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第六部 やった。やりましたよ~。
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三月某日――。
うららかな春の日。
加藤優毅は、大学の掲示板の前で、呆然自失となっていた。
掲示板に貼り出された卒業認定者名簿。
その中に、自分の学籍番号が……あったのだ!
ズラリと並んだ数字の羅列の中に、自分の学籍番号だけが光って見える。
優毅は思わず涙ぐんだ。
六年越しの卒業がこんなに嬉しいとは――。
優毅は直ぐに彩羽さんにつなチャで報告をした。
「無事卒業できました!!️」
それから、
「会いに行ってもいいですか?」
と送った。
この一月に、彩羽さんは会社を辞めた。だが、当初は帰ると言っていた実家には帰らず、何故か今も前のマンションに住んでいる。
「おめでとう️。来て来て!」
一分と待たずに、彩羽さんからつなチャが返ってきた。もしかしたら優毅の連絡をずっと待っていてくれたのかもしれない。
淡い期待が膨らむ。
彩羽が仕事を辞めても、優毅はそのままアルバイトを続けていた。
他の就職口も考え、人並みにエントリーはしてみたのだが書類選考で全て落とされてしまい、当初藤十郎に言われたとおりこのまま正社員にしてもらうことを目標にしていた。
だが……次第に大きくなっていく彩羽さんのお腹を見ているうちに、優毅の気持ちも変わってきてしまった。
彩羽さんとは、付き合っているわけではない。友だちというわけでもなく、じゃあどういう関係なのだと言われると、名称はない気がする。
でも、優毅が彩羽さんを支えると約束した。そのことに変わりはない。
そして彩羽さんも優毅に甘えてくれている。それが優毅は嬉しかった。
嬉しすぎて、彩羽さんがいつか去っていく日のことが考えられない。
あくまで自分は場繋ぎなのだ。そのつもりだった。
けれど……。
優毅が彩羽さんのマンションに着いてエントランスでインターホンを鳴らすと、
「おかえりー」
と、彩羽さんが当たり前のように言ってドアを開けてくれた。
先月くらいから、優毅が訪ねていくと、彩羽さんは「いらっしゃい」ではなく、「おかえり」と言ってくれるようになっていた。
優毅は、いささか緊張しながらそのドアをくぐった。
今日は、卒業の報告だけではない。彩羽さんに大事な相談があるのだ。
卒業が決まったら、言おうと思っていたことだ。
彩羽さんの部屋のインターホンを鳴らすと、
「開いてるよ。入って」
という声が返ってきた。
「もう、物騒ですよ。ちゃんと鍵は閉めててくださ――」
パーンっ。
火薬の臭いが飛び交って、優毅の目の前でカラフルな色紙が飛び出してくる。
「おめでとう! えへへ、クラッカー百均で買っちゃった」
クラッカーを持った彩羽さんが眩しい笑顔を優毅に向けてくれていた。
「ありがとうございます」
優毅は頬を赤く染めて答えた。
「入って入って。お祝いしよ」
中へ入ると、テーブルには美味しそうな料理が沢山並んでいた。
モツ煮込にシーザーサラダ、唐揚げ、フライドポテト、チャンジャもある。優毅の好きなものばかりだ。
「彩羽さん、お腹が大きくて大変なのに、こんなに用意してくれたんですか」
優毅は感動で涙もちょちょぎれんばかりに言った。
彩羽のお腹はもう充分妊娠七ヶ月目だ。エプロンをしていても、もうよく分かる。
「これぐらいどうってことないよー。それに、優毅くんに喜んでもらいたくって」
彩羽さんは優毅を席につかせ、自分は冷蔵庫からビールを取り出してきた。
グラスと一緒に優毅の目の前に置かれたのは、樹神さんのビールだった。
「これ……」
「飲んでくれる?」
「そんな、俺なんかが飲んだら勿体無いですよ。これは彩羽さんの夢が叶ったときに――」
「私の夢はもう、潰えたよ」
「彩羽さん……」
彩羽は少し悲しそうに、だがどこかはにかんだように優毅に微笑みかけた。
「でも、今は新しい夢がある。この子と一緒に、幸せになるの」
触ってみて。
と、彩羽が手を伸ばしてきて優毅の手を取ると、自分のお腹に手を触れさせた。
パンパンに膨らんだ風船みたいで、今にも弾けてしまいそうで怖かったけれど、彩羽さんのお腹は温かく、確かにそこに新しい命が宿っているのだという気がした。
「俺もこの子と彩羽さんの幸せを願います」
「だからね、これは優毅くんに飲んでもらいたいの。ブリュワーになるっていう樹神の夢を継いでくれたから」
でも、
と、彩羽さんは付け加える。
「夢は変わってもいい。樹神の夢に捉われないで、優毅くんは優毅くんの好きに生きてくれればいい。ただ、今は、今だけは、樹神の夢に想いを馳せてやって欲しい」
「分かりました」
彩羽は頷いて、樹神のビールをグラスに注いだ。
彩羽はお茶のグラスを持って、顔の前に掲げる。
優毅は、彩羽のグラスにグラスを重ねた。
「乾杯」
優毅は、樹神さんのビールをゆっくりと味わって飲んだ。
ペールエールだ。
IPAほど苦くはなく、だが爽やかな風味にコクがある。
「美味しい」
結局、乾燥はそれになってしまう。
だが彩羽さんは嬉しそうに笑った。
「美味しいに決まってるよ。でも、優毅くんは、きっともっと凄いもの作れるよ。新店舗のブリュワリーは、順調?」
「実はーー」
優毅はグラスを置いて彩羽を見つめた。
「どうしたの?」
今日は、その相談をしに来たのだ。
「俺、正社員になるのやめました」
「えーーそうなの……?」
「はい。実家に帰ろうと思うんです」
「そっか……」
彩羽さんは悲しそうに目を伏せた。
優毅はその彩羽さんの手を取る。
驚いて顔を上げる彩羽さんに、優毅は接吻をした。
どうして今なのか分からない。自分でも何しているのか分からない。でも、したかった。伝えたかった。自分が本気だということを。
「優毅くん……だめ。樹神に悪いよ」
彩羽さんはそう言って、優毅を弱々しく引き離した。
彩羽さんがそう言うのは分かっていた。
俺は、一生樹神さんには勝てないんだろう。でも、樹神さんに出来ないことが、俺には
できる。
「俺、ブリュワリーを立ち上げようと思うんです」
彩羽は驚いて目を見開く。
「優毅くんが、ブリュワリーを?」
「はい。もちろん、これからもっとビールのこと勉強して、設備を買うお金も貯めなきゃいけない。でもそれまで、前に研修に行った会社で面倒を見てもらえることになって。もちろん、給料もちゃんと出ます。彩羽さんと子どもを養えるには、充分じゃないかもしれないけど、足りない分はバイトもします。だから俺と――」
言え、優毅。
優毅は自分を叱咤して、次の語句を繋げた。
「結婚してください」
情けなくも、自分の声は震えていた。
けれど、彩羽さんはそれを笑ったりしない。
「優毅くん……」
彩羽は目を潤ませていた。
「こんな、子持ちのおばちゃんでいいの?」
「彩羽さんがいいんです」
「だめだよ」
彩羽のその言葉に目の前が暗くなる。
「どうして、ですか……やはり樹神さんのこと」
彩羽は首を振った。
「優毅くん、前に言った。私に他に好きな人が出来たら自分は身を引くって」
「それは……言いました。彩羽さんの幸せが一番だから……もしかして、他に好きな人が?」
彩羽はこれにも勢いよく首を振った。
「あの時――優毅くんが誘拐された姫奈さんを助けに行こうとしたとき、私ハッキリ分かったの。私、優毅くんが好き。大好き。ずっと一緒にいたい」
優毅はそれを聞いて天にも登るような気持ちになった。でもなぜダメなのだろうか。
「それなら……」
「でも、だから怖いの。優毅くんが離れていくこと。いなくなっちゃうこと。好きになればなるほど怖くなるの」
「彩羽さん――」
「身を引かないで。絶対に。私に他に好きな人がいるなんて、考えないで。だって、きっとこれから私のこと嫌になるのは優毅くんだよ。私は優毅くんより年上だから、優毅くんより早く老けていくし、優毅くんだって男の人なんだからきっと若い女の子のほうが良くなる。私は――」
優毅は、彩羽の言葉を遮り、そっと彩羽のことを抱きしめた。
「前に、彩羽さんに私のこと信じられない? と聞かれたことの意味、今ようやく分かりました」
「優毅くん――」
「彩羽さんは、俺のこと、この先、嫌いになりますか?」
彩羽は、ゆっくりと首を振った。
「なら、俺はそんな彩羽さんを信じます」
だから――。
「一生、俺の側にいて下さい」
優毅のその言葉に、彩羽はコクンとうなずいた。
「います。ずっと。一生。あなたの側に、いさせてください」
優毅を見上げてくる彩羽の唇に、優毅は自分の唇を重ねた。
パチパチパチパチ。
どこからともなく、二人分の拍手が聞こえてくる。
あの兄妹――。
あとで殴っておかなければ。
了
うららかな春の日。
加藤優毅は、大学の掲示板の前で、呆然自失となっていた。
掲示板に貼り出された卒業認定者名簿。
その中に、自分の学籍番号が……あったのだ!
ズラリと並んだ数字の羅列の中に、自分の学籍番号だけが光って見える。
優毅は思わず涙ぐんだ。
六年越しの卒業がこんなに嬉しいとは――。
優毅は直ぐに彩羽さんにつなチャで報告をした。
「無事卒業できました!!️」
それから、
「会いに行ってもいいですか?」
と送った。
この一月に、彩羽さんは会社を辞めた。だが、当初は帰ると言っていた実家には帰らず、何故か今も前のマンションに住んでいる。
「おめでとう️。来て来て!」
一分と待たずに、彩羽さんからつなチャが返ってきた。もしかしたら優毅の連絡をずっと待っていてくれたのかもしれない。
淡い期待が膨らむ。
彩羽が仕事を辞めても、優毅はそのままアルバイトを続けていた。
他の就職口も考え、人並みにエントリーはしてみたのだが書類選考で全て落とされてしまい、当初藤十郎に言われたとおりこのまま正社員にしてもらうことを目標にしていた。
だが……次第に大きくなっていく彩羽さんのお腹を見ているうちに、優毅の気持ちも変わってきてしまった。
彩羽さんとは、付き合っているわけではない。友だちというわけでもなく、じゃあどういう関係なのだと言われると、名称はない気がする。
でも、優毅が彩羽さんを支えると約束した。そのことに変わりはない。
そして彩羽さんも優毅に甘えてくれている。それが優毅は嬉しかった。
嬉しすぎて、彩羽さんがいつか去っていく日のことが考えられない。
あくまで自分は場繋ぎなのだ。そのつもりだった。
けれど……。
優毅が彩羽さんのマンションに着いてエントランスでインターホンを鳴らすと、
「おかえりー」
と、彩羽さんが当たり前のように言ってドアを開けてくれた。
先月くらいから、優毅が訪ねていくと、彩羽さんは「いらっしゃい」ではなく、「おかえり」と言ってくれるようになっていた。
優毅は、いささか緊張しながらそのドアをくぐった。
今日は、卒業の報告だけではない。彩羽さんに大事な相談があるのだ。
卒業が決まったら、言おうと思っていたことだ。
彩羽さんの部屋のインターホンを鳴らすと、
「開いてるよ。入って」
という声が返ってきた。
「もう、物騒ですよ。ちゃんと鍵は閉めててくださ――」
パーンっ。
火薬の臭いが飛び交って、優毅の目の前でカラフルな色紙が飛び出してくる。
「おめでとう! えへへ、クラッカー百均で買っちゃった」
クラッカーを持った彩羽さんが眩しい笑顔を優毅に向けてくれていた。
「ありがとうございます」
優毅は頬を赤く染めて答えた。
「入って入って。お祝いしよ」
中へ入ると、テーブルには美味しそうな料理が沢山並んでいた。
モツ煮込にシーザーサラダ、唐揚げ、フライドポテト、チャンジャもある。優毅の好きなものばかりだ。
「彩羽さん、お腹が大きくて大変なのに、こんなに用意してくれたんですか」
優毅は感動で涙もちょちょぎれんばかりに言った。
彩羽のお腹はもう充分妊娠七ヶ月目だ。エプロンをしていても、もうよく分かる。
「これぐらいどうってことないよー。それに、優毅くんに喜んでもらいたくって」
彩羽さんは優毅を席につかせ、自分は冷蔵庫からビールを取り出してきた。
グラスと一緒に優毅の目の前に置かれたのは、樹神さんのビールだった。
「これ……」
「飲んでくれる?」
「そんな、俺なんかが飲んだら勿体無いですよ。これは彩羽さんの夢が叶ったときに――」
「私の夢はもう、潰えたよ」
「彩羽さん……」
彩羽は少し悲しそうに、だがどこかはにかんだように優毅に微笑みかけた。
「でも、今は新しい夢がある。この子と一緒に、幸せになるの」
触ってみて。
と、彩羽が手を伸ばしてきて優毅の手を取ると、自分のお腹に手を触れさせた。
パンパンに膨らんだ風船みたいで、今にも弾けてしまいそうで怖かったけれど、彩羽さんのお腹は温かく、確かにそこに新しい命が宿っているのだという気がした。
「俺もこの子と彩羽さんの幸せを願います」
「だからね、これは優毅くんに飲んでもらいたいの。ブリュワーになるっていう樹神の夢を継いでくれたから」
でも、
と、彩羽さんは付け加える。
「夢は変わってもいい。樹神の夢に捉われないで、優毅くんは優毅くんの好きに生きてくれればいい。ただ、今は、今だけは、樹神の夢に想いを馳せてやって欲しい」
「分かりました」
彩羽は頷いて、樹神のビールをグラスに注いだ。
彩羽はお茶のグラスを持って、顔の前に掲げる。
優毅は、彩羽のグラスにグラスを重ねた。
「乾杯」
優毅は、樹神さんのビールをゆっくりと味わって飲んだ。
ペールエールだ。
IPAほど苦くはなく、だが爽やかな風味にコクがある。
「美味しい」
結局、乾燥はそれになってしまう。
だが彩羽さんは嬉しそうに笑った。
「美味しいに決まってるよ。でも、優毅くんは、きっともっと凄いもの作れるよ。新店舗のブリュワリーは、順調?」
「実はーー」
優毅はグラスを置いて彩羽を見つめた。
「どうしたの?」
今日は、その相談をしに来たのだ。
「俺、正社員になるのやめました」
「えーーそうなの……?」
「はい。実家に帰ろうと思うんです」
「そっか……」
彩羽さんは悲しそうに目を伏せた。
優毅はその彩羽さんの手を取る。
驚いて顔を上げる彩羽さんに、優毅は接吻をした。
どうして今なのか分からない。自分でも何しているのか分からない。でも、したかった。伝えたかった。自分が本気だということを。
「優毅くん……だめ。樹神に悪いよ」
彩羽さんはそう言って、優毅を弱々しく引き離した。
彩羽さんがそう言うのは分かっていた。
俺は、一生樹神さんには勝てないんだろう。でも、樹神さんに出来ないことが、俺には
できる。
「俺、ブリュワリーを立ち上げようと思うんです」
彩羽は驚いて目を見開く。
「優毅くんが、ブリュワリーを?」
「はい。もちろん、これからもっとビールのこと勉強して、設備を買うお金も貯めなきゃいけない。でもそれまで、前に研修に行った会社で面倒を見てもらえることになって。もちろん、給料もちゃんと出ます。彩羽さんと子どもを養えるには、充分じゃないかもしれないけど、足りない分はバイトもします。だから俺と――」
言え、優毅。
優毅は自分を叱咤して、次の語句を繋げた。
「結婚してください」
情けなくも、自分の声は震えていた。
けれど、彩羽さんはそれを笑ったりしない。
「優毅くん……」
彩羽は目を潤ませていた。
「こんな、子持ちのおばちゃんでいいの?」
「彩羽さんがいいんです」
「だめだよ」
彩羽のその言葉に目の前が暗くなる。
「どうして、ですか……やはり樹神さんのこと」
彩羽は首を振った。
「優毅くん、前に言った。私に他に好きな人が出来たら自分は身を引くって」
「それは……言いました。彩羽さんの幸せが一番だから……もしかして、他に好きな人が?」
彩羽はこれにも勢いよく首を振った。
「あの時――優毅くんが誘拐された姫奈さんを助けに行こうとしたとき、私ハッキリ分かったの。私、優毅くんが好き。大好き。ずっと一緒にいたい」
優毅はそれを聞いて天にも登るような気持ちになった。でもなぜダメなのだろうか。
「それなら……」
「でも、だから怖いの。優毅くんが離れていくこと。いなくなっちゃうこと。好きになればなるほど怖くなるの」
「彩羽さん――」
「身を引かないで。絶対に。私に他に好きな人がいるなんて、考えないで。だって、きっとこれから私のこと嫌になるのは優毅くんだよ。私は優毅くんより年上だから、優毅くんより早く老けていくし、優毅くんだって男の人なんだからきっと若い女の子のほうが良くなる。私は――」
優毅は、彩羽の言葉を遮り、そっと彩羽のことを抱きしめた。
「前に、彩羽さんに私のこと信じられない? と聞かれたことの意味、今ようやく分かりました」
「優毅くん――」
「彩羽さんは、俺のこと、この先、嫌いになりますか?」
彩羽は、ゆっくりと首を振った。
「なら、俺はそんな彩羽さんを信じます」
だから――。
「一生、俺の側にいて下さい」
優毅のその言葉に、彩羽はコクンとうなずいた。
「います。ずっと。一生。あなたの側に、いさせてください」
優毅を見上げてくる彩羽の唇に、優毅は自分の唇を重ねた。
パチパチパチパチ。
どこからともなく、二人分の拍手が聞こえてくる。
あの兄妹――。
あとで殴っておかなければ。
了
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