蛇逃の滝

九影歌介

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第一章 


 普段、人の通ることなどないその林道は、まだところどころに残雪を残していた。
そこを、黒着物を翻しながら懸命に駆けていく小柄な青年がいる。色の白い肌に、薄い眉とどんぐりのような、だが目尻だけ吊り上った眼に、低めの鼻、赤子のように潤った小さな口が整った形でついている。人間だ、と一瞬思うが、耳は人のそれとは少し違う形をしている。どうやら人間ではない。
紅に色づく唇、そこに噛んでいる髪は漆黒の輝きを放っていた。その唇の隙間から、白い息を吐きながら彼は走っている。
風のように速く、動きは猫のようにしなやかだった。いや、彼は本当に猫なのかもしれない。その証拠に、人の姿をしていながら黒く長い尾を尻に生やしている。
彼は、猫なのか人なのか。
不意に、小柄な男は、素早い身のこなしで木の上に跳びあがった。枝から枝へと飛び移りつつ、後ろを振り返り気にしているようす。どうやら、追われているようだ。
だが、何に。誰に。

半助は、ふとどうして自分は走っているのだろうと思った。
半助。それが、彼の名であった。
懐にある、固くて丸いもの。温もりのある、毛玉のような手触り。
これは――。 
半助は思い出した。そうだ、自分がこれを持ち出したのだ。なんと、畏れ多いこと。だが、それが自分の使命であるならばやりとげねばならない。これを狙っているものたちから守らねばならない。  
半助は半刻ほど前から追われている気配に気づき、走り出した。
そのことを忘れていた。
なんで走っているのかわからなかった。
混乱しているからといえ、記憶があいまいになりすぎている。不自然なほどに。だが半助はそれを動揺のせいだと片付けた。
ただ、ここに抱えているもの。それが、自分の命よりも大切なものであることは片時も忘れてはいない。
林を抜けた。
木から飛び降りて、身を隠すものが何一つない心細さの中を駆けた。意識が朦朧としている。今、己が起きているのか眠っているのかさえ定かでない状態だった。
半助は、躓いた。走っていた勢いが余って、転がった。何回か湿った地面に背中をつけて、泥まみれになりながら彼は立ち上がった。と、同時に後ろへ跳ねあがった。足下に黄色に光る鞭が振り下ろされて、土を削った。それは、半助を追うようにして、次々に地面を粉々にしていく。その度にビリビリと空気が震えて痺れるようだった。
相手は雷術を使うようだ。
だが、の鞭だけが遠くから伸びてきて敵の姿はまだ見えない。これなら逃げ切れるかもしれない。
半助は、羽織を脱ぎつつ髪の毛を一本その襟に仕込んで移し身のを唱えた。土埃を舞わせながら振り向いて、腰に帯びていた刀剣を抜いて印を結んだ。たちまち、半助の手から羽織が離れ、意思を持ったように立ち上がり半助から剣を受け取った。
式神が宿ったのだ。まだ見えぬ敵を迎え討とうとする羽織の姿は、小さな子供が剣を構えているように見えて、だが半助にはこの上なく頼もしい。
「気を付けてな」
 半助が言うと、式神はうんざりしたように襟元を歪めて振り返り、速く行けと言わんばかりに袖を振った。
 半助は式神にまでも馬鹿にされている己に苦笑して、踵を返した。
それから、追っ手の来る気配はなかった。式神が阻んでくれているに違いない。
半助は少し安心して、速度を緩めた。小走りに駆けながら、辺りを覗う余裕ができた。だだっ広い、何もない場所だった。いつの間にか、雪が濃くなっている。足下を見れば、うっすらとだが雪が積もっていた。
そのとき、ひらひらと目の前を舞い落ちる一片の白さに驚いて空を見上げると、なんと雪が次々に降り注いでくるではないか。
もう、雪の季節はとっくに終わったはずであるのに。そういえば、どうしてこんなに寒いのだろう。
この時初めて、半助は己のいる場所がまったく知らぬところであることに気が付いた。
 道を知らない、という程度のことでは済まない。己の知っている空気とは違う空気が、そこには流れている気がした。
 ここは、どこだ――。どうしてここへ来たものか。
 茫漠とした思いにかられている半助の足下には、普通では考えられぬほどの速さで雪が積もってゆく。既に、膝までが埋まっていた。
 慌てて足を雪から引き抜いたところへ、気配がした。
 半助がはっとして前方のそれへ顔を向けると、一匹の貉がいた。
 獣かか。
 ニタリ、と笑ったところを見ると、どうやら怪妖だ。
「お前さまが様の使いですな」
 貉の怪妖は、言いながら人の形へと変化した。
「そう警戒せずともよろしい。わたしも同じく西狐様の使いでございますゆえ」
 貉は楕円の目を細めて笑った。灰色の長髪を背に流しながら、袍の裾を引きずりつつこちらへ歩んでくる。その黒地の袍を身に着けられる者は、神官たる証。
 半助は安堵して、表情を緩ませた。
「よかった。無礼を、お許しください。今まで、追われておりましたのでつい……」言いかけて、半助ははっと後ろを振り返った。と、同時に素早く刀の鞘尻に手を伸ばして、仕込んであった丸薬を襲いかかってきた敵の眼前で弾けさせた。
「ぐあっ」と、大柄な男は低い呻き声と共にたちまち仰向けに倒れた。痺れ薬と眠り薬を混ぜたものであるから心配ない。男の顔を覗き込んでみるが、見覚えはなかった。
「危ないところでありましたな」
 貉の怪妖が半助の隣に並んで立ち、忌々しげに倒れた大男を見下ろした。それから、半助を横目に見て言った。
「意外にも、腕が立つのですね」物言いは丁寧だが、視線には冷たいものを感じた。
「いえ、そのようなことは。咄嗟に身体が動いたまでです」
 半助が答えると、
「さすがは神官だ」
 貉は慇懃に片膝をついて、半助を見上げた。くぼんだ目から放たれる眼光は、穴倉のようにほの暗く、その視線はなんだかない面までもを盗み見られているような居心地の悪いものだった。
「さて、神官さま。例の物を、渡して頂けますか」
 貉は、恭しく手の平を差し出した。
「わたしは山王様の下へ、お前さまの持ちだした玉をお持ちする役目を言い使っております」
 半助は、ためらった。臆病ではあるが、大事なものをおいそれと渡してしまうほど半助は馬鹿ではない。
 雪から足を引き抜き、あとじさりつつ訊ねた。息が白い。手が凍る。酷く寒かった。
「そうは言われましても、何か証になるようなものをお見せ頂かなければ、これをお渡しすることはできませぬ」
 半助は探るつもりでそう言ったが、貉は一向に怯まなかった。
「すまないが、わたしは密使。身分の明らかになるようなものを持ち合わせているはずもなかろう。だが考えてもみてほしい。西狐様の声を聞いてお前さまはソレを持って逃げてきたのだろう? 西狐様は秘密裏に宝生の玉を山王様へお渡ししたいのだ。ならば、そのことを知っている者が他にいようかね。そのようなしくじりを西狐様がするはずもない。だとすれば、この場にて密使を名乗る者が敵であるはずもない。違うだろうか」
 貉の言っていることも一理あるようなないような。
確かに、半助は声を聞いた。あの声は、半助の頭の中に聞こえてきたもののようで、側にいた者もその声には気づいていなかった。 
もしあの声が西狐様のものだとしたら、確かにこの玉を持ちだすことを知っているのは半助と、その仲間だけということになる。が、
「この男は、わたしが玉を持っていると知って追ってきたようですが……」
 貉は一瞬顔をしかめて、伸びている大男を見下ろした。そのときにはもう無表情に戻っていた。
「こやつは――」言いさして、貉は半助を覗うように見、はっと目を見開いた。
「お前、半妖か」
急に指差すように言われた。貉の視線が半助の耳に注がれている。半助の耳は人間のそれと違う。顔の横についてはいるが、人間の
普通湾曲な部分が天に向かって尖っているのだ。
貉は半助を嘗め回すような目で見るなり、忌々しげに言った。
「半妖ごときが神官になれるとは。西はどうなっておる」
 と、突然半助は前のめりに崩れた。首から下げていた首飾りがいきなり鉛のような重さになったのだ。
そして、声がした。
「逃げよ」
 あの声と同じだった。半助に密命を言い渡した、あの声と。
「おい、起きぬか。いつまで寝ているでくの坊」
 貉は大男を蹴るなり、腰帯を外して手に構えた。瞬時にそれは黄色に光り、ビリビリと空気を痺れさせながら大男を打った。
 大男は飛び起きて、あたりをきょろきょろ見回す。
 半助は、走り出していた。化けの皮のはがれた貉にこれ以上用はない。逃げ足だけには自信があった。だが――、
「逃がすか!」
 貉の声が聞こえたかと思うと、半助の脚は空をきっていた。末端に激しい痛みが走る。尻尾を物凄い力で引っ張り上げられたのだ。
尾を握りつぶされるあまりの痛みに意識が朦朧とする。それでも、守るべき大切なものは懐に抱えて離すつもりはなかった。半助は大貉に尻尾を摘ままれたまま反転して、爪をたてて大男の顔を引掻いた。その顔は、貉に変化している。こやつも貉の怪妖であったのか。
「ぎゃっ」大貉が半助の攻撃に怯んで手を離した。その隙に半助は着地して、脱兎のごとく駆けだした。
「ばかもん。何やってる!」
 小貉のほうは叱咤しながらも既に半助を追いにかかってきている。向こうは四足。こちらも変化すれば四足にはなれるものの体格差がありすぎる。人の姿は不利とて、ともかく今はこのまま走るしかない。
 風を切る音は耳に痛く、流れる景色は落下してゆくかのような速さで。だが貉の吐息がすぐに背後で聞こえる。貉の跳ぶ気配を感じた。
「狐火っ」
 振り向きざま焔をあげるも、小貉はもろともしないで炎の中から飛び出すや、ドンッと半助の胸を両前脚で突き飛ばした。倒れこむ瞬間、横合いから術をかけられた。それがなければまだなんとかできたものを。
半助は、仰向けに倒れたまま一指たりとも動かせなくなってしまっていた。
全身は痺れて感覚がない。だが開けた視界は眩しく、半助は目を細めた。そのまぶたを動かすごくわずかな労力さえ辛い。
空には曇天の空から、お日様が覗いていた。それを遮ったのは、雲か貉か。
「猫が狐の真似事とは滑稽だな」大貉の野太い笑い声が辺りに響く。
「笑っている場合ではない。術を使うなと言ったであろうが」小貉の鋭い叱責に大貉が肩をすくめる気配がした。
「だって、こいつ逃げ足が速いんだ。仕方ないだろ」
 小貉は嘆息したようだった。半助には既にその輪郭もおぼろげにしか見えていない。
半助の懐に伸びてきた黒毛むくじゃらな腕はどちらのものか、わからなかった。ただ、大事な物は奪われたのだと、そのことは否応なくわかった。
「なあこいつ、喰っていいか」大貉の声だ。
「よせ。禁忌の子など喰らえば何が起こるかわからんぞ」
 内心苦笑する。こんなところでまで半妖は嫌厭されるのか。
「それよりも、早くここを立ち去ったほうが良い。術の軌跡を追われたら厄介だ」
「こいつはどうする」
「放っておけ。どうせこのままのたれ死ぬであろう。このような墓場にはだれも来ぬからな」
「仲間が見つけてもいいのか」
 小貉は笑ったようだった。
「もはやこいつに仲間などいない。それに、こいつは何も覚えちゃいないさ」
「それもそうか」
 二匹の貉はクスクスと笑いながら、その場を去ったようだった。
 途端に静けさが、半助の心を不安にさせた。茫漠の雪原へ寝そべる彼の、視界は薄暗い。だのに、雲間から覗く日差しは酷く眩しくて、同時に背は冷たい。
今の半助にわかることは、それだけであった。
 西狐さま――。
 つつと、こめかみを伝う冷たいものは涙なのか。自分に泣く権利などないのに。けれど、それはとめどない。
 すべてを失ってしまった。やっと手に入れた、大切なものをすべて……。
 涙だけが今、皮肉にも温かかった。
 蝋燭の灯が消えていくかのように、静かに、ゆるやかに、彼は意識を失っていった。
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