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14 樹神さんはズルいなあ。

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それから一週間、優毅はシフトに入っていなかった。
 卒論を自力で書かねばならなかったので、集中しようと思い、シフトを入れなかったのだ。
 しかし、目の前に開いたパソコンの画面には白紙のワードがかれこれ3時間居座っている。
 1文字も書けていない。
 彩羽さん――大丈夫かな。
 シフトの希望を出した頃は、彩羽さんはそんなに落ち込んだ様子を見せていなかった。
 それは強がりだったのかもしれないのに、そこに甘えてしまった。
 こんなことなら、シフトを入れておくんだった。彩羽さんの様子が気になって仕方ない。
 途中何度も藤十郎に知恵を借りようと思ったが、実家で大喧嘩をして依頼会っていないので連絡もしにくい。
 バイトもないのに彩羽さんの家に訪ねていくのも厚かましいし。彩羽さんから連絡をくれればいつでも飛んでいくのだが……。
 優毅は頭を振った。
 とにかく今は卒論だ。
 目の前にある自分のやらなければならないこと。それを片付けてからだ。彩羽さんの力になれるのは。
 優毅は意を決して、キーボードを叩き始めた。
 
 そして、一週間後。
 優毅はどうにか卒論を書き終えて提出を終えていた。もう本当にあとは結果を待つのみだ。
 今日は久々のバイトの日だった。しかし、出勤の準備をしていると、珍しく芽生からつなチャが入った。
「優毅、今どこ? 東京に来てるんだけど」
「マジ? 今は家だけど」
 と、返した途端にピンポンが連打された。
 こういうところは兄妹そっくりだ。
「うるさい!」
 扉を開くと案の定、芽生が無邪気な笑顔を浮かべて立っていた。
 ふりふりのピンクのワンピースはボブヘアの芽生にはあまり似合っていない。だが、誰かがこんな服を着こなしていたように思うが、誰だったろうか。
「来ちゃったー」
「来ちゃったーって、なんでおまえ俺んち知ってるんだよ」
「お兄ちゃんに聞いた」
「あいつ、人の個人情報を勝手に」
「別にいーじゃん。家族なんだから」
 その芽生の何気ない言葉に、優毅は思わず言葉に詰まる。
 芽生はそれをめざとく見つけて追及してくる。
「なに、優毅はうちらのこと家族と思ってないの?」
 冗談めかして芽生は優毅を睨んでくる。
「いや思ってるに決まってるだろ。でも、藤十郎はどうなんだろうなと思ってさ」
「あーお兄ねー」
 芽生は「きったない部屋」と言いながら勝手にあがりこんで、勝手にベッドの上に座った。
「お兄はさー、自分が一家の大黒柱にならなきゃって思ってるんだよね」
「そういや、あいつが大学に入学するときも揉めたよな」
「そうそう。お父さんとお母さんの保険金は絶対に使いたくない、働くんだ、って言ってね」
「結局うちの親父に後で返す約束して、入学金と学費借りたんだっけ」
「うんそう。でも大学時代にしてたネットビジネスで稼いだお金でもうとっくに完済したみたいだけどね。結局、私の学費もお兄ちゃんが出してくれてたみたいだし」
「大した奴だよなあ」
 なにも考えずにのほほんと生きてきた優毅には異次元の存在だ。
「うん。私には出来すぎたお兄ちゃんだよ。大好き」
 ぽっと芽生は顔を赤らめる。優毅は顔をしかめた。
 たまに優毅は思うのだが、この兄弟はいけない方向に走りはしないだろうか? お互いに想い合う気持ちは結構だが、たまに兄弟のそれとはずれているような気がする。
 だがまあ、芽生にはれっきとしたカレシがいるし、心配ないだろう。
「そういえば、ビルとはその後どうなんだ?」
「別れた」
「別れた!? もう、か?」
「うん。だっておっぱい触ろうとしてきたから、関節技決めたら腕折れちゃって。ビル怒って道場も辞めちゃった」
「うううううううん……」
 これはどっちが気の毒なのか分からない。
「付き合ってんだったらおっぱいくらい揉ませてやれよ」
 優毅がそういうと、にわかに天井裏から物凄い殺気が降ってきた。
 はっとして振り向くと、殺気は消える。
 気のせいか――。
「私は本当に好きな人じゃないとそういうことはしたくないの」
「本当に好きじゃないのに付き合ってたのかよ」
「うん。人並みにそういうこともしてみたくって。ビルのことは嫌いじゃなかったし。でもやっぱり違ったみたい」
「おまえも立派に世間一般からはズレているな」
 各流派色々あるが、忍家に属するものはみんなこんななのだろうか。
「で、おまえはなにしに東京に来たんだ?」
「ライブがあったの」
「ライブ?」
「うん。ひめめのライブ」
「ひめめ? なんじゃそりゃ」
「このまえ見せたじゃん! ユーチューバーアイドル。ガーリーファッションのカリスマ。お洋服がいっつも可愛くって、真似してるて教えたでしょ」
「あー……あーーーっ!?」
 優毅は以前芽生に見せられた動画を思い出した。
 そこには、芽生と同じ格好をした20歳くらいの女性が、「今日もひめめのLIVEに来てくれてありがとう。それじゃあ、レッツラゴー!」と、随分ゆっくりとしたMCをして、歌って踊っていたのだ。
「ちょっ、その動画もう一回見せて!」
「え、い、いいけど」
 優毅の勢いに芽生は驚きながらも、動画を再生してくれた。
 スマホの画面の中で歌って踊るひめめ。
 なんで今まで気づかなかった。
 その顔は、姫奈そっくりじゃないか。
 というか、名前からして……本人――。
「あーひめめ、めっちゃ可愛い~。もう私の生きがいだよ」
「へ、へー……」
 とそのとき、優毅のスマホのアラームが鳴った。
「あ、悪い。俺バイト」
「え、優毅がバイト? また1日で辞めるやつ?」
「やめないよ。もう半年以上続けてる」
「うっそ! ネカフェもファミレスもパチンコ屋も家庭教師も1日でバックレてきた優毅が半年以上も!?」
「俺の黒歴史暴きすぎ!」
「だって、優毅、あの優毅が……すごいね、成長したね」
 芽生はそう言って目を潤ませる。
「なんでおまえにそんなこと言われなくちゃならないんだよ」
「今のはお兄の代弁」
 藤十郎か。確かにあいつならそんなこと言うかもしれない。なんだかんだ面倒見が良くて、優毅にとっては兄のような存在だった。
「でも今は喜んでくれはしないだろ」
「そんなことないよ。早く仲直りしな」
 出来るものならな。けど、今回はダメかもしれない。もう、仲直り出来ないかもしれない。
「じゃあ、私もホテルにかえろーっと」
 芽生が立ち上がって玄関に向かう。
 優毅はそれを追う形となって、
「こっちにはいつまでいるんだ?」
 と何気なく尋ねた。
「明日ひめめの深夜収録生ライブがあるから、それまではいるよ」
「深夜収録生ライブ?」
確か姫奈は明日シフトに入っている。仕事を終えてからライブをするということか。
「そうか。まあ、東京は変なやつがいっぱいいるからな、気を付けろよ。まあ、おまえなら心配いらないだろうけど」
「うん、ありがとう。明日もくるね」
 芽生は言いながら、さりげなく天井を見る。
「いや、来なくていいぞ」
「大丈夫。きっと仲直りできるから」
  芽生は何故か天井に向かって笑いかけ、優毅の部屋を出た。

 優毅は芽生を駅まで送ったあと、『呑乃助』に向かった。
 見慣れた自動ドアの看板がなんだか空々しく感じる。
 たった一週間ぶりなのに、随分と来てないような気がした。
 入口を入ると、薄暗い店内で、姫奈がレジのところで珍しく苛々と電話をかけていた。
 『ひめめ』のことを言おうと思ったが、本人から何も聞いたことがないので、とりあえず黙っておいた。
「もう、彩羽ちゃん出ないんだけど!」
 姫奈がスマホを投げ捨てるようにしてレジカウンターに置いた。
「え?」
 そういや彩羽さんの姿が見えない。
「もうこの一週間ずっと遅刻だよ。今日もオープンで入ってたのに来ないし」
「連絡もつかないんですか?」
「そう。さっきから電話かけているのに出ないの」
「彩羽さんに限ってそんなこと――」
 優毅は急に心配になり、店を駆けだした。
「俺、迎えに行ってきます」
 樹神さんのことが脳裏をよぎった。
 まさか彩羽さんまで後を追ってなんてこと――。
 優毅は息をつくのも忘れて彩羽さんのマンションに向かった。
 エントランスに行くと、丁度中から出てくる人がいたので、すれ違いざまに駆け込み、階段を上がって二階に上がった。
 彩羽さんの部屋のインターホンを鳴らす。
 応答がない。
「彩羽さん! 俺です。開けてください!」
 優毅が戸を叩いて叫ぶと、ようやくドアがかちゃりと開いた。
 優毅は隙間に手を差し入れ、ドアを引き開けて中に入った。
 彩羽さんは薄手の寝間着のまま、息を切らしている優毅をぼうっと見上げていた。
「優毅くん、どうしてここへ」
 その声が掠れている。
 優毅はその言葉には答えられず、衝動的に彩羽のことを抱きしめていた。
「良かった」
 搾りだすような声で言うと、優毅の胸が熱いものでじんわりと濡れてきた。
「優毅くん――」
 彩羽は泣いていた。
「どうしたんですか、彩羽さん。具合でも悪いんですか。一週間も遅刻してるって」
 優毅はふわふわとしている彩羽をベッドに座らせ、自分はその横に座った。
「自分でもわからないの。夜、眠れなくて。昼間は身体が重くて動けないし。涙は止まらないし。仕事にいく時間になると、やたら眠くなって。それで、」
 彩羽さんはボロボロと涙を流しながら訴えた。
「目が覚めると、後悔するの。ああ、なんで目覚めちゃったんだろうって。このままずっと眠ったままでいられたらよかったのにって」
「彩羽さん――」
「私、最低だよね。樹神の分まで頑張らなきゃいけないのにさ。私、もう笑えない。お客さんの前で、笑えないよ。だって、樹神が死んだんだよ。自分で、死んじゃったんだよ。私、なんにもできなかった。助けられなかった。こんなに悔しいことってないのに。こんな悲しいことってないのに。笑ってなんかいられないよ。思っちゃうの。会社なんか、なくなっちゃえって思っちゃうの。だれか、会社を爆破してくれたらいいのにって。そしたらもう会社に行かなくて済むのにって。ほんとに私、最低だよね。でも……もう、辛いの……」
 泣き崩れる彩羽さんを、優毅はそっと抱きしめた。
 どうして今まで気づいてやれなかったんだろうか。彩羽さんがもう限界だったということ。
「私――」
 優毅は次に出る言葉を察して、急いで彩羽の口を塞いだ。
「死にたいなんて言ったら、許しません」
 彩羽の眼が見開き、優毅を見つめた。
「死ぬ勇気があるんだったら、死ぬ気で仕事を辞めてください」
 人の努力を平気で踏みにじるあんな会社に、しがみついている意味などない。
 思うようにならない。きれいごとだけじゃ済まない。言いたいことも言えない。長いものに巻かれなければいけない。それが会社というところなのかもしれない。でも、人の命と天秤にかけたとき、それに耐えうることにどれだけの価値があろうか。
「辞めたくても、辞められないよ」
 妊娠してるの――私。
 彩羽のその告白に、優毅は言葉を失った。
「妊娠――って……樹神さんの子どもですか」
 他に考えようもないのに、同様のあまり優毅は野暮なことを訊いた。
 彩羽は静かに頷く。
「赤ちゃんのために、私が働かなきゃ。私がしっかりしなきゃって。頑張ってきた。でも、もう疲れちゃったの。一人じゃ、無理なの……もう、無理なの」
「一人じゃありませんよ」
 優毅は彩羽の手を握って言った。
「俺がついています」
「優毅くん……。ありがとう。でも、こればっかりは優毅くんに甘えるわけにはいかない」
「樹神さんに、悪いからですか?」
 彩羽はうつむいたまま、「うん」と小さく言った。
「優毅くんとキス、したでしょ。そのバチが当たったのかなあって」
「それなら俺は、彩羽さんが苦しんでいると、樹神さんを責めました。でも――」
 生きたくても、生きられなかった人がいる。
 自分で命を絶つなんてことは、産んでくれた人、育ててくれた人、愛してくれた人への裏切りだ。
「俺は、間違ったことをしていないと思います。俺とキスしたことだって、彩羽さんは誰かに助けて欲しかったから、限界だったからでしょう。俺は、彩羽さんに、そんなふうに後悔してほしくありません」
「優毅くん――」
「言ったでしょう。俺は、彩羽さんに幸せになってほしいんです。その相手は俺じゃなくてもいい。俺のこと好きになれなんて、言いません。でも、今他に彩羽さんが寄りかかれる人がいないのなら、俺が彩羽さんを支えます。彩羽さんに、他に好きな人ができたら、俺は潔く身を引く。だから、頼ってください。いくらでも。そういう覚悟は、とうに出来ているんですから」
 優毅は自分でも驚くほどそう達観していた。
 だって、彩羽を好きなことは変えられない。でも、愛しているからこそ、彩羽さんに幸せになってもらいたい。
 彩羽さんのことを一番に考えれば、自分の気持ちなど後回しにできる。
「俺は、彩羽さんを支えます。彩羽さんの悲しみの受け皿になる。彩羽さんが望むまで」
「優毅くん……」
 彩羽は優毅にしがみつくようにして泣きじゃくり、樹神に謝っていた。
 樹神さんはズルい。
 死んでしまったら、嫌いになることなんて、できないのだから。
 
 
 
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