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6 彩羽さんただいま~

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「ここでいいよ」
 優毅は、板橋駅東口のロータリーで藤十郎の車から降りた。藤十郎は怪訝な顔をしていたが、いつまでも車を停めているわけにもいかないので渋々発進して自分の住む文京区へと戻っていった。
 優毅は藤十郎の車が居なくなるのをしっかり確認してから、駅から噴水広場を挟んで向かいにある雑居ビルへ入った。
 階段を上がって二階。
『新創作多国籍料理呑乃助Dining』と白い文字で店名が貼られている自動ドアの前に立つ。
 スマホで時刻を確認すると、丁度五時。
 入口の前に敷かれたフロアマットに乗ると、自動ドアが開いてチャイムが鳴った。
「いらっしゃいませ~」
 この世のすべてを明るく照らしてくれるような声。
「あれ、優毅くん。帰ってきてたんだね」
 魔王さえ射抜くような神がかった眩い笑顔。
 ああ、彩羽さん。会いたかったよ。
「ただいま」
「おかえり」
 にっこり、と笑いながらそんな台詞を吐かれたら感動のあまりに血を吐きそうになってしまう。
「彩羽さんにお土産買ってきたんだ」
「ウソ。ありがとう。なに?」
「手羽唐」
「手羽唐っ?」
 彩羽さんがブッと噴き出して笑った。笑われてしまった。
「ごめんごめん。なんか渋いね」
「そうかな。途中のサービスエリアで買ったんだ。これなんだけど」
 彩羽さんは袋の中身を確認して更に笑う。
「ほんとに手羽唐だ。しかもまだあったかいよ」
「彩羽さん、ビール好きだから、つまみにいいかなと思って」
「いいよいいよ、抜群にいいよ。でも、帰省のお土産にほかほかの手羽唐もらったの初めてだったからちょっとびっくりした。ありがとう。みんなでいただくね」
 本当は彩羽さん一人でいただいてほしいのだが、仕方ない。これも彩羽さんの優しさだ。
「飲んでくでしょ? 今もらったの、おつまみに出すから、奥の席どうぞ」
「あーうん」
 そんな風に笑顔で言われてしまったら、「金がない」とは言えなかった。
「お礼に一杯奢るよ。座って待ってて」
「え、いいの。ありがとうございます」
 彩羽さんはそういうと、厨房の奥へ入っていった。
 優毅が言われたとおり、店の奥の席に向かおうとすると、背後に殺気を感じた。
「おぉまぁえぇ」
 耳元に響く低い声にぞっとして振り返ると、藤十郎が恨めし気な眼で優毅をねめつけ立っていた。
「やあ、藤十郎くん」
 優毅は精いっぱいペコちゃんスマイルをしてみせた。が、藤十郎の手が優毅の両頬を思いきり引っ張った。
「何が藤十郎くんだ!」
「ひててててやめれ!」
 藤十郎はこのまま優毅のほっぺたを引きちぎらんとする勢いだ。
「ペコちゃんじゃあるまいし、俺のほっぺは美味しくないぞ!」
 ちょうどそこに、別のお客さんが通りかかったので助かった。そうでなくば『ユウちゃんのほっぺ』が危うく製品化されるところであった。
「いや、されるわけないだろ」
「まぁまぁ藤十郎さん落ち着いて」
 藤十郎が他の客の視線を気にして一瞬手を離した隙に、優毅はさっさと彩羽に指示された席に座る。
「あ、コラ。まだ話は終わってない!」
 藤十郎も仕方なくついてきて、優毅の真向かいに座った。
「おまえな、人に散々奢らせておいて、いっちょまえに居酒屋で晩酌とはどういう了見だ? ああ?」
「まあまあ。ほら、一杯目はおごるから」
「ぼくは車だ!」
「代行呼べばいいじゃん。文京区までならそんなにかからないでしょ」
「そんなことはどうでもいいんだ。ぼくはおまえのその態度を――」
「どうでもいいなら飲もう」
 そこへちょうど彩羽さんが皿に盛った手羽先を持ってやってきた。
「あれ、今日は一人じゃなかったんだね」
「うん。偶然そこで会ってさ。いとこの藤十郎」
「藤十郎です」
 藤十郎はそっけなく挨拶をしただけなのに、彩羽さんは笑顔を返してくれた。
「いとこさんですか。優毅くんにはいつもお世話になっています」
「そんな、彩羽さん。こいつに頭なんて下げないでいいんですよ」
 ギロリと睨む藤十郎の視線が気になったが、無視して優毅は続けた。
「それより、急に増えてごめんね」
「ううん、全然だよ。ありがとう」
彩羽さんは天使のような笑顔で言うと、ハンディを開いた。
「注文はどうする?」
優毅はハッピーアワー価格で生ビールを二つ注文した。ハッピーアワーは、店が酒類の割引を行う時間帯のことで、呑乃助では午後六時までに入店した場合は、アルコール飲料の価格がすべて半額となるのだ。
 つまり、通常480円のビールが今なら240円。彩羽さんが一杯おごってくれるというので、二人合わせても240円で済む。なんとお得! しかしながら、これもニートには痛い出費。だがこれでほかの料理が釣れるなら安いものだ。
 彩羽さんはその場でハンディターミナルに注文を入力して送信した。これでもう厨房やドリンカーには注文が通っているらしい。
 優毅はついでにチャンジャと栃尾の油揚げと叩きキュウリとサイコロステーキを注文した。
「ご注文ありがとうございます。すぐご用意しますね」
 彩羽さんは、必要ないのに藤十郎にまで二コリとして、席を離れていく。
 ちくしょう。
 藤十郎がいなければもっと色々お話できたのに。
「おまえどさくさに紛れてなにか色々注文しなかったか、今?」
「気のせいじゃない?」
「いや、気のせいなわけないだろ。はっきりチャンジャと栃尾の油揚げと叩きキュウリとサイコロステーキと聞こえたぞ」
 ち。無駄に記憶力がいい。
「腹減ったろ?」
「腹は減ったがおまえに食わす飯はない」
「しみったれたこと言うなよ。おまえと俺の仲じゃないか」
「ただのいとこに扶養の義務はない」
「大げさだなあ。それに一杯目は俺が奢るって言ってるだろ」
 そこへ丁度アルバイトの女の子が生中を二つ持ってやってきた。
「生でーす」
 年は優毅よりも下だろう。大学一年生くらいか。のっぺりした顔を隠すためなのか化粧が濃くてかえって不自然だ。
 そこへ彩羽さんが小鉢の載ったトレイを手に近づいてきた。
「ゆなちゃん、おつまみ忘れてるよ」
 そう言って、彩羽が「ごめんね」とチャンジャときゅうりの叩きをテーブルに置いた。
「あ、すいませーん。忘れてました」
「小鉢とか冷物はドリンカーの冷蔵庫に入っているから、フロア担当が持っていくようにしてね」
「それ、前にも聞きましたよ」
 あっけらかんとアルバイトのゆなは言う。
 忘れていたから知らないのかと思って彩羽は優しく教えてくれているのに、親の心子知らずというか。彩羽さんも大変だな、と思った。
「そう。じゃあ、次から気を付けてね」
 彩羽はそう微笑むと、隣のテーブルの客に呼ばれて行ってしまった。
 出来の悪いアルバイトにも怒らないなんて、さすが彩羽さんだ。と思っていると、その
ゆなが話しかけてきた。
「お二人って兄妹なんですか?」
すると藤十郎が、「違います」と即答して、乾杯もしてないのに、ビールを飲み始めた。結局飲むのか。
「俺らはいとこだよ。君、アルバイト最近始めたの? 俺よくここ来るけどあまり会わないよね」
 優毅は何気なく言ったつもりだったが、何故か藤十郎のじとっとした視線を感じた。
「わたし今日で三回目ですよ。このバイトきつくって、もう辞めちゃおうかなーと思って」
「まだ三回目なのに?」
「あ、手羽唐ありがとうございました」
「ああ、君も食べたんだね」
「美味しかったです。わたし食べるの好きで。ここで働いたら美味しいものいっぱい食べられるかなあって思ったのに、全然当てが外れちゃいました」
「へえ」
 食い物目当てでは不満もたまるだろう。彩羽さんを見ていても、店が混みだしたら水を飲む暇もなく何時間も動きっぱなしだ。
「御在所に寄るってことは、三重県とかですか?」
 相槌を打ったのは優毅なのに、ゆなは藤十郎の方を向いて言う。
「うん、そうだよ」
 この相槌も優毅。だがゆなは藤十郎しか見ていない。
「ほんとですか。出身校とかどこなんですか? わたしも実家三重県なんですよ」
「あ、そうなんだ。高校は二人とも四日市だけど」
「え、マジ! すごいじゃないですか。県内トップですよ。え、じゃあ、大学とかどこなんですか?」
「……」
 それは藤十郎のためにこたえてやる義理はない。
「東大です」
 照れるでも自慢するでもなく、ごくごくナチュラルに藤十郎は答えた。それが逆にいやらしい。
「俺はアップ東大だけどね! 東大の上を行っちゃうアップ東大よ」
「は?」
 ここではじめてゆなの視線が優毅に投げかけられた。
 客を見る目とは思えない、至極冷ややかな眼差しであった。
「いやだから、上東大だから、UP東大って」
 優毅が苦し紛れに説明すると、
「ああ、四流大ね」
 と、軽くあしらわれた。
 そしてゆなの顔はまたすぐに藤十郎に向く。
「東大なんてすごいですね。今度合コンとかしませんか?」
 要するに、ゆなはこれが目当てなのだ。
「すみません。そういうのは興味がないので」
 こういうとき、未練もなくスッパリと斬る藤十郎が憎たらしい。
「ええ、子ども扱いとか酷い。わたしもう21ですよ。仲間も大人びた子呼びますからぁ」
「いや、結構。ぼくは妹しか興味ないんで」
「は、妹?」
 聞き間違いだろうか、とゆなは首を傾げている。
 だが、聞き間違えではない。
 優毅はチャンスだとばかりに、
「そういうこと、だよ」
 と、言ってやった。
「へ、へえ……。あ、仕事戻らなきゃ」
 ゆなは藤十郎のシスコンに気づいたらしく、顔を引きつらせながら、去って行った。
 藤十郎は何事もなかったかのようにビールを飲んでいる。超ド級の変態をよくもぬけぬけとカミングアウトできるものだ。
 このままじゃ藤十郎は一生結婚できまいな。
 入れ違いに、彩羽さんが料理を持ってきてくれた。
「お待たせいたしました。栃尾の油揚げ鰹節醤油と熱々サイコロステーキでございます」 
 料理から香ばしい匂いが漂ってくる。
 いつの間にか店内は込み合っている。彩羽さんの額にはうっすらと汗が滲んでいた。
 そんな忙しいときにも笑顔を絶やさない彩羽さんが好きだ。大好きだ。
「ありがとうございます。忙しいのになんかすいません」
「全然だよ。さっき聞こえちゃったんだけど、優毅くんって意外と頭良かったんだね」
 彩羽さんはしゃべりながらも、作業の手を休めない。今はサイコロステーキにソースをかけてくれている。
 小皿に取り分けまでしてくれるところがこの店のいいところだ。お客さんは上げ膳据え膳でお殿様気分でいられる。
「そうなんだよ。実は頭いいんですよ」
 優毅が答えるのへ、藤十郎はビールを飲みながら呆れた顔をしている。
「お嬢さん。四流大学を三回も留年していたらちょっと良い高校を出たことなんて何の自慢にもなりませんよ」
 藤十郎が口の片端を上げて嫌な笑い方をする。
「そういうものかなあ。あ、おかわりいかがですか?」
 彩羽さんは藤十郎のビールがグラスの三分の一になったのを見てすかさず聞いてきた。
 一杯で帰ろうと思っていても、彩羽さんの天使の笑顔で尋ねられるとつい、
「それじゃあ、同じものをもう一杯」
となってしまうのだ。
「ありがとうございます。ただ今お持ちします。あ、手羽唐、あとでいただくね」
 彩羽さんがさわやかにそう言って去っていく姿を見送っていると、「おい」と藤十郎に睨まれた。
「なんだい」
「おまえのやりたいこととは、まさかこれか?」
「はい? なんのことでしょうか」
 ギクリとしたのがバレてないだろうか。
 優毅は笑顔を作ったが、我ながらぎこちない。
「おまえが三重に帰りたくない理由は、彩羽さんだな?」
「なにをばかなことを」
「惚れているだろ」
「ばっばか。彩羽さんには婚約者がいるんだ。変なこと言うなよ」
「なんだよ。横恋慕か」
 つまらなそうに藤十郎は残りのビールを飲み干す。それを待っていたかのように、彩羽がジャストタイミングで生ビールを持って戻ってきた。
 生ビールの泡は減っていることなく、クリーミーで完璧だ。
「彩羽さん、俺も追加お願いします」
「はい、かしこまりました。今日は羽振りがいいねえ、優毅くん」
 彩羽さんが嬉しそうにハンディを打ち込む。
 君のこの笑顔が見られるなら俺は何杯だってビールを頼むよ。藤十郎のお金で。
「今日は藤十郎がおごってくれるんです」
「そうなんだ。いいいとこさんだね」
 は? だれがおごると言った? おい、聞いているのか。
 藤十郎が何か言っているようだが無視して優毅は彩羽さんと話をつづけた。
「そう。いいいとこさんなんですよ。実は俺、仕送り止められちゃうことになってさ。それで、いとこ様が不憫に思って、飲みに誘ってくれたんです」
「そうだったんだ。でも、仕送りないと大変だね。家賃もばかにならないでしょ?」
「まあ、アルバイトでもしてなんとかするよ」
「あ、それならうちでバイトする? まかないもでるよ」
「え、ほんとに?」
「うん。実は募集はずっとかけてるんだけど、なかなか人が集まらなくて。優毅くんが働いてくれるなら私も助かるし」
「正社員登用制度はありますか?」
 藤十郎が何故か身を乗り出して話に割り込んできた。
「ありますよ。でもあまり正社員は……」
 彩羽さんは珍しく困ったような顔をした。
「大丈夫。3Kだろうがなんだろが、こいつはやれるやつです。正社員登用を前提に、ぜひ使ってやってください」
「おい!?」
 正社員なんて考えたこともない。何を勝手に決めているんだ。
 だが、優毅が反論するより早く、
「ありがとう」
 と、彩羽さんに言われてしまった。
 その安心しきった笑顔を見たらもう何も言えない。
「まずはアルバイトから……よろしくお願いいたします」
「うん。こちらこそ、よろしくね」
 そのとき、ドアベルが鳴って、ダークスーツに解禁襟のいかつい男が一人入ってきた。
 どうみてもカタギではない。
 彩羽さんはその男を見るなり顔色を変えて、
「それじゃ、詳細はまた連絡するね」
 と言うと、そそくさと行ってしまった。
 店に入ってきた大男は、そのまま堂々と厨房の方に入って行く。
「おはようございます!」
 威勢のいい男たちの声が聞こえてきた。
「本社の幹部だろうな。正社員になったらアレの部下か。まあ、がんばれよ」
 藤十郎は他人事だと思ってお気楽だ。
「なんで俺が居酒屋の正社員になんかならなきゃいけないんだよ」
 言ってしまってから、今の発言が彩羽さんに失礼だったことに気が付いた。彩羽さん、ごめん。
「やりたいことがあると言って出てきたんだ。嘘でもその姿勢を見せなきゃ、学費も払ってもらえなくなるぞ」
「ぐぬぬぬぬぬ」
 藤十郎の言っていることにも一理ある。
「それに、四流大を三回も留年しているやつがまともに就職できるわけがないんだ。藁をもすがらなきゃいけない事態なのに、その藁がないんだぞ。一つでもチャンスを逃すな。ちゃんとまともに就職すれば、親父さんもおまえに無理に跡を継がせようとはしないだろ」
「そうかなあ」
 でも、そうかもしれない。
 道場だけでは食っていけないことを父も理解はしている。
 東京で就職した、という事実を作れば、変な道場なんて継がなくて済むかもしれない。
 ならばとりあえず、働いてみるか――。
 彩羽さんに会える時間も増えるし。
 そう思って彩羽さんの姿を探していると、厨房のほうから出てくる彩羽さんと目が合った。彩羽さんは泣きそうな顔をごまかすようにして笑った。……気がした。
 
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