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第十六章:幽霊の進軍
しおりを挟む学院の、別の会議室。
そこでは、優雅な茶会のような静けさの中で、二人の人物が棋盤を挟んでいた。
棋盤の上で、駒がゆっくりと動いている。
「ふむ」
白い手袋をはめた手が、一つの駒を持ち上げた。
細く、蒼白い指。
「拡張版が追加されてから、『帝国戦棋』は格段に面白くなりましたね」
耳に心地よい、柔らかなバリトンボイス。
完璧な敬語。
だが、その声音には奇妙なほど抑揚がない。
ルキウス・ソル。
第二軍団長にして、次期大元帥候補の一人。
彼は、常に細めた目で微笑んでいる。いわゆる“糸目”の貴公子だ。
だが、その細められた瞼の奥に、光はない。
「この拡張版を考案した方は、実に興味深い」
「……ええ」
向かい側に座る少女――リヴィアが、静かに頷く。
手元の紅茶からは、上品な湯気が立っている。
「こういうものを設計できる方は、きっと優秀なのでしょうね」
彼女は、駒を一つ動かした。
「あら」
ルキウスの手元を見て、小さく笑う。
「その一手、あまり良くありませんわよ? ルキウス閣下」
「……おや」
ルキウスは、変わらず微笑んでいた。
「これは失礼。私としたことが」
そのとき、コンコンと控えめなノックが響いた。
「失礼します」
副官が入室してきた。
手には、一枚の報告書。
「ルキウス様、報告があります」
「どうぞ」
副官は、報告書を差し出した。
「戦術研討会にて、ヴァン・ラークという学生が」
「断裂帯からの行軍を選択したとのことです」
「……ほう」
ルキウスは、報告書を受け取った。
さっと、目を通す。
「ヴァン・ラーク」
彼の眉が、僅かに上がった。
「確か、あの拡張版を作った人物でしたね」
「やはり、面白い」
報告書を、テーブルに置く。
「ノストラも、実際にこの手を使ったことがありますよ」
「もっとも、結果は小規模な村落襲撃に留まりましたが」
「そうなのですか」
リヴィアが、興味深そうに身を乗り出した。
「ヴァン・ラーク様、本当にすごい方なのですね」
「さて」
ルキウスは、再び駒を手に取った。その微笑みは、新しい玩具を見つけた子供のように。
「続けましょうか、リヴィア様」
約三十分後。
再び、副官が扉を開けた。
今度は、少し、慌てた様子だ。
「ルキウス様!」
「……どうしました?」
ルキウスは、変わらず穏やかに問う。
「ヴァン・ラークが」
副官は、息を呑んだ。
「既に、ヴァルケンシュタイン城下まで到達しています!」
「――何!?」
ルキウスの声が、初めて驚きを帯びた。
彼は、勢いよく立ち上がった。
棋盤の駒が、僅かに揺れる。
「失礼、リヴィア様」
報告書を掴み取り、さっと目を通す。
「……評議席の連中は、どう判定したのか」
彼の声は、冷たくなっていた。
「見に行きましょう」
ルキウスは、リヴィアの方を向いた。
「ご一緒に、いかがですか?」
「……ええ」
リヴィアも、立ち上がった。
彼女の目には、強い好奇心が宿っている。
【三十分前】
「では、説明する」
ヴァンは、黒板の前に立った。
駒を手に取り、地図の上に置いていく。
「まず、第一段階」
「地脈断裂帯の突破だ」
周囲の視線が、一斉に集まる。
「方法はこうだ」
ヴァンは淡々と告げた。
「馬の手綱を人間が引き、魔力強化を一切使用せず、徒歩で密林を抜ける」
一瞬の沈黙。
次の瞬間――
「――はあ!?」
ルートヴィヒが、大声で叫んだ。
「馬を牽く!? 何の意味があるんだ!」
「頭がおかしいんじゃないか! 騎兵が馬から降りてどうする! それに歩いて抜けるだと? 何日かかると思っているんだ!」
周囲からも、嘲笑が起こる。
だが――
ヴァンは、冷静に答えた。
「歩兵と魔導兵が行軍後、魔力を消耗して強化できない問題を解決する」
「通過後、すぐに騎乗すれば」
彼は、駒を動かした。
「敵の哨戒部隊に発見されても、包囲網が完成する前に最高速で離脱できる」
「……っ」
ルートヴィヒが、言葉を失う。
会場がざわめく。
非常識だが、論理は通っている。
ここで、壇上の次官が冷ややかに介入した。
「……理屈は通る。だが、無傷とはいかんぞ」
次官は手元の資料にペンを走らせ、冷酷な判定を下した。
「判定を下す。地形による疲労、および小規模な魔力汚染により、全軍の『非戦闘損耗』15%」
「さらに、悪路での物資遺棄により、補給残量は『残り二日分』まで低下」
「兵士のステータスは一時的に『ランクD(雑兵)』相当まで劣化する。回復には丸二日を要する」
厳しい判定だ。
部隊はボロボロ。食料もない。普通の指揮官なら、ここで「詰み」を認めて投了するレベルだ。
だが、ヴァンは即答した。
「受諾します。想定の範囲内です」
「……何?」
「兵力配分は次の通りだ」
ヴァンは、続けた。
「最精鋭四千を、断裂帯方向に投入」
「残りは、要塞と平原の両方向に展開」
「陽動で敵の注意を引き、断裂帯の動きを隠す」
彼は、駒を三つの方向に分けた。
「他の諸君は、五万も六万も一箇所に集中させて決戦を挑んでいたが」
ヴァンの声が、鋭くなる。
「それでは、最初から動きが読まれる」
周囲が、静まり返った。
誰も、反論できない。
ただ――
黙って、聞くしかなかった。
「通過後は」
ヴァンは、矢印を引いた。
断裂帯から、帝国の内部へ。
「この進撃ルートを取る」
その矢印は、城を避けて進んでいた。
「……待て」
評議席の一人が、手を上げた。
「攻城器械もなしに、どうやって城を落とすつもりだ?」
「まさか、魔法で結界を打ち破るとでも?」
ヴァンは、首を横に振った。
「城は、攻めない」
「――何?」
室内が、再びざわつき始める。
だが――
次官が、手を上げた。
静粛のサイン。
「続けたまえ」
「はい」
ヴァンは、矢印を伸ばしていった。
「方針は、『略奪行軍(マローディング)』だ」
「沿道の村落と補給線を襲撃し、食料と物資を強制徴発。ただし、無益な殺戮は行わず、抵抗しない者は見逃す」
「現地調達による自活です。戦いながら、戦力を維持する」
「敵の城とは戦わない。正規軍とも戦わない」
……この戦術は、明らかに帝国の作風ではなかった。
正面から戦わない。
城を攻めない。
ただ、弱い部分だけを突く。
「卑怯だ!」
誰かが、叫んだ。
「帝国軍人の恥だ!」
「俺は敵国ノストラの指揮官として、最小の犠牲で最大の戦果を上げる義務がある。そのためなら、泥水を啜り、死体を踏み越え、嘘と欺瞞で敵を狂わせる」
だが、次官が再び手を上げた。
「静粛に」
「今、ノストラ軍の指揮官だ。少数の弱小兵力で大国を相手にしている。」
「……合格だ」
彼は、ヴァンを見た。
「良い戦略だ」
「だが」
次官の声が、鋭くなる。
「少数の軍勢で深く侵入する。予備軍が動員されれば、大した戦果は得られないのではないか?」
この問いに、ヴァンは、小さく笑った。
「そこで重要になるのは」
彼は、黒板に文字を書いた。
『情報遮断』
『流言戦術』
室内が、また静まり返る。
誰も、その意味を理解できていない。
「第一」
ヴァンは、指を立てた。
「村落制圧後、戒厳令を敷く」
「同時に、対空要撃班を展開。帝国軍の『使い魔(ファミリア)』による伝令を、『追猟魔法(ハンティング)』で片っ端から撃ち落とす」
「情報の漏洩を防ぐ」
「第二」
二本目の指。
「偽情報を散布する」
「内容は、『帝国軍、要塞と平原の両方で大敗北』」
「……何?」
評議席の面々が、顔を見合わせる。
「デマを……流すというのか?」
「ああ。俺が言うより、恐怖に駆られた難民の口から広まる噂の方が、何倍も速く、何倍も信憑性が高い」
ヴァンは駒を盤上で滑らせた。
「恐怖は伝染する。情報は錯綜する。指揮官たちは、存在しない『大軍』の幻影に怯え、勝手に混乱してくれる」
「第三」
三本目の指。
「快速行軍。必要最低限の休息以外、停滞しない」
「情報が伝播する前に、次の目標へ移動する」
ヴァンは、黒板を叩いた。
駒盤の上で
帝国の指揮系統が、混乱し始めた。
小さな町から、大きな都市まで。
誰も、この突進部隊の正確な位置を把握できない。
入ってくるのは、「補給隊が消えた」「隣村が襲われた」「大軍が迫っているらしい」という悲鳴のような報告だけ。
戦線の進展速度は、戦況報告よりも速かった。
その隙を突き、ヴァンの「幽霊部隊」は神速で戦場を駆け抜けていた。
「ヴァルケンシュタインに到達」
ヴァンの手が、一つの駒を置いた。
枢要の地。
ここを制圧すれば、帝国の心臓部へ一気に侵入できる。
その結果、帝国が前線の都市に補給を送るには、この地を迂回しなければならない。
難易度も、コストも、倍増する。
「ここには、二万の予備軍が駐留している」
次官が、低い声で問うた。
「君の手勢は四千弱。しかも疲弊している。どうやって落とす?」
ヴァンは、続けた。
「対処法は三つある」
彼は、また矢印を引いた。
「周辺の村落を攻撃し続ける」
「予備軍を、城外へ誘き出す」
「出てこなければ、他の村を攻め続ける」
「そして、予備軍が出撃した後」
ヴァンの手が、もう一つの駒を置いた。
「空虚になった城へ、飢えた難民の波を誘導する」
「――何!?」
一人の学生が、立ち上がった。
「難民を使うだと!?」
「人間の盾か!」
「非道だ! 許されない!」
声が、次々と上がる。
「——静粛に」
総監の低い声が、室内を制した。
一瞬で、静まり返る。
総監は、まだ盤面を見ていた。
「……これは戦争だ」
誰も、何も言えない。
総監の手が、微かに震えている。
それ以上、何も言わなかった。
評議席の面々が、顔を見合わせる。
沈黙が、重く室内を支配した。
他の面々が、総監と次官へ視線を向けた。
総監は――
五十歳ほどの、老練な兵士だった。
彼は、今、駒盤を凝視していた。
矢印が、まるで楔のように
帝国の防衛線を、突き破っている。
この戦術。
全ての要素が、歯車のように噛み合っている。
情報戦。心理誘導。難民の波。
聞いたこともない、概念ばかりだ。
以前、ノストラの小規模騎兵が襲撃してきたことはある。
だが――
それは、ただの小競り合いだった。
これは、違う。
完全に、体系化された『悪意』だ。
この結果は、帝国にとって受け入れがたい。
総監の脳裏に、様々な反論が浮かぶ。
天候の問題で、通過が困難になる可能性。
S級の強者が駐留していて、この部隊を発見し殲滅する可能性。
行動が露見し、断裂帯の出口で迎撃される可能性。
だが――
それらは、全て「可能性」に過ぎない。
帝国が、運に頼らなければこの敗北を避けられない時点で、既に、敗北しているのだ。
総監は、深く息を吐いた。
「……討議が必要だ」
彼の声は、重かった。
「成績は、後日、発表する」
室内が、再びざわつき始めた。
学生たちが、次々とヴァンに詰め寄ろうとする。
「これは卑怯だ!」
「帝国の作風に反する!」
「恥を知れ!」
だが――
ヴァンは、立ち上がった。
「もし、もっと良い案があるなら」
彼は、周囲を見回した。
「いつでも、戻ってきて議論しよう」
「だが、今日は――」
ヴァンは、扉に向かって歩き出した。
「失礼する」
誰も止められないまま、会議室を出ていった。
ルキウスが到着した時、会議室の前は、既に人で溢れかえっていた。
隣の女子会議室からも、大勢が詰めかけている。
「これは……」
ルキウスの眉が、僅かに上がった。
副官が、また報告する。
「ヴァン・ラークは、既に退出したとのことです」
「……なるほど」
ルキウスは、少しの間考えた。
次の瞬間、隣のリヴィアを見た。
「リヴィア様、ご一緒にヴァン・ラーク氏に会いに行きませんか?」
だが――
リヴィアは、首を横に振った。
「私は、中を見てきますわ」
彼女の目が、輝いている。
「どうやって、ヴァルケンシュタインまで到達したのか」
「それを、知りたいのです」
「……分かりました」
ルキウスは、優雅に会釈した。
人混みの中へ、消えていった。
——また会う日を、楽しみにしている。
リヴィアが会議室に足を踏み入れた瞬間、熱気が肌を叩いた。
誰も彼女に気づかない。
全員が、黒板に貼られたあの矢印だけを見つめている。
——『地脈交錯断裂帯』。
彼女は、そっと駒を手に取った。
たったこれだけで、帝国の常識がひっくり返った。
(……これが、ヴァン・ラーク)
彼女の手が、微かに震えた。
ヴァンは、資料室にいた。
扉には、『関係者以外立入禁止』の札。
中は、静かだった。
椅子に座り、軽く息を吐く。
「……これで、勝ったかな」
小さく、呟いた。
ルートヴィヒは、もう何も言えないだろう。
戦術の優劣は、明らかだった。
これで、店は救われる。
ローランも、また商売を続けられる。
ヴァンは、窓の外を見た。
空は、青く澄んでいた。
――シンカク。
お前は、今頃どうしているんだろうな。
無事に、戻ってきてくれよ。
【第十六章・終】
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