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3 忍術 風流で取り入る術

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「あ~ダリィ」
 恵木は店に入るなり座敷に上がり、部屋の隅に重ねてあった座布団の束から5枚抜き出して並べると、その上に寝転がった。
 彩羽さんは座布団はお客様が使うものだからと言ってどんなに疲れていても絶対に自分では使わない。
 部屋の隅に重ねてあった座布団だって、彩羽さんが掃除機をかけて、ファブリーズをして乾かしておいたものだった。
 彩羽さんの真心が踏みにじられたみたいな気になって、何ともムカっ腹が立った。
 しかし、こいつに気に入られなければ、正社員への切符はないし、樹神さんをブリュワーにしてくれと頼むこともできない。
「おい、バイト」
 恵木が優毅を呼んだ。
 優毅がアルバイトを初めてもう3ヶ月以上経つが、恵木は一向に優毅の名前を覚えようとしない。覚えていてわざと呼ばないだけかもしれないが。
「なんですか」
 優毅が近づいていくと、恵木は寝転んだまま
「4時55分に起こせ」
と言った。
 恵木はもうタイムカードを押したはずだが、開店準備は一切手伝わない気らしい。
 いつものことなので彩羽さんも相手にはしていない。
「わかりました」
 優毅は答え、どうやって忍術をかけるべきか、恵木を見下ろして観察した。
 恵木の腕にはロレックスの時計。
 とりあえずこれを褒めれば気分を良くするだろうか?
 それとも恵木の好きなパチンコの話でもするか。優毅はスロットしかしないが、話を合わせることくらいなら出来るだろう。
 それとも、好きな食べ物の話とかの方が良いんだろうか? 
 だが、どれにしても恵木に媚を売っている自分を想像すると吐き気がした。
 4時54分。
 それまで開店準備に忙しく立ち働き、今はお通しのセットアップをしていた彩羽さんがふと手を止めて、優毅を呼び止めた。
 優毅はトイレ掃除を終えてホールに戻ってきたところだった。
「優毅くん、もうすぐ55分だけどエリマネ起こさなくて大丈夫?」
「あ、そうでした」
 彩羽さんに教えてもらわなければすっかり忘れるところだった。
 優毅は慌てて座敷で寝ている恵木のところに行き、声をかけた。
「エリアマネージャー。時間ですよ」
 Yシャツの裾の下から毛モジャの腹が覗いている。
「恵木さん。時間です」
 恵木はもにゃもにゃ言うが目を覚まさない。
 そうこうしているうちに開店の時間になってしまう。
 彩羽さんが暖簾を持って店の外に出た。
「恵木さん! 起きてください!」
 決して触りたくはなかったが、優毅は仕方なく恵木の毛モジャの腹を叩いた。
「あ? ああ、時間か」
 恵木はようやく目を覚まし、ロレックスに目をやる。
「てめえ、もう5時じゃねえか。4時55分に起こせっつったろ!」
「いや、起こしましたけど、あなたが起きなかったんで」
「なんだと?」
 恵木が鼻白むのを見て、優毅は恵木の機嫌を取らなければいけなかったことを思い出した。
「いい時計してますね。目覚まし機能は付いてないんですか?」
「てめえ、バカにしてんのか!」
 恵木が怒鳴り声をあげて、優毅は初めて自分の失言に気が付いた。
 これじゃあ、嫌味じゃないか。
「とっとと失せろ」
 しっしっと、手で追い払われ、優毅はその場を後にした。
 藤十郎に奢らせるのは簡単なのに、どうも他の者に術をかけるとなるとうまくいかない。
 まずは相手を観察することが大事だ。
 そう思って優毅は恵木の行動をよく見るようにした。
「エリマネ。トイレの芳香剤を買ってきたので、伝票経理に回しておいてもらえますか」
 彩羽さんがエリマネに領収書を渡した。
 恵木はそれを受け取り、眉を顰める。
「おい、高けえよ。芳香剤なんて100円均一ので十分だろ」
「でも、100円のだと匂いがきついし、すぐに効果がなくなってしまうので」
「知らねえよ。じゃあ置かなきゃいいだろ。経費削減っていっつも言ってるだろうが」
 恵木は彩羽さんもしっしっと追い払い、製氷機の氷の入れ替えをしているバイトリーダーの勉に怒鳴りつけた。
「おい、氷捨てるな!」
「え、でも。小さくなった氷は捨てておかないと、間違ってお客さんに出しちゃうことがあるので」
「氷は氷だろうが。小さかろうがなんだろうが、客はそんなこと気にしねえよ。もったいねえだろ!」
 見かねて、別の仕事をしていた彩羽さんが再び戻ってきた。
「うちの店は他の居酒屋に比べてドリンクが美味しいのが売りです。氷も商品の一つです。溶けかかったような小さくなった氷がドリンクに使用されていたら、不快に思うお客様もいるかもしれません。それに製氷にかかるコストは、1㎏86円くらいですよ。それだけのコストで、お客様に満足を与えられるなら、ちゃんとやるべきです。それにこのことは、本部とも相談して決めたことです」
 彩羽さんはそうきっぱりと言ったが、恵木は納得しなかった。
「本部がなんだ。現場は俺に任されてんだ。平社員が生意気な口きいてんじゃねえぞ。そこまでする必要はねえ」
 ああ、やっぱりだめだ。
「それってお客様に失礼なんじゃないですか?」
 優毅は恵木の理不尽につい黙っていられなくなった。
「あ?」
 恵木が標的を優毅に変え、睨みつけてくる。
 だがそんなもの、父の睨みに比べたら屁でもない。
「そこまでする必要がないとか、コストとか。それってこっちの都合ですよね? 本部がサービスとして必要だと認めたことなら、あんたがとやかく言う問題じゃないでしょう」
「んだと?」
 恵木の眉根に皺が寄る。おそらく、とてつもなく怒っている。
 だが優毅はやめなかった。
「俺はここの店の常連でしたけど、生ビールはグラスがキンキンに冷えてて泡もクリーミーで最高でしたし、ハイボールも溶けにくい大きな氷がたくさん入ってて見栄えも味も、他の店に比べても抜きんでていましたよ。そういうのが良くて、俺はこの店に通っていました。差別化って大事ですよね? 他の店にはないウリの部分、勝手になくしちゃっていいんすか?」
 恵木が優毅に近づいてくる。
 殴る気か。
 優毅が身構えようとしたそのとき、店の自動ドアが開いた。
 ドアチャイムが鳴り、そちらを振り向いた恵木は急に直立不動になった。
「こんばんは!」
 そう叫ぶように言って、腰を直角に折る。
 厨房からも料理長が出てきて、同じように直角に頭を下げた。
 その先に立っていたのは、スーツを着たパンチパーマのような天然パーマの中年男と、薄ピンク色のレースのふりふりワンピースに、白いハイソ姿というどこか浮世離れした女の子だった。
「こんばんは。お嬢様、お久しぶりです」
 彩羽は会釈して、女の子に話しかけた。
 身長は彩羽より少し低いくらい。長い黒髪は耳の上の辺りで左右対称に結ばれている。
「あ、彩羽ちゃん。こんばんは~。このまえはどうも」
 女の子のしゃべり方はふわふわとして、随分ゆっくりだった。それを聞いて、優毅は誰かを思い出しかけた。どこかで会ったことがあるのだろうか?
「いえ。今日も下見ですか?」
 彩羽のその問いに、天パが答える。
「いや、お嬢様は今度からこの店で研修を受けることになった」
「え――。お嬢様って、役員でしたよね?」
 これには本人が答える。
「うん。でも、人が足りないから働きなさいって、お父様に言われて」
 ふと、お嬢様の視線が優毅とぶつかった。
 途端、「まあ!」と、お嬢様が声を上げた。
 あまり不躾に見すぎていただろうか。
 優毅が会釈をすると、お嬢様が近づいてきて急に優毅の手を取った。
「イケメン。タイプ。あなた、お名前は?」
「加藤優毅ですが……」
 お嬢様の白く清楚な顔が優毅のもう目前にある。
「ゆうき。素敵なお名前ね。ゆうちゃん。わたしは台堂姫奈。ひめちゃんって呼んでね」
「はあ……」
このグイグイくる感じ。今までに会ったことないタイプで、優毅はたじろいだ。
「ねえ、今からごはんいこ」
「いや、俺今からバイトっす」
「研修だよ、研修。このお店のこと、色々教えて」
「でも、俺金ないし」
「大丈夫、研修だもん。経費で落ちるでしょ? ねえ、恵木っち」
 と、姫奈は恵木のことをうかがうように見つめた。
 恵木は顔を引きつらせながら笑って頷いた。
「どうぞどうぞ。大事な研修ですからそりゃあもう」
 なんだこいつのあからさまな媚びを売る態度は。しかもなんか勝手に話が進んでいる。
「いや、俺家賃払わなきゃだから、稼がないとなんすよ」
「大丈夫だよ。仕事だもん。お給料もちゃんと出るよね? ねえ、恵木っち」
 姫奈に視線を向けられて、恵木はもうやけくそとばかりに大きく頷いた。
「当然ですよ! いってらっしゃい!」
 そうしてその日のバイトは、姫奈お嬢様とふぐを食べて終わった。
 てっさにてっちり、皮の湯引きに、唐揚げ。めちゃくちゃ美味しかった。
 経費で出せるのかは知らないが、お嬢様が代金はすべて持ってくれた。
 かわいいけど変わっている変な女だと思っていたが、なかなかいい奴かもしれない。
 優毅にとって、奢ってくれる者は皆善人だ。
「あ~満腹満腹」
 22時で姫奈と分かれ、優毅は家路についた。
 よく考えたらシフトはクローズまでだった。
一瞬立ち止まって考えたが、もうお酒も飲んでしまったし、姫奈にも帰ってよいと言われたので、お言葉に甘えることにした。   
 
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