その人事には理由がある

凪子

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十分ほどそうしていただろうか。

「ごめんね、もういいよ。ありがとう」

沙織が言ったので、おずおずと千春は手を離した。

「ずっとこんな感じで、食べてしばらくすると胸がむかむかして吐いちゃうの。吐かなくても気持ち悪くなって、えずいたりね」

「夜は?寝れてる?」

「あんまり。四時ぐらいまでは大体寝れなくて起きてる。そこから二、三時間寝たり起きたりって感じで、昼間もうとうとしたり。ちゃんと睡眠とらなきゃいけないのは分かってるんだけど」

沙織の声はもう震えてはおらず、涙の気配もなかった。

「沙織。病院行こう」

千春は言った。

「せめて眠れるようになるまで、私が一緒にいるよ。お薬出してもらって、先生に話聞いてもらえれば、ちょっとは楽になるかもしれないし」

再び長い沈黙が続いた。

ぽんぽんと歯切れのよい物言いをする沙織が、こんなふうに言葉数が少なく、口が重くなるのは初めてだった。

まるで残った最後の力をかき集め、振り絞らなくては声が出てこないかのようだった。

沙織は身も心もすり減って、ぼろぼろで、疲れきっているのだ。

事実が、理屈抜きで千春の心に飛び込んでくる。

「今日、実家に電話したんだ」

その言葉に、千春の心臓は嫌な音を立てた。

「会社であったことは言わなかったけど、体調崩してるって話したら、親がこっちに来るって」

「い、いつ?」

「明日。っていうか今日かな。もう」

スマホの日付を確認し、沙織は告げる。

「十時の飛行機だから、お昼すぎにはこっちにつくと思う」

「そう……」

千春は溜息をついてから、慌てて笑顔を取り繕った。

「よかったね。ご両親に来てもらえたら安心だね」

「落ちついたら多分、荷物まとめて実家に帰ることになると思う」

その一言がとどめだった。

千春は言葉を失い、うつむいた。

きっと沙織は死ぬほどの苦しみを味わい、誰にも助けてもらえずのたうち回り、最後の最後で決断した。

そして、その後で千春に会うことにしたのだろう。

悩みを聞いてもらうためではなく、お別れをするために。

愚かな自分は沙織と連絡がとれたことに喜ぶばかりで、気づくことができなかった。

「いろいろあったけど、私、会社には感謝してるの。両親のことも悲しませたくないし、あのことは絶対に誰にも話さない。だから安心して。会社に迷惑をかけるようなことはしないから」

「そんなこと……」

どっちでもいいんだよと言いかけて、言えない自分に気づいた。

人事の人間だからか、それとも別の理由なのか。

突き詰めれば判明するかもしれないが、今は考えられなかった。

「地元に帰って、あのことを何も知らない人たちのところで、全部リセットしたい。最初からやり直したいの、自分の人生を。そうじゃなきゃ、私……このままでいたら、とんでもないことをしでかしてしまいそうで怖い。だから……」

暗闇の中、沙織は両手で顔を覆った。

千春は半分身を起こしたまま、呼吸を殺して、沙織の息遣いを聞いていた。

心臓の鼓動が熱く、耳鳴りがする。

きっと今、何を言っても、愚にもつかないことしか言えないだろう。

だからこそ黙って、ただひたすら自分の存在を消していた。
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