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幕間Ⅱ 仮面の下の帰路
宿屋の天井は、雨染みだらけだった。
古い木材の軋む音。鼻を突く黴の匂い。
隙間風が時おり、薄い窓枠をガタガタと鳴らす。
ビリィは重い瞼を開けた。
ひどく体が重かった。起き上がろうとして、細い腕がプルプルと震えた。
「……っ、」
うまく動かない。いつものことだ。深く息を整え、魔力が巡るのを待つ。
視線を横に向けると、粗末な椅子に人が座っていた。白い全覆式の仮面。銀色に近い美しい髪。呼吸すらなく、完全に静止している——まるで精巧な彫刻のようだ。
「……目覚めましたか」
仮面の女が、抑揚のない声で静かに言った。
「……は、はい」
ビリィの声が少し震えた。
シンカクという名前だと聞いた。
姉のアイリが頼んだ人だと聞いた。自分をあの地獄から助けに来てくれたのだと、聞いた。
頭では、全部信じている。
ただ、あの研究所の血塗られた回廊の光景を思い出すと、恐怖で膝が自然と内側に縮こまってしまうのだ。
「具合はどうですか」
「……少し、マシです」
「嘘です。顔色が悪い」
シンカクは立ち上がった。
いくつかの薬剤の瓶を持ってきて、ビリィの前に無言で差し出す。
ビリィは受け取るたびに小さく礼を言いながら、中身を飲み干した。
全部、泥のように苦い。
顔をしかめると、シンカクが水の入った器を渡してきた。
「……ありがとう、ございます」
「飲めば少し楽になります」
「……これ、全部、私の『魔力欠乏症』の薬ですか」
「はい」
ビリィは、空になった瓶をぼんやりと眺めた。
「……シンカクさんは、すごく強いんですよね」
「強い部類に入ります」
「そんなに強くても、私の病気は治せないですか」
幼い声が、少し沈んだ。
「……私は、このまま死ぬんでしょうか」
シンカクは少し考えてから答えた。
「私は魔力を持っていません。だから、治せません」
「え……?」
ビリィは驚いて目を見開いた。
「魔力が、ない……?」
この魔導至上主義の帝国において、強者とはすなわち強大な魔力回路を持つ者のことだ。魔力を持たない人間なんて、欠乏症の自分のような者くらいだと思っていた。ましてや、あの地獄の研究所を単身で壊滅させたこの人が。
ビリィが混乱していると、シンカクは淡々と続けた。
「ですが、帰還すれば、治せる者がいます」
ビリィがバッと顔を上げた。
仮面の向こうの目は見えない。表情も読めない。でも、その平坦な声には、一切の虚飾がなかった。
「……本当に?」
「はい。嘘は言いません」
短い断定。ただそれだけだった。
でも、ビリィはその言葉を聞いて、詰まっていた息が少しだけ吸い込めるような気がした。
ビリィの呼吸がようやく整った頃、シンカクは立ち上がった。
「移動します」
「……え、今からですか?」
「早く帰った方が安全です」
それがシンカクの全ての説明だった。
ビリィが「はい」と頷く前に、すでにその小さな体は軽々と抱き上げられていた。
軽い。だが、鋼鉄の揺り籠のように安定している。絶対に振り落とされる気がしない。
宿屋を出ると、夜の冷気が容赦なく頬を刺した。
シンカクは走り始めた。
馬車よりも速い。いや、風そのものだ。帝都への道が猛烈な勢いで後ろへ流れていく。
「ひゃ――っ!」
「舌を噛みます。喋らない方がいいです」
「わかりました……っ」
暴風が耳を打つ。目を開けていると涙が飛んでいく。
ビリィはシンカクの華奢だが鋼のように硬い肩口に、小さな顔をうずめた。
揺れる。凄まじい速度で景色が飛んでいく。
気を紛らわせないと、胃の中の苦い薬を吐いてしまいそうだった。
「……お、お姉ちゃんは、」
「話してもいいです」
「……お姉ちゃんは、なんで助けに来なかったんですか。あなたに頼んだってことは、来られなかったから、ですよね」
シンカクは、超高速で木々の枝を蹴り渡りながら、一切息を切らさずに答えた。
「アイリは現在、ヴァンの傍らに待機しています」
「ヴァン?」
「雇い主です。現在、ヴァンの傍を離れられない状況でした」
「……お姉ちゃんが、誰かに雇われてるんですか」
「はい」
「……」
「えっと、その……あっ、ごめんなさい! じゃあ、そのヴァンって……どんな人なんですか?」
シンカクは少し考えてから答えた。
「約束を必ず守る人です」
感情の籠もらない、事実のみを述べる回答。
ビリィはその言葉を、小さな胸の中でゆっくりと転がした。
時は、二日前の夜に遡る。
ビリィは、研究所の暗い牢獄の天井を今でも鮮明に覚えていた。
施錠された分厚い鉄扉。
隣の区画から、時おり聞こえてくる鈍い悲鳴と、肉が焼けるような嫌な音。
絶望に慣れるしかなかった。ずっと、そこに繋がれていた。
そしてその夜、扉が爆ぜた。
物理的に『吹き飛んだ』のだ。強固な魔力錠が粉々に砕け散り、鉄の扉が紙くずのように壁に激突した。
ビリィは部屋の隅で丸く縮こまった。同じ房に入れられていた名も知らぬ亜人の男も、恐怖でガタガタと震えていた。
「……な、なんだ、お前。何をしに来た!」
男の方が、なんとか声を絞り出した。
土煙の中から現れた白い仮面の人間が、正確にビリィを見下ろした。
「アイリの妹ですね」
「……は、はい」
「連れて帰ります」
それだけ言って、シンカクはビリィを抱き上げた。
亜人の男が声を上げる。
「待て! 外には武装した守衛が山ほど――」
シンカクはすでに振り返り、歩き始めていた。
男は慌てて立ち上がり、扉口まで追って、そこで完全に硬直した。
破壊された魔力錠の残骸。ひしゃげた扉。
そして、その先の廊下。
廊下の冷たい石床には、暗赤色の染みが延々と続いていた。
等間隔ではない。飛沫と、肉片と、引きずられたような跡が混じり合い、向こうの曲がり角まで続いていた。
染みの傍らに転がる、原型を留めていない複数の『肉の塊』。
男は言いかけた言葉を、恐怖のあまり完全に飲み込んだ。
シンカクが消えた方向を、ただ腰を抜かしたまま見送るしかなかった。
――その数十分前。
シンカクが研究施設に潜入した当初の目的は、極秘裏の奪還だった。
天井裏、換気路、死角になる壁の継ぎ目。
一歩ごとに、重心を均等に分散する。足音はない。呼吸音もない。魔力反応はゼロ。
誰にも気づかれていない。
所長室の真上に到達したとき、下から苛立ったような声が聞こえた。
『この施設は、すでに軍情局のクラウスに目をつけられている! 手仕舞いにするぞ。実験体は全部処理しろ! 関係者も同様だ。知っている人間は少ない方がいい』
シンカクは天井裏で静止した。
『処理』。
『実験体』。
仮面の奥で、冷徹な思考が瞬時に結論を出した。
ビリィは実験体だ。
処分されれば、取引は崩れる。アイリは離れる。
ヴァンの戦力が減る。
ヴァンが死ぬ可能性が上がる。
……それは困る。
ならば。
シンカクは音もなく、鋭い刃を逆手に握った。
どうせ、ここから生きて出て行く者は全員、ヴァンにとっての敵だ。
敵が勝手に処理を始めるなら、自分が全て処理しても結果は同じ。
自分の方が、圧倒的に速い。
天井裏の影が、ふっと揺れて消えた。
警報が鳴る暇すらなかった。
廊下に、銀色の刃が閃いた。
最初の一人は、振り返る前に首が落ちた。
次の二人は、武器を構える前に胴体が上下に分かれた。
声は、なかった。悲鳴を上げる間も、なかった。
刃が皮革を断つ音、骨に入る音、それだけが、暗い回廊にわずかに響いた。
次の角。次の区画。
シンカクは止まらない。
白刃の輝きが廊下の端から端まで一瞬で走り抜け、また次の獲物へと跳ね返る。
ただ一人だけ。便所から出てきたこの施設の看守長だけが、異常を察知した。
彼は廊下に広がる血の海と、転がる部下たちの残骸を見て、即座に自身の魔導回路を限界まで解放した。
「なんだ貴様はぁッ!」
全身の筋肉が膨張し、ランク準A級の莫大な魔力が不可視の分厚い『魔力防壁(シールド)』となって彼を包み込む。
(馬鹿めが! 雑魚は殺せても、完全武装した準A級の俺の防壁を破れるかよ!)
絶対の自信と共に、看守長が腰の魔導剣を抜こうとした、その瞬間。
――パリンッ。
硝子が爆発したような、甲高い破砕音が鼓膜を打った。
看守長の視界が、ぐらりと反転する。
(……え?)
天井と床が、ぐるぐると入れ替わる。
回転する視界の先に、分厚い魔力防壁を展開したまま直立する『首のない大男の胴体』が見えた。
その切断面から、遅れて噴水のように鮮血が噴き出す。
(……ああ、あれ、俺の体か)
何が起きたのかすら理解できない。準A級の防壁ごと、豆腐のように叩き斬られたのだ。
それが、看守長の最後の思考だった。
ドサリと頭部が床に落ちる音すら、シンカクは振り返らずに次の区画へと歩み去っていた。
地獄の施設から脱出し、ビリィを回収して数十分後。
森の中で、ビリィは完全に動けなくなった。
魔力欠乏症の重い発作だ。
地面に座り込んだまま咳が止まらず、口の端から赤い血が滲んだ。
シンカクは周囲の安全を確認してから、ビリィの隣に膝をついた。
「休息を取ります」
「……ご、ごめんなさい。私が弱いせいで、足を引っ張って……っ」
「謝罪は不要です。体力の限界です」
無表情の仮面のまま、事実だけを告げた。
しばらく待ち、ビリィの呼吸が少し落ち着いてから、宿場町で、代書と伝令を請け負う小さな店を見つけた。
薬剤を買う。
そして、『ヴァン』へ状況を報告する必要があった。
しかし、シンカクは体内に魔力を一切持たない。自身の力で通信用の使魔を発動させることはできなかった。
故に、代行業者を頼るしかなかった。
店の主人は、異様な仮面の女と虚弱な少女を見て、目に強欲な光を宿した。
「……使魔? 一回、五ゴールドだ」
通常価格の五倍という、完全なぼったくりだった。
だが、シンカクは迷わず金貨を五枚取り出した。値切るという発想がない。
主人はニヤリと下品な笑みを浮かべ、一枚の小さな羊皮紙と羽ペンをカウンターに突き出した。
「ほれ。文字は自分で書け。書き終わったら、俺が魔力を込めて飛ばしてやる」
シンカクは無言でペンを受け取ると、一切の躊躇なく、紙面の中央にだけ文字を走らせた。
『状況変化。ビリィ救出済。帰還中』
宛名も、挨拶も、装飾語もゼロ。極限まで情報だけを削ぎ落とした、事実のみの文字列。
彼女はペンを置き、紙片を主人に押し返した。
主人はそれを受け取り、その羊皮紙に自身の魔力を込め空へ放つ。
小さな光の鳥が、夜空の彼方、帝都の方向へと溶けていった。
主人はその光を見送りながら、内心で舌を出し、大笑いした。
(馬鹿な女だ。たった十文字足らずの伝言で五ゴールド! 今日はついてるぜ!)
――そして、現在。
「……着いたら、会えますか。お姉ちゃんに」
背中で揺られながら、ビリィが力なく聞いた。
「会えます」
「……あなたが言うなら、そうなんだと思います」
シンカクはそれ以上答えなかった。
ビリィは安心したように、再び仮面の縁に顔をうずめた。
冷たい夜風が、耳元で鋭く鳴っている。
ヴァンの待つ帝都は、まだ遠かった。
【幕間Ⅱ・終】
古い木材の軋む音。鼻を突く黴の匂い。
隙間風が時おり、薄い窓枠をガタガタと鳴らす。
ビリィは重い瞼を開けた。
ひどく体が重かった。起き上がろうとして、細い腕がプルプルと震えた。
「……っ、」
うまく動かない。いつものことだ。深く息を整え、魔力が巡るのを待つ。
視線を横に向けると、粗末な椅子に人が座っていた。白い全覆式の仮面。銀色に近い美しい髪。呼吸すらなく、完全に静止している——まるで精巧な彫刻のようだ。
「……目覚めましたか」
仮面の女が、抑揚のない声で静かに言った。
「……は、はい」
ビリィの声が少し震えた。
シンカクという名前だと聞いた。
姉のアイリが頼んだ人だと聞いた。自分をあの地獄から助けに来てくれたのだと、聞いた。
頭では、全部信じている。
ただ、あの研究所の血塗られた回廊の光景を思い出すと、恐怖で膝が自然と内側に縮こまってしまうのだ。
「具合はどうですか」
「……少し、マシです」
「嘘です。顔色が悪い」
シンカクは立ち上がった。
いくつかの薬剤の瓶を持ってきて、ビリィの前に無言で差し出す。
ビリィは受け取るたびに小さく礼を言いながら、中身を飲み干した。
全部、泥のように苦い。
顔をしかめると、シンカクが水の入った器を渡してきた。
「……ありがとう、ございます」
「飲めば少し楽になります」
「……これ、全部、私の『魔力欠乏症』の薬ですか」
「はい」
ビリィは、空になった瓶をぼんやりと眺めた。
「……シンカクさんは、すごく強いんですよね」
「強い部類に入ります」
「そんなに強くても、私の病気は治せないですか」
幼い声が、少し沈んだ。
「……私は、このまま死ぬんでしょうか」
シンカクは少し考えてから答えた。
「私は魔力を持っていません。だから、治せません」
「え……?」
ビリィは驚いて目を見開いた。
「魔力が、ない……?」
この魔導至上主義の帝国において、強者とはすなわち強大な魔力回路を持つ者のことだ。魔力を持たない人間なんて、欠乏症の自分のような者くらいだと思っていた。ましてや、あの地獄の研究所を単身で壊滅させたこの人が。
ビリィが混乱していると、シンカクは淡々と続けた。
「ですが、帰還すれば、治せる者がいます」
ビリィがバッと顔を上げた。
仮面の向こうの目は見えない。表情も読めない。でも、その平坦な声には、一切の虚飾がなかった。
「……本当に?」
「はい。嘘は言いません」
短い断定。ただそれだけだった。
でも、ビリィはその言葉を聞いて、詰まっていた息が少しだけ吸い込めるような気がした。
ビリィの呼吸がようやく整った頃、シンカクは立ち上がった。
「移動します」
「……え、今からですか?」
「早く帰った方が安全です」
それがシンカクの全ての説明だった。
ビリィが「はい」と頷く前に、すでにその小さな体は軽々と抱き上げられていた。
軽い。だが、鋼鉄の揺り籠のように安定している。絶対に振り落とされる気がしない。
宿屋を出ると、夜の冷気が容赦なく頬を刺した。
シンカクは走り始めた。
馬車よりも速い。いや、風そのものだ。帝都への道が猛烈な勢いで後ろへ流れていく。
「ひゃ――っ!」
「舌を噛みます。喋らない方がいいです」
「わかりました……っ」
暴風が耳を打つ。目を開けていると涙が飛んでいく。
ビリィはシンカクの華奢だが鋼のように硬い肩口に、小さな顔をうずめた。
揺れる。凄まじい速度で景色が飛んでいく。
気を紛らわせないと、胃の中の苦い薬を吐いてしまいそうだった。
「……お、お姉ちゃんは、」
「話してもいいです」
「……お姉ちゃんは、なんで助けに来なかったんですか。あなたに頼んだってことは、来られなかったから、ですよね」
シンカクは、超高速で木々の枝を蹴り渡りながら、一切息を切らさずに答えた。
「アイリは現在、ヴァンの傍らに待機しています」
「ヴァン?」
「雇い主です。現在、ヴァンの傍を離れられない状況でした」
「……お姉ちゃんが、誰かに雇われてるんですか」
「はい」
「……」
「えっと、その……あっ、ごめんなさい! じゃあ、そのヴァンって……どんな人なんですか?」
シンカクは少し考えてから答えた。
「約束を必ず守る人です」
感情の籠もらない、事実のみを述べる回答。
ビリィはその言葉を、小さな胸の中でゆっくりと転がした。
時は、二日前の夜に遡る。
ビリィは、研究所の暗い牢獄の天井を今でも鮮明に覚えていた。
施錠された分厚い鉄扉。
隣の区画から、時おり聞こえてくる鈍い悲鳴と、肉が焼けるような嫌な音。
絶望に慣れるしかなかった。ずっと、そこに繋がれていた。
そしてその夜、扉が爆ぜた。
物理的に『吹き飛んだ』のだ。強固な魔力錠が粉々に砕け散り、鉄の扉が紙くずのように壁に激突した。
ビリィは部屋の隅で丸く縮こまった。同じ房に入れられていた名も知らぬ亜人の男も、恐怖でガタガタと震えていた。
「……な、なんだ、お前。何をしに来た!」
男の方が、なんとか声を絞り出した。
土煙の中から現れた白い仮面の人間が、正確にビリィを見下ろした。
「アイリの妹ですね」
「……は、はい」
「連れて帰ります」
それだけ言って、シンカクはビリィを抱き上げた。
亜人の男が声を上げる。
「待て! 外には武装した守衛が山ほど――」
シンカクはすでに振り返り、歩き始めていた。
男は慌てて立ち上がり、扉口まで追って、そこで完全に硬直した。
破壊された魔力錠の残骸。ひしゃげた扉。
そして、その先の廊下。
廊下の冷たい石床には、暗赤色の染みが延々と続いていた。
等間隔ではない。飛沫と、肉片と、引きずられたような跡が混じり合い、向こうの曲がり角まで続いていた。
染みの傍らに転がる、原型を留めていない複数の『肉の塊』。
男は言いかけた言葉を、恐怖のあまり完全に飲み込んだ。
シンカクが消えた方向を、ただ腰を抜かしたまま見送るしかなかった。
――その数十分前。
シンカクが研究施設に潜入した当初の目的は、極秘裏の奪還だった。
天井裏、換気路、死角になる壁の継ぎ目。
一歩ごとに、重心を均等に分散する。足音はない。呼吸音もない。魔力反応はゼロ。
誰にも気づかれていない。
所長室の真上に到達したとき、下から苛立ったような声が聞こえた。
『この施設は、すでに軍情局のクラウスに目をつけられている! 手仕舞いにするぞ。実験体は全部処理しろ! 関係者も同様だ。知っている人間は少ない方がいい』
シンカクは天井裏で静止した。
『処理』。
『実験体』。
仮面の奥で、冷徹な思考が瞬時に結論を出した。
ビリィは実験体だ。
処分されれば、取引は崩れる。アイリは離れる。
ヴァンの戦力が減る。
ヴァンが死ぬ可能性が上がる。
……それは困る。
ならば。
シンカクは音もなく、鋭い刃を逆手に握った。
どうせ、ここから生きて出て行く者は全員、ヴァンにとっての敵だ。
敵が勝手に処理を始めるなら、自分が全て処理しても結果は同じ。
自分の方が、圧倒的に速い。
天井裏の影が、ふっと揺れて消えた。
警報が鳴る暇すらなかった。
廊下に、銀色の刃が閃いた。
最初の一人は、振り返る前に首が落ちた。
次の二人は、武器を構える前に胴体が上下に分かれた。
声は、なかった。悲鳴を上げる間も、なかった。
刃が皮革を断つ音、骨に入る音、それだけが、暗い回廊にわずかに響いた。
次の角。次の区画。
シンカクは止まらない。
白刃の輝きが廊下の端から端まで一瞬で走り抜け、また次の獲物へと跳ね返る。
ただ一人だけ。便所から出てきたこの施設の看守長だけが、異常を察知した。
彼は廊下に広がる血の海と、転がる部下たちの残骸を見て、即座に自身の魔導回路を限界まで解放した。
「なんだ貴様はぁッ!」
全身の筋肉が膨張し、ランク準A級の莫大な魔力が不可視の分厚い『魔力防壁(シールド)』となって彼を包み込む。
(馬鹿めが! 雑魚は殺せても、完全武装した準A級の俺の防壁を破れるかよ!)
絶対の自信と共に、看守長が腰の魔導剣を抜こうとした、その瞬間。
――パリンッ。
硝子が爆発したような、甲高い破砕音が鼓膜を打った。
看守長の視界が、ぐらりと反転する。
(……え?)
天井と床が、ぐるぐると入れ替わる。
回転する視界の先に、分厚い魔力防壁を展開したまま直立する『首のない大男の胴体』が見えた。
その切断面から、遅れて噴水のように鮮血が噴き出す。
(……ああ、あれ、俺の体か)
何が起きたのかすら理解できない。準A級の防壁ごと、豆腐のように叩き斬られたのだ。
それが、看守長の最後の思考だった。
ドサリと頭部が床に落ちる音すら、シンカクは振り返らずに次の区画へと歩み去っていた。
地獄の施設から脱出し、ビリィを回収して数十分後。
森の中で、ビリィは完全に動けなくなった。
魔力欠乏症の重い発作だ。
地面に座り込んだまま咳が止まらず、口の端から赤い血が滲んだ。
シンカクは周囲の安全を確認してから、ビリィの隣に膝をついた。
「休息を取ります」
「……ご、ごめんなさい。私が弱いせいで、足を引っ張って……っ」
「謝罪は不要です。体力の限界です」
無表情の仮面のまま、事実だけを告げた。
しばらく待ち、ビリィの呼吸が少し落ち着いてから、宿場町で、代書と伝令を請け負う小さな店を見つけた。
薬剤を買う。
そして、『ヴァン』へ状況を報告する必要があった。
しかし、シンカクは体内に魔力を一切持たない。自身の力で通信用の使魔を発動させることはできなかった。
故に、代行業者を頼るしかなかった。
店の主人は、異様な仮面の女と虚弱な少女を見て、目に強欲な光を宿した。
「……使魔? 一回、五ゴールドだ」
通常価格の五倍という、完全なぼったくりだった。
だが、シンカクは迷わず金貨を五枚取り出した。値切るという発想がない。
主人はニヤリと下品な笑みを浮かべ、一枚の小さな羊皮紙と羽ペンをカウンターに突き出した。
「ほれ。文字は自分で書け。書き終わったら、俺が魔力を込めて飛ばしてやる」
シンカクは無言でペンを受け取ると、一切の躊躇なく、紙面の中央にだけ文字を走らせた。
『状況変化。ビリィ救出済。帰還中』
宛名も、挨拶も、装飾語もゼロ。極限まで情報だけを削ぎ落とした、事実のみの文字列。
彼女はペンを置き、紙片を主人に押し返した。
主人はそれを受け取り、その羊皮紙に自身の魔力を込め空へ放つ。
小さな光の鳥が、夜空の彼方、帝都の方向へと溶けていった。
主人はその光を見送りながら、内心で舌を出し、大笑いした。
(馬鹿な女だ。たった十文字足らずの伝言で五ゴールド! 今日はついてるぜ!)
――そして、現在。
「……着いたら、会えますか。お姉ちゃんに」
背中で揺られながら、ビリィが力なく聞いた。
「会えます」
「……あなたが言うなら、そうなんだと思います」
シンカクはそれ以上答えなかった。
ビリィは安心したように、再び仮面の縁に顔をうずめた。
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【幕間Ⅱ・終】
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『違う選択肢もあるぞ?』
創世神の言葉に乗り気でなかった俺は、
その“策略”にまんまと引っかかる。
――『神しか飲めぬ最高級のお茶』。
確かに神は嘘をついていない。
けれど、あの流れは勘違いするだろうがっ!!
そして俺は、あまりにも非道な仕打ちの末、
神の娘ティアリーナが治める世界へと“追放転生”させられた。
記憶を失い、『ライト・ガルデス』として迎えた新しい日々。
それは、久しく感じたことのない“安心”と“愛”に満ちていた。
だが――5歳の洗礼の儀式を境に、運命は動き出す。
くどいようだが、俺の望みはスローライフ。
……のはずだったのに。
呪いのような“女難の相”が炸裂し、
気づけば婚約者たちに囲まれる毎日。
どうしてこうなった!?
最低のEランクと追放されたけど、実はEXランクの無限増殖で最強でした。
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ファンタジー
高校2年の夏。
高木華音【男】は夏休みに入る前日のホームルーム中にクラスメイトと共に異世界にある帝国【ゼロムス】に魔王討伐の為に集団転移させれた。
地球人が異世界転移すると必ずDランクからAランクの固有スキルという世界に1人しか持てないレアスキルを授かるのだが、華音だけはEランク・【ムゲン】という存在しない最低ランクの固有スキルを授かったと、帝国により死の森へ捨てられる。
しかし、華音の授かった固有スキルはEXランクの無限増殖という最強のスキルだったが、本人は弱いと思い込み、死の森を生き抜く為に無双する。