さらば従順な羊とギャル

色沢桜

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出会い

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 数日が経った。頭と体を精密検査したけど、幸い後遺症の心配はなく、体もむち打ちだけだった。順調に回復すれば二週間で退院できるそうだ。

 ただ、心にぽっかりと穴が開いたような感じが、四六時中付き纏っていた。

 底の抜けた器に水を注ぐように、楽しさ、悲しさ、やる気、元気が全て流れ出ていってしまうような空しさ。指を動かすことすら億劫で、息をしていること以外、なにも実感できない。

 試しに母さんが残した参考書に手を伸ばしてみたけれど、さっぱり内容が理解できない。脳が意味を理解できずに、目が問題文を上滑りをする。まるで見知らぬ外国語で書かれているようだ。結局、開いて数分で元の場所に戻した。お医者さんによると、文字が読めなくなる難読症ではなく、精神状態が少し乱れているだけらしい。心が整えば問題なく読めるようになるそうだ。ぼくはその診断に、安心したり、喜んだりできなかった。もう二度と文字が読めなくなっても、どうでもよかった。

 テレビも見る気になれなかった。昼はワイドショーに夜はバラエティー。同室のおじいさんも一緒の番組を見ているのか、芸人さんが喋るたびに声を上げて笑っているけど、なにが面白いのか理解できない。

 ぼくは深いため息をついた。まるで性質の悪いニヒリストじゃないか。しょせん、ベッドの上で厭世的にぼうっとしているだけなのに。   

 でも、今はそんなニヒリストでもなくちゃやっていけない。成人すれば酒や煙草でこんな気持ちも誤魔化せるらしいけど、あいにくぼくは十五歳。ゲームなんて母さんが買い与えてくれるわけもなく、万が一買ってくれたとしても、今は熱中できるとは思えない。

 ぼくは色を失っていた。生きる意味と意欲を棄てたぼくは、道端の石と変わらない存在に成り下がった。

 次第にぼくはリハビリと称して病院内を徘徊するようになった。広くて清潔で、どこも同じような作りをしているが、歩いていて飽きない。疲れたらぼうっと窓の外の雲を見ていたりしていた。

 院内を一遍歩き通すと、今度は夜中に歩きまわるようになった。人気がない病院というのは結構風情があるもので、つかの間の安らぎさえ覚えた。 

 日中はなにをするわけでもなく外の風景を眺め、夜は無目的に院内散歩。刺激はないけど、苦痛は一日一回律義に訪れた。母親と面会する時間だ。

「参考書一ページもやってないみたいだけど? ……いや、今はまだ頭がしっかりしていないのよね。仕方ないわ。仕方ない。でも明日からよ。ちゃんと復習をして、早め早めに実力をつけていくの。それが大切なのは、賢治が一番わかってるわよね?」

 強迫的な言い方に拒否権はない。ぼくは毎度軽く首を縦に振って、その場をやり過ごしていた。

 文章を読み、英単語を適切な文法に直し、数式を解く。それがぼくの人生の全てだった。それをすることで、ぼくの価値は確実に保証されていた。もちろん、その時間は苦痛だった。しかし、なにも考えなくてもいい。苦痛を受ければ、失望されることはないのだから。失望は勉強の苦痛よりも辛い。

 深夜の徘徊は徐々に大胆になっていった。しかし、運よくナースにも警備員にも気づかれることはなかった。 

 そして、行った所がないほど歩き回った後、ついに屋上へ行くことにした。鍵がかかっているかと思ったけど、意外にも簡単に開いた。もしかして、閉め忘れたのだろうか。

 外は暗く、風が強く吹いていた。冬が尾を引いているのか、肌に染みつくような寒さだ。少しすると体が小刻みに震えてきた。

 引き寄せられるように柵に近づいていく。二メートルほどの金網の上に、鉄線が巻き付いた返しがある。四方系に刻まれた向こう側の景色は、夜色の下地に、ビルやマンションの煌々とした光が、点々と塗り潰されていた。

 眼下にはコンクリートの通路が敷かれている。ここから落ちたら、即死するはずだ。

 金網を掴んで、体重を預ける。このままスカッと金網が消えてくれたら、なんの抵抗もなく落ちるだろう。後悔はするだろうか? いや、きっとしないだろうな。

 何分くらいそうしていたのだろうか。不意に、「自殺すんの?」と、背後から陽気な声が聞こえた。振り返ると、そこには金髪のギャルが立っていた。

「あなたは……?」

「ねえ、自殺するつもりなのって聞いてんだけど」

 ぼくが正直に、「はい」と言って頷くと、「こっから飛び降りるのはちょっと難しいんじゃない? 西棟の五階なら多分いけると思うけど」と顎をくいっと西棟の方向へ向けた。

「はぁ」

「ちょっと失礼」

 ギャルは軽い足取りで歩いてくると、近くの長椅子に腰を下ろした。

「で、マジで自殺するつもりだったの?」

 ぼくの目を真っ直ぐ見てくる。少し気圧されてしまい、「いや、冗談です。ちょっと散歩に来ただけで……」と嘘をついてしまった。

「へぇ。そっか」

 ギャルはぶるっと震え、「さみー! 部屋いればよかった」と、手に持っているお酒の缶のプルタブを開けた。

「酒飲もうと思ったんだけどさ、部屋で飲んだらナースのおばちゃんたちがうるさいじゃん。だからわざわざここまで来たんだけど、こんなに寒いなら、トイレで飲めばよかったかも。ほら、便座って保温機能ついてるし」

 呆気に取られていると、ギャルが「座りなよ」と自らの隣をぽんぽんと叩いた。断る理由もなく、素直に座った。

「君、名前なんて言うの?」

佐沼賢治さぬまけんじです」

「わたしは山桐一葉やまぎりかずは。一葉って呼んで。あ、賢治も飲む?」

 いきなりの名前呼び。ちょっと抵抗あるけど、コミュニケーション能力が高いギャルにとっては、自然なことなん
だろう。

「いえ、ぼくは未成年なので」

「わたしだって成人してないよ。いいじゃんちょっとくらい。何事も経験よ経験」

 一葉さんがぐっと缶を頬に押しつけてくる。ぼくは仕方なく手に取り、一口飲んだ。苦くて、舌が痺れるような味だ。頑張って流し込むと、喉にじんわりと焼けるような感覚が走った。

「不味いです……」

「子供舌にはチューハイの美味しさはわかんないだろうなー」

 缶を返すと、一葉さんは一気に飲み干して「ぷはぁ」と息を吐いた。そして小さくゲップをして、缶を踏みつぶした。そして数秒の沈黙の後、「死なないほうがいいよ」と呟いた。

「悩みなんてさ、五年後十年後には笑い話だし」

「……ぼくのなにがわかるんですか」

「さあね。でも、死にたいんだろうなー。ってことはわかる。いや、消えちゃいたいっていう方が正確か」

 そう言いながらぺちゃんこの缶を投げる。綺麗な放射線を描いて、ゴミ箱に入った。

「話、聞こうか?」

「いいです」

「言っちゃいなよ。その方が楽だし」

 一葉さんが顔を覗き込んでくる。柔軟剤の少し甘ったるい香りが漂ってきた。

 声音に不思議な包容力があって、この人になら打ち明けてもいいかな、と思った。

「ウチ、シングルマザーで貧乏なんです。母さんは小さい頃かずっとパートばっかりしてて。その反動からか、ぼくを有名高校に入れたいみたいなんです。いい高校に入って、いい大学に入れば偉くなれるからって」

 遊んだ記憶なんて片手で数えるくらいしかない。毎日毎日、一日のほとんどを机に向かって過ごす日々。白い紙の上に印刷された文字列をひたすら理解する作業を、気が遠くなるほど繰り返しただけだ。

「朝陽高校って知ってます?」

「あー、日本で一番入試が難しい高校ってやつ?」

「そうです。それに入るために必死で勉強して、受験で落ちたんです。その後、ぼうっとしながら道を歩いてたら、車に轢かれたんです。ほんと、馬鹿ですよね」

 ぼくが喋っている間、一葉さんは一言も発しなかった。そしてしばらくして、おもむろに口を開いた。

「ふうん。それじゃやっぱり、受験に失敗したから、さっき自殺しようとしたんじゃないの?」

「自殺なんか、しないです」

「嘘だね。話したらわかったよ。まあ、実際にできるかどうかはわからないけど、もし金網がなかったら間違いなく飛び降りてたでしょ」

「なんでそんなこと言い切れるんですか」

「勘だよ勘。でも、意外と当たるんだな、これが」

「なら、一葉さんはなんで屋上に来たんですか」

 一葉さんはためらうように唇を舐めると、「同じような理由だよ」と言った。

「死のうとはしてないけどさ、なんもかも嫌になって。むしろ、来世があるって期待した方が、生き続けるより楽なんじゃないかって思ったり」

「なんかあったんですか?」

「色々だよ。賢治と同じ家の問題でね」

 そう言って、大きな欠伸をした。

「逃げちゃおっか」

 一葉さんが、風に溶けてしまいそうなほど小さな声で言った。
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