英雄将軍の隠し子は、軍学校で『普通』に暮らしたい。~でも前世の戦術知識がチートすぎて、気付けば帝国の影の支配者になっていました~

ヒミヤデリュージョン

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第三十八章:墓前の食卓

ワイルドは人混みを歩きながら、ヴァンの隣で声を潜めた。

「マルクス・ソル閣下とルキウス・ソル閣下。昨朝のうちに、それぞれの軍区へ戻られたとのことでさァ」

「展開が速いな」

「大元帥閣下の御命令とのことで」

ヴァンは前を向いたまま、短く思考を巡らせた。
二人を政争から引き離し、守るための措置か。それとも、大元帥自身の手元を固めるためか。あるいは——その両方か。

「報告は以上でさァ。何かご入用でしたら——」

「ああ、助かった」

ワイルドが軽く頭を下げ、雑踏の中へ溶けるように消えていった。
ヴァンは一人、大通りを歩き続けた。

じくり、と右腕が疼いた。
次に、肋骨の奥。続いて、全身の魔導回路が悲鳴を上げ始める。

魔薬の効果が静かに切れていく。
ヴァンは路傍の石段を見つけ、重い腰を下ろした。

目の前を、帝都の日常が行き交っている。
ヴァンはそれを、ただ遠いものとして眺めていた。

(仇は、取った)
そう思ったのに。
胸の中は、奇妙なほど静かだった。

何もなかった。
怒りが消えた後に残ったのは、ただの静けさだった。
達成感もない。安堵もない。

仇を取ろうが、ディーターとブルーノは死んだままだ。
自分がどれほど頭を回しても、もう二度と彼らが笑うことはない。

ヴァンは外套越しに石段の冷たさを感じながら、しばらくの間、動くことができなかった。
帝都の空が、血のような夕焼けに染まり始めていた。



屋敷に戻ると、食堂にはすでに温かい灯りがともっていた。
ベルンハルトと、フリーダ、エレナが、食卓についている。
ヴァンが足を引きずりながら椅子を引いて座ると、三人の視線が痛いほど集まった。

エレナの唇が、何かを問おうと微かに開く。
だが、ベルンハルトが静かに首を横に振った。エレナは悔しそうに唇を噛み、伏し目がちになった。

「——傷は」
しばらくの沈黙の後、エレナが消え入るような声で尋ねた。

「少し開いたが、大したことはない」

「……そう」

隣に座るフリーダが、無言で温かいスープの器をヴァンの前にそっと押し出した。
交わされた言葉は、それだけだった。

食卓に、温かい料理が並ぶ。
四人で匙を動かす。ヴァンはほとんど言葉を発さなかった。
機械的にスープを胃に流し込み、硬いパンを噛み砕き、水を飲む。ただ、それだけを繰り返した。

「——父上」
食事が半ばを過ぎた頃、ヴァンがぽつりと口を開いた。

ベルンハルトが顔を上げる。

「厨房に頼んで、少し見栄えのいい料理を見繕ってもらえないか。持ち出せるように包んでほしい」

「……今夜、出歩くのか」

「少しだけ」

カチャリ、とエレナが匙を置いた。

「兄さん……ダメです。傷が開いています。それに、今日だけで色々なことがありすぎました。せめて今夜は、私が手当てを——」
エレナがヴァンの袖を掴みかけたその時。

「エレナ」
ベルンハルトの低く、静かな声がそれを制した。

「……っ」
エレナは行き場を失った手を強く握りしめ、悔しそうに膝の上に置いた。


ベルンハルトはヴァンの目を真っ直ぐに見据えた。

「自分の身の面倒は、自分で見られるか」

「はい」

短い沈黙。

「——支度させてこい。骨付き肉と煮込み、黒パン。…… 酒も一つ、付けてやれ」
ベルンハルトが控えの従者に向けて顎をしゃくった。
エレナは黙って視線を落とした。彼女の指先が、膝の上でスカートの布地をきつく握りしめているのが見えた。

食卓を立つ前、ヴァンはエレナにだけ聞こえる声で言った。
「遅くはならない。心配するな」

「……お気をつけて」

ヴァンが玄関を出て行った後。エレナはたまらず、父の背中に声を投げた。
「お父様……本当に護衛もつけずに、兄さんを一人で行かせてよろしいのですか? 刺客が、また……」

ベルンハルトの返事は、確信に満ちていた。
「案ずるな。あいつはもう、ただの『隙だらけの軍校生』ではない。白昼堂々、大元帥閣下から直接勲章を授与された『政治的な人間』だ。今のあいつに迂闊な暗殺を仕掛けるほど、帝都の連中も馬鹿ではないさ」

フリーダがエレナの震える手をそっと包み込み、柔らかく囁いた。
「きっと、無事に帰ってきますわ。祈っておきましょう」



食料の包みを提げ、ヴァンは帝都の外縁にある薄暗い雑貨街へと寄り道をした。
埃を被った棚の前で、少し立ち止まる。
そこには、粗悪な包み紙に覆われた、安価なチョコレートが雑然と積まれていた。

見るからに安っぽく、泥のように不味いと不評の代物。
——あの日、ディーターが食べていた銘柄だ。
ヴァンは一枚、手に取った。

帝都の重厚な外壁を抜けた先には、広大な軍人墓地が広がっていた。
黄昏が落ち、夜の帳が下りかけた空の下。冷たい石碑が、どこまでも規則正しく並んでいる。
どれも似たような大きさで、似たような簡素な作りだった。
名もなき大部分の士卒たちが、同じように使い捨てられ、同じように眠っている場所。
ヴァンは区画の奥へと歩を進めた。
土の匂いがまだ新しい、二つの石碑が並んでいた。

「——よう」

ヴァンは湿った草の上に腰を下ろした。
二つの碑を、交互に見つめる。

「魔法なんていう便利なものがある世界なのに、死者を蘇らせる復活術の一つもないのかよ」

夜風が、冷たく草を揺らした。

「おかしいよな。魔力で何でもできそうなのに、死んだらそれまでだ。……ゲームより理不尽じゃないか」

誰も答えない。

ヴァンは包みを開いた。
骨付きの炙り肉。硬く焼き上げられた黒パン。塩漬け肉と豆を煮込んだシチュー。厨房特製の、素朴な林檎の焼き菓子。
一つずつ、丁寧に石碑の前に並べていく。

「言っただろ。ちゃんとした美味いもんを食わせてやるって」

肉を並べる手が、少しだけ震えた。
「——随分と遅くなっちまったが」

石碑の冷たい表面を、じっと見つめる。
「食ってくれ」

しばらくの間、ヴァンは動けなかった。
空が完全に暗くなり、星が瞬き始める。

ヴァンは懐から、先ほど買った安物のチョコレートを取り出した。
包み紙を乱暴に破る。

「……こんな泥みたいに不味い安物、どこがよかったんだか」

ヴァンはそれを口には運ばなかった。食べる気にはなれなかった。
そのまま、ディーターの碑の前に、一番目立つようにそっと置いた。

立ち上がり、隣の碑を見る。
ブルーノ。

「……お前は」

声が、そこで詰まった。
ヴァンは黙り込み、石碑を見下ろした。

何が好きだったのか。何が嫌いだったのか。
話しかけようとしても、言葉の引き出しが完全に空っぽだった。
どんな顔で本心から笑うのか。休みの日は何をするのか。故郷には誰がいるのか。
知らないことだらけだった。

「——悪かったな」

低く、短く。
ヴァンは左胸に手を当てた。

今日、ガイウスの立ち会いのもとで授けられたばかりの、真新しい銀の勲章。
それを、留め金から乱暴に外した。
しばらくの間、手の平の上で冷たい銀の感触を確かめる。

「これ、俺のじゃない」
ブルーノの石碑の台座に、そっとそれを置いた。
「お前たちのだ。持っていけ」

夜風が吹き抜け、墓地の草木がざわめいた。

ヴァンはディーターの碑の方を向いて、少しだけ意地悪く言った。
「お前には大好きなチョコレートを渡したからな。勲章はブルーノにやった。文句あるか?」

答えはない。
「……ないよな」

もう一度、両方の碑を見た。
何か気の利いた別れの言葉を言おうとして——やめた。
今の自分に、そんな資格はない。

「……また来る」

それだけ言い残し、ヴァンは立ち上がった。
夜闇に沈む墓地の出口へと歩き出す。
一度も、振り返らなかった。



屋敷の自室に戻ったのは、夜半近くだった。

体が鉛のように重い。
負傷、魔薬の反動、そして精神的な疲労。そのすべてが一気に圧し掛かってくる。
水盆の冷たい水で顔を洗い、雑に包帯を巻き直して、そのまま寝台に倒れ込んだ。

目を閉じる。
眠れるかどうかは分からない。

それでも——ディーターとブルーノの顔は、さっきよりも少しだけ、遠くなった気がした。

寝返りを打ち、窓の方へ顔を向ける。
雲の切れ間から差し込んだ月明かりが、床を薄青く照らしていた。
ふと、窓のそばに。
影が、あった。

ヴァンの目が、ゆっくりと見開かれる。
冷気を纏ったような、一糸乱れぬ佇まい。
月光を背に受け、その人物は音もなく、ただ静かに立っていた。
顔を覆う、白い仮面。

「——ッ」
ヴァンはバネのように身を起こした。
思わず、息を呑んだ。




【第三十八章・終】
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