蛇逃の滝

九影歌介

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その場所は、変わらず草原が広がり、金の川が粒子を舞わせながらサラサラと快い音をたてて流れている。
 半助は、その場所を前から知っているような気がした。いや、なってきたものか。
 馴染む。というのか、半助にとってそこは何か懐かしみを覚える、己の原点のような気がしてならなかった。
 そして、この胸に今疼く気持ちはなんなのだろう。春の訪れを感じて花のつぼみが開くのを待ち遠しく思うような、だが一方で淋しさをも感じている。
 半助は、河原へ向かって立ち尽くしていた。
 いろんな想いが胸をよぎる。
 振り返ってみれば、己はただ神官となり、いずれは天狐となることだけを目標に生きてきた。そのために、無理を承知でせんがんむしに教えを請うて、猫の、しかも半妖でありながら妖狐の術を身に着けた。それは並大抵のことではなかった。その血の滲むような努力のすべてが、たった一度魔が差しただけのことで失われてしまう。
 半助は戻せぬ時の恐ろしさを身を持って知った。だからこそ、今が以前よりもずっと愛おしく思う。そのことを教えてもらったのだと思えば、己に罪を犯させた彼を憎む気持ちにはならない。いや、元より彼を憎めなどしなかっただろう。彼は、半助の大事な家族であるのだから。
 せんがんむしさま――。
 半助は、永久を思わせる金の川に目をやった。
 今も、見ておられますか。半助は、そう呟いてほほ笑んだ。
 あの声は、半助に鎮護の間から玉を持ちださせたあの声は、西狐のものでは無論あらず、東狐のものでもない。あれは……せんがんむしの声であったのだ。
 思い返せば、随分前からそのことに気づいていたように思う。ただ、信じたくないと言う己の我が邪魔をして、眼を曇らせていた。
だが、真実を知ったところでせんがんむしへの畏敬の念はなんら変わることはない。
 せんがんむしは、己の保身も捨てて半助を助けてくれた。己がさせたことと半助が気付くと知っていながら、隔ての谷でも、竹爺に襲われたときもせんがんむしは半助を助けてくれたのだ。
 半助は、雀の涙晶が弾けてそれを知った。
 せんがんむしのくれた青の首飾り。それを通して、せんがんむしは全てを見ていたのだ。
半助に宝生の玉を鎮護の間から持ち出させたのは、せんがんむしだ。
 どうしてせんがんむしが、そのようなことをしたのかはわからない。
 東狐と手を組んだのかもしれないし、独断で玉を奪おうと考えたところを、東狐に横取りされたのかもしれない。だがいずれにしろ、せんがんむしに罪を着せるつもりはない。
 玉を鎮護の間から持ち出したのは、この私だ。
 半助は、固い覚悟とは裏腹に柔らかく笑って言った。
「彩どのが唄っていた唄をこれから奏でます。知っているような気がしていた唄でした。それを不思議に思っていたのですが、昨日三味線を己の腹の皮で作っていてわかったような気が致します」
 半助は息をついて、続けた。
「せんがんむしさま。あなたさまは、私にとってかけがえのないお方です。せんがんむしさまは迷惑と思われるかもしれませんが、やっぱりせんがんむしさまは私の師匠であって、大事な家族だと思います。それは、何があっても変わりません。あなたがいたからこそ、私が今ここにいます。感謝しています。――どうか、お元気で」
 川のせせらぎの中に、魚の跳ねたような音がした。半助はほほ笑んで、河岸から後ずさった。振り返ると、彩と竹爺が並んで立っていた。
 待っていてくれたようだ。
 半助は二人へ近づいて行った。
「すみません、お待たせしました」
 半助が頭を下げると、彩は大きな瞳を半助に向けてきた。何か言いたそうにしている気配が伝わってきたが、結局何も言わずに「いえ」とだけ答えてぎこちなくほほ笑んだ。
「そろっと、始めてもろていいろか」
 半助は肯いた。が、肝心の三味線を持っていない。慌てると、彩がそれを差し出してきた。抱えるようにして何かを持っていると思ったが、それが三味線だったのだ。まるで赤子を抱くような仕草で、彩はそれを大事そうに半助に託した。
「ありがとうございます」
 彩は肯いてから、心配げに訊いてきた。探っているようにも見えた。
「あの、本当に弾けるのでございますか。昨日の唄は広く知られているものではございませぬゆえ」
 半助は大きく肯いて、彩を励ますように笑った。
「ここにおりますれば、妖の血が澄んでいくような思いが致します。私の妖の記憶の中に、彩どのの唄がありました。そして、唄を知らず旋律だけ師に叩き込まれた曲がございまして、それが昨日の彩どのの唄と気づいたのです」
 もう消えたはずの傷口が疼くような気がした。
 怪妖の革で作られた三味線には、その怪妖の想いが宿る。その音色には、血を通して繋がってきた全ての怪妖の想いが乗る。
昨日、たった一度、半助は試にできあがった三味線の弦を弾いてみただけでそれがわかった。わかってしまって、それは今の己には痛すぎるものだと思うと本当は弾くのが怖くてたまらない。
 だけど、逃げるわけにはいかない。
 半助は覚悟を決めて、袴を払ってその場に座すと、三味線を構えた。
 彩はその横に立つ。向かい合って、竹爺が、ほのかに笑みを浮かべつつあぐらをかいた。
 半助は気を落ち着かせるために、瞑目して息を大きく吸った。
少し、腹に力が入ればまだ痛む。まだ完全には傷が癒えてないのだ。腹を切った上に妖術を使って大急ぎで三味線を造り上げたことがたたっている。けれど、泣き言は言っていられない。この楽の出来に村の運命がかかっているのだ。
――けれど、うまくいったとしてもそれで本当に救えたことにはならない。竹爺に水を引いてもらっても、東狐はまた別の手立てで彩を狙ってくるであろう。
狐は執念深い。玉も東狐のところにあるのだとすれば、今の東狐に不可能はない。
では、彩を、人間を本当に苦しみから救うにはどうしたらいいのだろうか。
己にできることなどない。
そう思ってきたが、できることは何かと考えてもみなかった。端から諦めていた。
半助は吸った息を細く吐き出しつつ、己の分身である三味線の重みに思いをはせた。
できぬと思わなかった。やるしかないと。そうして、できた。
己に足りぬところは、もしかしたら、そういうところなのかもしれない。やるしかない、のだ。
半助は息を吐ききると、目を開いた。
 そこには半助と竹爺と彩の三人の姿しかないものの、半助はもっと多くの気配を感じ取っていた。それを、彩は気づいているだろうか。彼らが現れるのは、きっと彩を認めたときだ。そのとき、彩はどんな顔をするだろう。
「参りましょう」
 半助が言うと、彩は息を吸った。
 ベンッ。と、半助の撥を振るう音が辺りに響き渡った。


夕されば
千鳥も去りて、君の手離れ
入日さす長路を行く君の背は
小さくなりゆく
我が衣手濡らす
露はいずこより降りけらむ
いさよう風の行方知らずも
君の想いよ忘れまじ
忘れまじ

ぬばたまの闇のけゆけば
世間を憂しとおもへど信ずるは
相念はぬ人を思ふは苦しきものとて
うららかに照れる春日に似たものぞ思ふ
もも玉も何せむにまされる愛し君に
及かめやも


 昨日はそこで終わった唄を、彩は息を継いで続けた。


半ら生まれし宝子よ
咲く花の薫ふがごとく幸くあれよ
半ら生まれし宝子は
目にはさやかに見えねども
その証なりける
相想ふ
人と妖との証なりける

我ここに
つひにゆく道向かいて
額ずくがごとし
聞こゆる音のかそけきかな
いささ群竹吹く風の音のあはれとぞ見る
それぞあくがれ出づる我が魂かとぞ見よ
いかで君へ告げやらむ

道の長路へ額ずく我に
君向かいて涙を流し
我が手を取りて嘆かむ

幸くあれていひし言葉ぞ残しつ
我が魂あくがれ出でぬる
我が手を取りて嘆かむ君
幸くあれよ

入日に光
君の露見て魂を想い
我 雲隠れなむ
いざ 雲隠れなむ

 唄い終えて、彩は目を瞠った。
 夢中で唄っているときには気づかなかったが、いつのまにかそこには数えきれぬほどの怪妖たちが集まってきていた。
 狸に猫に犬に猪に、ほとんどが動物の形を大きくした者だった。中には、人間と同じように二本足で立っているものや、竹爺の真似をしてあぐらをかいているものもいる。他にも、一つ目の巨大な蜘蛛や、塔のように天へ向かい、大から小へ重なった何匹もの蛙やらが座ってこちらを見ていた。その満座の観客席とも言える河原に、突然虹色の光が輝いた。何かと思えば、蝶たちが一斉に舞い上がったのだ。それを合図に、はちきれんばかりの拍手と喝采がその場にどっと沸いた。
「怪妖は皆楽が好きでございますれば、彩どのの美しい唄声を聞きつけて集まってきたのでしょう」
 半助が息をついて言うのへ振り返って、彩はまた目を見開いた。
「どうなされたのです」
 半助は泣いていた。
 涙の筋が、いくつも頬を伝っている。彩は思わずしゃがみこんで、半助の手を握った。
「やはり、今の唄の意味があなたにはわかるのですね」
 半助は首を振った。
「はっきりとは。ただ、私の中にある妖が、私をどうしようもなく泣かせるのです。この唄は、誰がお造りになったのでしょう。その方は、なにゆえかように悲しい思いをせねばならなかったのか。胸がはちきれそうです」
 半助は苦しげに言うと、涙をぬぐって笑顔を作った。
「すみません、変なことを言いましたね」
「いえ……」かろうじてそう答えたものの、彩は悔しさで胸がいっぱいだった。今の自分は、半助にしてやれることが何もない。目の前で、思いを寄せた人がこんなにも苦しんでいるのに、私にはそれを助ける術がない。
 無力感に襲われる。こんなこと、初めてだった。
 いつだって自分は迷いがなくて、できないことなど考えてこなかった。だけど、人の想いを慮れば、できぬことというのはあるのかもしれない。人の為に、時には自分の想いを抑えることも必要なことなのだ。
「そんなら、寝ってもらおかね」
 竹爺が言ったかと思うと、そこにいた怪妖たちが一瞬のうちに消えて、彩の目の前で半助の身体が力を失ったように傾いだ。
 咄嗟に手を出して受け止めるも、半助の重みに耐えきれず彩は後ろへ半助もろとも倒れた。
「どうして」
 前はあんなに軽かったのに。
「妖力を失っておるのだ。半妖が妖を失えば人に近くなるのは道理。物形に支配される」
竹爺の声が言うと、ふわりと衣が舞って、半助の重みが消えた。かと思うと膝の辺りに温かい塊がある。衣をかき分けると、黒猫が伸びたように脚を投げ出して眠っていた。半助だ。
「何をなさったのですか」
 彩が竹爺を睨むと、いつのまにか三味線を手に竹爺は立ち上がっている。
「眠らせただけじゃ。そやつはもう少し休む必要がある」
竹爺は言うと、三味線をかかげて眺め回しながら、満足そうに笑みをこぼした。
「無理をしおって。立派なものを作ったものじゃ」
 彩は眉をひそめた。竹爺の話し方ではない。すると、彩の疑問を感じ取ったのか、竹爺は彩を見つめて先回りするように言った。
「この耳で教え子の音色を聞きたかったからな。旧友の身体を借りたんじゃ」
 彩は息を呑んで、竹爺を見た。いや、せんがんむしを。
 せんがんむしの目は、どこか悲しげだった。その眼は、彩の膝の上に横たわる半助に向けられている。
「人間よ」せんがんむしは彩に再び視線を戻して言った。
「おのれは、半妖がなんと呼ばれているか知っておるか」
 せんがんむしは、彩の答えを待たずに言った。
「禁忌の子じゃ」
 彩はその言葉に胸を突き刺されたような心持がした。そうと半助には聞いていたが、耳に入れればやはりなんと酷い言葉か――。
「わかるか、娘。そやつは、皆に存在を否定されて生きてきたのだ。面と向かって、お前は生まれてきてはならぬ子であったのだと言われることも少なくなかった。幼き頃からそのような言葉を投げられ続ければ、どうか」
 彩は、半助の連ねてきた思いの底を感じて胸を痛めた。
せんがんむしは哀愁を漂わせて首を振った。
「そやつは己を無力と思うておるが、それは己自身を否定しておる証だ。わしは何度もそうではないと説いたが、半助の耳には届かなかった。わしが思うておるより、半助の心底の澱はしぶとい。だが、」
 不意にせんがんむしに見られ、彩は背筋を正した。
「そなたが半助を変えようとしている」
 呼びようが「おのれ」から「そなた」に変わった。せんがんむしは、彩に何かを託そうとしているのではないか。彩はそれを敏感に感じ取った。
「娘、お前が半助を助けてやってくれ」
「私が、半助さまを――」助けるなどおこがましい。だけど、力になりたいとは思う。無力なままでは終わりたくない。きっと、半助もそう思ったのだろう。だから、いつだって無理をする――。
 彩は、せんがんむしが半助に何を伝えたいのかがわかった気がした。
「なにができるのやらわかりませぬが。ただ私は、」
この思いだけは嘘偽りなく、誤魔化しようもない。
半助は、半助でよいのだ。猫は猫で、半妖ならば半妖でよいのだ。何がおかしいことがあろう。おかしいと思うのは、おかしいと思うひとの心のほうだ。
「半助さまを想うております」
 せんがんむしは、低い声を喉の奥で響かせて笑った。優しい眼差しで、眠る半助を見て言った。
「半助を頼むぞ、娘――」
 川で魚の跳ねるような音がして、静かだった河原に音が戻ってきたような気がした。
 彩は、膝の上で眠る黒猫を撫でた。どのような姿をしていても、愛しいと思う。他の何にならずともいいのだ。半助は、半助のままで……。
 目を細めて猫を撫でている彩の目の前に、一つの竹筒が差し出された。顔をあげると、竹爺がにやりと笑っている。もしかしたら本人はにこりと笑っているつもりかもしれない。
「これは――」
「大滝の水だいや。こんまま滝につながってるっけえ、好きなように使いなせ」
「ありがとうございます」 
 彩は竹筒を受け取って、嬉しさのあまり泣きそうになった。
 これで、村が助かる――。
 だが、それだけでいいのだろうか。水を得ても、きっと根本的な解決にはならないのだ。しかし今はひとまず帰るしかない。
 彩は半助を腕に抱きかかえて、立ち上がった。
「帰んなさる?」
 竹爺の問いに彩は肯いた。
「なさねばならぬことが山積みですゆえ」
 竹爺は笑った。
「送ってやろーかの」
 竹爺がそう言うなり、彩は何もないところに佇んでいた。
 何もないのだ。
 草も木も川も、地面さえ見えない。ものかたちの何もない世界に彩はいた。だけど、怖くはなかった。そこは淡い光に包まれていたし、一人ではなかった。懐には、半助が確かに息を継いでいる。
「歩きなされ」竹爺の声だったが、訛りはなかった。言われた通りにすると、声だけがどこからともなく聞こえてくる。
「わしは独り言を言う。ここは妖の道ゆえ、隠し事ができぬからな」
 だから言葉も、普通のように聞こえるのかと彩は納得した。耳ではなく、妖で彩はその声を聞いているのだ。彩は怪妖ではないが、妖とは恐らく人間も持っているものなのであろう。そのことを、ただ人間は忘れてしまっているのだ。
「半助は、宝生の玉をめぐる争いに巻き込まれた。
因縁は、半助の母御の頃よりのものだ。かつて東と西とはひとつなぎとなっており、人間も怪妖も共に暮らしていた。そこには、人間と怪妖などという隔たりはなかったのだ。
だがいつからか人間の数が増え、人間はわしら怪妖を忌み嫌うようになった。確かに、怪妖の中には悪しき者もいて人間を喰らったりする。
しかしそれは人間とて同じこと。
武器を手にし、怪妖を乱獲した。
怪妖の骨や革は、ただの獣よりも丈夫であるからな。重宝であったのだろう。
そうして、人間と怪妖は次第に争うようになってゆき、力で勝る怪妖が人間を制圧するかに思えた。
しかし、そのような状況を憂えた山王様が地を揺るがし、大地を二分したのだ。
そうして東国と西国が生まれ、西国には天狐を置き怪妖の住む国とした。東国には怪猫を置き、人間と怪妖とが共に暮らせる国を作ろうとした。
当初は、西は罪人を送る僻遠の地とするはずであった。しかし、人間を嫌った怪妖どもが西へ多く流れ込み、とうとう風の番人をつけられ東西の行き来はできなくなってしまった。
けれどその頃はまだ、それほど東も悪いところではなかった。仲の良い人間と怪妖もいたし、だが東を治めていた怪猫が座を追われてから東はおかしくなってしまった。
どうして座を追われたのか。
怪猫が、人間の子を孕んだからだ。
……その子は、禁忌の子と呼ばれた。
 確かに、怪妖と人間とが通じることは禁忌とされていた。
 怪猫の宰相がそれを声高に言いふらし、怪猫を失脚させた。けれど、わかるものにはわかっていた。
 禁忌の子など、嘘じゃ。
 大嘘じゃ……。
 初めから、玉座を狙う東狐の策略であったのだ。
 まんまと座についた奴のやりようをみていればわかるであろう。奴は、いずれ人間をなくした世を作る気だ。
天狐にできぬことで、宝生の玉の力ならばできることと考えれば、
それぐらいしか思い浮かばぬからな。
 怪猫はそれに気づき、かつては東にあった玉を必死の思いで西に移した。
 生まれたばかりの赤子をつれ、西に渡ったのだ。
しかし、猫はすぐに捕えられ東に引き戻されるなり処刑された。
 そして、その皮があまりにも美しかったために、三味線に用いられ今も東のどこかにそれはあるはずだ。
 娘。
 思うほど簡単ではないぞ。
怪妖と人間とは、元より相容れぬものであったのだ。
だから争いが起き、東狐の妄動に誰しもが惑わされた。その根深き血の因縁を、お前たちは解消できるのか。
 それほどの覚悟はあるのか――。
 怪妖が人を愛し、人が怪妖を愛するということは、国を動かすほどの覚悟がいることだ。
 それでも半助を思う気持ちが変わらぬのであれば、我々も動いてもよいかと思う。
これまでは、争いごとの起きぬよう我々は息を潜めてきた。東狐に従うふりをして、ことなかれと生きてきたのだ。
 だがわしはお前に竹筒を渡してしまった。
 それがどういう意味かわかるか。
 怪妖が、人間に手を貸したのだ。
 東狐さまの、命に逆らってな。
 だがそれはわしの一存にてのこと。我らはお前たちを見ておるぞ。
 価値があると思へば、我々は立ち上がる。いささか、人任せに過ぎるが、わしらも年だもんでな。
 だが動くとあらば、きっと力を合わせて、良き国へと変えようぞ。
 わしらは見ておる。いつでも、な」

 時に声を荒げ怒りをあらわに、時には笑いを含んで、穏やかに。
 竹爺の独り言が終わった時、彩は自分の家の中庭に立っていた。
 茫然としていると、
「お帰り」と声を掛けられた。振り返ると兄がほほ笑んで立っていた。
「咲いたであろう」
 兄はそう言って顔を向けた。そこには、満開に咲く梅の花があった。
 彩は小さく息を呑んだ。
 たった一つ、日をまたいだだけであるのに、庭の景色がまるで変わっていた。花の咲くまで、それが梅の木だと忘れていたくらい、その木は殺風景な庭の一部でしかなかったのに。茶色の枝から、このように白く、儚げな花が咲くとは不思議なものだと思った。
「どうだ。良いものであろう」
 兄はほほ笑んで言った。その顔は、彩に向いている。
腕の中に眠る、半助の呼吸を感じた。彩はほほ笑んだ。
「ええ。美しいものでございますね」
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