蛇逃の滝

九影歌介

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「ぴぎゃっ」半助は投げ捨てられるようにされて、慌てて板の間へ着地した。可愛い顔に似合わず乱暴なことをする。
「何をなさるのですか」
「それはこちらの台詞です」
 庭から足も洗わず広縁へあがってきて、彩は半助に詰め寄った。
「村人が聞き耳をたてていることがわからなかったのですか。皆怪妖が大嫌いだと申し上げたでしょう」
「すみません……つい」
「つい、ではありませぬ」
「申し訳ありません。彩どのにご迷惑をおかけするつもりはなかったのですが」
 打ちひしがれた彩を見ていたら、いてもたってもいられなくなってしまったのだ。雨を降らすことで、彩の憂いが消えるのならば、己にもできることがあるかもしれないと思ったとたん、側によって口を開いてしまっていた。
「私のことはよいのです。あなたですよ。見つかったらどんな酷い目に遭うとお思いなのですか。早くこの村からお逃げなさい」
「ですが――」半助が口を開きかけると、義範の近づいてくる気配を感じて半助は広縁へ顔を向けた。つられたように彩がそちらを振り向いたとき、義範が半助の衣を持って現れた。
「村人に見つかってしまったか」義範は言いつつ膝を落とし、半助に衣をくれたが半助は人目を憚り着替えることはしなかった。着替えるには、一度裸体をさらさねばならない。彩のいる前ではできるはずもない。裏技もあることにはあるのだがうまくいくとは限らないので、試す気はしなかった。
「恐らく、見られていたと思います」彩が答えると、義範も苦い顔をした。
「ならば彩の言うように早々にこの村を立ち去ったほうがよいな。この村の者は怪妖を毛嫌いしておる。姿を見ればことごとく打ち据えている連中だ」
 半助は気を落とした。人間と怪妖は相容れぬものとは聞いていたが、怪妖というだけでどうしてそんなに嫌われねばならぬのであろう。
 そんな半助の心情をはかったように、義範は言った。
「山王様がこの村に使いを出して下さるまで、この村は怪妖にやりたい放題にされていたのだ。怪妖に家族を喰い殺された者も少なくない。この村の者にとって怪妖は悪鬼と変わらぬのだ」
 半助は愕然とした。義範の言うことが本当ならば、怪妖が人間に怨まれるのも当然だ。
 ふと、半助の倒れていた雪山を墓場だと義範が言っていたのを思い出す。
「もしかして、お二人の御両親も……」
 憚りながらも訊くと、義範は肯いた。
「化け貉に喰われたのだ」
 義範は何事もなかったかのように言うが、彩はたまりかねたように付け加えた。
「お兄様の目だって」
 半助は思わず義範を見た。義範は笑った。
「目玉は自らくれてやったんだ。そうすれば俺と彩を逃がしてくれると言うからな。目玉二つで二人の命が助かるのならば安いものであろう」
 それが、口で言うほど簡単ではないことくらい、半助にもわかる。半妖でさえ、目玉をくりぬかれればもう以前のようにモノを見ることはできない。己にその勇気があるかと問われれば、否。目がきかなくなることなど、想像もできない苦しみだ。そんな恐怖を、義範という男は笑い飛ばす。人間が無能で無力ならば、半助が今感じているこの義範への想いは何なのであろうか。義範は、己などには手の届かぬずっと高いところにいるような気がする。
 半助は彩へ目を向けた。
彩は、唇をぎゅっと結んで何かに耐えるようにうつむいていた。その握られた拳が、膝の上で小刻みに震えているのを見て半助は胸を痛めた。
「申し訳ありませんでした」
 半助はたまらなくなって、手をついて二人に頭を下げた。
「何故お主が謝る」不可思議そうに義範が訊く。
「それは――私も怪妖ですゆえ」
 半妖とはいえ、心は怪妖のつもりである。それなのに、同じ怪妖として恥ずかしい。怪妖は、誇り高き生き物のはずではなかったのであろうか。能力の劣る人間を虐げ、弄んで、そんなことは怪妖の風上にもおけぬことではないのか。
 半助は同じ怪妖に対して酷い憤りを感じた。こんなに何かに対して腹を立てることは初めてだった。けれど、かつての怪妖に対してよりももっと己へ対する怒りのほうが強い。
 宝生の玉を奪った者は、一体その力で何をするつもりか。
 義範と彩の両親を襲ったのが化け貉と聞いて、半助は冷や汗が噴き出すのを感じた。もしかしたら、その化け貉は半助から宝生の玉を奪った輩と同じかもしれない。
 半助はやっと義範の懸念していたことがわかった気がした。
 半助が大事な物を化け貉に奪われたと義範が知った時、初めに口にした言葉。
その争いには人間も巻き込まれるのであろうか。
 己のしたことは、またかつての苦しみを人間に味あわせてしまうことになるのかもしれないのだと、今更気づいた。
 宝生の玉は山王様の力を宿している。それは、天狐の力をもしのぐ。
もし、もしそれが山王様のもとに戻らず、天狐を退けようとする者の手に渡っていたとしたら、東狐は玉座を奪われ、また怪妖が好き放題に振る舞い人間を苦しめるようになってしまうかもしれないのだ。
 しかし――だとしても、己の力では玉を取り戻すことなどできない。己が心配などしなくても、今ごろ西狐の使いたちが玉探しに奔走しているに違いないのだ。むしろ、己のような無力者がいればかえって足手まとい。西からずっと駆けて逃げてきたのだ。足跡も残っておろうし、互いに妖力も使った。その気配を追って、玉を奪った者を探し出すことなど神官たちには容易なことのはずだ。
 己の出る幕などない。
 ならばせめて己にもできることで、恩返しをしたい。罪滅ぼしをしたい。玉を持ちだした咎で捕らわれてしまう前に、せめて彩の憂いを一つでも晴らしてやりたい。
 思いつめていると、唐突に義範が言った。
「半助とは、良き名であるな」
 義範とは、気ままな男らしいが、それにしても意外な言葉に半助は驚いて義範を見つめた。己の名をそんな風に言われたことなど一度もなかった。いつだって半端者だと罵られ、己でも好きになれぬ名であったのだ。
「良き名であるよ」義範はもう一度繰り返して笑った。
「そのことに、お主も早く気づけるとよいな」
 半助が返す言葉を探していると、人の声が屋敷に近づいているのを感じた。それも、大勢の人の声だ。
「もう行ったほうが良い。村人がここへ向かっておる」
 義範にもその音が聞こえるのか、庭の方へ目を向けてそう言った。
「本当ですか」彩が怯えたような声を出して顔をあげた。
「大層怒っておりますね」半助は耳をたててそう言った。
 ひげがピンと伸びて、その気配を感じとっていた。早くここから立ち去るべきだ。だが、このままではいけないだろう。
「俺たちが怪妖をかくまっていると思っているのだろうな。お主がいなくなれば、そんなことはどうとでも誤魔化せる。心配せずともよいからさっさと行け」
 義範の語気が強まるのを感じて、半助は覚悟を決めた。
「わかりました。では」
 半助は袍を銜えて形を整えてから中に潜り込み、ゆっくりと変化した。手足が伸び、毛がなくなりつつあるところで袖に腕を、袴に脚を通す。遊びで覚えたことだが、存外そういうものは役にたつものだ。こうして肌を見せずに衣をまとい、完全に人形となった半助は立ち上がった。尾だけは、変化しながら袴に開けた小さな穴を通すというのは難しく、袴の内側でモゾモゾさせてようやく外へ出した。帯を締めて、彩を見た。珍しい物を見るような目つきの彩へ深々と頭を下げた。着替えを失敗しないでよかった。
「水のこと、御心配なされませぬよう。助けて頂いたご恩返しの為に、必ずや雨を降らせてみせますること、ここにお約束いたします」
「それから、」余計なことだがと言い置いてから、半助は言った。伝えておきたかった。
「彩どのには笑顔がお似合いです。あなたが笑っていると、心が和みます。どうか、己之吉どのとお幸せに」
 半助は彩へ笑いかけた。驚いたように半助を見上げた彩は頬を染めていた。
その可愛い顔を見ていると、これからしようとしていることを思って胸が痛むが、それが二人の為なのだと、半助は己に言い聞かせた。
 半助は右手を握って開いた。特別意識せずとも爪は出せる。
 物音に耳を澄まし、気配に神経をとがらせ、その時を待って顔をあげるや、「ごめん」と彩を片手に抱きかかえて縁側を蹴って、そのまま塀の上へ跳びあがった。
 左の門の方へ視線を向けると、思った通り、すきやくわを担いだ村人たちが十人ほど義範の屋敷へ着いたところだった。これから門を叩こうとしていたのだろう。無精ひげを生やした色黒の大男が拳を天に突きあげたまま、あんぐりと口を開いてこちらを見ていた。
「うわあああ、怪妖じゃ。怪妖じゃあ」
 別の小男が、甲高い声で叫んだ。辺りが騒然とする。
 半助は牙をむき唸ってみせて、右手の爪を伸ばして羽交い絞めにした彩の首筋へ突き付けた。彩の口は術で封じてある。
「おのれ化け物め。彩を人質にとりおって。さては脅しておったな」
 村人の言葉に、彩ははっと気づいたように半助に目を向けた。手荒なことをしてすまないと思いつつも、だがそれしか方法が思い浮かばなかった。
 怪妖を嫌う村で、怪妖をかくまっていたということが知れれば二人は村八分だ。恩人をそのような憂き目に遭わせぬためには、半助が悪しき怪妖としてこの家の者を襲ったように見せかけるしかない。
 怪妖を憎んでいるはずなのに、二人は怪妖である己に親切にしてくれた。それがどれだけありがたかったことか。この恩は忘れはしない。それから、彩の笑顔は今後忘れたくても忘れられないものであろう。
「ええい。彩を離さんか!」
 彩を人質にとっていれば手出しはしないと思っていたのに、大男が叫ぶなり拳大ほどもある礫を投げてきた。半助は咄嗟に彩をかばって、礫を払った。
「ばか。彩に当たったらどうするんだ」他の村人が大男をたしなめるが、大男は半助が彩を離した隙を見逃さなかった。
「俺が礫を外す訳がなかろう!」
 外す訳がないのなら、今のは彩を狙っていたのかと皮肉を思いながらも、無暗に投げつけられる男の礫を半助は彩を抱えて避けつつ地面へ飛び降りた。
 彩をそっと地面へおろし、男の礫をわざと額に受けた。
 ガツッと鈍い音がして、血が垂れてきて右目に入った。視界が赤く滲む。怯えたような顔の彩に、村人には気づかれぬように笑顔を返し、金縛りをかけた。そして、半助はさりげなく彩から離れる。
「怪妖が彩から離れたぞ。今だ!」
 大男が叫ぶと、村人が一斉に礫を投げてきた。半助はそれを受けながら、たまりかねたさまを装って、踵を返して走り出した。
そこへ礫のあられが降り注ぐ。避けようと思えば避けることもできたのに、半助はそれを浴びた。けれど、礫のあられよりも痛いのは、胸の奥。心が、ずっとずっと痛い。誰かとの別れが、こんなに辛いものだと半助は初めて知った。
会って間もないのに、どうしようもないほど気持ちが、引きずられる。もう、二度と会えぬ彩に。
 彩どの。御達者で――。
 
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