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氷穹PIAN0
しおりを挟む魂ごと凍りそうな冬の教室。それも校舎の角にある極寒の部屋。朝の真っ白な冷たい陽光を受け、埃が鱗粉のように輝く空き部屋の中心に私は座っている。目の前には一点の曇りなく輝く、夜より暗い漆黒のグランドピアノ。
キャスターが固定されていることを確認しカバーを上げ、新雪を固めたかのような鍵盤を指でなぞり、記憶の中に流れる音を聴く。懐かしい音。私の大好きだった人が奏でる、大好きな音。
それは柔らかな春の日差しのようでもあり、うねる夏の海原のようでもあり、また秋の枯葉が木枯らしに舞うようでもあり、冬の孤独な一日のようでもあった。そして何より、自由だった。
そういえばあれからどれくらい経ったろう。生徒たちが登校してくるにはまだ早い時間だし、あと少しだけゆっくりしよう。目を閉じて、凍った大気を肺胞一つ一つ全てに行き渡らせ、溢れる涙を大きな欠伸で誤魔化し、目を閉じる。
どれくらい前だったろう。この日も凍るような朝。私は普段と変わらずまだ誰もいない校舎を悠々と歩いていた。そんな時だ。誰もいないはずの校舎の、誰もいないはずの空き部屋から、ピアノの音が聴こえて来たのは。
どこかで聴いたことのあるメロディの主を一目見よう、と私は駆け足でそこへと向かった。
扉の上に取り付けられているネームプレートは所々錆びていて読みにくい。埃で曇った扉の硝子越しに中を覗くと、その中央。音楽の発信源に、その人はいた。
飾り気のない弾き方。朝霧のかかった湖面のような音楽を奏でるのは、ここの制服を着た、太ももまであるであろう長い黒髪を持つ眼鏡の少女だった。
扉に手をかけたまま固まっていた私と目が合う。気づいたのか、と肩を強ばらせると、その少女は柔らかく微笑んだ。その途端、雲が晴れたのか朝日が顔を出し、その薄光が彼女を照らす。浮かんでいる埃ですらも、きらきらと光る雪のようだった。
私は一瞬躊躇したが、そのまま扉を開いて、中へと踏み込んだ。
開くと、メロディが更に鮮明なものになる。それは鼓膜を震わし脳に響き、僅かな余韻を残して、私と彼女の空隙に溶けた。
「ピアノ」
「へっ」
「ピアノ、好きなの?」
薄ら氷を研ぎ澄ましたような声。それは繰り返すだけの日々に投じられた確かな一閃だった。
「その、音が、聴こえて」
へへ、と誤魔化すように苦笑する私。
そっか、と笑い、足を投げ出す彼女。清楚で大人っぽい雰囲気とは裏腹に子どもっぽく笑う人だ。
埃の臭い。春の匂い。つんとする冷気が、少しだけ温かくなったような気がした。
「ここの七不思議、知ってる?」
なにそれ、と私がきょとんとしていると、彼女は続けた。
「うちでは結構有名だよ? 階段が一段増えたり、夜中に人体模型が動いたりする、よくあるアレ。うちの高等部には『朝早くに学校の空き部屋からピアノが聴こえる』ってのがあるの」
そんな話があったのか。全く知らなかった。
「で、私は今ここにいるわけ」
いまいち理解できなかったが、この学校にはそんな噂が飛び交っているというのが分かっただけでもいいだろう。
「貴女がその七不思議の正体、ってわけ?」
「さーあね」
けたけたと笑う。その声は部屋を駆け巡り、次第に薄れ、消えた。
「ご機嫌よう。わたくし、三年四組の黒田麗子と申します」
どこか嫌味がかった、わざとらしい声。こう言うのが冬華学園のルールでしょ、と付け加えて、今度は困ったように笑った。
「私のことは柊でいいわ、麗子」
「ええ、こちらこそよろしく」
すう、と麗子が息を吸って、先ほどの曲を再び演奏する。
私はその曲を知っているし、弾いたこともある。馴染みの曲だ。
「カノン……」
「なんだ、知ってるの……面白い曲でしょ」
ピアノの鍵盤を滑る彼女の指は真っ白で、細い。絵に描いたようなピアニストの手だった。
柔らかな曲調。
追想曲。
急加速。急減速。
遊ぶのが好きなのだろう。緩急のつけ方が上手い。まるで子どもが遊ぶように。狂気に駆られた踊り子のように。時にそよ風となり、雨となり、太陽にもなる。言ってみれば不必要。言い換えれば、アレンジ。彼女はそれが異様なほどに、上手い。
目を閉じ笑顔を浮かべ、過剰に体を揺すったりせず運指だけに集中している少女。純粋に演奏を楽しむ少女。
静止した湖面に音が波紋を広げてゆく。
「結構遊ぶんだね」
「楽しいっていいことだから。だから私は弾きたいようにしか弾かないの」
「ちゃんとしたら相当上まで行けるんじゃないの?」
「よく言われるけれど、興味ないんだ」
ソプラノ。かけている黒縁のメガネのレンズが輝く。
フォルティシモ。情緒不安定にすら聴こえる音と音はしかし複雑に絡み合い一つになり、ゴールに向かいラストスパートをかける。そしてそれは最高潮に達し、
ぷつん、と途切れ、重々しい余韻を残し、終わった。
その数秒後、無粋なチャイムが余韻を掻き消し、私を現し世へと引き戻す。
「あーー間に合ったぁー」
満足げに笑い、座ったまま大きく伸びをすると、今度はししし、と歯を出してまた笑った。
「チャイムの時間、計算して弾いてたでしょ」
「まあ、大体の勘なんだけどね」
麗子がすっくと立ち上がる。長い黒髪の一本一本がさらさらと流れるように彼女の制服を伝う。細指でメガネを上げて、よし、と呟く。
「じゃ、そろそろ行くわ。柊も早くしないと先生たちがうるさいよ」
苦笑で返す。彼女たちの怖さは身を持って経験しているのだ。
「柊」
呼ばれて、何、と返す。
「どうだった? 私のピアノ」
どうだった? と訊かれても困る。
「そう、だな…………鳥」
「鳥?」
「そう、飛んでる鳥……みたいだった」
あまりに抽象的な表現。だがそれを聞いて麗子は心底嬉しそうな表情をする。例えるなら、そう。
「犬」
「どしたの?」
「ん、なんでもない」
尻尾が生えていたらぶんぶん振っていそうだ。
そして去り際。
「また明日、来てくれる?」
「私はいるよ。いつだって」
「ありがと」
麗子が走り去って行き、静寂に包まれる。
そこは東から太陽が昇るようにとてもとても静かで、いつも通り物はごちゃごちゃしているのに、異様に広く感じた。
私は彼女の最後の言葉を、いつまでも反芻する。
翌日。今日は目が覚めた時から晴れていて、放射冷却で昨日以上に寒かった。それに構わず私の足取りは軽くなる。
あの音楽を、また聴きたい。
私のよく知っている、でも聴いたことのない音楽を感じたい。
扉を開くと、そこにはまだ誰もいなかった。
椅子に腰かけカバーを開き、真っ白な鍵盤に目をやる。
彼女の指がここに触れていたのだと思うと、なんだかくすぐったくなって、嬉しかった。
奏でる。
下手くそなノクターン20番。
私の好きな曲のひとつ。弾きたかった曲のひとつ。
夕闇に揺れる暖炉の火を連想させる寂しげなメロディ。確かタイトルは『遺作』だったように思う。
物寂しいタイトルだけれど、静かで、身も蓋もない感想だが、きれいだ。ミスタッチは意識して無視。
痛む。詰まる。苛立つ。開く。
「ありゃ、先越されてたか」
ひょっこりと扉から麗子が顔を出した。
「おはよう、麗子」
「おっはよ、柊」
「朝からまた重いの弾くね」
「なんとなく、ね」
「弾いてて楽しい?」
随分とざっくりした質問だ。
「好きな曲弾いてるから、まあ」
「あーいやいや、そうじゃなくてさ。なんか弾き方堅くない?」
まあもともとピアニスト志望だったし、堅いもなにもピアノというのは完璧が前提だから云々と思考を巡らせるが上手い返答が思いつかない。
「右手怪我してるっぽいけどさ、もっと遊ぼうよ。せっかく楽器って言うんだからさ」
怪我まで見抜くか。屈託なく笑う麗子の歯が見える。
椅子を渡そうとすると、彼女は今日はいいよ、と制した。
「続き、聴かせて」
私の後ろに立ち、さあ、と促す。
しぶしぶ再開。音が静寂を優しく切り裂く。
不規則な音と吐息の空間に時間だけが律動する。
静かに終幕。ふう、と息を長く吐き出し埃っぽい空気を吸い込む。そしてくしゃみまでのワンセットをこなし、立ち上がる。
「朝に聴くそれもいいね。柊が弾いてるからかな」
なんだそれ。だがまあ、聞いて悪い気はしない。
「じっくり聴いてみて分かったけど、きっちりしてて、整ってる感じ。堅いというよりすっきりしてる」
否定されるのは慣れっこだが、こんなふうに褒められたことがないからむず痒い。室温が五度くらい上がったような気がする。
「私も弾くわ。まだ時間あるし」
再び椅子を渡そうとすると、いいよ、と言って体を無理やりねじ込んできた。
「寒いからいいでしょ」
「弾きにくくないの」
「弾きにくい弾きやすいは問題じゃない。弾ければいいの」
そう言って鍵盤に指をかける。その指先から生まれた音は軽快だ。
音の連続。
「何ていう曲?」
「分かんない」
感覚だけで、頭に浮かんだメロディをそのまま奏でているのだという。
弾ける。揺れる。
それに釣られてか、私の指が自然と鍵盤に触れて、音を産んだ。
それを聴いた麗子はにやっと笑い、音がさらに激しく、さらにうねる。こい、と言うようかのように。
……やってやろうじゃないか。
連弾。といっても、互が互いに思い思いに弾くだけのケンカみたいなもの。それでも確かに私たちの音楽は重なる。
触れたい鍵盤は奪い合う、むちゃくちゃな演奏の中で、麗子が私の音楽を押し上げるような弾き方をしているのが分かる。
頭の中は一体どうなっているのか。多分、この人は天才、というべき人なのだろう。だが。なぜ。
思考と旋律をチャイムが遮る。
またね、とだけ言葉を交わして、また私だけがここに残る。埃が付着した窓をなぞると、結露で薄く指が湿った。
私はなぜここにいるのだろう。そもそも私はここにいるのだろうか。
すでに乾いた指先を見て、いつもの問答を繰り返す。
答えは、出なかった。
それからもほぼ毎日、私たちはここに集まり、ピアノを弾いた。孤独ではない時間はどこまでも楽しくて、執着の対象だったピアノが、私の中で変質しているのが分かった。
その間ずっと思考していたけれど、やっぱり答えは、出なかった。
「やあ、今日は私の勝ちだね」
雲に遮られ日の届かない部屋。右手で鍵盤を叩きながら左手を振る麗子。
「何の勝負さ」
「特に意味はないけれど、何かしらの目標があったら楽しいじゃん」
「ピアノは?」
「それはそれ、これはこれ、さ」
弾いていた曲(恐らくアリス・イン・ワンダーランド)を止め、立ち上がり、こちらに向かって真っ直ぐ歩み寄ってきて。
がし、っと私の肩を掴み、
「連弾、やろう」
グラス越しの真っ黒な瞳を輝かせて、言った。
本番は来週。二月の半ばにある冬華祭の朝。冬華祭はいわゆる文化祭のようなもので、一般の文化祭とは違って学年の暮れにするのが特徴だ。一貫の学校だからこそ、だろう。世間からしたらかなり珍しいらしい。
曲目はローゼンブラットの『2つのロシアのテーマによるコンチェルティーノ』。『二人羽織』と俗称されるものだ。
本気でやるの、と尋ねると、何も言わずに笑ったから、本気で一週間で仕上げるつもりなのだろう。
聴いたことや見たことがあっても連弾なんて殆どやったことがない。強いて言えばつい先日のケンカ弾きくらいだ。
はい、と差し出してきた楽譜。以前なら多分、断っていただろう。でも、私は受け取った。それが返答。それが決意。私も、変わらなければならない。
それからは、ひたすら練習だった。楽譜の刷り込み、運指の確認、移動のタイミング全てを叩き込む。
「なんで私と連弾、やろうと思ったの」
「私ね、大学はここから出て別の所に行くの。だから、最後の思い出作りにね」
「友達は?」
「柊と一緒」
ぴしゃり。意訳すると、居ない、といったところだろう。
「真面目な型にはまった練習、嫌いじゃないの……」
「楽しむためにする努力は嫌いじゃない。それに、知らなきゃ遊べない」
ふたりの練習は朝の短い時間だけで、あとは各自ですることになった。練習の絶対量が確実に足りていないが、できるところまで仕上げなければならない。
「私も変わらなきゃ」
麗子の呟きに耳を貸さず、私はひたすら練習した。
そんな日々の、昼。広い学園全体が本番に向けて活気づく中、いつもの部屋からふと準備のために何かを運ぶ麗子を見た。猫背で、前髪は眼鏡を半分ほど隠してしまっている。それは私の知っている普段の彼女とは違い真っ暗で、言ってみれば死人のようだった。『普段』の彼女は、きっとあっちなのだろう。どことなく悲しくて。倒錯的かもしれないけれど、心のどこかで、うれしかった。
そして、本番前日の夕刻。私たちは最後の確認を終え、開け放った窓からの涼風を感じていた。
「やるって言ってもここでやるの?」
「ううん、ピアノを屋上に持って行って、そこで思いっきり」
馬鹿か、と思った。
「準備はできてるから、きっとなんとかなるよ」
「観客は?」
「柊がいるでしょ」
私と麗子が奏者で、私と麗子が観客か。変な話だ。
日が西の彼方へ去ったのか、藍色の夕闇が景色を飲み込んでゆく。電気を点けていないこの部屋は真っ暗になって、空に浮かぶ蒼銀の月灯りだけが、私たちの聖域を照らしていた。
麗子の髪一本一本が夜の風に煌く。掛けられたグラス越しに見えている世界は、本当に私と同じなのだろうか。
「ねえ」
声をかけると彼女は何も言わずに、ピアノを弾き始めた。
「私ね、元々プロを目指してた。目指させられていた、って言うべきかな」
話しかけたのになあ、とは言わず、麗子に背を向けて空いたスペースに座る。
「もともとピアノが好きだったんだけど、ずっとやってきて、コンクールとかでも何度も賞取って。そんな時、気づいたんだ。ピアノを弾くのが楽しくなくなってることに」
私は何も言わない。何も言えない。沈黙は不規則に鳴る音響が埋めてくれる。
「脅迫観念で弾いてるみたいだった。完璧が前提だったし、それしかないと信じ込んでた。窮屈な籠の中にいるみたいで……本当にこれでいいのか、って。そんなことばかり考えてると、弾けなくなる時が来るんだ」
奥歯をぎりと噛み締めた。握った掌に爪が刺さる。月光を背に浴びる彼女の表情は見えなかった。
「それで、きっぱりピアノはやめて、普通の女の子として生きていこう、なんて思ってみたんだけど、それもダメだった。人と関わるのに、今までずっとこれを通してきたから、みんなの話についていけなくて、ピアノの無くなった私には、結局からっぽでさ」
ターーーン、っと鳴らす麗子。私は冷え切った部屋の中で唯一の体温を感じる。
「結局私にはこれしかないんだな、って。だからさ、自分のためだけに弾くんだ。自分が楽しいように弾くんだ。自分が最っ高にハイになれる音だけを鳴らすんだ。ピアニストっては、名乗れないだろうけれど」
「麗子は、ピアニストだよ。世界で一番ピアノを愛してるよ」
声が震えるのを我慢して、伝えた。
「ほんと、柊は私の欲しい言葉をさらっと言うなあ。読心術使えるんじゃないの」
そんなこと、ない。貴女が私にそう言わせているだけだ。そう言えるだけの、貴女なんだ。この言葉は、言えなかった。だから一言、
「そうかもね」
わざと含みをつけて、笑った。
当日。嵐の前の静けさと言うべき静寂の中、私は音無く階段を登る。一段一段、ゆっくりと。目的地に向けて。
青白い空間。ステージ前の空間。エレベーターはここまで通じているようだ。
普段は――少なくとも私が知る限りでは締め切られている屋上への扉は開け放たれていて。
「おはよう、柊」
夜中に雨が降ったのか、薄く水の張った屋上の上。凍りつくような蒼穹の下。それらの光を飲み込む漆黒のピアノの隣に、彼女は立っていた。
屋上は鏡のごとく、それこそウユニ塩湖みたいに磨かれている。
きりきりと朝の冷気が肌を切りつけるが、そんなことはどうでもよかった。
「おはよう、麗子」
目を合わせて、にっ、と笑って。もう何年も調律されていないアンティークの、一人用の短いピアノに二人で座る。手はギリギリ届く。肺胞一つ一つに至るまで大気を行き渡らせ、手の調子を確認する。何で怪我が残るかなあ、なんていう文句は後回しだ。
私は右側、麗子は左側。
「楽しんでこう」
「やってみる。やれることはやったから」
二人の息が合い、指が鍵盤に触れ、私たちは一つになる。
初めは静かに、しかし荘厳に。次第に高め、圧縮していく。この曲はタイトルの通りロシアの『カリンカ』と『モスクワ郊外の夕べ』のメロディが使われている。
腕と音が交差する。二つの音は交じり合い、片方は優しく、もう片方は激しく。一度収束し、ここから血色が変わる。麗子のパート。低音。重たく、しかし鮮烈に。
高潮、反転。
私にパスされる。高音が弾ける。そこから麗子に。私に。そうしてまた私たちは一つに交わる。手が触れる。肩が擦れる。次第に息遣いが荒くなる。
けれど、楽しい。私が溜めて、麗子が解き放つ。今はただ、この場所で、彼女と、これを奏でていたい。
ここで、麗子が本性を出してきた。予想より早い。目の端から見えた彼女は笑っている。きっと私も同じだ。ただでさえハイテンポなのにさらに上げてくる。
面白い。
私も加速する。追いつき、再びシンクロし、フォルティシモ。
息つく間もなくここでまた音調が変わる。再び静かな、夜のようなメロディ。しかし気が付けば夜は明ける。
一つ目の私の仕事。盛り上がりの一つ。私にとってここが一番心配だった。手首で引っ掻くように音を連続させる。意識してミスしそうな自分を殺す。手が攣りそうになるのを必死にこらえて、なんとか麗子に渡した。
ここからラストに向かって往く。
私もやってやろうじゃないか。
強く、高く。隣の麗子がマジか、と呟く。張り合ってくる彼女を突き放して、また追いついてくる彼女を突き放す。こい。ここまで来てみろ。いつもの私とは明らかに違う思考回路だった。
麗子のパート。ここでまた彼女が動いた。夏の海原のように。と思えば秋の木枯らしのように。気が付けば冬の雪のように。そして来たる春の陽光のように。短い時間にこれだけの表情を魅せてくる。本当に高校生かよ、と内心舌を巻いた。
再びシンクロ。
最後へ向けて再び、圧縮。
麗子が立ちあがり、『二人羽織』の名のごとく私に後ろから覆いかぶさる。長い髪が触れる。体温を感じる。熱い吐息がかかる。
観客はいない。しんと静まり返った寒空の下の私たちだけが、唯一の音源。
ここから、私の本気の見せ所。全く一週間でやれるようになるなんて自分でも驚きだ。
精一杯腕を伸ばして私の音を押し上げる彼女に感謝し、必死に手を動かす。ここで右手の古傷に痛みが走った。気にするな。たった十秒だ。放っておけ。痛覚は黙ってろ。
全くどうしてまだ痛覚が存在するんだ。こんな楽しい演奏は、もう永遠にできないのだ。弾いていたい。この人と居たい。獣性にも似た理性で、聴覚視覚以外を断ち切る。
ピアニストになりたかった。練習もそれこそ文字通りに血が滲むほどやった。けれど、手を怪我して、そのまま培ってきた感覚も衰えて。完璧を求められ、また私も求めていた完璧をこなせなくなって、私は最悪の選択をした。それでも、神様はこんな機会を与えてくれた。私と彼女を出会わせてくれた。これが偶然だって必然だって構わない。
ただ私は、黒田麗子と一緒に、このピアノを弾きたい。
乗り切った。約十三秒の二人羽織が終わり、終局へと向けて残りの力全てを注ぐ。こんなに熱くなったのは初めてだ。きっとこの人に出会わなければ、変われなかった。
二人同時に加速。アレンジなんていう上品なものではない。互が互いの気持ちいいように奏でる、独りよがりで自分本位な演奏。
私の音を聴け、と心で叫ぶ。私の音を聴け、という彼女の声が聴こえた気がした。ああ聴いているさ。こんなに綺麗な、自由な、純粋な。空を飛ぶ鳥のような音楽を、聞き逃すはずがない。
二人だけの閉じた世界に、音楽はどこまでも響く。
聴かないなんてもったいないぞ。
私の、私たちの、最初で最後の旋律を――――
終わって、しまった。けれど、やりきった。息が荒い。こんなに空気は冷たいのに、体は焼けるように熱い。まだ遠くにピアノが鳴っているような感覚が残っている。隣の麗子を見ると、確かに紅潮してはいるが私よりは余裕そうだ。本当に、すごい人だ。
「麗子」
「柊」
最高だ。言葉はいらない。氷のごとく透き通った蒼穹の下交わした笑顔が、すべてだ。
この人が、この人が奏でる音楽が大好きだ。けれど、私が彼女をパートナーにしても、この人のパートナーに私はなってはいけない。飛び立つ彼女の桎梏になってはいけない。
二人の息が整った頃、間延びしたチャイムが響く。私たちは何も言わず別れ、それから二度と会うことは無かった。
眠っていた。どれくらいの間だったろう。目を擦る。夢を、見ていた。熱く、寒く、心地いい、泡沫の夢。
さあ、今日も始めよう。
もう一度深呼吸をし、鍵盤に触れる。
私は、何故ここにいるのだろう。
そもそも私は、ここにいるのだろうか。
われ考える、故にわれあり。しかしわれある所以はなし。なんて嘯いても、時間だけが私を置いてゆく。
多分、私は存在理由を探すために、ここにいるのだろう。これは罰かもしれないが、それでもいい。今日も私は、あの日の旋律を、あの日の言葉を、ここで一つ一つ具に追想し続ける。
この氷穹(そら)が消えてなくなる、その日まで――
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