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その夜は雨に

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「佐々木さん、この資料を今日中に仕上げなきゃならないんですが、残業だめですかね」

「はい、はい、そんな気はしてましたよ。その代わりご飯奢ってよね」

「はい。それで手を打ってもらえるなら安いものです」

僕の頼みを佐々木さんはいつも断らない。
だから、いつも甘えてしまう自分もどうかと思うが、それも仕方ない。
僕は佐々木さんを好きなのだから。
仕事が終わらないのは本当だが、それが一緒にいたいための口実と言えばその通りだ。

二年前に、佐々木さんが契約社員として入ってきてからの片想い。
残念ながら想いを伝える術を、僕は持ち合わせていない。
元来、恋愛ごとが苦手だから。
それはただ臆病者の言い訳に過ぎないけど。

好きになった理由なんて、言葉にすればどうとでも言える。
声が好き。
本人は嫌いだと言っている切れ長の目が好き。
雰囲気が好き。
優しいところが好き。
言葉に出来る表面的な所じゃない。
言葉にできない、別の所に惹かれた。
それは僕にもよく分からないけど。

「竹内君、さっさと終わらせよう! わたしお腹すいてるんだからね」

「はい。僕もお腹すいてるんで、さっさと片しましょう」

佐々木さんは僕のことを『竹内君』と呼ぶ。
単に歳下だからだろうけど、僕の同期のことは『さん』付けで呼んでいる。
だから、ちょっと期待もしてしまう。
僕に親近感を抱いてくれてるのではと。
ただ、頼りないからかもしれないけど。

佐々木さんのおかげで残業も滞りなく終わり、僕らは会社をあとにした。

夜風がとても気持ち良く、風に吹かれて、佐々木さんの髪の香りが僕に届く。
優しく、柔らかい香りが僕の心を包んでいく。
好きになったら、ほんの些細なことでも、こんなに満たされるんだと佐々木さんは気づかせてくれた。

「何食べたいですか? 」

「そうね。今日は魚が食べたいかな。刺身というよりは焼き魚の気分かな」

「分かりました。じゃあ、『寧々』に行きますか。あそこなら、魚料理一通りあるし」

「そこにする!」

平日の割りに人通りの多い道を、僕らは肩を並べて歩いて行く。
道すがらのとりとめのない会話ですら、僕には心地良い。
並んで歩く僕らの距離。
いつか縮まるんだろうか。
僕の目線より十センチ位低い、佐々木さんの目を見ながら僕は思った。
吸い込まれそうになりながら。

「ちょっと、わたしの目変だと思ってるんでしょう? 」

佐々木さんに言われて、我に帰った。

「いや、そんなことないです! 僕は佐々木さんの細い、いや間違った、切れ長の目は好きです」

「ちょっと本音でたね。今日はお会計覚悟しなよ」

「いや、本当に好きなんですよ。嘘偽りなく。その目が佐々木さんには似合ってます。自信持ってください」

「何でわたしのおめめは、くりっと可愛らしくないのかなあ。親に対する唯一の不満だね」

「いや、僕は似合ってると思うけどなあ」

「ありがとう。竹内君だけだよ、そんなこと言ってくれるの」

何気ない会話に、『好き』という言葉を紛らすことは出来る。
部分的なものだから、抵抗はない。
だけど、本質的な『好き』は、とても口には出せない。
でも、ちゃんと伝えたい。
あなたが好きですと。
そんな機会をくれるのなら、神様だろうが悪魔だろうが構わない。
ただ、そんな機会が来たとして、言えるのか? そんな不安もある。失敗して、今の関係が壊れるのが怖いからだ。
当たって砕けたくはない。
それならいっそのこと、今のままで。
臆病者の僕が、いつも囁く。

飲食店が並ぶ通りに入ってすぐ、佐々木さんは立ち止まり、看板を指さした。

「あ、ここでしょ?」

「そうです。意外と会社から近いんですよ」

「竹内君、良く来るの?」

「はい。会社帰りにご飯食べにとか」

「あれ? 誰と来てんのかな。彼女だな」

「いや、彼女いそうに見えないでしょ。大抵男友達か、お一人様ですよ」

「ふーん。ま、いいけどね」

「と、とりあえず入りましょう」

暖簾を潜りながら、引戸を開けると、女将さんの声と、魚を焼いている香ばしい匂いが迎えてくれた。

「いらっしゃいませ。あら、竹内さん。ようこそいらっしゃいました」

「女将さん、こんばんは。二人なんですけど大丈夫ですか?」

「どうぞ、どうぞ。カウンターと小上がりどちらになさいますか?」

「わたしカウンターがいいです!」

佐々木さんの威勢の良い声に、女将さんが笑いながら答えた。

「はい、カウンター二名様お通しです。それにしても、竹内さん。女性を連れていらっしゃるなんて、初めてですね。なんかわたし嬉しくなっちゃったわ」

「へえー、本当に連れて来てないんだね」

「だから言ったじゃないですか。女性は佐々木さんが初めてですよ」

「そっか。わたしが初めての女だね」

「ちょっと、言い方。いろいろ語弊がありますから」

「いやらしいなあ。そんな意味じゃないわよ」

「わ、分かってますよ」

僕らの会話をにこやかに聞いていた女将さんが、そろそろという風に、カウンター席に促す。

佐々木さんと食事に行く時、この店は選択肢に入れていなかった。
行き付けに一緒にというのは、なんか自宅に招くのに近い感覚がして、僕の中ではハードルが高かった。
でも、今夜はすんなりと連れてこれた。
佐々木さんの焼き魚が食べたいとの言葉のせいかもしれないが、僕の中の煮詰まった想いが、そろそろハードルを越えろと押したのかもしれない。

カウンターに座るなり、彼女は僕を見て言った。

「うーん、この魚を焼いてる匂い! 食欲そそるねー! 竹内君、いい店知ってんじゃん。何で今まで連れて来てくれなかったのよ。わたしは今ショックを受けているのだよ。君とわたしの仲はその程度だったんだねえ」

「仲って言われても……。それに連れて来なかったわけじゃないですよ。たまたまタイミングが……」

「ふーん。ま、いっか。今日連れて来てもらったしね」

タイミングを見計らって、女将さんがおしぼりを持ってきた。

「お飲み物はどうなさいますか」

「佐々木さん、どうします? 酒いっちゃいますか?」

「竹内君。もちろんだよ。わたしは生ください」

「僕はウーロンハイでお願いします」

「はい。かしこまりました。今日は秋刀魚の良いのが入ってるんですよ。お刺身にしても、焼いても美味しいですよ。ぜひ召し上がってくださいね」

「食べまーす。焼きでお願いします!」

女将さんは、ありがとうございますと言って、カウンターの中の大将に向かって注文を通す。

「大将、秋刀魚焼きでお願いします」

「はいよ」

大将が切れの良い返事を寄越した。

お客の入りは七割程で、八席のカウンターは僕ら二人だけだ。
仕切りがある店でもないのに、ちょっと二人だけの空間みたいで僕は嬉しくなった。

佐々木さんは、お品書きや、カウンター上の梁に張られているオススメを一生懸命見ている。
あれこれ悩む姿が無性に可愛らしく思えて、僕は魅入ってしまった。
別に今初めて目にした訳じゃないけど、今夜は特にそう思えた。
はからずも、行き付けに連れてくるというハードルを越えた、今の僕の達成感から来る心の余裕がそうさせているのかもしれない。
今でも決して余裕があるわけではないけど、たった数分前よりは良く見える。
そして、それはこれからも。

酒が運ばれて来て、僕らはお疲れ様と乾杯をした。

「ねえ、ねえ、頼んでいい?」

「どうぞ、お好きなものを」

「竹内君のオススメも食べたいな」

「僕のオススメは、だし巻き玉子です。焼き加減が最高ですから」

「竹内君さあ、なんかいっつも頼むよね。玉子焼き系」

「確かにそうなんですが、ここのは絶品ですから」

「分かったよ。じゃあ、頼むね」

お願いしますと女将さんを呼び、佐々木さんは注文し始めた。

「だし巻き玉子と自家製厚揚げと、あとは牛スジの煮込みください」

「はい。ありがとうございます」

女将さんが、カウンターの中に入ったのを見届けて、僕は佐々木さんに話しかけた。

「今日は本当にありがとうございました。助かりました」

「今日だけじゃなくて、いつもでしょ」

「まあ、その通りです。いつもご迷惑おかけしてます」

「わたしは別に構わないけどね。その度にご飯にありつけるから」

「いや、それくらいは当然です。佐々木さんの貴重な時間をいただいてるんですから」

「まあ、今日のは仕方ないよ。課長の無茶振りだったからね。急ぎなら早く言えよって感じ」

「そうなんですよね。ちょいちょいあるから困るんですよね」

「竹内君も四年目なんだから、もっと巧くやりなよ。他に振るとかさあ。身がもたないよ」

「要領悪い自覚はあるんですが。断りずらいし、振るのもなんか」

「違うよ。竹内君はね、自分の仕事の要領はいいのよ。自覚ないんだろうけど、出来るから抱えちゃうのよね。そこに関しては要領悪いのよね」

「はあ、気をつけます」

ちゃんと僕のことを見ていてくれてる佐々木さんの言葉は、じんわりと染みる。
佐々木さんにとって、僕は手のかかる弟みたいなのだろうか。
僕の想いは、それを変えることができるだろうか。
言わなきゃ始まらない。
当たり前のことが、今の僕にはできない。
漢字合わせてたった二文字の『好き』が、僕には何千万字の書物より重い。
想いに潰されそうだ。
男らしくない。
女々しい。
自虐の言葉が勝手に浮かび、攻撃して消えていく。
好きになるって、こんなに面倒だっけ?
自問したって、返ってくる答えなどあるはずもない。
駄目だ。今はこの時間を楽しまないと。

「お待たせいたしました」

僕は女将さんの声に救われた。

「わあ、この厚揚げ美味しそう!」

「ありがとうございます。このネギ味噌で召し上がってくださいね」

早速佐々木さんは、小皿のネギ味噌を少し厚揚げに乗せて、小分けの塊を一口食べた。

「旨い! これは日本酒だね。竹内君、飲むでしょ?」

「はい。佐々木さんが飲むなら」

「よし頼もう。すみません、鶴の友を冷やで一合お願いします」

「佐々木さん、いっつも鶴の友ですね。さっきのお返しじゃないですけど」

「そうだよ竹内君。わたしは鶴の友をこよなく愛する女だからね」

佐々木さんと食事をするようになって、あまり好きではなかった日本酒も飲めるようになった。
人は繋がることによって、いろんな影響を授受する。
想い人ならなおのこと。
僕は佐々木さんに与えていることはあるだろうか。
ほんの少しでいいから、もしそんなことがあるなら、僕の心は満たされるだろう。
色に染めて染まりたい。
二人の色は何色になるだろうか。
駄目だ。また妄想してしまう。

僕は我に返り、佐々木さんに話しかける。

「そう言えば、何でそんなに鶴の友が好きなんですか?」

少し考えて佐々木さんは答えた。

「好きだから。好きに理由なんてないんだよ竹内君。まあ、理由が言える好きもあるけど、言えない好きの方が純粋だと思うなあ。なんてね。好きなものは好き。以上」

僕が佐々木さんに対する好きの感覚と同じことに、胸が高鳴った。
そうだ。理由なんていらない。

「なんか安心しました。僕の感覚と一緒だなと思って」

「竹内君もそう思うのね。わたし達気が合うね」

「あれ? 今頃気づいたんですか。僕は前からそう思ってましたよ」

「わたしだって思ってたわよ。じゃなきゃ、いくらお礼でも一緒にご飯行かないから」

「そうなんですか? そう言ってもらえると素直に嬉しいです」

舞い上がった感情が顔にでないか心配してしまったが、ちょうど女将さんが鶴の友を持ってきてくれたので、悟られてはいないと思う。
また女将さんに救われてしまった。

僕らは互いに酌をして、お猪口を軽く合わせる。

佐々木さんは一口飲んで、

「旨いねえ。やっぱり日本酒は鶴の友だねえ」

とおじさん口調で言った。

おっさんみたいですよと、笑いながら突っ込みを入れて僕も一口飲む。

今夜の日本酒は、いつもりより美味しく感じる。
何をじゃなくて、誰となんだなと実感してしまう。

「だし巻き玉子と焼き秋刀魚お待たせいたしました」

僕らの鼻腔を、焼けた秋刀魚の香ばしい匂いがくすぐる。
佐々木さんは、匂いだけで酒が進むと笑顔をみせた。

「メインが来たよ、竹内君。だし巻き玉子はわたしは少しでいいよ。その代わり、秋刀魚はほとんどわたしがもらうからね」

「お好きなようにしてください」

「うむ。では、そうさせてもらおう」

「ちょいちょいオヤジになりますね」

僕らの会話を聞いて女将さんが笑顔で言った。

「まあ、仲がおよろしいことで」

「いや、女将さん、僕らはそんな関係ではなくて」

焦って言う僕を、佐々木さんは意地悪そうに見て言う。

「そうなんですよ。待ってるのに全然アプローチがないんですよね。待ちくたびれちゃいました」

「な、何を言ってるんですか佐々木さんまで。さ、さあ、早く食べましょう」

言えるものなら、とっくに言ってるよ。
冗談にしても、今の僕には堪えますよ、佐々木さん。

「だし巻き玉子もらうね」

そう言って、一口食べた佐々木さんの顔に驚きが広がった。

「竹内君、本当に美味しいよ。びっくりだね!」

「だから言ったじゃないですか。美味しいって」

そして、秋刀魚を一口食べて、また喜んだ。

「秋刀魚も美味しい! ダメだ、お酒が止まらない」

「飲み過ぎないでくださいね。明日も仕事なんですから」

「堅いこと言ってないで、ほら、竹内君も早く食べなよ」

「そうですね。なくなる前にいただきます」

結局、だし巻き玉子も秋刀魚も、佐々木さんがほとんど食べてしまった。

僕は、嬉しそうな佐々木さんの顔を見れただけで満足なので、不満なんてない。
あなたが笑ってくれてるなら、僕は何でも出来るのに。

最後に〆のおにぎりまで食べて、満足そうな佐々木さんを見ることができたので、僕はそろそろ行きますかと声をかけた。

「そうだね。明日もあるしね」

女将さんにお会計を頼み、僕らはレジに向かう。

「本当にご馳走になっていいの?」

「当たり前じゃないですか。ていうか、払う気ないでしょ?」

「まあ、その通りなんだけどね。じゃあ、今日もゴチになります」

無邪気に言う佐々木さんが愛おしい。

会計が終わり、帰ろうとする僕らに、女将さんが傘を渡してきた。

「さっきから小雨が降り始めてきたから、どうぞ傘をお持ちください」

返すのはいつでも構わないといって渡された傘を手に、僕らは表に出た。

雨のせいで冷たくなった夜気が、僕らを出迎えた。

「雨か……」

佐々木さんは急に沈んだ顔になった。

どうしたんですかと、声をかける間もなく、佐々木さんは傘をさして歩き出す。

不安に駆られ、僕も急いで後を追い、隣に並んだ。

「どうしました? なんか急に暗くなってませんか」

佐々木さんは立ち止まり、静かに話しだした。

「わたし雨は嫌いなの。一人でいるのが、とてもいたたまれなくなるから」

僕の方に顔を向けて、佐々木さんは続けた。

「ねえ、竹内君。今夜は一緒いて」

唐突な言葉に、僕は黙ってしまった。

「わたしは竹内君と一緒にいたいの」

僕は佐々木さんの言葉で、溜まっていた想いの丈が溢れてしまったのを感じた。
それを止めることはできなかった。

「僕は佐々木さんが好きです」

佐々木さんはちょっと笑って答えた。

「うん。知ってるよ。わたしも竹内君が好きよ。じゃないと、さっきも言ったけど、毎回ご飯になんていかないよ」

「じゃ、じゃあ、えっと、お付き合いしていただけるんですか」

「竹内君はわたしでいいの?」

「僕は佐々木さんがいいです。大好きです」

「そっか。ありがとう。こんな雨の日は誰でもない、好きな人といたいの」

そう言って傘をたたみ、佐々木さんは僕の傘に入ってきた。

僕らはタクシーに乗り、夜の街を後にした。

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