もの×モノ 物語帳

だるまさんは転ばない

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草原 × 水槽

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広大な草原が一面に広がっていた。柔らかな風が緑色の海を揺らし、どこまでも続くように見える草の波がゆっくりとさざめいている。夏の空は高く澄み、雲はほとんど見当たらない。空の青と草の緑、その間にただ一点、ぽつりと立っている二人の姿があった。

「あそこに見える?」と、玲奈が指をさした。彼女の目は、草原の向こうにぼんやりと浮かび上がる小さな丘に向けられていた。

「うん、見えるけど…あれは何?」と、健二が少し目を細めながら答えた。二人は丘の上に向かってゆっくりと歩いていたが、その途中で足を止めた。

「昔、この辺りには小さな村があったって聞いたの。でも今は廃墟しか残ってないらしい。あの丘の上にあるのは、たぶんその村の跡地だと思うの。」

玲奈は、淡い興味と少しの不安が入り混じったような口調で話した。彼女の肩にかかる黒髪が風に吹かれてゆらゆらと揺れる。健二はそれをちらりと見て、彼女の横顔を眺めた。二人は学生時代からの友人で、社会人になっても頻繁に会う仲だった。今日は、健二の提案でこの場所までドライブしてきた。何もない草原に来るのは、少し奇妙だが、彼には理由があった。

「廃墟か…」健二は、わずかに興味を示しつつ、ふと視線を玲奈からそらした。「でも、どうしてわざわざここに来たの?」

玲奈が質問するのは当然だった。健二は、なんの前触れもなく「草原に行こう」と言い出し、半ば強引に彼女を連れ出したのだから。健二は一瞬考え込んだ後、口を開いた。

「うーん、なんて言うか…ただ、昔から気になってたんだよね、この場所。何か、俺が忘れかけてるものがここにある気がして。」

玲奈は健二の言葉を聞いて、少しだけ微笑んだ。「忘れかけてるものって、何かしら?」

「それがわからないから、ここに来たんだと思う。」

その言葉に玲奈は軽く頷いた。彼の考えには不思議な部分があったが、どこか共感できるものも感じていた。草原の広がる空間は、まるで時間が静止しているかのように感じさせる。その感覚が、過去に戻ったような気分を彼女に与えていたのかもしれない。

二人はしばらく沈黙しながら歩き続けた。健二は何度か立ち止まり、草をかき分けて何かを探しているような仕草を見せたが、特に何も見つけることはできなかった。

「水槽、知ってる?」突然、玲奈が口を開いた。

「水槽?」健二はその単語に少し驚き、玲奈に向き直った。「どうして急に水槽なんて?」

「うん、ちょっと思い出したの。」玲奈は草原の彼方に目を向けたまま話し始めた。「子供の頃、父が小さな水槽を買ってくれてね。私はその中に魚を入れて育てるのが好きだった。でも、その水槽を見てると、なんか閉じ込められているような感じがして、不思議な気持ちになったの。水の中で泳ぐ魚を見てると、自分がその魚みたいに感じてさ、外に出たいけど出られないような…」

「へぇ、そんなこと考えてたんだ。」健二は微笑みながら答えた。「でも、今の話、なんだかここにぴったりだね。俺たちもこの草原の中にいると、水槽の中の魚みたいに感じるのかも。」

玲奈はその言葉に少し考え込み、続けた。「そうかもしれない。私たちもどこかに閉じ込められているのかもしれないね。この草原の広さが、逆に私たちを囲んでいるみたいに感じる。」

風がまた二人の間を吹き抜け、草の葉がささやく音だけが響いた。その瞬間、健二はふと思い出した。自分がここに来たいと思った理由が、ぼんやりとだが浮かび上がってきた。

「玲奈、俺、たぶん思い出したかもしれない。」健二は静かに言った。玲奈は驚いたように彼を見つめた。

「何を?」

「小さい頃、ここで家族と一緒にピクニックをしたことがあったんだ。でも、何かが起こって、俺、迷子になったんだ。その時、この草原の真ん中にぽつんとある水槽を見つけたんだよ。」

玲奈は目を見開いた。「水槽?こんなところに?」

「ああ、信じられないだろうけど、確かにあったんだ。小さな水槽で、中には何も入ってなかったけど、不思議な感じがしたのを覚えてる。あれを見た瞬間、自分がどこにいるのかがわかって、怖さが少し和らいだんだ。」

玲奈はしばらく黙っていたが、やがて優しく微笑んだ。「それって、きっと君にとって何か意味があったんだね。」

「そうかもしれない。だから、ずっとこの場所が気になってたんだと思う。」

二人は再び歩き始めた。やがて、遠くに見えた丘の頂上が近づいてきた。そこには、健二が言ったように、古い村の跡地が残っていた。しかし、驚くべきことに、そこには本当に小さなガラスの水槽が置かれていた。

「健二…これって…?」玲奈が呆然とその水槽を見つめた。

健二も同様に目を見開いた。「本当にあったんだ…」

しかし、その水槽の中には、一匹の魚がゆったりと泳いでいた。

健二と玲奈は、丘の上にぽつんと置かれた小さなガラスの水槽を前に、立ち尽くしていた。草原の真ん中に存在するその異様な光景に、二人とも戸惑いを隠せなかったが、特に健二は、幼い頃の記憶が現実に呼び戻されたことに驚きを隠せなかった。

「本当にあるんだな…」健二は呆然とつぶやき、水槽の中でゆっくりと泳ぐ一匹の金色の魚を見つめた。

「健二、これは一体どういうこと?」玲奈が彼の隣で不安そうに尋ねる。彼女の声は、どこか遠くから聞こえるように感じられた。

健二は一瞬言葉に詰まった。自分がここに来たいと思った理由が、ようやくはっきりとわかってきた気がした。幼い頃、迷子になりかけたとき、この草原のどこかで見つけた水槽。それが今、再び自分の前に現れている。だが、それだけではなかった。健二の胸の奥にずっと引っかかっていた「何か」を思い出しかけていたのだ。

「玲奈…」健二はゆっくりとした口調で話し始めた。「これ、俺が小さい頃に見た水槽なんだ。あのとき、俺は迷子になったんだ。でも、この水槽を見つけて、どこかに戻れるって思えたんだよ。」

玲奈はその言葉に少し驚いた表情を見せたが、健二の顔を見つめて頷いた。「それで、今日もここに戻ってきたの?」

「うん、たぶんそうだ。俺は、何かを思い出さなきゃいけない気がして…ずっと感じてたんだ。でも、何を思い出すべきかがわからなかった。」

玲奈はその言葉を聞きながら静かに水槽を見つめた。そして、ゆっくりと口を開いた。「ねぇ、健二。私たち、ずっと一緒にいたよね。いろんなところに行って、たくさん話をして…でも、私が一番大切にしてたのは、この場所なの。」

健二は玲奈の言葉に少し戸惑いを覚えた。「玲奈、どういう意味だ?」

玲奈は、まるで何かを悟ったような表情で微笑んだ。「この場所で、私たちが最後に会ったんだよ。覚えてる?」

その言葉が健二の中で引っかかった。最後に会った?どういうことだろう。彼は玲奈の顔を見つめたが、彼女の瞳はどこか遠くを見ているようだった。そして、健二の頭の中で、ある記憶が急速に蘇ってきた。

それは、数年前のことだった。二人はこの草原に来て、何もない静かな時間を共有していた。しかし、玲奈はその後、突然の事故で命を落としてしまった。健二は、その記憶を封じ込めるかのように、ずっと意識から遠ざけていた。彼女の死を受け入れられず、まるで玲奈がまだ生きているかのように、何度も彼女との日々を心の中で繰り返していた。

「玲奈…お前、もう…」健二の声が震えた。現実が、目の前に重くのしかかってきた。

玲奈は静かに頷き、優しく微笑んだ。「そう、健二。私はもういないんだよ。ずっとあなたのそばにいたけど、それはあなたが私を忘れられなかったから。でも、今日は思い出してくれてありがとう。」

健二はその言葉に息を飲んだ。彼は玲奈に向かって手を伸ばそうとしたが、その手は空を掴むだけだった。玲奈の姿は、まるで風に溶けるように少しずつ淡くなっていった。

「待って、玲奈!」健二は叫んだが、玲奈は穏やかな微笑みを浮かべたまま、ただ静かに首を振った。

「もう、大丈夫だよ、健二。あなたはこれから、自分の道を進むべきだってこと、私はわかってるから。だから、もう自由になってね。」

健二は必死に玲奈の姿を追おうとしたが、彼女はふわりと草原の風に乗って、消え去ってしまった。彼の目の前には、ただ風に揺れる草原と、ぽつんと置かれた小さな水槽だけが残っていた。

健二はしばらくその場に立ち尽くしていた。玲奈がもういないという現実が、ゆっくりと胸に広がっていく。しかし、その代わりに、心の中にあった重荷が少しずつ消えていくのを感じた。玲奈は、ずっと自分の中に生き続けていたのだ。彼女を忘れることを恐れ、彼はその記憶にしがみついていた。しかし、今、ようやく玲奈を解放できたように感じた。

草原の風が再び吹き、健二の頬を優しく撫でた。彼は水槽にもう一度目をやったが、その中にあったはずの魚は、いつの間にか消えていた。

「玲奈…ありがとう。」健二は小さくつぶやき、ゆっくりとその場を後にした。草原を歩く彼の背中は、どこか軽やかに見えた。

空は青く、広がる草原はどこまでも続いていた。そして、その中にあった水槽は、まるで初めから存在しなかったかのように消えてしまったが、健二の心の中には、玲奈の存在が確かに残り続けていた。
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