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遠い声
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「僕がずっと一緒にいるから」
そう言ってくれた声が今は遠い。
好きな人が出来た。その人も同じ気持ちだと知った。
ただあたしには既に結婚する相手がいた。――ドラマあたりならたまに見る話だ。
既に相手がいるのに不誠実だと思う人はいるだろう。
けれどその結婚相手は自分で決めたわけではなく、未だかつて会ったことどころか手紙ひとつないと知っても同じ事を思うだろうか?
しかも相手は居るか居ないか似たような生態を持っているかも分からない海神様で 花嫁という名目のいけにえで実際は死ぬだけですよと言われたら。
それでも、他の人に恋をしてしまったあたしを責めるのだろうか?
初めての恋だった。
海神様に花嫁を捧げること。女性のみにそれを伝えること。
あたしはそれを不自然だと思う環境にはなかった。繰り返し吹き込まれ、当たり前のように時が来れば海神様の元に嫁ぐんだと、実際問題溺死するだけだと知っていてなお、恐怖も嫌悪も絶望も起こらなかった。むしろ名誉だと言われたのでそう思っていた。
ところでこのしきたりは血族の女性のみに伝えられる。うちの場合は父が血族で何も知らないまま何も知らない母と結婚した結果生まれたのがあたしなので、そのことは父方の祖母に教わった。同居のうえ、両親が共働きの為もあり、ほとんど祖母に育てられたようなものだ、何を聞かされていても気づかれることはなかった。
けれど両親が何も知らない以上、花嫁になるその日まで完全に世間から隔離させておく訳にもいかず。
あたしは義務教育を登校拒否を起こさせられることもなく普通に通ったし、多少門限が厳しい程度で普通に過ごした。
それでも幼い頃はずれたことを言って孤立気味だったが、長ずるに従って言ってはいけない事と適当に合わせることを覚え始める。
そして価値観も変わり始めた。
現状に決定的に疑問を持ったのは恋をしてからだった。
恐らく大人から見ればままごと程度のものだったんだろう。
けれどあたしには本気だった。
見も知らぬ神のために死ぬよりも彼のそばで生きたいと思った。
けれどそれは叶うことはないとも。
向こうがこちらを好いてくれるとは限らないし、仮にそうなったとしてもこちらには事情がある。
だからあきらめるつもりだった。
なのに彼に告白された。
気持ちは簡単に揺れた。
自分で判断出来なかった。
頭が上手く働かない。
ここだけの話だけれど、と隠さなければならないはずの伝承を彼に話してしまう。
ここで鼻で笑われたり、引かれたり、嘘だと疑われたりしたらその場で終わっていただろう、彼の気持ちもあたしの葛藤も。
けれど彼は信じてくれた。
ならば駆け落ちしようとまで言ってくれた。
とはいえそこでそのまま向かうほどまでの準備も浅はかさも無謀さもなく、恐らくまだ猶予は有ると一週間後を約束に、夏休み中だったこともありとくに接触をしない日々を続けた。
その間当然考えることはいくらでもある、不安になる事も。
とはいえそれは彼は来てくれるだろうかとか、本当は例え話か何かと思って信じていないのだけど付き合って逃げてくれるつもりなんじゃとか、何を持ち出せばいいのだろうとか、これから上手くやれるだろうかとか。
要するに海神様のことは完全に忘れていた。当たり前過ぎるということは嫌悪もなければ好意もない……つまり無関心だったということを知った。
強いて言うならば家族に対する後ろめたさの中に少しだけ入っていただろか?
そうして夜中に抜け出し、むかえた待ち合わせ。
普段は無人であろうその場所にきちんと人影があったという喜びは――絶望に変わる。
彼の横に祖母が立っていた。
それだけなら裏切られただけの話だけれど。
月光に照らされて、祖母に寄りかかるように倒れかける体と刺さっている包丁がはっきり見える。
あれは今日の夕飯を作ってくれた包丁だとぼんやり思う。
いつものメニューももう食べられなくなると、感傷的になりながらもなにげなさを装って食べた煮物を思い出す。
途端に口の中に血の味が広がった気がして嘔吐く。
手から放された包丁に、彼の体は完全に崩れ落ちた。
生きているか確かめなければと思いはするものの足が動かない。
何故と疑問が渦巻く。
確かに祖母からすればあたしは裏切ったのかもしれない。
けれど怒っていたにしろ、待ち合わせ場所や時間まで分かっていたというなら、先にあたしを止めればいい。
彼を刺す理由なんてない。
まっすぐにこちらへ来た祖母に二の腕を掴まれる。
「丁度いいから今日海神様のところへ行きましょうね」
いつもどおりの口調が余計に現実味を無くす。けれど夢と思うには掴まれた腕が痛い。
確かに丁度いいのだろう。夏休みで大荷物がなくなった直後にいなくなれば、両親も周りも家出と思い殺されたとは思うまい。
混乱しているのかそんなことを思う。
怖くてたまらない。
「……せ、せめ、て、一緒、に」
視線を出来る限り彼の方だけに向ける。
隠滅させたいのなら彼も一緒に沈めてしまえば無理心中だと思わせられる。
そう思われても一緒にいたかった。
「駄目ですよ」
どこかたしなめるような口調で祖母が言う。
「結婚するのに浮気相手を連れて行く人がありますか」
そんな話じゃ欠片もない。
つまり海神様の花嫁に少しの汚点でも付くことが許せなかったと。
だから消してしまおうとしたのだろう。
わたしにとって興味のなかったことは、祖母にとっては最上のものだった。
彼はどうなったんだろうと思う。
彼を害してしまった祖母の存在もすこしは考えた方がいいのかと自問するが特に心配する気も起こらない。
けれど恨む気持ちもない。
仮にわたしが海神様の元に届いたとしても、心が夫婦になる事はない。
潰えたのは祖母の願いも同じ。
誰の願いも叶わない。
やけにゆっくりと絡みいてくる水は、どこか生暖かい。
彼は話した伝承を覚えていてくれるだろうか?
魂は海の中まで迎えに来てくれるだろうか?
『僕がずっと一緒にいるから』
愛していた。
そう言ってくれた声が今は遠い。
好きな人が出来た。その人も同じ気持ちだと知った。
ただあたしには既に結婚する相手がいた。――ドラマあたりならたまに見る話だ。
既に相手がいるのに不誠実だと思う人はいるだろう。
けれどその結婚相手は自分で決めたわけではなく、未だかつて会ったことどころか手紙ひとつないと知っても同じ事を思うだろうか?
しかも相手は居るか居ないか似たような生態を持っているかも分からない海神様で 花嫁という名目のいけにえで実際は死ぬだけですよと言われたら。
それでも、他の人に恋をしてしまったあたしを責めるのだろうか?
初めての恋だった。
海神様に花嫁を捧げること。女性のみにそれを伝えること。
あたしはそれを不自然だと思う環境にはなかった。繰り返し吹き込まれ、当たり前のように時が来れば海神様の元に嫁ぐんだと、実際問題溺死するだけだと知っていてなお、恐怖も嫌悪も絶望も起こらなかった。むしろ名誉だと言われたのでそう思っていた。
ところでこのしきたりは血族の女性のみに伝えられる。うちの場合は父が血族で何も知らないまま何も知らない母と結婚した結果生まれたのがあたしなので、そのことは父方の祖母に教わった。同居のうえ、両親が共働きの為もあり、ほとんど祖母に育てられたようなものだ、何を聞かされていても気づかれることはなかった。
けれど両親が何も知らない以上、花嫁になるその日まで完全に世間から隔離させておく訳にもいかず。
あたしは義務教育を登校拒否を起こさせられることもなく普通に通ったし、多少門限が厳しい程度で普通に過ごした。
それでも幼い頃はずれたことを言って孤立気味だったが、長ずるに従って言ってはいけない事と適当に合わせることを覚え始める。
そして価値観も変わり始めた。
現状に決定的に疑問を持ったのは恋をしてからだった。
恐らく大人から見ればままごと程度のものだったんだろう。
けれどあたしには本気だった。
見も知らぬ神のために死ぬよりも彼のそばで生きたいと思った。
けれどそれは叶うことはないとも。
向こうがこちらを好いてくれるとは限らないし、仮にそうなったとしてもこちらには事情がある。
だからあきらめるつもりだった。
なのに彼に告白された。
気持ちは簡単に揺れた。
自分で判断出来なかった。
頭が上手く働かない。
ここだけの話だけれど、と隠さなければならないはずの伝承を彼に話してしまう。
ここで鼻で笑われたり、引かれたり、嘘だと疑われたりしたらその場で終わっていただろう、彼の気持ちもあたしの葛藤も。
けれど彼は信じてくれた。
ならば駆け落ちしようとまで言ってくれた。
とはいえそこでそのまま向かうほどまでの準備も浅はかさも無謀さもなく、恐らくまだ猶予は有ると一週間後を約束に、夏休み中だったこともありとくに接触をしない日々を続けた。
その間当然考えることはいくらでもある、不安になる事も。
とはいえそれは彼は来てくれるだろうかとか、本当は例え話か何かと思って信じていないのだけど付き合って逃げてくれるつもりなんじゃとか、何を持ち出せばいいのだろうとか、これから上手くやれるだろうかとか。
要するに海神様のことは完全に忘れていた。当たり前過ぎるということは嫌悪もなければ好意もない……つまり無関心だったということを知った。
強いて言うならば家族に対する後ろめたさの中に少しだけ入っていただろか?
そうして夜中に抜け出し、むかえた待ち合わせ。
普段は無人であろうその場所にきちんと人影があったという喜びは――絶望に変わる。
彼の横に祖母が立っていた。
それだけなら裏切られただけの話だけれど。
月光に照らされて、祖母に寄りかかるように倒れかける体と刺さっている包丁がはっきり見える。
あれは今日の夕飯を作ってくれた包丁だとぼんやり思う。
いつものメニューももう食べられなくなると、感傷的になりながらもなにげなさを装って食べた煮物を思い出す。
途端に口の中に血の味が広がった気がして嘔吐く。
手から放された包丁に、彼の体は完全に崩れ落ちた。
生きているか確かめなければと思いはするものの足が動かない。
何故と疑問が渦巻く。
確かに祖母からすればあたしは裏切ったのかもしれない。
けれど怒っていたにしろ、待ち合わせ場所や時間まで分かっていたというなら、先にあたしを止めればいい。
彼を刺す理由なんてない。
まっすぐにこちらへ来た祖母に二の腕を掴まれる。
「丁度いいから今日海神様のところへ行きましょうね」
いつもどおりの口調が余計に現実味を無くす。けれど夢と思うには掴まれた腕が痛い。
確かに丁度いいのだろう。夏休みで大荷物がなくなった直後にいなくなれば、両親も周りも家出と思い殺されたとは思うまい。
混乱しているのかそんなことを思う。
怖くてたまらない。
「……せ、せめ、て、一緒、に」
視線を出来る限り彼の方だけに向ける。
隠滅させたいのなら彼も一緒に沈めてしまえば無理心中だと思わせられる。
そう思われても一緒にいたかった。
「駄目ですよ」
どこかたしなめるような口調で祖母が言う。
「結婚するのに浮気相手を連れて行く人がありますか」
そんな話じゃ欠片もない。
つまり海神様の花嫁に少しの汚点でも付くことが許せなかったと。
だから消してしまおうとしたのだろう。
わたしにとって興味のなかったことは、祖母にとっては最上のものだった。
彼はどうなったんだろうと思う。
彼を害してしまった祖母の存在もすこしは考えた方がいいのかと自問するが特に心配する気も起こらない。
けれど恨む気持ちもない。
仮にわたしが海神様の元に届いたとしても、心が夫婦になる事はない。
潰えたのは祖母の願いも同じ。
誰の願いも叶わない。
やけにゆっくりと絡みいてくる水は、どこか生暖かい。
彼は話した伝承を覚えていてくれるだろうか?
魂は海の中まで迎えに来てくれるだろうか?
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愛していた。
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