夏夜の果て

寿美琴

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「お松、お松はいるか」
 玄関が開く音がしてすぐこうである。お松は台所から暖簾を分けて顔を出した。
「なんどす?」
「久坂君を連れてきたよ」
 そう言う桂の隣には、小さく頭を下げて挨拶をする久坂の姿があった。
「あら、久坂はん。このところお見かけしまへんでしたなあ」
「ええ。お松どのも、おかわりがないようで安心しました」
 少し日に焼けた久坂の表情は、お松を安心させた。お松も恭しく礼をする。
「この後にも若い衆が何人か来るから、面倒見てやってくれんか」
「わかりました。ほんなら、部屋用意してきますんで、久坂はんも少し桂はんの部屋でお待ちになって下さい」
「久坂君、行こう」
「はい」
 お松は一階の奥の間にある襖をすべて取り外す算段を立てながら、桂の部屋へ向かう二人の背を見送った。

 その夜。お松の用意した大広間は長州の若者で賑わった。近所から手伝いも募って、酒と料理を振る舞う。
 桂はみなの一番前に座って向かい合い、膳の前で胡座をかいていた。そこに酒を持っていくと、桂は徐ろに立ち上がり、杯をかかげる。
「今宵は君たち長州の精鋭たちに集まって頂き、幸甚の至りである。今宵は語り明かそう」
 若い衆たちが応と答えると、そのまま酒宴が始まった。
 桂はその様を見渡して満足げな笑みを浮かべると、腰を下ろして隣にいる久坂に声をかけた。お松はその脇に正座し、徳利を持って待っている。
 事前に久坂の好きな酒を用意しておけと桂に言われていたのである。
「では久坂君、まずは一献どうだね」
「頂きます」
 その声に応えるようにして、お松は桂の猪口に酒を注いだ。猪口を少しだけ高く上げて謝意を示してから、久坂はお松を見て笑う。
「お松どのはすっかり桂先生の奥方のようになりましたね」
「何をおっしゃいますの」
 お松が焦るのを見て楽しんでいるのか、久坂は口角を上げた。
「この人ほど口が上手い人もそういません」
 頷けるところはある。だが言葉を続けようとした久坂の前を遮って桂が声を上げた。
「こら久坂君、余計なことを言うんじゃない。これでもいまお松を惚れさせるのに難儀しているんだから」
「もう、桂はん! そないなこと」
「お松どのも気をつけたほうが良い。この人の言葉は、冗談だか嘘だからとんと見分けがつきませんから」
「そういうと、私が嘘ばかり言っているようじゃないか。私の言葉はすべて本心だ」
「……もう。久坂はん、この人いつもこんな調子なんどすか?」
 お松はどうしようもなく顔が熱くなるのがわかって、眉を寄せながら久坂に言い迫った。羞恥心の隠し方はまだ知らない。
「ええ、そうですよ。しかし高杉のようなのでは困りますが、桂先生ならまだ安心でしょう」
「高杉はんて? 何度かお聞きしたお名前やけど」
「奇想天外な頭を持った長州の男です。私とよく比べられたが、あれはよくよく見ていると私なんかの比ではない」
「あいつは確かに奇想天外だな。君はいわゆる秀才だが、あやつは奇人だ」
 お松は話を聞きながら辺りを見回した。みなが笑い、それぞれ酒を酌み交わしあっている。
 お松の視線に気づいたのか、桂も同じように周囲を見渡した。それから満足げに微笑んで、自然な仕草でお猪口を目線の高さにあげる。酒をせがんでいるのだ。
お松は口元だけで笑ってすぐに酒を注いでやった。
「……長州は人に恵まれたもんだなあ」
「桂先生は火消しに走り回っているくせに、そう思われるんですか?」
「そりゃ、もちろん大変だがね。それは私の責務だから仕方がない。これがこのまま続けば良いのだが」
「ええ」
 お松は二人の間にある妙な絆に気づいていた。いつか桂が言っていたことがある。久坂は若い衆の代弁者として、桂は立場を弁えた大人として、意見が対立した場合には互いを斬らねばならぬ日がくるやもしれないということをわかっていると。
 その上で、今というときを楽しんでいるようだった。
「このまま松を嫁にもらって、楽しく余生を過ごさせてくれれば良いものを」
 そんな二人の絆に感銘を受けていたお松の耳に、桂のそんな言葉が入ってきた。
 意味を理解した途端、恥ずかしさのやり場に困って桂を睨む。しかし桂から返ってきたやわらかな微笑みに、いっきに毒気を抜かれてしまった。
 何も言えないお松の代わりに、久坂が口を開く。
「時勢がそうはさせませんよ。桂先生には死ぬまで働いてもらうことになるでしょうから、ご覚悟を」
「少しは年寄りを労ったらどうだね」
「まさか。まだ年寄りとは言わせませんよ」
 お松は久坂の茶碗にご飯が少ないとみると、おかわりを持ちに席を立った。

「お松はん、ちょいと」
 廊下を歩いていると、ちょうど外から帰ったらしい店番がお松を手招いた。その表情に良くないものを察する。お松は盆を持ったまま小走りでちかよった。
「なんどすか?」
「新選組や、向こうの店から順に検分しにくるんやって。いま二つ隣の店に入ってる」
「そんな……」
 お松の顔から血の気が引いた。相手は桂を血眼で探しているに違いない。見つかればどうなるかは想像がつく。
 黙り込んでしまったお松に、店番が不安げに尋ねた。
「どうします?」
「……松がどうにかします」
 お松は意を決した。これは簡単な話ではない。わかっていても、いまの状況を考えるとお松に選べる選択肢は一つしかなかった。
 お松は台所に下がるとたすきで袖を縛り上げ、手に持っていた盆に徳利と盃を置いて、神酒を注いだ。
「ええどすか、もしなんかあって名前を呼ぶことがあったら、私の名を久ということにしといてください」
「それはええけど……。お松はん、危ない目にあうんとちゃうか」
「かましまへん。母から預かったこの店に、新選組を土足で上げるわけにはいきまへんねや。あんたはん、茶碗にご飯よそって久坂はんのとこまで持ってってくれます? 松が戻るまではあんたはんに、あそこのことは頼みますえ」
 そういうとお松は急いで神酒を注いだ杯を持った。外から新選組の隊士が草履を引きずって歩いてくる音がしたのである。
「新選組だ。御用改めに来た。中を改めさせてもらう」
「なんでっしゃろ」
 お松は盆を胸の高さで支え、ひょっこりと暖簾をくぐった。
 その姿を見ると、玄関まで行き盆を傍らにおいて正座をし、新選組隊士を迎える。それを待って隊士が声をかけてきた。
「新選組だ。長州の連中がこのあたりを出入りしていると聞いた。中を検めさせてもらう」
 お松の心臓は魚のように跳ねた。しかし澄ました顔で言葉を選ぶ。
「……すんまへん。今日、実は奥の間で婚礼の儀をやっとるもんやから、あんまり騒がししたないんどす。みなはん紋付きを着てはりますから、もし長州のお侍はんやったら、私でもわかります」
「婚礼の儀だと?」
「ええ。せやから物騒なんは勘弁や」
「その紋付きにあるのは、どこの紋だ」
「……それは言えまへんなあ」
「なぜだ」
 掛かった、とお松は思った。誤魔化す方法を見つけることができた。お松はわざと勿体ぶった口調で告げる。
「新選組の方には、内緒にしといてくれと」
「長州ではないのにか?」
「私も理由をお聞きしたんどす。そしたら、えらい中将どのが引き立てていらっしゃるけど、所詮は"壬生狼"や、と……」
「……お前、名はなんという」
「久、でございます」
 隊士の目がお松を検分していた。この女は本当のことを言っているのか?とその目が疑っている。刺すような視線に、思わず心が竦んだ。
 お松は狼狽えそうになる目を、震えそうになる指先を意志で押さえつけながら続ける。
「それに、誤解されたら困りますから言うときますけど。この宿は、どこの藩の人でも、体を休めたい方がお泊りになるところどす。あんたはんらも疲れたときに来たらよろしい。長州の方も土州の方も、疲れたときは同じように来たらよろしいんどす。そういう場所に、あんたはんらがそうやって物騒な格好で乗り込んでくるんが、私にはわかりまへんなあ」
「……」
「どうか、今日のところはお帰り願えまへんか?明日来たらよろしい。そのときは御用改でも、泊まりにくるんでもよろしいどす。今日のところは、私に免じてどうか」
 祈るような気持ちで告げた。この言葉が隊士に通じなければ、もし桂たちのいることが露見したら、自分の命は確実にない。
 お松はじっと見据えてくる隊士の目を見つめ返した。気持ちだけは負けてはならないと思った。
「……わかった。明日来る」
 袖を翻して去ってゆく新選組の隊士たち。中には隊の長の対応に不満げな者もあったが、みな逆らえぬのかそのまま立ち去った。
 お松は姿が見えなくなるまでそのまま動かなかった。いや、動けなかったというべきだろう。お松は恐ろしさに震えている手をぎゅっと握りしめた。
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