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11 彩羽さん、ただいま戻りました!

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 九月――。
 大学の後期授業が始まる。長い夏休みももう終わりだ。
 しかし、考えてみればこんなに充実した夏休みは初めてだった。
 手応えを感じている。
 たった一月。されど一月。
 優毅は、心血をクラフトビールに注いできた。やりきった。そんな感覚は初めてだった。
 久々に入るアパートの部屋は埃っぽく、すぐに窓を開けて空気を入れ替えた。
 それから、帰りがけに買い集めてきた各国各社のクラフトビールを袋から出して座卓に並べる。
 瓶の形状もラベルも様々で、それぞれのブリュワリーの特徴が出ていて本当に面白い。中には手書きのイラストをラベルにしているところもある。味噌味や蕎麦味、ビールなのに日本酒のように度数が高いのも。こんなふうに自由なところも、クラフトビールの魅力だ。
 ビールの味は一つじゃない。
 それを知ってから、優毅は色んなクラフトビールに会いたくなった。そして、夢中になればなるほど、自分でも作ってみたくなって、この夏休みを利用して三重県にあるクラフトビール工場に研修に行ってきたのだった。
 まさか地元に全国的な有名なクラフトビールの会社があるとは知りもしなかった。
 世界は広く、そして狭い。当たり前に側にあるものは、かえって目に入らないものだ。
 優毅は最後の一つを座卓に置き、ふと座卓の傷に目が行った。指で撫でてみる。
 その小さい座卓は、実家から持ってきたものだった。座卓についたその傷は、優毅が工作をしていてカッターを滑らせて作ったものだ。まだ六歳くらいの時の話だ。
 優毅は勢い余って指まで切ってしまい、たまたま両親も出かけていて、側にいた藤十郎が慌てて手当てして、近くの病院まで優毅を自転車の後ろに乗せて連れて行ってくれた。
 いつも澄ました顔をしているくせに、あの時の必死な藤十郎ときたら。思い出すと、笑ってしまう。
 ――あいつ、勘違いしやがって。
 実家に帰るなり繰り広げた藤十郎との喧嘩を思うと胸が痛む。
 あいつはどうしているだろうか――。
 あれきり連絡をよこさないし、優毅からもしていない。
 なんで俺が折れなきゃいけない。
 悪いのはあっちだ。勝手に早とちりして、刀まで持ち出して。
 冷静に考えたらあり得ない。
 でも――、
 優毅は座卓の傷をなぞりながら呟く。
 「俺も藤十郎に悪いことしたのかもな」
 藤十郎とは子どもの頃から一緒にいる優毅にとって、藤十郎は気を遣う存在じゃない。
 両親が亡くなったのは気の毒だと思うが、藤十郎だって優毅たちのことを本当の家族だと思ってるくれているものだと思っていたのに。
 遠慮していたなんて――思いもしなかった。
「なんだよ、あいつ。一丁前に一人で抱え込んでんじゃねえよ」
 優毅は気を取り直し、一緒に買ってきたノートを広げ、テーブルに並べたクラフトビールの蓋を端から順に開けて行った。
 先ずは瓶のまま香りを嗅いでゆき、ノートに特徴を記していく。専門用語はわからない。自分で感じたとおりに書いていった。
 それからグラスに注いで、香りを確かめてからテイスティングしていく。
 同じ種類、同じ作り方、同じ材料のビールでも、全然味が違う。
 優毅は一本一本、味の感想をノートにまとめていった。
 気づけば頭がクラクラしている。
 酔が回ると味も正確にはわからなくなる。
 優毅はそこでノートを取るのをやめ、後はビールを味わって飲んだ。
 ふと、樹神さんはどんなビールを造るんだろうと、気になった。飲んでみたい。樹神さんのビール。
 明日は久しぶりにシフトに入っている。彩羽さんに会ったら、そのことを訊いてみよう。
 
 そして次の日。優毅が『呑乃助』に行くと、彩羽さんの姿がなかった。
 姫奈がレジのところにいたので事情を訊くと、遅刻すると連絡があったらしい。
「それよりゆうちゃん。見てみて、これ」
 姫奈は相変わらず使いにくそうなデコだらけのスマホを優毅に見せてきた。
「このグラス、かわいいでしょ」
 姫奈が見せてきたのは、ピンク色の、飾りの入ったグラスだった。
「なんですか、これ?」
「新しい店舗のビアグラスだよ。透明じゃ可愛くないから、ピンクにしたの」
「は? ビアグラスがピンク? それじゃビールの色がわからないじゃん」
「ビールの色? なんか彩羽ちゃんもそんなこと言ってたけど、そんなのどうでもよくない?」
「どうでもよくないですよ。それにそのグラス高いんじゃないですか? 予算とかあるでしょ」
 予算は彩羽がいつも気にしていたことだ。それに、グラスなら彩羽と樹神さんが選んだものがあるはずだった。
「も~ゆうちゃんも堅いなあ。予算よりサービス優先でしょ!」
「サービスじゃないですよ、それは。姫奈さんの自己満足だ」
 優毅がはっきりとそう言うと、姫奈はむっつりとして顔を背け、「フンッ」と鼻を鳴らすとどこかへ行ってしまった。
 すると勉くんがするすると近寄ってきて、優毅にため息まじりに耳打ちをした。
「あの人、ずっとあんな調子なんだよ。もう勝手し放題でさ」
「なんでだよ。間違ってることは間違ってるって言えばいいだろ?」
「言える訳ないじゃん! 社長令嬢だよ? 彩羽さんの新しい店のことも、彩羽さんが今まで決めてきたこととか全部自分の好きなように変えちゃってさ」
 やっぱりそうなったか。嫌な予感はしていたのだ。彩羽さんも折角一生懸命樹神さんとやってきたことを無駄にされたのでは、気が気でないだろう。
「もしかして、彩羽さんが遅れてくるのって、そのせいなの?」
「いや、それは違うと思うよ」
「じゃあ、どうして」
「詳しくは知らないけど、もしかしたらカレシさんのせいかも」
「カレシさんって、樹神さん? なんで樹神さんが彩羽さんの遅刻に関係あるんだ?」
「実は昨日、彩羽さんのカレシさんが店に来たんだよね。でも、ぐでんぐでんに酔っ払っててさ、別のお客とケンカになって、彩羽さんが自分ちに連れて帰ったんだよ。ちょっと心配してたんだ」
「そうなんだ……」
 あの樹神がそんなになるまで酔っ払うなんて――。何かあったのだろうか。
「ごめん。俺、ちょっと様子見てくる」
「え。あ、ちょっと、」
 優毅は勉が呼び止めるのも聞かず、サロンを脱いで、店を飛び出した。
 優毅が本気で駆ければ彩羽さんのマンションまではものの五分で着く。
 優毅はエントランスで彩羽さんの家のインターホンを鳴らした。
 だが、少し待っても応答はない。もう一度鳴らす。やはり答えない。
 優毅はマンションの外に出てみて、彩羽さんの部屋のベランダを探した。柵が邪魔でよく中は見えない。
なぜか――妙な胸騒ぎがした。
 下手したら通報騒ぎだとは思ったが、優毅は人目がないのを確かめてから手近の木によじ登った。
 彩羽さんの部屋にはレースのカーテンがかかっていた。
 中で人が動いている。
 誰かが、誰かに、物を投げつけているようだった。
 その一つがコントロールを失って、窓ガラスを割った。ベランダに転がり落ちてきたのは、以前樹神さんが見せてくれた、樹神さんが造ったというクラフトビールの瓶だった。
 彩羽さんの悲鳴のような声が聞こえた。
 優毅はただならぬ気配を感じて、登っていた木から、彩羽さんの家のベランダに飛び移った。もう自分の正体がバレるとか、考えている場合ではない。
 優毅は、割れた窓ガラスから手を伸ばして窓の鍵を開け、彩羽の部屋に入った。
 彩羽は床に倒され、その上に樹神が覆いかぶさっていた。
 樹神が振り上げた拳を掴み、優毅は樹神を後ろに引き倒した。
「優毅くん!?」
 驚く彩羽を背に守り、優毅はふらふらと立ち上がる樹神に対峙した。
「なにしてるんですか、樹神さん」
 樹神は据わった眼で優毅を睨みつけてきた。酷い酒の臭いがした。
「あんたこそ何してんだよ。人のカノジョに慣れ慣れしいんじゃないのか」
「樹神さん、少し飲みすぎですよ。落ち着いてください」
「うるせえ!」
 樹神が割れた瓶を優毅に投げつけてきた。避けることはできたが、後ろには彩羽さんがいる。仕方なく、優毅はそれを手で振り払った。手の甲が切れて、血が溢れてきた。
「優毅くん、血が」
「大丈夫です、こんなの。慣れてますから」
「え、慣れてるって……」
「その話はまた後で。樹神さん、どうしちゃったんですか? いつもの樹神さんじゃないじゃないですか」
 優毅の知っている樹神は、どんなに疲れていても、はつらつとしていて、爽やかで、きれいなシャツを着ていて笑顔が素敵な人だった。
 けれど今目の前にいる樹神は、髪はぼさぼさ、シャツはよれよれ、無精ひげを生やして息は酒臭い。
「いつもの樹神ってなんだよ。俺は俺だ!」
「しっかりしてくださいよ。そんな姿、彩羽さんが悲しみますよ」
「うるせえな! てめえに何がわかるんだよ!? 俺は左遷させられたんだぞ! なのにこいつはちゃっかり新しいブリュワリーのエリマネじゃないか。俺の夢を横取りしたんだ、こいつは!」
 樹神さんは彩羽さんを指さして、こいつ、と言った。
「なんで、なんでお前ばっかりいい思いするんだよ!? クラフトビールをはじめに作りたいって言ったのは俺だぞ!? それなのに俺は、あんな田舎の居酒屋に押し込められて毎日毎日クレーム処理ばっかり。俺はそんなことするためにこの会社に入ったんじゃねえよ。俺がやるはずだったんだ、クラフトビールは。俺にしかできないんだ。なんで、会社はわかってくれない!? なんでお前まで裏切る!?」
 樹神が彩羽さんを指さすのを、優毅は手で払いのけた。
 本当はそのまま樹神の指をへし折ってやりたかった。樹神が追い詰められているのはわかる。だが、酒の勢いに任せて彩羽さんのせいにするなんて、彩羽さんをこんなに傷つけるなんて、絶対に許されない。
「彩羽さんは裏切ってなんかいない。彩羽さんは、ずっとあんたのことを気にかけてた。新しいブリュワーにも、樹神さんをって推薦していた。彩羽さんは彩羽さんで、いろんな圧力と戦っている。あんたこそ、彩羽さんの苦しみや努力を何一つわかってないじゃないか。辛いのは自分だけじゃない。一人でやってきたと思うのが間違いなんだ」
「ガキに何がわかる!」
「わかりませんよ! でも、俺はどんなに自分が窮地に立たされていても、絶対に大事な人を傷つけるようなことはしない」
「ふざけんなっ」
 樹神の投げてきたビール瓶を、優毅は反射的に取って打ち返してしまった。
 優毅の投げたそれは樹神の頭に当たり、樹神はその場に白目をむいて倒れてしまった。
「しまっ――」
「樹神!?」
 彩羽さんは優毅を押しのけて樹神に駆け寄り、心配そうにその顔を覗き込んだ。 
結局勝ち目はない――。
優毅は彩羽さんの行動に打ちのめされながらも、そっと言った。
「気絶しているだけです。後は俺が見ておきますから、彩羽さん先に仕事に行ってください」
「優毅くん――でも、」
「樹神さんも情けない姿を彩羽さんに見せたくはないはずですよ。わかってあげてください」
 彩羽は迷ったようだが、時計を見て「わかった」とうなずくと、急いで部屋を出て行った。
 こんなときに仕事をしろというのは酷だったろうか。でも、何もしないでいるより、仕事をしていたほうが気も晴れると思ったのだ。
 優毅は樹神の脈を取り、異常がないのを確かめると頭を高くして、タオルケットをかけてやった。どうやら眠っているらしい。
 割れた窓ガラスにはガムテープを貼って、部屋に散乱した缶やビール瓶を片付けていると、彩羽さんからつなチャが入った。
『ごめんね、優毅くん。こっちは大丈夫なので、もう少し樹神のことをお願いしていいですか? アルバイト代は払います』
『もちろん、いいですよ』
『ありがとう。助かります』
 絵文字もない、忙しい間を縫って送ったとわかる彩羽からのつなチャに、優毅は明るい笑顔のスタンプだけを返して送った。
 これも仕事だと思って、優毅は彩羽さんの部屋を元通りまでにきれいにした。普段自分の部屋の片づけなどはしないものだが、我ながらやればできるものだ。
 ごみの入ったごみ袋を台所の横に片付けると、樹神が「ううっ」と唸って目を覚ました。
 樹神が倒れてから三時間経っている。だいぶ酔いも抜けた頃だろう。
「樹神さん、大丈夫ですか?」
 優毅は、半身を起こした樹神に冷水の入ったコップを差し出した。
「あれ、優毅くん? 俺、何してたんだっけ」
 樹神は不思議がりながらも、礼を言って優毅から水をとって飲んだ。その様子はいつもの樹神だった。どうやら樹神には暴れていたときの記憶がないらしい。
 自分が何をしたか、伝えるべきだろうかと思ったが、樹神は割れた窓ガラスを見て、合点がいったらしい。
「俺、またやっちゃった?」
 樹神が深いため息をついて、頭を抱えた。
「またって――?」
「最近、だめなんだ。酒に飲まれちゃって」
 顔を覆う、樹神の指が寒くもないはずなのに小刻みに震えている。
「飲み始めたら止まらなくて。気づいたらいつも彩羽に暴力を振るっている」
 優毅は唇を噛んだ。
 ほんとなら、樹神を殴ってやりたいくらい腹が立つ。どんな理由があれ、彩羽さんに暴力を振るうなんて、絶対に絶対に許せない。
「でも、彩羽はそんな俺を愛想つかさずにいてくれて」
「それなのに、彩羽さんにあんなこと言うんですか?」
「あんなこと?」
「そうです。彩羽さんに自分の夢を横取りされたって言ってました。彩羽さんのことを裏切り者って」
 樹神は目を丸くした。
 黙っていようかと思ったが、我慢ができなかった。
 樹神は酒を飲んで自分がどんなひどいことをしたのか、知らなければならない。それが、樹神のためだと思った。
「そんな、酷いことを言ったのか、俺――」
「はい、言いました。だからもう、あんな飲み方はやめてください」
 樹神は、苦笑を浮かべた。
「そうだね。まさか優毅くんに説教をくらうとはね」
「俺は、樹神さんにあこがれていたんです。だから、クラフトビールの研修にも行きました。今は本気で、ブリュワーになりたいと思っています」
 樹神は驚いたように優毅を見つめていた。
 だがやがて少し笑って、
「応援しているよ」
 と言った。
 その言葉に、嘘は感じられなかった。ただ、何故だが少し、悲しかった。
 
 優毅は、樹神さんを駅まで送り届けてから、『呑乃助』に向かった。
 ドリンカーでスプーンやフォークなどのシルバー磨きをしていた彩羽さんを捕まえて、樹神が意識を取り戻して家に帰ったことを伝えると、彩羽さんは少しほっとしたようだった。
「ごめんね、復帰初日がこんなふうになってしまって」
「全然大丈夫です。それより、彩羽さんは大丈夫ですか?」
 まさか樹神に暴力を振るわれていたとは思いもしなかった。
 思えば、一月前樹神が店に訪ねて来た翌日、彩羽さんの頬に傷があったのは、もしかしたら樹神がやったものだったのかもしれない。
 あのときもっと問い詰めていたら、彩羽さんが深く傷つくことはなかったかもしれない。
 もっと側で彩羽さんを守れたら――。
 その一心で、ついそこにある彩羽さんの手を握ってしまった。
 彩羽さんは嫌がりもせず、優毅を見つめ返してきた。
 このまま顔を近づければ、キスをしてしまいそうだった。
 だが、そんなことできるはずもない。
「すいません」
 優毅が彩羽さんの手を離そうとしたその時――。
 優毅の唇に柔らかいものが触れた。
 驚いて目を見開く優毅の視界に、唇を離れた彩羽さんのはにかんだ笑顔が映る。
「だめだよね、こんなことしちゃ」
「いや、俺は嬉しいですけど……」
 樹神に悪い――。
 それは彩羽さんも同じ想いなのか、苦しそうな表情をしていた。
「ごめんね。優毅くんのいない間、寂しくて。なんか、こう……」
 彩羽さんはぎゅっと片手で胸の辺りのシャツを握った。
 彩羽さんは何か言いたそうにしていたが、
「店長、お会計お願いします!」
 別の店員に呼ばれ、行ってしまった。
 後に残された優毅の唇には、確かに柔らかな彩羽の唇の感触が残っている。
 夢だったのだろうか。そうだとしても、嬉しい。でも、なんでーー。
 優毅がシルバーを磨きながら想うのは樹神のことだった。単純に喜ぶわけにはいかない、そんな後ろめたさのあるキス。
 どういう意味だったんだろうか。
 優毅は悶々としながら、シルバーを磨き続けた。
 
 
 
 
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