かを成し遂げたりする事だけじゃねえ。生きている事自体が生きている価値なんだ」

「はい!」

「それにしてもお前がとはなぁ、どんな姿が見たくて来てやったぞ」

「おしめじゃない!いつまでも子供扱いしないで下さい」

「私から見りゃまだお前はガキンチョだよ」

「それは紗希さんがお母さんくらい歳上だから。。」

そう言った桜の首を腕で締め上げる。

「誰がお母さんだって?お姉さんだろ」

「お姉さんって歳の差じゃないでしょ。。」

桜がそう言うと紗希は桜の身体を抱きしめる。

「桜、良くやったな」

「紗希さん?。。」

初めて紗希が抱きしめて褒めてくれた。

「紗希さんの教えがあって、私はここまで来る事が出来ました。ありがとうございました」

「ひとえに私の教え方が良かったって事だな」

「そう言う事にしておきます。さあ、私が案内しますので江戸城に行きましょう。上様や加納様たちもきっと歓迎してくれますよ」

二人は笑いながら江戸の町を歩いていった。


時は享保。
徳川幕府中興の祖、八代将軍吉宗の時代に最強と言われた御庭番が存在した。
人々は彼女をまるでその名の如く華やかに咲いて散っていく桜のようであったと後世に語り継いでいくのだった。

さくらの剣 ー完ー
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