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幕間Ⅲ 鉄血と白い花
執務室には、硝煙と羊皮紙、そして微かに甘い紅茶の香りが漂っていた。
リヴィア・リンドガルドはその部屋を、物心ついた頃から知っている。
分厚い絨毯。壁一面の軍事専門書。そして、無数に飾られた武勲の証。
「寒くはないか? 膝掛けを使うといい」
父、ロルフ・リンドガルド帝国軍務総長は、書類から目を離さずに言った。
声は低い。帝国全軍の予算と人事を握る『鉄血』の威圧感がある。
しかし、机の端にはリヴィアのために用意された最高級の焼き菓子が、そっと置かれていた。
外では冷酷無比な軍部のトップだが、娘に対してはひどく甘い。それが父だった。
「縁談の話だ」
父が書類を机に置き、片眼鏡の奥の瞳で娘を見た。
「ベルンハルト院長の……私生児だ。出処はアレだが、大元帥閣下が直々に縁を取り持たれた。身分は完璧に保証されている」
「はい」
「お前が嫌だと言うなら、私が叩き潰す。それだけだ」
父はそう言い切り、腕を組んだ。
リヴィアは少し、息を吐いた。
(わかっている)
政治婚姻だ。
リンドガルド家は軍務総長の家。いずれこういう話が来ると、ずっと前から知っていた。
「……お受けします」
パキッ、と。
父の握っていた高価な羽根ペンが、無惨にも折れた。
「理由を聞こうか」
わずかに声が震えている父に向かって、リヴィアは背筋を伸ばして答えた。
「家のために、なれるものはなります」
部屋が静かになった。
父は何も言わず、ただ折れたペンをゴミ箱に捨て、新しいペンを引き寄せた。
それが父の、不器用な返事だった。
翌日から、リヴィアはよく上の空になった。
学院の講義中も、気がつけばぼんやりとしている。
(なぜだろう……)
ノートには、履帯型の魔導機兵の構造図が描かれている。
しかし、頭に浮かぶのは――。
(図書室の彼……『ローラン』さんが言っていたこと)
あそこの穏やかな時間。
彼はこちらが話す模型の専門的な話題にも、嫌な顔一つせず付き合ってくれた。驚くほど詳しかった。
ただの、同好の士。
(ただそれだけ、なのに……)
「あの……リヴィア様、お加減でも悪いのですか?」
隣の席の令嬢が心配そうに声をかけてきた。
「い、いいえっ、大丈夫です……ごめんなさい」
リヴィアは慌てて微笑みを作り、ノートに視線を戻した。
放課後、図書室に寄った。
重い専門書を探すふりをしながら、鞄の中の模型パーツに触れる。
(でも、今日は……いない)
いつもの席は空だった。
リヴィアはしばらく書架の前に立ち尽くし、結局、一冊だけ本を借りて帰ることにした。
迎えの馬車には、兄が乗っていた。
リヒャルト・リンドガルド。父に似て背が高く、軍服の着こなしには一切の妥協がない男だ。
「今日は早かったな」
「あ……少しだけ、図書室に寄っただけですから」
「また例の模型か? お前、体に障るからほどほどにしろよ」
「……今日は違います」
リヒャルトは軽く笑い、それ以上は追及しなかった。
馬車は帝都の大通りを走る。
リヴィアは窓の外を眺めながら、ぼんやりと考えていた。
(縁談を受けた。間違っていない。正しいはずだ……)
でも、心のどこかに、小さな棘が刺さっているような感覚がある。
馬車が少し迂回した。
夕暮れの歓楽街。夜の商いが始まり、魔導ランプが、猥雑な色で瞬く通り。
リヴィアが窓から視線を外そうとした、その時だった。
「――っ」
息が、止まった。
通りの一角。
娼館の派手な看板の下から、ローランと数人の男たちが笑いながら出てくるところだった。
「いやあ! お前が偉くなったら俺のことも頼むぞ!」
「ははっ、任せとけって!」
下品な笑い声。
そして、その中心にいた男の顔を見て、リヴィアは目を疑った。
(あれは……婚約者の、『ヴァン』……?)
間違いない、あの男だ。
男は、通りを歩いていた露出の多い女性に、軽い調子で声をかけ、肩に手を回している。
「リヴィア?」
リヒャルトが怪訝そうに眉をひそめた。
「どうした。顔が真っ白だぞ」
「……い、いいえ」
リヴィアはギュッとドレスの裾を握りしめ、窓から目を逸らした。
「なんでも、ありません……」
馬車の中で、リヴィアはずっと俯いていた。
(ただの、政略結婚だ。わかっているわ)
相手の私生活や愛情に、何かを期待するようなお伽話ではない。
(でも……)
図書室で静かに本を読む『ローラン』の横顔と、風俗街で下品に笑う婚約者『ヴァン』の顔が、交互に浮かんでは消えた。
喉の奥が、静かにひりついた。
翌日、リヴィアは図書室に向かった。
腕の中には、布で大切に包んだ模型を抱き抱えて。
何度も図書室の前を通り過ぎて、それでも結局、足はそこへ向かっていた。
入る理由なんて、いくらでも作れる。参考文献を探すとか、新しい模型の資料とか。
でも本当は——
(……顔を、見たかっただけ)
その事実に気づいた瞬間、胸が少しだけ痛んだ。
いつもの書架の陰に、彼――『ローラン』はいた。
リヴィアは彼の向かいの席にちょこんと腰を下ろし、膝の上の布包みをそっと解いた。
現れたのは、下半身の駆動系をまるごと『履帯』に換装した魔導機兵の模型だった。
「……下半身の駆動系を、まるごと換装したのか」
「はい。先日、『ローラン』君に聞いたお話を元にして……ジョイント部分は、魔導銀の細いワイヤーで補強しています……です。理論上は、これで歩行時の振動吸収率が格段に上がるはず……だと、思いますっ」
ヴァンは感心したように身を乗り出し、動力伝達や装甲の干渉についていくつか専門的な質問を投げかけてきた。
最初は吃りながらも、リヴィアは夢中になって答えた。『ローラン』君と専門的な話が噛み合っていくのが、純粋に嬉しくて、楽しかった。
(……でも)
ふと、昨日の夕暮れに見た、歓楽街での光景が脳裏を過る。
そして、自分が受け入れた『政略結婚』という重い事実が、冷や水を浴びせるように現実に引き戻した。
気がつけば、リヴィアの口数は減り、模型の履帯へ視線を落としていた。
「どうかしたか」
「……えっ?」
「さっきから、少し顔が暗いぞ」
ヴァンの直球の指摘に、リヴィアは短く息を呑んだ。
しばらくの沈黙の後、彼女は深く、深く息を吸い込んだ。
「……『ローラン』君は」
「ん」
「『やりたくないこと』だけど、周りの大人が喜んでくれることと……『本当にやりたいこと』だけど、周りのみんなが反対することだったら……どっちを選びますか?」
ヴァンは少しだけ思考を巡らせる素振りを見せた。
「本当にお前のことを大切に思っている人間なら、お前が本当に嫌がることを無理強いはしないはずだ。それが大前提だ」
「……」
「それから、口に出して言わないと絶対に伝わらないことがある。お前が『やりたくない』と黙って我慢して、親の言う通りに人形みたいに生きていれば、周りの連中はお前の本当の苦痛を知らないままだ」
その言葉が、胸のどこかに引っかかった。
すぐに理解できたわけじゃない。
でも、何度も何度も、頭の中で繰り返してしまう。
(……他人に、握らせるな)
小さな火種みたいに、その一文だけが消えなかった。
「はっきりと『ノー』と意思表示をして初めて、盤面は動く。自分の人生の選択権を、他人に握らせるな」
心臓が、大きく跳ねた。
(他人に、握らせるな……)
大きく瞳を揺らしたリヴィアは、彼からもらった言葉を一つ一つ脳内で噛み砕いた。
自分が諦めようとしていたもの。
家のためにと、心を殺して受け入れた縁談。
「……ありがとうございます」
やがて、重い憑き物が落ちたような顔で、リヴィアは立ち上がった。
「急に、変なことを聞いてしまってすみません。……わたし、行きます。言わないと、伝わらないから」
決意を固めたように踵を返し、早足で歩き出す。
「おい、模型」
「え?」
「忘れてるぞ」
ヴァンが机の上を顎でしゃくった。
リヴィアはハッとして、一瞬で顔をりんごのように真っ赤にした。
頭の中が彼のアドバイスで一杯になり、一番大切にしていたはずの履帯型機兵を完全に置き忘れていたのだ。
「あっ……! すみませんっ!」
慌てて戻ってきて模型を胸に抱え込み、今度こそ小走りで図書室から飛び出した。
廊下に出て、少し歩いたところで、ふと振り返る。
図書室の入り口から、ちょうどヴァンが出てくるところだった。
そして、彼の隣には――。
(……学年首席の、エレナ様?)
リヴィアは思わず立ち止まった。
銀髪に青い瞳。誰もが知る学院のトップであり、誰に対しても冷酷なまでに距離を置く『氷の聖女』。
そんな彼女が、なぜかヴァンのすぐ隣を歩き、何かを親しげに話している。
(どうして、あの氷のような首席が『ローラン』君と……?)
不思議な取り合わせに首を傾げたが、今のリヴィアにはそれ以上に、向かうべき場所があった。
機兵の模型を抱え直し、足早に迎えの馬車へと向かった。
家に帰ったリヴィアは、コートも脱がないまま、重い足取りで父の執務室の前に立った。
ノックをする。
「入れ」
低い声。ロルフ・リンドガルドはいつも通り、書類の山と睨み合っていた。
「どうした」
「お父様。……昨日お受けした縁談の件ですが」
父の手が止まった。
「一度お受けしたお話を覆すなど、リンドガルドの家に泥を塗る、極めて我儘で許されない振る舞いであることは重々承知しております。……ですが」
リヴィアは両手を強く握りしめ、片眼鏡の奥の鋭い瞳を真っ直ぐに見返した。
「あの縁談、どうか破談させてください」
重苦しい沈黙が、執務室を支配した。
政治の世界において、一度合意した婚約を一方的に破談するなど、大元帥府への明確な反逆と取られかねない暴挙だ。
「……理由を聞こう」
静かな、だが底冷えのする父の声。
リヴィアは震えそうになる膝を必死に堪え、図書室でもらった『言葉』を紡いだ。
「自分の人生の選択権を、他人に握らせたままで……親の言う通りに動く人形のように、生きたくは……ないからです」
それを聞いた瞬間。
ロルフの片眼鏡の奥の瞳が、わずかに見開かれた。
そして、書類に落とされていた彼の視線が、初めて娘の顔を真っ直ぐに捉えた。
ほんの一瞬だけ――鉄血と呼ばれる軍務総長の口角が、堪えきれない喜びに柔らかく吊り上がったように見えた。
ロルフはすぐには答えなかった。
ペン先をインク壺に沈めたまま、しばらく動かない。
やがて、小さく息を吐いた。
「……まったく、面倒な娘だ」
「えっ……」
「お前がそう決めたのなら、私が叩き潰す。以上だ。下がれ」
父は再び書類に視線を戻し、新しい羽根ペンにインクを浸した。
だが、その強面な横顔は、昨日よりも明らかに機嫌が良さそうに見えた。
リヴィアは深く一礼し、執務室を後にする。
扉が閉まった瞬間、ずっと胸の底につかえていた重石が、嘘のように消え去っていた。
――翌朝、リンドガルド家からヴァレリアン府へ、理由の一切を記さない『破談』の書状が届けられた。
【幕間Ⅲ・終】
リヴィア・リンドガルドはその部屋を、物心ついた頃から知っている。
分厚い絨毯。壁一面の軍事専門書。そして、無数に飾られた武勲の証。
「寒くはないか? 膝掛けを使うといい」
父、ロルフ・リンドガルド帝国軍務総長は、書類から目を離さずに言った。
声は低い。帝国全軍の予算と人事を握る『鉄血』の威圧感がある。
しかし、机の端にはリヴィアのために用意された最高級の焼き菓子が、そっと置かれていた。
外では冷酷無比な軍部のトップだが、娘に対してはひどく甘い。それが父だった。
「縁談の話だ」
父が書類を机に置き、片眼鏡の奥の瞳で娘を見た。
「ベルンハルト院長の……私生児だ。出処はアレだが、大元帥閣下が直々に縁を取り持たれた。身分は完璧に保証されている」
「はい」
「お前が嫌だと言うなら、私が叩き潰す。それだけだ」
父はそう言い切り、腕を組んだ。
リヴィアは少し、息を吐いた。
(わかっている)
政治婚姻だ。
リンドガルド家は軍務総長の家。いずれこういう話が来ると、ずっと前から知っていた。
「……お受けします」
パキッ、と。
父の握っていた高価な羽根ペンが、無惨にも折れた。
「理由を聞こうか」
わずかに声が震えている父に向かって、リヴィアは背筋を伸ばして答えた。
「家のために、なれるものはなります」
部屋が静かになった。
父は何も言わず、ただ折れたペンをゴミ箱に捨て、新しいペンを引き寄せた。
それが父の、不器用な返事だった。
翌日から、リヴィアはよく上の空になった。
学院の講義中も、気がつけばぼんやりとしている。
(なぜだろう……)
ノートには、履帯型の魔導機兵の構造図が描かれている。
しかし、頭に浮かぶのは――。
(図書室の彼……『ローラン』さんが言っていたこと)
あそこの穏やかな時間。
彼はこちらが話す模型の専門的な話題にも、嫌な顔一つせず付き合ってくれた。驚くほど詳しかった。
ただの、同好の士。
(ただそれだけ、なのに……)
「あの……リヴィア様、お加減でも悪いのですか?」
隣の席の令嬢が心配そうに声をかけてきた。
「い、いいえっ、大丈夫です……ごめんなさい」
リヴィアは慌てて微笑みを作り、ノートに視線を戻した。
放課後、図書室に寄った。
重い専門書を探すふりをしながら、鞄の中の模型パーツに触れる。
(でも、今日は……いない)
いつもの席は空だった。
リヴィアはしばらく書架の前に立ち尽くし、結局、一冊だけ本を借りて帰ることにした。
迎えの馬車には、兄が乗っていた。
リヒャルト・リンドガルド。父に似て背が高く、軍服の着こなしには一切の妥協がない男だ。
「今日は早かったな」
「あ……少しだけ、図書室に寄っただけですから」
「また例の模型か? お前、体に障るからほどほどにしろよ」
「……今日は違います」
リヒャルトは軽く笑い、それ以上は追及しなかった。
馬車は帝都の大通りを走る。
リヴィアは窓の外を眺めながら、ぼんやりと考えていた。
(縁談を受けた。間違っていない。正しいはずだ……)
でも、心のどこかに、小さな棘が刺さっているような感覚がある。
馬車が少し迂回した。
夕暮れの歓楽街。夜の商いが始まり、魔導ランプが、猥雑な色で瞬く通り。
リヴィアが窓から視線を外そうとした、その時だった。
「――っ」
息が、止まった。
通りの一角。
娼館の派手な看板の下から、ローランと数人の男たちが笑いながら出てくるところだった。
「いやあ! お前が偉くなったら俺のことも頼むぞ!」
「ははっ、任せとけって!」
下品な笑い声。
そして、その中心にいた男の顔を見て、リヴィアは目を疑った。
(あれは……婚約者の、『ヴァン』……?)
間違いない、あの男だ。
男は、通りを歩いていた露出の多い女性に、軽い調子で声をかけ、肩に手を回している。
「リヴィア?」
リヒャルトが怪訝そうに眉をひそめた。
「どうした。顔が真っ白だぞ」
「……い、いいえ」
リヴィアはギュッとドレスの裾を握りしめ、窓から目を逸らした。
「なんでも、ありません……」
馬車の中で、リヴィアはずっと俯いていた。
(ただの、政略結婚だ。わかっているわ)
相手の私生活や愛情に、何かを期待するようなお伽話ではない。
(でも……)
図書室で静かに本を読む『ローラン』の横顔と、風俗街で下品に笑う婚約者『ヴァン』の顔が、交互に浮かんでは消えた。
喉の奥が、静かにひりついた。
翌日、リヴィアは図書室に向かった。
腕の中には、布で大切に包んだ模型を抱き抱えて。
何度も図書室の前を通り過ぎて、それでも結局、足はそこへ向かっていた。
入る理由なんて、いくらでも作れる。参考文献を探すとか、新しい模型の資料とか。
でも本当は——
(……顔を、見たかっただけ)
その事実に気づいた瞬間、胸が少しだけ痛んだ。
いつもの書架の陰に、彼――『ローラン』はいた。
リヴィアは彼の向かいの席にちょこんと腰を下ろし、膝の上の布包みをそっと解いた。
現れたのは、下半身の駆動系をまるごと『履帯』に換装した魔導機兵の模型だった。
「……下半身の駆動系を、まるごと換装したのか」
「はい。先日、『ローラン』君に聞いたお話を元にして……ジョイント部分は、魔導銀の細いワイヤーで補強しています……です。理論上は、これで歩行時の振動吸収率が格段に上がるはず……だと、思いますっ」
ヴァンは感心したように身を乗り出し、動力伝達や装甲の干渉についていくつか専門的な質問を投げかけてきた。
最初は吃りながらも、リヴィアは夢中になって答えた。『ローラン』君と専門的な話が噛み合っていくのが、純粋に嬉しくて、楽しかった。
(……でも)
ふと、昨日の夕暮れに見た、歓楽街での光景が脳裏を過る。
そして、自分が受け入れた『政略結婚』という重い事実が、冷や水を浴びせるように現実に引き戻した。
気がつけば、リヴィアの口数は減り、模型の履帯へ視線を落としていた。
「どうかしたか」
「……えっ?」
「さっきから、少し顔が暗いぞ」
ヴァンの直球の指摘に、リヴィアは短く息を呑んだ。
しばらくの沈黙の後、彼女は深く、深く息を吸い込んだ。
「……『ローラン』君は」
「ん」
「『やりたくないこと』だけど、周りの大人が喜んでくれることと……『本当にやりたいこと』だけど、周りのみんなが反対することだったら……どっちを選びますか?」
ヴァンは少しだけ思考を巡らせる素振りを見せた。
「本当にお前のことを大切に思っている人間なら、お前が本当に嫌がることを無理強いはしないはずだ。それが大前提だ」
「……」
「それから、口に出して言わないと絶対に伝わらないことがある。お前が『やりたくない』と黙って我慢して、親の言う通りに人形みたいに生きていれば、周りの連中はお前の本当の苦痛を知らないままだ」
その言葉が、胸のどこかに引っかかった。
すぐに理解できたわけじゃない。
でも、何度も何度も、頭の中で繰り返してしまう。
(……他人に、握らせるな)
小さな火種みたいに、その一文だけが消えなかった。
「はっきりと『ノー』と意思表示をして初めて、盤面は動く。自分の人生の選択権を、他人に握らせるな」
心臓が、大きく跳ねた。
(他人に、握らせるな……)
大きく瞳を揺らしたリヴィアは、彼からもらった言葉を一つ一つ脳内で噛み砕いた。
自分が諦めようとしていたもの。
家のためにと、心を殺して受け入れた縁談。
「……ありがとうございます」
やがて、重い憑き物が落ちたような顔で、リヴィアは立ち上がった。
「急に、変なことを聞いてしまってすみません。……わたし、行きます。言わないと、伝わらないから」
決意を固めたように踵を返し、早足で歩き出す。
「おい、模型」
「え?」
「忘れてるぞ」
ヴァンが机の上を顎でしゃくった。
リヴィアはハッとして、一瞬で顔をりんごのように真っ赤にした。
頭の中が彼のアドバイスで一杯になり、一番大切にしていたはずの履帯型機兵を完全に置き忘れていたのだ。
「あっ……! すみませんっ!」
慌てて戻ってきて模型を胸に抱え込み、今度こそ小走りで図書室から飛び出した。
廊下に出て、少し歩いたところで、ふと振り返る。
図書室の入り口から、ちょうどヴァンが出てくるところだった。
そして、彼の隣には――。
(……学年首席の、エレナ様?)
リヴィアは思わず立ち止まった。
銀髪に青い瞳。誰もが知る学院のトップであり、誰に対しても冷酷なまでに距離を置く『氷の聖女』。
そんな彼女が、なぜかヴァンのすぐ隣を歩き、何かを親しげに話している。
(どうして、あの氷のような首席が『ローラン』君と……?)
不思議な取り合わせに首を傾げたが、今のリヴィアにはそれ以上に、向かうべき場所があった。
機兵の模型を抱え直し、足早に迎えの馬車へと向かった。
家に帰ったリヴィアは、コートも脱がないまま、重い足取りで父の執務室の前に立った。
ノックをする。
「入れ」
低い声。ロルフ・リンドガルドはいつも通り、書類の山と睨み合っていた。
「どうした」
「お父様。……昨日お受けした縁談の件ですが」
父の手が止まった。
「一度お受けしたお話を覆すなど、リンドガルドの家に泥を塗る、極めて我儘で許されない振る舞いであることは重々承知しております。……ですが」
リヴィアは両手を強く握りしめ、片眼鏡の奥の鋭い瞳を真っ直ぐに見返した。
「あの縁談、どうか破談させてください」
重苦しい沈黙が、執務室を支配した。
政治の世界において、一度合意した婚約を一方的に破談するなど、大元帥府への明確な反逆と取られかねない暴挙だ。
「……理由を聞こう」
静かな、だが底冷えのする父の声。
リヴィアは震えそうになる膝を必死に堪え、図書室でもらった『言葉』を紡いだ。
「自分の人生の選択権を、他人に握らせたままで……親の言う通りに動く人形のように、生きたくは……ないからです」
それを聞いた瞬間。
ロルフの片眼鏡の奥の瞳が、わずかに見開かれた。
そして、書類に落とされていた彼の視線が、初めて娘の顔を真っ直ぐに捉えた。
ほんの一瞬だけ――鉄血と呼ばれる軍務総長の口角が、堪えきれない喜びに柔らかく吊り上がったように見えた。
ロルフはすぐには答えなかった。
ペン先をインク壺に沈めたまま、しばらく動かない。
やがて、小さく息を吐いた。
「……まったく、面倒な娘だ」
「えっ……」
「お前がそう決めたのなら、私が叩き潰す。以上だ。下がれ」
父は再び書類に視線を戻し、新しい羽根ペンにインクを浸した。
だが、その強面な横顔は、昨日よりも明らかに機嫌が良さそうに見えた。
リヴィアは深く一礼し、執務室を後にする。
扉が閉まった瞬間、ずっと胸の底につかえていた重石が、嘘のように消え去っていた。
――翌朝、リンドガルド家からヴァレリアン府へ、理由の一切を記さない『破談』の書状が届けられた。
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神の娘ティアリーナが治める世界へと“追放転生”させられた。
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だが――5歳の洗礼の儀式を境に、運命は動き出す。
くどいようだが、俺の望みはスローライフ。
……のはずだったのに。
呪いのような“女難の相”が炸裂し、
気づけば婚約者たちに囲まれる毎日。
どうしてこうなった!?
最低のEランクと追放されたけど、実はEXランクの無限増殖で最強でした。
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ファンタジー
高校2年の夏。
高木華音【男】は夏休みに入る前日のホームルーム中にクラスメイトと共に異世界にある帝国【ゼロムス】に魔王討伐の為に集団転移させれた。
地球人が異世界転移すると必ずDランクからAランクの固有スキルという世界に1人しか持てないレアスキルを授かるのだが、華音だけはEランク・【ムゲン】という存在しない最低ランクの固有スキルを授かったと、帝国により死の森へ捨てられる。
しかし、華音の授かった固有スキルはEXランクの無限増殖という最強のスキルだったが、本人は弱いと思い込み、死の森を生き抜く為に無双する。