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8 それって、やばいんじゃないの?

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「はい?」
 何を言っているんだろうこの人は。
 優毅は首を傾げた。
 目の前のスーツ客は益々苛々して、
「だから、一週間前に来た時に締めのラーメンにハエが入ってたんだよ!」
 いや、それを今言われても――。頭おかしいの?
 優毅は内心そう思いつつも、
「申し訳ありませんでした」
と、頭を下げた。
 目の前の客は、いきなり店に乗り込んできてレジのところで喚き始めた。
 それで優毅が向かうと、そういう拉致のあかないことを言い始めたのだ。
 要するに、頭がおかしい。
「謝って済む問題じゃねぇだろ! そのせいでこっちは腹を壊して入院したんだ! 一週間分の入院費と休業補償してもらうからな!」
「はぁ」
 ここは謝るべきなのだろうが、男の言っていることが理不尽すぎて、もはや嘘でも頭を下げる気になれなかった。
「私では判断出来かねますので、責任者を呼んできます」
 慰謝料を払うかどうかなんて、アルバイトの優毅が決められる話ではない。
 今日は他の店舗に寄る必要があるとのことで、恵木はまだ出勤していないが、正社員には姫奈がいた。
 昨日少し優毅がきつく言ったせいか、姫奈は優毅と口をきこうとしなかった。挨拶をしても無視だ。
 しかし今はそんなこと言っている場合ではない。
 イケメンの若いお客と楽しそうに話している姫奈を無理やりバックヤードに呼び出し、クレーム客のことを伝えた。
 そっぽを向いていた姫奈は「そんなの知らない。私ここの店長じゃないし。彩羽ちゃんに聞けば?」
「彩羽さんは今病気で休んでいるだろ。電話するわけにはいかない」
「じゃあ勝手にして。姫しーらない」
 優毅は、そう言って立ち去ろうとする姫奈の腕を掴んだ。
「何するのよ! セクハラしないで」
「セクハラで訴えたいなら訴えろよ。でもやるべきことはやれ。あんただって給料もらってんだろ?」
「なによそれ。姫はこんな仕事したくてしてるわけじゃない!」
「アイドルになりたいんだもんなぁ?」 
 人の気配がしたと思っていたが、いつのまにか恵木が近くに来ていた。
「アイドル?」
 優毅が首を傾げていると、
「なんでもない」と言って、恵木が姫奈と2人きりで話がしたいと休憩室に呼び出した。
 こんなときに一体なんの話をする気だろうか。アイドルなんてどうでもいい。
「あ、エリマネ。今クレームが――」
 恵木が去ろうとするので、優毅は急いで恵木を呼び止めた。
「あ? ああ、あのハエが入ってたってイチャモンつけてきた客だろ。あんなの脅して追い返してやりゃあいいんだ。いちいち話聞いてたらキリがねえぞ」
 しっしっ。
 と追い払われ、優毅は仕方なく店に戻った。
 確かに、レジ前からあのクレーム男は消えていた。
 ほっとするのも束の間。
 今度はガシャーンとものすごい音が店内に響く。
「失礼いたしましたぁっ!」
 と店員たちが叫ぶが、どうやら食器を割ったのはお客さんらしい。
 中年の男性客が別の男性客の襟を掴み、殴ってしまった。
 周囲に悲鳴があがる。
 悲鳴を上げたいのはこちらだ!
 この忙しいときに客同士のトラブルなんて、勘弁してくれ!
 優毅は内心でそう叫びながら、客の仲裁に向かった。
 
 そんなこんなで、彩羽さんが店に居ない一週間は無茶苦茶に大変であった。
 疲労のあまり、危うく大学のテスト中にも寝そうになってしまった。
 だが姫奈がどういうわけか二日目からまともに働いてくれている。それでどうにか店を回せた。
 あの日、恵木と二人で何を話していたのだろうか? あの部屋から出てきた姫奈は心なしか青ざめていた気がしたが……。
 
 しかしどうにか彩羽さん不在の最終日を迎えた。
 明日から彩羽さんは職場に復帰することになっている。今日を乗り切れば、彩羽さんに無事バトンを渡すことができる。
「おはよう御座います~」
 今日で六連勤め。いつもどおり店に入ると、珍しく本部の部長が来ていた。
 天然パーマの後ろ頭を入り口に向け、何やら忙しそうに電話をかけていた。
「はい。とりあえず今日は私が入りますけど、毎日とは行かないんで。他に人を寄越してもらえないですか? はい、お願いします」
 何か問題でも起こったのだろうか? 
 優毅は何気なく聞き流して、着替えのために休憩室に向かった。
 優毅がドアノブに手をかけると、勉さんが入れ違いに出てきた。
「あ、おはよう」
 優毅が挨拶を返すと、勉は辺りを見回し、誰もいないことを確認してから声を潜めて言った。
「聞いた? エリマネお客に訴えられたって」
「えっ!?」
 それで部長が来ていたのか。
「訴えられたって、どうして」
「理由なんていっぱいあるでしょ~。そのお客さんの場合は、エリマネに殴られたと言っているらしいよ」
「それじゃあエリマネは、」
「クビだろうね。でもおかしいんだよなぁ」
「おかしい?」
「うん。その人常連さんでさ。殴られたあとも店に来たことあって、ぼくが接客したんだけど、エリマネには怒ってたけど、お金がないから訴えないって言ってたんだよ。良い人だったし、急に訴えてくるなんてビックリで」
「そうなんだ」
 今まで訴えなかった理由がお金がないということなのなら、急にお金ができたということなのだろうか?
 そこに、珍しく姫奈が早く出勤をしてきた。
「おはよう」
 姫奈は優毅に腹を立てていたことも忘れたようで、上機嫌だった。
「おはよう御座います」
「2人とも恵木っちのこと聞いた? 良いきみだよねー」
 姫奈は心から嬉しそうに笑うと、休憩室の方へと去っていった。
 その様子から、優毅は姫奈はこうなることを知っていたのではないかと思った。
 考えすぎだろうか。
 だが、姫奈には社内で気に入らない奴を排除できるくらいの力がある。
 単なる思い過ごしならそれで良いが、なにか胸騒ぎがする。
 また彩羽さんが苦しむようなことにならなければ良いが……。
 
姫奈は恵木が訴えられたことがそんなに嬉しいのか、その日ずいぶんと機嫌よく働いていた。
 そうかと思えば奥に引っ込んで何やらグラスのカタログなどを見ていた。
 まったくお嬢様というのは何を考えているか分からない。
 気まぐれに指図しては自分はやりたい仕事しかせず、面倒なことは全部他人任せだ。
 優毅が姫奈に苛立ちながら仕事をしていると、新しく客が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
 優毅はその客の迎えにいき「あっ」と声を上げた。
「樹神さん」
「久しぶり。彩羽は?」
 樹神は明らかに前より痩せたようだった。だがその爽やかな笑顔は変わらない。
「彩羽さんは今日までお休みですよ」
 樹神さんは、彩羽さんが倒れたことを知らなかったのだろうか。
「今日まで――って、何日か休んでたの?」
 樹神の顔が曇る。
「えっと、熱を出して……一週間ばかり」
「一週間も!? そんなに、重い病気だったのか?」
 優毅は辺りを伺い、だれも聞いていないのを確かめてから小さい声で言った。
「疲れが溜まっていたので、入院したことにしたんです」
 樹神は、首を傾げる。
「したことにした、ということは実際には入院してないのか」
「はい。実際にはしていません」
「なぜそれを君が知ってるの?」
「それは――俺が勝手に嘘ついて店にそう電話しちゃったんで」
「君が?」
 樹神さんは顔をしかめる。
 このままでは樹神さんに要らぬ誤解を与えてしまいそうだ。
「彩羽さんが熱を出したとき、たまたま俺がシフトで一緒で彩羽さんの家まで送っていったんですよ。それでその時、とても働ける様子じゃなかったのに彩羽さんが無理しようとするんで、俺が勝手に休むと会社に電話したわけです」
 これで、納得してもらえただろうか? やましいことは一つもない。そのつもりで、優毅は堂々と話したが、樹神さんの表情は浮かない。
「そうか。彩羽が世話をかけたね」
「いや、そんな。俺は何も」
「俺は何も知らなかったよ。知ったところでどうしようもできなかった。今日まで20日間休みなしでさ。彩羽が倒れたと聞いても駆けつけることもできなかったろうね。こんなんでカレシと呼べるのかな。情けないね」
 嘆息する樹神さんからは少し酒の匂いがした。
 休みだったというし、昼間からクラフトビールの勉強のために試飲でもしていたのかもしれない。
「あ、でも明日から復帰予定なので、きっともう元気にしていると思いますよ。行ってあげてください。彩羽さん、樹神さんが忙しいからと遠慮していたみたいなんで、絶対喜びますよ」
「そっか」
 樹神は何か意味ありげに苦笑を浮かべた。
「ありがとね。仕事中にごめんな」
 樹神さんがそのまま去ろうとするので、優毅は思わずその背に呼び掛けた。
「俺、樹神さんに憧れています」
 どうしてか、樹神の背が小さく見えたのだ。そんな萎んでいる樹神さんはらしくない。かつての自信を取り戻して欲しいと、そんなふうに思ったのだ。
「俺に憧れている?」
 樹神は自動ドアの向こうで振り返り、不思議そうな顔をした。
「今度、クラフトビールのこと教えてください! 俺、ブリューワーになりたい、かも」
 樹神はそれを聞いて、いつもの爽やかな笑顔を見せて言った。
「いつでもいいよ」
 樹神の笑顔を残し、自動ドアが閉まる。
 次に開いたときには、知らないお客さんが店に入ってくるところであった。
 
 次の日になって、彩羽さんは元気に出勤してきた。だが、どうしたのか、頬に擦り傷が1つ付いていた。
 
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