山田牧場

佐藤 汐

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第5話

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その後、親族会議は数時間続いた。

話し合いの末、父さんが復帰するまで、僕がこの山田牧場を管理していくことになった。
 
ヒロさんは牛舎全体を周り、牛一頭一頭の食欲や健康状態を僕に教えてくれた。牛舎の脇にある事務室に入ると、机の上のボードに貼り付けてある業者の連絡先や、牛の管理番号を保管している分厚い台帳を見せてくれた。奥には黒い真四角の金庫が置かれてあった。
 
「大丈夫だ、何か分かんないことあったら、いつでも聞きに来い、すぐそばなんだから」

「はい、ありがとうございます」

「ま、がんばんな」

ヒロさんは薄手のジャンパーを羽織ると、笑って僕の肩を叩いた。事務所と金庫の鍵を僕に手渡すと帰って行った。
 
「おう、タカシ起きたか、おはよう」

「おはよう…」

「事務所に行って、ノート見て来い」
 
次の日から、僕の牧場生活が始まった。

朝、目が覚めてふらふらと一階の食卓に降りる。朝ごはんはまだ用意されておらず、誰もいなかった。洗面所の冷たい水で顔を洗う。外に出てるとひんやりとした湿気のこもった山の空気が僕の薄いシャツの間から入り込んできた。牛舎をのぞくと、母さんが一人作業をしていた。

「掃除から、早くやんないと、ほれ、早く、着替えてこい!」

「これじゃだめ?」

「そんなん着てたら、すぐ真っ黒なっちゃうべ!」
 
農家の朝は早い。外はまだ薄暗くて、鳥達も眠っているのか、外に出るとしんとしていた。牛舎横にある便所で用を足し、事務所へ行く。昨晩ヒロさんが教えてくれたノートを見て、今日の作業を確認する。
 
牛舎奥に入ると、牛たちはそれぞれ寝そべっていたり、水を飲んでいたり、こちらを見てキョロキョロしたり、だいたいはもう起きていた。最初は朝の掃除と片付けから始まる。牛たちが入っているゲージの中に入り、寝床の藁を大きなクシでかき集める。ひとつひとつのゲージを中に入っては片付けて行き、一か所にかき集める。糞や尿があれば、それも一緒にスコップで片付ける。あたらしい藁を持ってきて、それをまた牛たちの寝床に敷く。作業中にも牛にぶつかって大きなお尻でどつかれたり、ブンブンと縦横無尽に動かしている長いしっぽに何度もぶたれそうになった。

僕は慣れない作業に何度も長靴を履いたまま息を切らした。横では母さんは黙々と作業を続けている。

「母さん、ごめん…ちょっと水、飲んでくる…」

「なあに言ってんだ、早く牛舎行って飲んでこい!」

いったん、事務所に行き、備え付けの小さな冷蔵庫から麦茶を取り出すと、一気に飲み干した。
 
牛舎の掃除が終わると次はエサやりだ。ヒロさんが昨晩用意してくれていた飼料を、ゲージ手前の食事用の大きな溝に一頭ずつ振り分け流し込んで行く。エサが入った瞬間に牛たちはものすごい勢いでがつがつ食べ始めた。中にはエサが来るのを待ち切れずに、んのーんのーと遠くから何度も大きな声で鳴くものもいた。僕は汗だくになり、首にかけてあったタオルで顔をぬぐった。ふらふらする。エサやりが一段落すると、僕と母さんは朝食を摂りにやっと家へと引き上げた。
 
「タカちゃん、えらいなーべご、やってんのかい?」

放牧地で世話をしていると、通りがかった近所の人が声をかけてきた。

「こんにちはー」

 僕は遠くから大きな声で挨拶をした。

 この辺りは、新庄の町からも山あいにあって、昔から農業や酪農が盛んである。先祖代々、米づくりをしてきた、という家も多く、地元の人々の強い絆が出来上がっている。何か困ったことがあれば、お互いに、声をかけあい、助け合う。東京から帰ってきた僕が、酪農をしているのを見て、地元の人々は、嬉しがり応援してくれた。
 
「ほら、これ、食べてけれ」

玄関の前に大きな米袋と、たくさんの野菜がどさりと置かれた。採れたての野菜が、大きく育っている。

「いや、こんなにたくさん悪いですよ」

「いんや、いいんだ、いいんだ、採れ過ぎて困ってたから、もらってくれるとありがたいんだよなぁ」

 遠慮するこちらをお構いなしに、近所の人は野菜を置いて行った。
 
昼食を取りに、家へと戻る。
茶碗に炊きたての白米を山盛りにする。その上に卵を割りしょうゆをかける。

「なあ、母さん」
「ん?なぁんだ?」
「毎日こんだけやって、儲かんのかよ?」
「なに!?は?業者さんに持って行ってもらえば、それがお金になるんだよ!収入源は、そ・れ・だ・け・だ!」

長い労働時間と重労働は六十を過ぎる母さんにとってキツイに違いない。

実際付近の農家では、高齢化を理由に家業を手放す人も多かった。近年この辺りの農場は、そういった空き地ばかりが増えている。伸び放題の牧草地や、閑散とした倉庫。道端に放置された使い古しの農業器具。母さんは箸を握りしめながら、ぽつりと言った。

「大変だけど、がんばってやってんのさ…みんな」

「やってもそんなに儲けにならないなんて…」

「儲け、よりも、やりがいがあるから、みんな続けてるんだべ」

「やりがい」

「ああ、生き物相手の仕事はたしかに、大変だ。でも一生懸命やれば、こちらに応えてくれるし、やったぶんだけ、やりがいがあんだ」
 
搾乳の準備する。午前中に集配業者がやってくるのでそれまでには進めておかなければならない。搾乳の機械を取り出すと、牛舎へと運んで行く。ホースの先に、パイプのようなものがついていた。このパイプで自動で乳を吸い込み、全ての牛の乳を一か所に集めるのだ。
 
背を屈み、這いつくばって牛の腹の下までくると、膨らんだ牛の乳の先にある乳頭に一本ずつ付けていった。垂れ下がった大きな乳首にくっつけると、シュコっという音がした。痛そうだが、牛は何食わぬ顔でエサを食べ続けている。ホースには真っ白い乳がぐんぐん吸われ、牛舎の中に張り巡らされているパイプを通り、事務所にあるタンクに集められていった。
 
牛舎の脇には小屋があった。それは、いつもシャッターが閉まったままになっていた。僕は思い切って、勢いよく開けた。鍵は閉まっておらず、簡単に開いた。
 
中には、父さんの使い古しの白い軽トラックが停められていた。型は古いが、まだ動くだろう。母さんから車の鍵を借りると、僕は運転席のドアを開けた。中は黒いシートで、バックミラーには神社の交通安全のお守りがぶら下がっていた。ダッシュボードには演歌のカセットテープが数本。ハンドル下の鍵穴に差すと、力をこめて回した。ギュルルルルと何度か空回りした後、思い出したようにブルンブルンという大きな音を立ててエンジンがかかった。

エンジンの音を聞いて、母さんが家から出てきた。

「ちょっと、行ってくるー」
「どごさー?」
「気をつけろなー」
 
僕はアクセルを踏むと、小屋から出て車を勢いよく前進させた。牛舎の前を通り、牧場の看板も通り抜け、強い日差しの当たる、だだっ広い牧草地を抜けると、町へと続く国道へと出た。
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