リエゾン~川辺のカフェで、ほっこりしていきませんか~ 【第8回ライト文芸大賞 奨励賞受賞】

凪子

文字の大きさ
30 / 85
夏の黎明

30

しおりを挟む







――あれが全ての始まりだった。

湯船にお湯をためて、ゆっくりと体を沈めながら、桜は浴室の天井を眺めて思った。

住まわせてもらっている古い昭和風のアパートは、タイル張りのこれまた古風な風呂だったが、なかなか浴槽が広いことは気に入っていた。

どんなに遅くなっても、どんなに疲れて帰ってきても、お湯をためて湯船につかると心と体がほぐれる気がする。

この家に住んでから、桜は毎日湯船につかるのが習慣になった。

あの日は京介に手を引かれて上野動物園やらお台場やら、東京タワーやら新宿御苑やら、いろいろと連れ回されたのだが、その間というもの、彼は自分の話ばかりをし、ほとんど桜の事情について触れなかった。

だが、一日中そばにいて、夜になると自分のアパートに連れていった。

そして恐らく、桜が自殺するのを防ぐために、部屋の隅で桜が寝るまでじっと座っていた。

その後、アパートが彼の持ち物であることや、店舗を運営していることなどを知り、相当なお金持ちであることが分かったが、それにしてもどうして自分を助ける気になったのかは全く想像もできないことだった。

聞いてみたいと何度も思ったけれど、話題にする前に口をつぐんでしまった。

そこには何か、触れては壊れてしまうような何かが存在するような気がして。

「……やっぱそうだったんだ」

ふと、口の端から言葉がこぼれた。

やっぱり、という思いはあった。

京介には心に思う人がいて、女遊びをしているのはただの見せかけ、カモフラージュにすぎないのだと。

それが何のためのカモフラージュかは知らない、もしかしたら本人さえ分かっていないのかもしれない。

涼子があらわれ、透子という存在を聞き、全てが腑に落ちた。

つまり京介の一番大切な人は、もうこの世にいないのだ。

そして、その透子という人と自分は、涼子に言わせれば雰囲気が似ているのだと。

だから京介は酔狂な真似をして自分を救い、雇ってそばに置いているのだと。

落ち込むようなことではない。むしろ、あのとき京介がいなければ失っていた命だ。

運が悪いどころか、自分は相当ラッキーだったのだと感謝するべきなのだろう。

桜は強いて自分にそう言い聞かせようとした。

だが何だろう、この何とも言えない虚しさは。

諦めともつかぬ思いが心を浸食し、無音で空洞が広がっていく。

――最初から、京介さんは私を見てはいなかった。

――あの人が本当に助けたかったのは私じゃない、透子さんだ。

大切な人を亡くすという経験がどれほど辛いものなのか、桜には実感の湧かないことだった。

だが、それは相当な重みと痛みを持って、本人を苦しめ続けるのだろう。

時には生きていくことすら過酷に感じるほどに。

――もしかすると、京介さんも死にたいと思ったことがあるのかもしれない。だから私に気づいたのかもしれない。

自分と透子を重ねることで、京介は少しでも心が慰められているのだろうか。

涼子のつり上がった目を思い返し、桜は自嘲ぎみに首を振った。

――そうは思えない。

――あの人の言うとおりだ……。私は多分、京介さんにとって、毒にしかならない。

それでも、今はまだそばにいたい。

そう願ってしまう自分の弱さを、桜は憎んだ。









































しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

【完結済】あの日、王子の隣を去った俺は、いまもあなたを想っている

キノア9g
BL
かつて、誰よりも大切だった人と別れた――それが、すべての始まりだった。 今はただ、冒険者として任務をこなす日々。けれどある日、思いがけず「彼」と再び顔を合わせることになる。 魔法と剣が支配するリオセルト大陸。 平和を取り戻しつつあるこの世界で、心に火種を抱えたふたりが、交差する。 過去を捨てたはずの男と、捨てきれなかった男。 すれ違った時間の中に、まだ消えていない想いがある。 ――これは、「終わったはずの恋」に、もう一度立ち向かう物語。 切なくも温かい、“再会”から始まるファンタジーBL。 全8話 お題『復縁/元恋人と3年後に再会/主人公は冒険者/身を引いた形』設定担当AI /c

【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております

紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。 二年後にはリリスと交代しなければならない。 そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。 普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…

27歳女子が婚活してみたけど何か質問ある?

藍沢咲良
恋愛
一色唯(Ishiki Yui )、最近ちょっと苛々しがちの27歳。 結婚適齢期だなんて言葉、誰が作った?彼氏がいなきゃ寂しい女確定なの? もう、みんな、うるさい! 私は私。好きに生きさせてよね。 この世のしがらみというものは、20代後半女子であっても放っておいてはくれないものだ。 彼氏なんていなくても。結婚なんてしてなくても。楽しければいいじゃない。仕事が楽しくて趣味も充実してればそれで私の人生は満足だった。 私の人生に彩りをくれる、その人。 その人に、私はどうやら巡り合わないといけないらしい。 ⭐︎素敵な表紙は仲良しの漫画家さんに描いて頂きました。著作権保護の為、無断転載はご遠慮ください。 ⭐︎この作品はエブリスタでも投稿しています。

処理中です...