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6おばあちゃんみたいって言われちゃいました。

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「あれ? なにこれ、白菜?」
 彩羽さんの声が聞こえる。
 これは夢だろう。
 夢でも彩羽さんの声が聞こえるなんて、幸せだ。
「これは、くさっ! ネギ!?」
 ネギ? 夢の中の彩羽さんは何をしているのだ?
「え、てゆうか優毅くん!? おおい、お腹出して寝ると風邪ひくよ」
 ポンポンと、優毅の腹が叩かれた。
 はっとして目を開けると、彩羽さんが優毅の顔を覗き込んでいた。
「うわっ彩羽さん!? 本物!?」
 彩羽さんはくすりと笑って、
「本物だよう。優毅くん、昨日送ってくれたんだよね。ごめんね、迷惑かけて」
「いや、全然。あの、その、俺帰ろうとしたんですけど、その」
「覚えてるよ。私が引き止めたの」
 彩羽はそう言って少し顔を赤らめる。 
 まだ熱が下がらないのだろうか。
「一人じゃ、心細くて。ごめんね、ほんとに。好きでもない人に付き合わせちゃって」
「いえーー」
 言いかけて、優毅は彩羽の言葉のトゲに気づいた。
 好きでもない人。やはり、姫奈の前で言った言葉は最後しか彩羽さんには届いてなかったらしい。
 だがここで言い訳すると、彩羽さんのことが好きだとバレてしまいそうだ。
「もう謝らないでください。困ったときはお互い様ですよ」
 優毅は当たり障りなくそうとだけ言った。
「ありがとう」
 心なしか彩羽さんが寂しそうなのは、ただの妄想だろうか。
「ところで、この額に巻かれた白菜と首に巻かれた焼いたネギは何かな?」
 彩羽さんが不思議そうに白菜を撫でる。
「ああ、白菜は冷えピタの代わりで熱を取ってくれるんですよ。ネギは、首を冷やさないように」
「へえ。優毅くんって若いのにたまにおばあちゃんみたいだよね」
「おばあちゃん――」
 その言葉がガーンと頭の中で響く。
 せめてじいちゃんじゃなかろうか。いや、お父さんか。いやいや、どちらも嫌だ。
「でも、ありがとう。おかげで大分いいみたい」
「ちょっといいですか」
 優毅は気を取り直して、彩羽の額に手を当てる。
 昨日から何度もそうしてきたので、すっかり慣れてしまった。
 彩羽さんが目を見開く。
「やっぱりまだ少し熱がありますよ。顔も赤いし」
「それは……」
 彩羽さんは優毅から目をそらし、恥ずかしそうにしている。なにか気に障ることをしただろうか。
「どうしたんですか?」
 気になって優毅が問うと、彩羽さんは熱で潤んだ瞳を優毅に向けた。
「なんでもない。ただ、最近の若い子って、人との距離が近いんだなあと思って」
 優毅は首を傾げる。
「それって、どういうことですか?」
 優毅は素直に訊いてみた。
「なんでもない、ごめんね、忘れて。カンジョいるのに、引き止めたりしてごめん。よく考えたら、だめだよね。ごめん。つい、優毅くんには甘えちゃって」
「カノジョ? 俺、カノジョなんていないですよ」
「え、でも。姫奈さんと……」
「姫奈? 同い年だから気が合うだけですよ。昨日は腹が立ったし、もう絶交しました。俺が好きなのは彩羽さんだけですよ」
 妙な沈黙があって、優毅は自分の失言に気がついた。
「――え?」
「え??」
 優毅は内心青ざめて、
「え、あ、お、俺がぁ、俺は、彩羽さんを尊敬しています。そう、店長として」
 彩羽は苦笑いを浮かべる。それが少し残念そうに見えるのは、優毅の願望だろうか?
「ありがとう。でも、私は尊敬してもらえるような人間じゃないよ。ダメダメ。全然ダメ。ほんとダメ。ダメだよねえ」
 彩羽は言いながら、涙をこぼした。
「彩羽さん……」
「なんで私こんなにダメなんだろうねえ。私が頑張らなきゃいけないのに、風邪なんかひいてさあ」
 彩羽は顔を隠して嗚咽を漏らした。
「そうですね」
 優毅は、彩羽の手を掴み、顔からどけた。涙に濡れた彩羽の顔。
 普段は笑顔の裏に、彩羽さんはどれだけのものを我慢しているのだろうか。
「彩羽さんはダメです。一人で頑張りすぎてしまうところが。無理をしすぎるところが。でも――」
 ベッドに横たわる、涙に濡れた彩羽さんの顔を見ていると、強烈に何とかしてあげたいという気持ちが湧いてくる。
「それ以外は最高です。俺、彩羽さんが好きです」
 今度は、うっかりではない。
 彩羽を困らせることになると思ったが、この気持ちを伝えずには終われなかった。
「でも、俺には彩羽さんを幸せにすることはできないから。彩羽さんには樹神さんという素晴らしい人がいるから。俺は、この気持ちを糧にすることにします。いつか、彩羽さんや樹神さんと、肩を並べてあるけるような立派な大人になりたいと思います」
 それが、今優毅にできる彩羽への精いっぱいの思いやりであった。
「優毅くん――」
 彩羽が小さく唇を噛んだ。 
 やっぱり困らせてしまったのだろうか。好きと伝えても、身を引けば迷惑はかけないと思ったのに。
 ピンポーン。
 インターホンが鳴った。
 気づきはしたが、優毅は彩羽と見つめ合って、動けなかった。
 彩羽も、出ろとは言わない。
 不思議と、二人の間の時間が止まってしまっているような気がした。
 ピンポーンピンポンピンポンピンポンピピピピピ、ガチャ。
 え、開いた?
 と思った直後、優毅の脳天に堅い物が降ってきた。
「いってえ!」
 そのまま優毅は後ろに引き倒されそうになる。身をよじって、技を返す。だが相手は受け身を取り、すぐさま起き上がると、テーブルのネギを取って投げてきた。
 優毅は白菜を取って目の前に広げて、それを受ける。
 こんなことするのは……
「なにすんだバカ藤十郎! 不法侵入だぞ!」
「おまえが呼んだんだろうが、クズ優毅! 人妻に手を出すとは何事だ! 隠賀流の名に恥じることは許さん!」
「手なんか出してないし、彩羽さんはまだ人妻じゃない!」
 まだ――。つい放った自分の言葉が耳に返ってくる。そんな風に思ってるから、まだ期待をかけてしまうのだ。一縷しかない望みに縋ってどうするというのだ。それで自分が彩羽さんを幸せにできるわけでもない。だが、好きという気持ちは、どうしたって止まってくれない。
「ならば今のはなんだ! 彩羽さんに襲い掛かろうとしていたではないか」
「そんなことないだろ!」
「黙れ、隠賀流の恥め!」
「おんがりゅう?」
 彩羽さんの平和な声で、優毅ははっと我に返った。
「なんでもありません!」
 叫びつつ、藤十郎には「忍家のことはしゃべるな!」と矢羽根を飛ばした。
「藤十郎さん、いらっしゃい。でも、どうしてここに?」
 彩羽は藤十郎に笑いかける。
「優毅に呼ばれたんですよ。彩羽さんが大変だから、ポカリと食料とアイスノンと冷えピタを買ってこいと言われて」
「まあ、それでわざわざ来てくれたんですか。ありがとうございます」
「いいんですよ、こいつ今日休みだったし」
「おまえが言うな!」
 藤十郎がボールペンを投げてくる。
「なんでも武器にするのはやめろ! ここは彩羽さんの家だぞ」
 優毅がボールペンを二本指で受け止めながら言うと、
「そうだった」
 と、藤十郎はシャツの襟を正した。
 悔しいが白いシャツはやはりよく似合っている。ジーパンを履くと、脚の長さも目立つ。
「彩羽さん、大変でしたね。熱はもう下がったのですか?」
 よかったら。
と言って、藤十郎は彩羽さんに体温計を渡した。
 計ってみると、37.9℃。まだ少しある。
「今日は仕事休みですね」
 優毅がさりげなく彩羽の後に自分の体温を計っていると、藤十郎にねめつけられた。別に変な意味はないのに。ちなみに、36.6℃といたって平熱だった。
「そういうわけにはいかないよ。人数も足りてないし」
「シフトには俺が入りますよ。今日は勉さんもいるし、なんとかなるでしょう。それに、こういうときのためにエリマネがいるんじゃないですか。社員は一人じゃないんですから」
 優毅はそう言うと、さっそく彩羽さんにスマホを借りて、エリマネに非通知で電話をかけた。
「だれだ?」
 恵木は怪訝そうに電話に出る。
 優毅は大きく息を吸うと、声色を変えて言った。
「あたくし、希嶋彩羽の母でございます。彩羽は昨日体調を崩し、緊急入院いたしました。疲労によるものらしく、しばらくは安静が必要とのことですので、一週間お休みさせていだきます。それでは」
「は? え、おい。ちょっ」
 恵木が慌てているのを無視して、優毅はスマホの電源を切った。
「これで大丈夫。彩羽さんは一週間ゆっくり休んで」
「優毅くん、声真似上手。本当にお母さんの声みたいだった」
「彩羽さんの声をちょっと老けさせてみただけだよ」
「すごいね。どうしてそんなことできるの。さっきのおんがりゅうっていうのと、なにか関係あるの?」
「は、え、いや」
 優毅はさりげなく藤十郎をつつく。
 おまえのせいだぞ。うまくごまかせ!
「こいつは昔からものまねが旨いんですよ。人の真似ばっかうまくて他に能のないダメな奴なんです」
「言い過ぎだろ」
 もっとうまいごまかし方があるだろう。絶対嫌がらせだ。
 藤十郎は素知らぬ顔で、買ってきた袋から茶っぱを取り出した。
「お茶を淹れましょうか。それとも、ポカリのほうがいいですかね」
 藤十郎は彩羽に断ってからキッチンに入り、てきぱきと料理の準備をはじめた。
「おまえまさか何か作る気か?」
 彩羽さんちで? おまえが?
優毅が眉を顰めると、藤十郎は当然のように言った。
「こういうときは胃に優しいものがいいだろう。粥を煮るので少し待っていてください」
 優毅は何か食べ物を買ってきてと言っただけで、作れとは言っていない。
 しかし、彩羽さんは気にする様子もなく、
「わざわざありがとう」
 と感謝の意まで示している。
 その間に、優毅は彩羽さんに着替えを用意してやり、冷えピタを貼ってやった。
「なんか変な感じだね」
 彩羽さんはポカリを飲んで少し元気が出たようだった。
 顔色も大分いい。
「変な感じ? ああ、高熱の後は頭がふわふわしますよね」
「ううん。そうじゃなくて。優毅くんや、藤十郎さんが家に居てくれることが」
「たしかに」
優毅だって、少し前まではこんな風に自分が彩羽さんの部屋に上がり込むことなんて想像もできなかった。
「俺はただの彩羽さんの店の常連でしたもんね。藤十郎とは面識もなかったし」
「うん。でも、嬉しい」
 彩羽さんの何気ない言葉に優毅のほうが嬉しくなる。
「私も、優毅くんが来てくれるの、いつも楽しみにしてた。アルバイトに入ってきてくれてからは、優毅くん、なんだかんだ頼れるところあるから、一緒のシフトのときは安心できた」
「そんな、俺頼れるところなんて皆無ですよ」
「自分のこと卑下しすぎだよう」
 彩羽さんは、くすくすと笑いながら、どこか遠い目をして天井を見つめていた。
「優毅くん、さっき私は一人で頑張りすぎるって言ってたでしょ?」
「はい」
「でも、そんなことないんだ。私は一人では頑張れない。いつも樹神に頼ってきたし、支えてもらってきた。私は一人で生きていけるような強い人間じゃないよ。優毅くんにも、結構甘えてたと思う」
「彩羽さん……」
「でも、無理してたのは、本当かも。樹神が異動になってしまって、なんとか、私が新しいブリュワリーを成功させて樹神を呼び戻せるようにしなきゃって――。勝手に一人で気負ってた。樹神はそんなこと期待していないのにね……」
「樹神さんがどう思っているかは、分かりませんけど……」
 樹神さんが彩羽さんのことを愛しているなら、
「少なくとも、俺なら好きな人に無理はしてほしくないです。俺は、彩羽さんの笑顔が好きです」
「え」
 彩羽はぽっと顔を赤らめ優毅を見つめた。
 優毅はまた自分の失言に気づいて、はっと目を逸らす。
「ありがとね」
 恐る恐る彩羽さんに視線を戻すと、彩羽さんは嬉しそうに、でも少し困ったように笑っていた。
「あ、そうだ昨日落とした本。片付けなくてすみません」
 優毅はごまかすように、床に落ちていた本を拾いあげた。
 昨日彩羽さんに掛ける布団を押し入れから出したときに落としたものだった。
 表紙には、『クラフトビール入門』『ブリュワー専門講座』と書かれている。
「ああ、それ。樹神がクラフトビールを作りたいって言ったとき、初めて買って勉強した本なんだ」
「へぇ。クラフトビールを作りたいと言ったのは、樹神さんだったんですね」
「そうだよ。樹神は農業大学の出なの。大学卒業後、もともと別のブリュワリーで修行していたんだけど、何故かうちの会社に来たのね。それで、私の店で研修を始めたんだけど、入社の理由を聞いたら自分でクラフトビールを作りたいからって言ってた。会社がブリュワリーをつくろうとしてたのは知ってたんだけど、まだなにも準備なんてできていない頃だから、夢物語みたいなものだと思ってた。でも、樹神はその話を愚直に信じて、うちの会社に入って、今までやってきたんだよねー」
 そう言って、彩羽さんは遠い目をした。
「愛する人の夢が、いつのまにか自分の夢になっていた。って、やつですか?」
 自分で言ったくせに、胸が痛む。
「そんな大袈裟なもんじゃないけど」
 彩羽は少し笑って言った。
「でも、そういうことなのかな。私もいつのまにか、クラフトビールをこの手で造ることに一生懸命になってた。樹神みたいな実戦経験がない分、外堀を固めてプロジェクトが進むようにって頑張ってきたつもりだったんだけど」
「きっと、叶いますよ。樹神さんと彩羽さんの夢」
 2人の夢が叶って幸せに過ごすところ。そんな未来想像すると、やっぱり胸の奥がきゅーっと締め付けられるように痛む。
 好きな人が別の人と幸せになることを心から祝福なんてできるほど、人間できていない。
 でも、彩羽さんを笑顔にしたかった。喜ばせたかった。だからつい、そんなことを言った。
「ありがとう、優毅くん」
 勇気を与えたつもりが、彩羽さんの笑顔に百倍の勇気をもらう。
「はい、出来ましたよ」
 そこに藤十郎が溶き卵の入っためちゃくちゃ美味しそうなお粥を持ってきた。おしゃれネギを刻んだものをまぶしてあって、見たところプロ級の代物だった。
 まったく昔からなんでも出来るやつだ。これでこのルックスなのにカノジョがいないのは、やはりシスコン変態野郎だからだろう。
 残念なやつだ。
「わぁ、すごい。ありがとう」
 彩羽さんは食卓につき、気を遣っているわけでもなく本当に美味しいようで、あっという間に平らげた。
 途中で藤十郎は用があると言って帰り、洗い物は優毅が請負い、彩羽さんはまたベッドに戻って眠った。
 帰るタイミングを失ってしまい、優毅はビールの本を拾い上げて読んでみた。
 専門書のほうは難しくてよくわからなかったが、入門書のほうはイラストや写真もついていて、読みやすく、面白かった。
 彩羽さんと樹神さんの喋っていた内容が思い出され、こういうことだったのかと合点がいくと、尚面白かった。
 気がつくと夢中になっていて、いつのまにか4時を回っていた。
「やべ。バイト行かなきゃ」
 優毅が立ち上がると、彩羽さんが目を覚まして声をかけてきた。
「その本、良かったらあげるよ」
「え。いいんですか? 大事なものなんじゃ」
「大事なものだから優毅くんにあげたいんだよ。優毅くんにもビールのこと好きになってもらえたら嬉しいな」
「ありがとうございます。それじゃあ、ちょっと借りていきますね」
「うん。色々ありがとうね」
 起き上がろうとする彩羽さんを制して、優毅は玄関に向かった。
「また何かあればいつでも呼んでください」
 彩羽はこれには答えず、ベッドの上から優毅をじっと見つめていた。
 ちょっと厚かましかっただろうか。カレシでもないのにいつでも呼べなんて。
「それじゃ、失礼します」
 優毅が戸を締めるまで、ついに彩羽さんからの返事はなかった。
 
 
 
 
 
 
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