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第1章:候補学生

第1話:コブラっ!

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 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ……
 ヘルメットに内蔵されたスピーカから不快な電子音が断続的に響く。敵機が発するロックオン信号を検知し、パイロットに警告アラートを告げる電子音である。
 ピ、ピ、ピ、ピ……
 電子音の間隔が短くなってきた。これが連続音に変われば敵機は空対空ミサイルAAMを発射してくるであろう。先ほどからロックを外すべくランダムなハイGターンを繰り返しているが、敵パイロットもラグパシュートで追従してくる。このまま回避機動ブレイクターンを継続しても、切り返しの度にエネルギーを失い、最後は撃墜されるのが落ちである。相対的な機体性能とパイロット技量の差がほとんどないのであれば、敵機に後ろを取られた時点で結果は見えている。
「こうなったら……」

 シャトーワインのような深みのある赤髪マルーンを持つ少女は、飛行姿勢を水平に戻すと同時に後方を振り返り、全周戦術情報表示装置HMDがヘルメット内面に投影する敵機との距離と方位角を確認するや否や、何かを決意したような声調で愛機に指示を与える。
機動制限装置マヌーヴァリミッタ解除オフ
 音声入力ヴォイスコマンドにより姿勢制御モードが変更された途端に機体はその本来の特性を表し始め、パイロットの入力に敏感に反応し始める。大型の前進翼に前翼カナードを装備するAMF-75Aは、2基のDW-175V可変バイパス式ターボファンエンジンの大出力と相まって、その本来の操縦特性はピーキーであると評される。通常はコンピュータ制御された機動制限装置マヌーヴァリミッタのお陰でパイロットは機体を失速ストール領域に入れることなく安定した機動を実現することができているが、フレミング、赤髪マルーンのパイロットは今、その制限装置リミッタを解除したのである。
 左手のスロットルをアフターバーナーに押し込み、右手のスティックを手前一杯に引きつつ、フレミングは叫んだ。
「コブラっ!」

 フレミングの操縦するAMF-75Aは急激に機首を上方に向け、進行方向に対してほぼ垂直に起立するような姿勢になる。ヘルメット内蔵スピーカからは、声の張りに強い意志を感じさせる女性の叱声と、野太く力のこもった男性の怒声が、ビービーという過剰Gを警告する電子音をBGMに響く。機体の全翼から気流が剥離し翼端が激しくバタついている感覚がスティックから右手に伝わってくる。
「やめなさい!フレミング!!」
「お嬢、何やってやがる!」
 意識が飛びそうになる一瞬、耐Gスーツが太ももの辺りを強烈に締め付ける感覚にまだ意識が残っていることを確認したフレミングは、下腹部の辺りに力を込めながら叫んだ。叫んでいられる間は意識を繋ぎとめておけるのだ。
「うおぉぉっ!」
 フレミングの機体は急激に速度を失いつつ緩やかに高度を上げ、直立した姿勢のまま前方に向かって飛行を続ける。まるで巨象さえも倒すと言われる猛毒を持つ蛇がその鎌首を持ち上げたような飛行姿勢であることから「コブラ」と名付けられたその機動マヌーヴァは、AMF-75Aの大推力エンジンと推力偏向スラスタードベクトルノズルがあればこそ実現できる失速後機動ポストストールマヌーヴァである。

 フレミング機に後方から迫っていた敵機は、フレミング機の急激な姿勢変換と急減速を眼前にし左下方へ回避ブレイクして速度を上げつつ離脱を図る。敵機の機動を横目で確認したフレミングは、スロットル脇の推力偏向スラスタードベクトルレバーを下向き最大に入れると同時に、右手のスロットルを目いっぱい押し倒す。先ほどまで下半身に集中していた血液が今度は頭部に集中し、視覚が赤く染まっていく感覚に襲われる。まさか耐Gスーツで首をしめるわけにも……朦朧としていくフレミングの意識を、ヘルメット内蔵スピーカから聞こえる怒声が覚醒させる。
「お嬢、オレの機体をぶっ壊しやがったら、ただじゃおかねぇからな。覚えてろよ!」
「おやっさんの機体ならこれくらいじゃビクともしないでしょ!」
「当たり前だ、お嬢。だが、そのマイナスGは掛け過ぎだ。ちょっとは機体を整備メンテナンスする側にもなってみろ。お嬢のその機動マヌーヴァの所為で、どれだけ点検項目が増えると思ってんだ?」
「大丈夫だよ、おやっさん。みんなの腕は信じてるから、私」
 おやっさんとこうして怒鳴り合っている間は意識を保てていられる。そう感じたフレミングは「もしかしておやっさんはその為に?」等とも考えたが、今は敵機を追うのが先だ。「ありがとう、おやっさん」と心の内で呟きつつ、今や水平姿勢に戻った愛機にフレミングは指示を与える。
武装選択アームセレクト短距離空対空ミサイルAAM1
照準ロック敵機エネミー1」
発射ローンチ

 未だ敵機とは距離が開いている。フレミングがコブラで速度エネルギーを急激に消失したのと対照的に、敵機は下方に回避することで速度エネルギーを増している。この時点でミサイルを発射しても命中など期待はできないが、敵機はミサイルを回避するための機動マヌーヴァによりそのエネルギーを減少させることになろう。その隙に敵機に再接近し今度はこちらが後方から敵機に攻撃をしかける、というのがフレミングのプランである。180度ロールで背面姿勢から急降下をかけつつ姿勢を戻し、追撃態勢に入る。フレアを散布しながらハイGターンをかける敵機を追尾しきれずに自爆するミサイルを見ながら、フレミングは敵機追撃までの最短航路パシュートを頭の中で想定し、その軌跡をなぞるようにスロットルを調整し、スティックを操作し、ラダーを踏み込む。自身の3次元感覚とぴったり一致する機体の挙動に、フレミングは思わず呟く。
「さすが、おやっさん。最高の調整!」
「おうよ!お嬢の感覚に合わせるくらい、朝飯前だってんだ」
 おやっさんの返答に改めて我が意を得たフレミングは、改めてロックオン信号を発信すると同時に、今度は短距離空対空ミサイルAAM1のシーカーを冷却し、ゆっくりと狙いを定める。
発射ローンチ!」
 フレミングの音声入力と同時に戦術コンピュータの音声が告げる。
「撃墜判定。演習終了」

 先ほどまで全周戦術情報表示装置HMDに赤色で表示されていた敵機を表すマークが友軍機を意味する青色に変わりアルファ1と表示されるや否や、聞きなれた少女が柔らかな声音でスピーカ越しに抗議してくる。
「ちょっとフレミー、何ですの、今の機動マヌーヴァは?あんなのありですの?」
 親友の、少しく怒りながらもこちらの身を案じるかのような労わりのある声の響きに、フレミングは嬉しさと安堵を覚えつつ、口ではこう返答する。
「どうよキルヒー、あんなの普通できないでしょ!?」
「何を言ってるの、フレミー。あなた、また機動制限装置マヌーヴァリミッタを外しましたわね?フレミーが勝手なことをすると、ワタクシ達まで連帯責任を負うことになりましてよ」
 黄金で染め上げたような美しく輝く長髪をゆるふわカールにまとめたキルヒホッフは、フレミングとは幼稚園の頃からの幼馴染である。高校卒業後この航空士官学校ベンガヴァルに一緒に入学し、同じクラスの同じ小隊で編隊を組むパートナーでもあった。攻撃判定後にキルヒホッフ機をオーバーシュートしたフレミングはスロットルを戻して僚機の追随を待つ。キルヒホッフが編隊長セクションリーダーのポジションについたところで、両機のスピーカに猛吹雪ブリザードのように冷徹で厳かな女性の命令が飛んだ。
「第18小隊は直ちに帰投後、校長室に出頭のこと。以上」
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