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終章

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人物紹介
ホエルン・エケ:長子チンギスの母でイェスゲイの正妻。エケは母の意味。オルクヌウト氏族。
        次子ジョチ・カサル、3子カチウン、末子テムゲ・オッチギン。

チンギス・カン:モンゴル帝国の君主

オゴデイ:チンギスと正妻ボルテの間の第3子
グユク:オゴデイとドレゲネの間の長子。

ボオルチュ:チンギス筆頭の家臣。アルラト氏族。四駿(馬)の一人。

クナン:ジョチ家筆頭の家臣。ゲニゲス氏族。

マフムード・ヤラワチ:チンギスの使者。商人出身。ホラズム地方出身

オマル・ホージャ:(ホラズムに向かう)チンギス・カンの隊商を率いる隊長

テンゲリ:カンのシャマン。コンゴタン氏族

人物紹介終了


 チンギスはようやく丘を降りることにした。
 あだを討つには神頼みだけでは十分でないことは、己のこれまでの経験から、あまりに明らかであったから。
 丘から降りて来た時、最初に駆け寄りひざまずいたのは、お香の匂いのしみついたすそ広がりの衣を身にまとい、様々な祈祷きとうの道具を首から吊したテンゲリであった。
 テンゲリとは、そもそもモンゴル語で天や天神を指す。
 それがこの時代、天神との媒介者であるシャマンの尊称ともなっておった。
 この者は、チンギスの弟たちと殺されたココチュの後を継いだ人物であった。
 やはりこの者もまたモンリク・エチゲの一族であった。
 本来ならばチンギスを導いて天に祈願すべき、少なくとも共に祈願すべき立場である。
 なのに、余りのチンギスの鬼気迫る様に怖じ気づき、近寄ることさえも今の今までできなかったのだ。

「カンには何の落ち度もありませぬ。全てはあのホラズムのやつばらの悪行。
 カンのお祈りを天はきっとお聞き届けになり、ホラズムへと罰を下しましょうぞ。
 どうか、カンのお祈りをわたくしが引き継ぐことをお許し下さい。」

 我の気持ちを推し量るを得たと想い込んで、そのようにを言うのか。
 本当に我の心を察せぬのか。
 不満に想い、チンギスはその内心をのぞき込まんとする如くテンゲリの顔を一度はにらんだ。
 しかしはこの者に責がある訳ではない、己にあるのだと想い直した。
 テンゲリには

「許す。あの丘にて我の代わりに祈りを続けよ。」

と命じて去らせた。

 チンギスの身を案じて、宮廷オルドにおった后妃、御子、側近がほぼ総出で出迎えておった。

 チンギスはボオルチュの顔を見出すと、他の者には「心配するな。自らの天幕ゲルに戻れ。」と告げた。

 ボオルチュには二人で話したいとして、謀議に良く用いる小さな天幕ゲルに誘い、近衛隊ケシクテンの隊長には遠巻きに警護せよと命じた。
 チンギスは、ひざまずこうとするボオルチュに対面して座ることを許すや、どう想うかと問うた。

「恐らくこれは前もっての計画と想います。」

「何ゆえか。」

「ホラズムの玄関口とも言うべきオトラルで起きたゆえです。
 これが途中の町もしくはその目的地であったスルターンのおる都で起きたならば、なにごとかの行き違いに端を発してということもありましょう。
 しかし隊商は入国さえ許されなかったのです。
 やはり前もっての計画、隊商を待ち構えて虐殺したと考えざるを得ませぬ。」

「とすればスルターンもこれを承知してなしたということか。
 そもそもクナンの報告により難物なんぶつであろうとは想っておったが。
 我は未だに分からぬことがある。今回の如きことをなすならば、何ゆえ和平協定の締結に応じたのか。」

 これについては、ボオルチュもその答えを持たぬようであり、

「問いただす必要があります。」

 と答える。そして付け加えるには

「その件についてヤラワチが何か知っておらぬかと想い、カンが丘に向かわれた後、軟禁しております。
 あの者はそもそもカンの命に反し、一人でスルターンとの密談に応じております。
 問い質されますか。」

「ヤラワチには既に事件のことは伝えたのか。まだならば、我が自ら伝えよう。」

「いえ、既に伝えております。」

「そうか。」

 チンギスは考える風であり、しばし黙ったが、やがて口を開く。

「あの者はそもそも戦争を好まぬ。
 そして何よりモンゴルがホラズムに攻め込むのを望んでおらぬ。
 それゆえにこそ、あの者を和平の使者に任じたのよ。
 どうあっても和平を締結するであろうと想うて。
 単独でのスルターンとの密談に応じたのも、その想い余ってのことであろう。
 果たしてその誠意が通じたか。それゆえにこそ和平が締結されたのかと想うたのだが。
 今回の件は下手をすると、その最も望まぬことを招きかねない。
 それにオマルを我に勧めたのはヤラワチよ。弟同然ですと我に紹介した。
 更にその率いる隊商の者はオマルの家族同然、ゆえにわたくしにとっても家族に他なりませぬと。
 その弟が、家族が今回殺されておる。
 どうあっても、あの者がこれにからんでおるということは考えられぬ。」

 ボオルチュが注意深く聞いておるのみであり、言を挟もうとせぬのを確認して、チンギスは続ける。

「またそなたも知っての通り、如何に途中で宴続きであったとはいえ、あの者の帰りは遅すぎるのではないか、その忠誠を疑うべきではないか、と進言する臣下もおったが。
 その件についてはオゴデイが息子のグユクに託して、びて来ておる。
 わたくしが歓待の宴に半月ほども留めてしまいました。
 ゆえにどうかヤラワチを罰しないで下さいと。」

「グユクデウはその件でいらしておったのですか。」

「オゴデイは、我が孫に甘いことを知っておるのよ。
 そもそもヤラワチがオゴデイの名を出さなかったことを考えれば、酒飲み同士のかばい合いは明らか。
 そんなにそなたを付き合わせては悪いと想い、あえて言わなかったが。
 どうだ。そなたが捕えに行った時もヤラワチは酒を飲んでおらなかったか。」

「その通りです。」

「それにオゴデイもまた戦争を好まぬ。」

 ボオルチュはチンギスの意を図りかねたのか、あるいはホラズムを因とする怒気がオゴデイに向かうをんだのか、

「ただオゴデイ大ノヤンは、まれに見る寛大さと評判です。」

「そなたがことはない。あの者には最大の称賛者がおる。
 我が母上よ。
 『お前にオゴデイほどの兄弟への想いがあればと。
 お前にオゴデイほどの優しさがあったならばと。
 何で子にあって、親のお前にないのかと。』
 果たして何度言われたか分からぬくらいよ。」

 その肝っ玉母さん振りであれ、数々しかられたことであれ、母ホエルンを語るは、チンギスの臣下への配慮のゆえであり、少人数の側近のみが参加する謀議の最後にしばしば披露された。
 単にもてなすためになされる時もあった。
 あるいは、議論する内容のもたらす重苦しい雰囲気を少しでも和らげんとしての時もあった。
 今回の目的は後者であったが、ボオルチュもチンギスもその顔より苦々しきものを去らせることはできなかった。
 ただ謀議がお開きであることは伝わったようで、

「少し席を外したく想います。」

 とボオルチュは立ち上がる。

「いずこへ行くか。」

「ヤラワチにびて来たく想います。」

 チンギスはボオルチュに言おうとした。

(商人は商人のやり方で良く仕えてくれておる。少しはの想いに心を馳せよと。)

 ただその心中の想いを口にしようとして、たまらず言葉がのどにつかえた。
 それがまさに己自身の心に響いてしまい、ヤラワチが今いかなる想いを抱えておるか。
 それに想い至るや、それまであまりの怒りと後悔のゆえに忘れておった感情にとらわれたゆえであった。
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