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5 俺のやることは、いつも裏目に出てしまいます。

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 翌日、優毅はちゃんと時間通りに講義に行った。
 まだ昼には早い時間。人もまばらの学食で一人サンドイッチを食べていると、サークルの後輩である佐々木が優毅を見つけてやってきた。
「先輩(パイセン)。珍しいすね、学食にいるの」
「学食にいるのが珍しいというより、大学にいるのが珍しいんだよ」
 ピンクのチェック柄のシャツにピンクのスニーカー。チャラ男。と、額に書いてあるような佐々木は、優毅の同意も得ないで勝手に向かいの席に腰掛けた。
「先輩(パイセン)、今日のサークル来ないんすか?」
 佐々木は確か今3年でサークルをとりまとめている。
「ああ、俺もういいよ。今年7年生だし引退だろ」
「ははっ! ウケる!」
  佐々木はチャラ男らしく何でもないようなことで馬鹿笑いをした。
 なにもウケない。
「引退するならサヨナラパーティーしなくちゃダメっすよ」
「いや、いいって」
「えーやりましょうよー。あ、そうだ。先輩(パイセン)のバイトしてる店はどうすか? 俺たち売上に貢献しますよ」
 その言葉には、少し興味を惹かれた。
 売上か――。
 彩羽さんがいつも上から売上売上とせっつかれているのを見ている。
 多少でも貢献できるなら、彩羽さんも喜んでくれるかもしれない。
「分かった。いいよ」
「マジすか! やった。じゃあ先輩、予約頼みますね50人で」
「え、そんなに来んの?」
「だって今日定例会っすもん。いつもの店飽きてたんすよねー。ちょうどよかったスよ。ところで、ノミホーありますよね?」
「飲み放題あるよ。でもコース料理にしか付けらんないよ」
「それでいいっすよ。コースは1番安いやつで。それじゃシクヨロっす!」
 佐々木はそう言うと、優毅の返事も待たずに行ってしまった。
 そんなに急に50人分ものコース頼んで大丈夫だろうか。
 優毅は心配しながら店に電話をかけた。
 まだ3時だが厨房の人が仕込みに来ているだろう。
 そう思っていると、彩羽が明るい声で電話口に出たので、驚いた。
「彩羽さんもう出勤してたんですか?」
「ん? その声は優毅くん?」
 つい名乗るのを忘れたが、声だけで優毅だと分かってくれたのは嬉しい。
「あ、すいませんそうです。今日なんですけど、50人予約なんて取れますか?」
「50人!? すごいね」
 彩羽さんのすこし困った声。
「やっぱりダメですよね」
「座敷は空いてるんだけど……何かの会?」「ああ、一応、サークルの俺の送別会らしいす」
「ほんとに。わかった、大丈夫だよ。飲み放題のコースになるよね? ちょっと食材変わるけどいいかな」
「そんなのは全く問題ありません。なんかすみません」
「全然だよ。ありがとう。それじゃあ準備しとくね。何時からかな?」
「6時からでお願いします」
「かしこまり。じゃあ後でね」
「はい。また後で」
 電話を切ってほっとする。
 昨日の感じでまだ怒っていたらどうしようかと思ったが、もう機嫌は治ったようだ。
 
 午後5時少し前。
 優毅は早めに店に赴いた。
 彩羽さんに早く会いたかったし、何か手伝えることがあれば手伝おうと思ったのだ。
 店に入ると、勉さんがレジの釣り銭の確認をしていた。
「おはようございます」
 優毅が声をかけると、勉か顔を上げて驚いた顔を見せた。
「おはよう。優毅くん今日シフト入ってたっけ?」
「いや。今日はお客で。すいません急に大勢で」
「大勢――あ、あの50人の団体客って優毅くんだったの?」
 勉は言いながら、非難がましい目を優毅に向けた。
 優毅はそれを受けて少しムッとした。
 急だったとはいえ、売上に貢献したのだ。なんでそんな目で見られなくてはいけないのか。
「なにか問題ありましたか?」
 つい喧嘩口調になると、丁度トイレから出てきた恵木が、
「問題大アリだ!」
と、怒鳴りつけて厨房に入って行った。
「恵木さん、急にシフトに呼ばれたから機嫌悪いんだよ」
「そうなの?」
「そりゃそうだよ。急に50人分のコース料理作るなんて大変なんだよ。普通は断るんだけど、今日は特別だからって、店長が無理を通してさ」
「そうだったんだ……」
彩羽さんは、優毅の送別会だと聞いて無理をしてくれたのだろう。また、迷惑をかけてしまった。
「だから、今厨房の人もみんなぶつくさ文句言ってるよ。食材だって足りないから、わざわざ買い足してきたところだよ」
「ごめん……」
 優毅が言うと、
「まあいいけどさ。これも仕事だから」
 勉はそう言って許してくれたが、他の者はどうだろう。
 無理な仕事を引き受けた彩羽さんを恨むかもしれない。
 優毅は想像力の足りない自分に腹が立った。ちょっと考えればこんなふうに彩羽さんに負担をかけることくらい分かりそうなのに。
 それに彩羽さんが多少無理しても優毅の頼みを聞いてくれようとすることも。
「彩羽さんは?」
 優毅が聞くと、
「奥だよ」
と、勉は、素っ気なく答えてまた作業に戻った。
 優毅が休憩室のドアを開けると、彩羽さんがこちらに背を向けて座っていた。
「おはようございます」
 優毅は声をかけたが返事がない。
 やはり怒っているのだろうか。
 彩羽さんの前には大きめの短冊が何枚も広げられていた。
 隣の椅子には、『自家製唐揚げ 300円』と書かれた短冊が置かれている。
 他にもメニューの書かれた短冊が重なっている。
 そうか。昨日姫奈にPOPを剥がされてしまったから早く来て書き直していたのだろう。
 それにしても改めて見ると凄い量だ。
 破り捨てるのは簡単でも、作って貼るのは手間がかかる。
 彩羽さんに近づくと、彩羽さんは筆を持ったまま眠っていた。
 机には、『樹神特製クラフトビール』と書かれた短冊が置いてあった。
 そんなメニューはない。架空のメニューだった。
 でもそれが、彩羽さんの樹神さんへの強い想いなのだと知って、悔しくて、ただ自分に太刀打ち出来ないことを今更ながら思い知らされた。
「彩羽さん」
 優毅が小さく呼ぶと、彩羽ははっと目を覚ました。
「あ、優毅くんおはよ。ごめん寝ちゃってた?」
「いつからやってたんですか、これ」
 彩羽さんは目をこすりつつ言った。
「閉店後からだよ。久しぶりに書いたら中々うまく書けなくて」
 まさかとは思ったが、
「徹夜しました?」
「うん。でも今少し寝たから」
「そんなの寝たうちに入らないでしょう。良かったら残りは俺が書きますから、彩羽さん少し横になってきてください」
「え、でも優毅くん――」
 書けるの?
 という言葉を彩羽は飲み込んだようだった。
 優毅は苦笑いして、
「上手かどうかは分かりませんが、筆には慣れてますし、人の筆跡も真似できます」
と言って、彩羽さんから筆を借り、一枚短冊に書いて見せた。
『絶品! 樹神クラフト。絶対飲まなきゃ損!』
「どうですか?」
「凄い……」
彩羽さんは、心なしか潤んだ瞳を優毅に向けた。
「彩羽さん?」
彩羽は黙って口をつぐんでいる。頰には笑窪が浮かんでいた。
「こめん。なんか、なんだろう。すごい上手な字が意外で驚きと、でもこのPOP……嬉しくて……あれ、なんでこんなことで涙が出ちゃうんだろう」
 彩羽はそう言って涙を手の甲でぬぐった。
「彩羽さん疲れているんですよ。ほら、5分でもいいから横になると違いますよ。あとは俺がやっておきますから」
「ごめんね。優毅くん、今日、仕事じゃないのに」
「こちらこそ、急に無理言ってすみませんでした」
「全然だよ。優毅くんのお役に立てるなら嬉しいし」
 彩羽の言葉に、優毅の胸がじ~んと響いた。
 まさか彩羽さんがそんな風に思ってくれてるなんて――。
「それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらうね。優毅くんなら安心して任せられるから。よろしくお願いします」
彩羽さんはそう言うと、席を立った。
 安心して任せられる。
 その言葉に俄然やる気が湧いた。
 彩羽さんが休憩室を出て行ってからも、彩羽さんの嬉しい言葉の余韻に浸りつつ、優毅はPOPの残りに取り掛かった。
 
 しかし、結局彩羽さんは、休めなかった。
 出来上がったPOPを店内に貼っているうちに店が混み始めてきてしまったのだ。
 優毅の書き終えたPOPも全て貼って、元通りにすることはできた。
 POPを貼り替えろと言った当の姫奈は、午後6時頃になってようやく出勤してきたが、新しく貼り替えられたPOPには目もくれなかった。
 姫奈は可愛くないという理由で制服を着ない。エプロンだけはつけるが、白地にピンクの花柄ワンピース姿で接客する姿は非常に異質だった。
 優毅は集まり始めたサークルのメンバーと座敷にいた。しかし、時間になっても半分くらいしか来ていない。
 優毅はあえて下座に座った。本来なら引退している身なのだ。目立つべきじゃない。家柄がアレだけに、そういうところは気にしてしまう。  
 右隣には佐々木が、左隣には今年入った1年生の女子が座っていた。
 女子はきゃっきゃっと優毅に話しかけてくる。面倒に思いながらも、優毅が適当に雑談を交わしている横で、佐々木が来ていないメンバー一人一人に確認の電話を入れていた。
 最後の一人に連絡を入れ、佐々木は頭をかきながら優毅に向き直った。
「すんません。予約30人に変更できます?」
 優毅は佐々木の言葉に一瞬、耳を疑った。
「は? 無理だろ。もう人数分料理も用意されてるし」
「そこをなんとか!」
 佐々木は顔の前で手を合わせて優毅に拝んでくる。
「この店、キャンセル料てなかったすよね?」
「そういう問題じゃないだろ」
 彩羽さんや店の人たちは、このクズどものために席の準備や料理の仕込みをしてきたのだ。食材も無駄になるし、座敷を貸し切りにすることで他のお客さまも断ったかもしれない。
 そういう人の気持ちや努力を踏みにじることになるのが、こいつは分からないのか?
「ドタキャンした奴らからちゃんと金もらえよ」
「いやぁ。ドタキャンっつうか、俺が勝手にあと20人くらいは来るかと思ってたんすけど」
「は? 人数ちゃんと決まってなかったのか?」
「いやまあ、そんなのいつもテキトーすよ。ちゃんと決まった人数になることなんてないんすから」
  優毅は拳をぎゅっと握った。目の前のチャラチャラした佐々木の顔を殴ってやりたかった。
 だがそうしたらまた騒ぎになって彩羽さんに迷惑をかける。
 口を開くと罵倒しそうで、優毅は静かに唇を噛み締めていた。
 そんな優毅の怒りなど知る由もせず、佐々木はヘラヘラと笑って言った。
「ま、そういうことなんで、先輩店の人に言っといてもらえますか。とりあえず始めましょう」
 佐々木はビールジョッキを持って立ち上がり、サークルのメンバーを注目させた。
 今日は優毅の送別会であることを告げ、乾杯の発声をした。
 それが終わるのを待って
「じゃあ、キャンセルしてくるよ」
 優毅はそう言って立ち上がり、レジにいる彩羽のもとへ行った。
 お客さまの会計を終えたタイミングで彩羽を呼び止める。
「彩羽さん、ごめんなさい!」
 優毅は深々と彩羽に頭を下げた。
「どうしたの?」
 彩羽さんはきょとんとする。
「今日の人数、30人になっちゃいました。人数分のお金は払うので、余った食材は他のお客さんに特別サービスてことで配ってもらえませんか? そうすれば店の利益も落ちないですよね?」
 優毅が彩羽さんに迷惑をかけたくない一心で考えた結果だった。
「え、そうなの?」
 彩羽さんの顔が心なしか赤い。
 無理して予約を入れてもらったのに、連絡もなしに当日に20人分もキャンセルだ。
 そんなの、怒るに決まっている。
 だが彩羽さんは、
「それは大変だったね」
と言ったのだ。
 彩羽さんは、腹を立てるどころか、優毅に同情をした。
「お金はいいよ。うち、キャンセル料取ってないから」
 彩羽さんはにこりと笑って言った。
 いつもは太陽のようで癒されるその笑顔が、今は優毅の胸にグサリと突き刺さって痛い。
「いや。払います。俺の責任ですから」
「気持ちだけで充分だよ。優毅くんそんなに払えないでしょ?」
 確かに、飲み放題付コース4000円×20人で80000円。手持ちはない。
「大丈夫ですよ。クレジットカードがあるんで」
 普通のクレジットカードは審査が通らないが、コンビニのポイントカードがリボ払い専用のクレジットカードになっていたはずだ。
 すると彩羽さんは急に目をつり上げ、
「リボ払いでしょう? そんな簡単に使っちゃダメ」
と、怖い顔をして言ったのだ。
「でも、」
 優毅が食い下がろうとすると、別の客が会計に来てしまった。
「ほら、もう行って。主役がいないと場が締まらないよ」
 それから立て続けにお客さんが来て、彩羽さんとはもう話のできる状況ではなくなってしまった。
 彩羽さんに追い返されるようにして宴席に戻ると、佐々木が立ってビールを一気飲みしていた。
 他のサークルメンバーはそれをコールで盛り立てる。
 笑い声が座敷の外にまで漏れていた。かなり騒がしく、近くの席のお客さんは座敷の方を見て顔をしかめている人もいた。
 佐々木は一気飲みを終えて座るなり、「あ~キツ! マズ!」とゲップをした。
 なんだろう、この佐々木の態度に違和感を覚える。
「嫌ならやらなきゃいいだろ」
 そんな優毅の言葉など聞こえないようで、酔った佐々木は優毅のコップにビールを注ぐ。
「場を盛り上げるためっすよ~。ほら、つぎ先輩っすよ」
 近くにいた女子たちも、優毅に一気飲みさせようと盛り立てる。
 だがそれが逆に優毅を興醒めさせた。
「俺はやらないよ」
 場の空気が白けるのが分かった。
 でも構わない。
 こんな奴らに合わせる気などない。
 連れてくるんじゃなかった。そのことを今心底後悔している。
「そぃじゃ俺が代わりに!」
 そう言って佐々木がふらつきながら立ち上がり、瓶ビールを瓶ごと飲み始めた。
 手拍子にコール。飲み終わると笑い声と歓声で確かに場は盛り上がった。
 だが、何故か優毅にはそれが腹立たしくて仕方なかった。
「なに気取ってんすか。一気飲みらんて先輩(パイセン)がぁ俺らに教えたことじゃないっすかぁ」
 既に呂律が怪しくなっている佐々木が馴れ馴れしく優毅の肩に手を置く。
 優毅はそれを静かに振り払い、黙ってビールを飲んでいた。
 確かに大学に入ったばかりの頃は、こういう宴会も新鮮で、一気飲みして場が盛り上がるのも楽しいと思っていた。
 けれど、彩羽さんや樹神さんのように、お酒に真摯に向き合っている人たちのことを知ってしまったら、佐々木たちのやっていることがひどく幼稚に思えて仕方ないのだ。
 実際、みんな優毅より若いのだ。
 やはり自分はもうここにいるべきじゃない。でもじゃあ、どこにいればいいんだ。考えてみれば、どこにもない。大学の同級生たちはもうみんな就職して立派に働いているし、後輩のノリにはもうついていけない。
 優毅は、今更自分に居場所がないことを思い知らされた気がした。
 そこに彩羽さんが追加の瓶ビールを持ってきた。
 優毅が受け取ろうとすると、佐々木が割り込んできた。
「お姉さん、美人だね。もしかして加藤先輩(パイセン)のカノジョすか?」
 いきなりなんてことを聞くんだ!?
「ばか! そんなわけないだろ」
 優毅は佐々木を押し除けて彩羽さんからビールを受け取る。
「すいません、後輩が変なこと言って」
 いつもの彩羽さんなら笑って許してくれるのに、この時の彩羽さんは薄く苦笑いを浮かべただけだった。
 心なしか青ざめていて、目も虚だ。
「それじゃ、ごゆっくり」
 優毅はいつもと様子の違う彩羽さんが心配になって、退室したあとも少し見守っていた。
 するとドリンカーに入ってまたすぐ生ビールをたくさん乗せたトレンチを持って出てくる。
 店は賑わっていて忙しそうだった。
 レジのところで客が店員を呼んでいる。
 彩羽さんが生ビールを持ったまま「ただいま伺います」と答えるが、誰もレジにはいかない。 
 ホールには姫奈と優毅より2カ月あとに入ってきた新人バイトが1人いた。
 バイトは他の客の注文を取っていて、姫奈は若いイケメンの客と雑談している。
 会計待ちの客がイライラしている。
 あれ以上待たせるとクレームになるぞ。
 優毅は思わず席を立ちレジに向かった。制服は着ていないが、構う暇はない。
「遅えぞ、いつまで待たせるんだ!」
 案の定客は怒っていて、酔った勢いもあってか口汚く優毅を罵倒した。
「ったく、このクズが。居酒屋の店員はみんあゴミクズばっかだな。おめえも、そうだろ? 他に働き口がねえから、仕方なく居酒屋で働いてんだろ?」
 はじめの頃は気分を悪くしたものだが今ではだいぶ慣れてきた。
 とにかく、口ごたえしないことだ。理不尽なことを言われても耐える。
 そうしているうち、客も気が済んだのか、おとなしく帰っていった。
「ごめんね、優毅くん」
 彩羽はバッシングしてきた皿を大量に抱えたまま忙しなく優毅の隣をすり抜けていく。
そしてすぐまた、生ビールを沢山載せたトレーを持ってドリンカーから現れる。本当に息つく暇もない。
 彩羽さんの顔色が悪いのは忙しいせいだろうか。額に汗も浮かんでいた。
 しかし優毅は次の客の会計に追われ、彩羽のことを気にかける間がない。
 並んでいた最後の客の会計を終えた時だった。
 ガシャーン! 
 という騒々しい音とともに、悲鳴が上がる。
「申し訳ありません!」
 音の方をふり向くと、彩羽が立ち上がった男性客に向かって頭を下げていた。
 男性のスーツは腰から下がずぶ濡れで、床とテーブルには倒れたジョッキが転がり、ビールが水たまりを作っていた。
 優毅は、彩羽さんが運んでいたビールを倒し、お客様にかけてしまったのだとすぐに理解し、すぐにドリンカーに駆け込み、ふきんを数枚掴み取って彩羽さんのところに向かった。
「申し訳ありません」
 と一緒に謝りながら、お客さまに布巾を渡す。
 彩羽さんは頭を下げたまま動かない。いつもならこういうときでもテキパキと処理をするのに。
「彩羽さん?」
 優毅が下から覗き込むようにして彩羽を見ると、彩羽は額に脂汗を浮かべ、目を閉じて辛そうな顔をしていた。
 彩羽の異変に気付いた優毅は、他のバイトを呼んで後を頼み、彩羽を抱えるようにして休憩室に入った。
 彩羽は足取りもフラフラで、身体が異様に熱い。
「彩羽さん、熱があるんじゃ」
 優毅は彩羽を休憩室の椅子に座らせ、額に手を触れた。
 やはり、熱い。
「ごめんね、優毅くん。もう大丈夫だから、みんなのところに戻って」
 大丈夫なわけがない。
 今ホールには入ったばかりのバイトと、使い物にならない姫奈がいるだけだ。
「俺、ホールに入ります。彩羽さんはここで休んでいてください」
「でも、」
「給料はいりません。てゆうか、今日のキャンセル分として取ってください」
「だめだよ、そんなの。優毅くんの送別会なんだから。私はもう大丈夫だから」
「大丈夫じゃないだろ!」
 立ち上がろうとする彩羽を、優毅は両肩を抑えて座らせた。
「無理しないでください。俺、心配でたまりません」
「優毅……くん……」
 彩羽は優毅を見つめた。熱のせいか瞳が潤んでいる。
「俺、頼りないと思いますけど、ホールの仕事は覚えましたから。あとは任せてください」
 ね?
 と笑いかけると、彩羽も安心してくれたようだった。
「ごめんね。ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて少しだけ休ませてもらうね」
 彩羽さんは先程ビールをかけてしまったお客さまにスーツ代を弁償すると伝えてほしいということだけ言うと、机に伏して目を閉じた。
 彩羽さんは直ぐに深い息をついて眠り始めた。よほど我慢していたのだろう。
 無理をさせてしまった。
 優毅は自分への苛立ちを抑え、ホールに向かった。 
 今は自分の出来ることをするしかない。
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