蛇逃の滝

九影歌介

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 目を覚ますと、酷い気分だった。
 身体が重いし、頭は殴打されているように痛む。一瞬そこがどこだかわからない。まだ、昼間助けられた民家にいるようだったが、辺りは明るい。随分長い間眠っていたような気がするが、さほど時がたっていなかったのか。
いや。半助は首飾りを手に取って、透明の青い玉に自らの顔を映し出してみた。更に、猫の血へ意識を集中して、瞳を覗きこむ。猫の目は時に時計がわりになるのだ。黒目が縦に細く変化した。
 ああ。
 半助は嘆息した。どうやら、一晩あかしてしまったらしい。すると明るいのは、朝だからだ。早く去れと言われていたのに、とんだ迷惑をかけてしまった。
焦り身を起こすも、耳元で鐘を叩かれているかのような耳鳴りがして動けなくなった。そのまま背を丸めてしばらく耐えていると、言い争うような声が遠くから聞こえてきた。
「私には許嫁がおるのですよ」
 彩の声だ。
「東狐さまの嫁になどいけませぬ」
 東狐? 半助は耳を澄ませた。ピンと、耳が張るのを感じる。
「娘、もったいないことを言うでない。人間ごときが狐の嫁になれるなど滅多にないことだぞ」
 こちらは聞いたことのない声だった。人間の言葉を使ってはいるが、しわがれた獣じみたこの声は恐らく怪妖のものだ。
「ですから、私には――」
「その許嫁がぬしを殿の嫁に献上致すと言うておるのだ」
 怪妖の声に、彩が黙った。
「まさか」という声は、絞り出すようにか細い。
「嘘よ。まさか、己之吉さまがそんなことを言うはずがない」
「ならば己で確かめるがよかろう。あやつは、ぬしを差し出す代わりに雨を降らせてやると言ったら悩みもせずにぬしを差し出したぞ」怪妖の声は面白がっているようだった。彩の息を呑む気配こそしたものの、声は聞こえない。言い返せぬほど傷つけられたのかと彩の心を思えば、声が聞こえないのが辛かった。
「村人も日照り続きで困っておろう。それを東狐様が助けて下さるとおっしゃっているのだ。ありがたく思えよ。婚姻の儀が整い次第、迎えにくる。それまでに必要なことは済ませておくがよかろう。東狐様の嫁となった暁には、ぬしは妖狐となり人里へ降りてくることは禁じられるゆえな」
 そこで会話は途絶え、怪妖の出ていく気配、それから、すすり泣きの声が聞こえてくる。半助は、耳を澄ますことをやめた。そうすると、泣く声は半助の部屋までは届かない。半助は、大方の事情を察した。彩が気の毒で仕方なかった。
 間もなくして、彩が部屋へ入ってきた。そのとき半助は起き上って、夜具を片付けているところだった。
「お目覚めでしたか。そのようなこと私が致します」
 彩は驚いたように目を丸くして、布団をひったくるようにして半助を押しのけた。それから泣いた後だとわかる赤くなった目で半助をまじまじと見つめた。
「もう起き上っても大丈夫なのですか」
「ええ、もうなんとも」半助はどういう顔をしてよいかわからず、とりあえずほほ笑んだ。
「とんだご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」言うと、彩は大きな目をもっと大きく見開いて首を横に振った。
「何を言うのです。こちらこそ、本当になんと詫びてよいやら。知らぬこととはいえ、毒を食べさせてしまうなんて」
「あ」そうか、彩は自分のせいで半助が倒れたのだと気にしているのだ。
「猫が百合を食べると死んでしまうこともあるのだと兄に聞いて。私は恐ろしくて恐ろしくて。なんていうことをしてしまったのだろうと。本当に、何とお詫びをもうしあげてよいやら」
「そんな大げさな」心底悔いたようにうなだれる彩に、半助は慌てて胸の前で手を振った。
「大丈夫ですよ。私は猫といっても、怪妖でございますから。あれぐらいの毒では死にません。第一、猫のくせに毒を気づかずに食べた己が悪いのですから。どうか、気になさらず」
「気づかぬはずがございませぬ。私のためと思うて、無理してお召し上がりになったのでしょう。食べねば私が嫁に行けぬとお思いになって」
「それは、」確かにそうなのだが。でも、そうと答えれば彩が自分を責めてしまうし。半助はどうこたえてよいかわからずに沈黙した。すると、広縁に人の気配がして振り向くと義範が立っていた。
「お目覚めか」
「はい」半助はほっとして答えた。「どうもお世話になりました」
「こちらこそとんだ災難を負わせてしまったようですまなかったな」
「いえ。おいしいごはんでした」
 半助は彩を気遣って言ったのだが、彩は申し訳なさそうにうつむくばかりだった。また笑ってみせてほしいのに。やはり先程のことも彩の心の重石になっているのかもしれない。
「あの、先程東狐さまの使いがお見えになられていたようですが」
 気づいたときにはそう訊ねていた。半助のためらいがちな問いに、彩ははっとしたような顔をした。
「聞いていましたか」
「すみません。私は耳がよいもので」
 半助は義範をうかがい見たが、広縁に姿勢よく座したまま表情を変えない。
 顔は庭の方を向いている。広くはないが、手入れされていて落ち着きのある庭だ。塀際に一本の木が生えているが、あれはなんの木だったか。葉も蕾も付けてなくて枯れ木のようだ。
それにしても、さきほどの彩の話は縁談に関わるようなことだったが、この話を義範が知っているのか、知っているのならどう思っているのか気になった。しかし、それを訊くのは出過ぎた真似になるだろう。
「東狐さまは以前より私を嫁にとお誘いくださっていたのですが、私はそれを断り続けていたのです」
 彩は小さくため息を洩らすように言った。
「私は、狐の嫁入りには『三はいの誓約』があることを兄よりうかがい知っておりましたので、絶対に首を縦にふらぬ覚悟でおりました。そうすれば、大丈夫だと……それなのに」
 彩は声を詰まらせて、しまいには泣き出した。
「それなのにあのような条件を出されては、私は断れぬではありませぬか。私が狐の嫁になって村が助かるのであれば、私はこの身を天狐さまに捧げるしかほか道はございませぬ」
『三はいの誓約』とは、天狐が嫁をもらうときの決まりごとだ。
嫁となる者が天狐の婚姻に関する三つの問いに対してすべて「はい」と答えねば正式な夫婦とはなれぬのである。これは、天上に定められたきまりごとであり、天狐といえど破ることはできない。
その気になれば、天狐が人間一人をさらうことなど赤子の手を捻るようにたやすいことだが、そうせぬのはこの定めのあるせいだ。意思を伴わず「はい」と言わせたところでそれは成り立たない。だから、彩が自らの意思で「はい」と言わざるをえない条件を東狐は持ち出したのだ。
 彩はさめざめと泣いている。半助はそんな彩を見て、気の毒で仕方なかった。半助が人間になりたくないように、人間もまた怪妖になどなりたくはないのかもしれない。何か己にできることはないだろうか。半助が考えを巡らせているところに、義範がおもむろに言った。
「お前が嫁にいったところで急場しのぎに過ぎん」
 義範は腕を組み、苦い顔をしていた。顔は、おてんとさまのほうを向いていた。庭の竹が風に揺れてさらさらと音を立てた。
「どういうことでございますか」
 彩が訊くと、義範はそのままの姿勢で答えた。
「人は何かあればすぐ神頼みだ。弱みを握られ、同じ村の中に犠牲を出しても、己さえよければいいと思うようになっている」
「ですが、日照りはどうしようもないではございませぬか」
「はたしてそうだろうか」
 義範は自嘲するように笑った。
「頼むことしかできぬと、人はいつからそんな風に考えるようになってしまったのであろうな。皆、見えている分俺よりもできることはうんと沢山あろうにな。見えているからこそ、ためらうものか。俺には、わからぬ」
 義範は言って立ち上がった。
「婚姻は、お前のことゆえお前自身で決めるがよい。俺は何も言わん。ただ一つ。此度のことで得をするのは、この村では恐らく肝煎り一人であろうな」
 義範はそう言い残すと広縁へ出て日差しの明るい廊下を去って行った。
 今のは、どういうことであろうか。肝煎りとは、彩の許嫁と言っていた己之吉のことだろうか。彼一人が得をするとは一体?
 だが、彩もそれをわからぬようすで首を捻っている。半助は居心地の悪さを感じながらも彩にかける言葉を探していると、うなだれていた彩の顔がさっと上がった。
「私、己之吉さまに確かめて参ります」
 呆気にとられている半助を置いて、彩は立ち上がるなりさっさと部屋を出て行ってしまった。そして間を置かず玄関から人の出ていく気配がした。
「すまんが、」
 半助は振り返った。そこには、出て行ったはずの義範が立っている。家の裏をまわってきたらしい。半助は義範がそこへ戻ってきているのに気付いていた。やはりああは言うものの心配なのだろう。
「一緒に行ってようすを見てきてくれまいか。あの気性ゆえな、小さき問題も大きくしてしまうところがある」
 半助は己がこのような頼まれごとをするとは思ってなかったので少し驚きつつも、己にもできることがあるのだと思うと嬉しくなった。ただ、
「それはよいのですが、この村の者は怪妖がお嫌いだと……」それで二人に迷惑がかかってしまったのでは元も子もない。
「人間に尾が生えていれば不自然だが、猫に尾があるのは不自然でなかろう」
 そうか。猫になってゆけばよいのだ。半助は気づいて、同時に何故義範がそんなことまで知っているのだろうかと不思議に思った。
 その半助の疑問を感じたのか、義範は先回りするように言って笑った。
「俺が失ったのは、人間の視力に過ぎんからな」
 その一言で、半助にはわかった気がした。義範の、見えているものと見えていないものの違いが。
早速半助は猫に変化する。輪郭を失った着物が半助の頭上に降ってきた。
「衣を預かって頂いてもよろしいですか」
「お主は今素っ裸か」
 ぶしつけに言われて半助は顔を赤らめた。
「毛皮がござります」
 変化の術をもって、着物も共に首輪などに変えることもできるが、それにはその分余計に妖力がいる。今の半助にはその余力がない。
 困っていると、「冗談だ」と言って義範は笑った。
またからかわれたらしい。
この兄では、気性も荒くなろうと少し彩を庇う気持ちが生まれた。
「では行って参ります」と半助は言って、広縁から中庭へ駆け降りた。やはり猫の身体は人間のそれよりもずっと動きやすい。
「頼んだぞ、猫どの」
 土塀に飛び乗っていた半助は、「にゃあ」と答えてから屋敷の外へと飛び出した。
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