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第2部開戦
2(ブグラーの妻子とカン、そして后妃クラン・カトン)
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大集会にて最終的にホラズム征討は決定された。
恐らくそこに集うほとんどの者はそれをなす理由を知っておったろうが、チンギスはあらためてそれを自ら告げた。
反対する者は皆無であった。
またこの時ジェベがグチュルクの首を持ち帰ったことも、チンギスは皆に報せた。
通常ならば、歓声があがってもおかしくないほどの慶事であるが、チンギス自身も含め、そこに集う者たちの渋面が崩れることはなかった。
大集会につきものの宴が開かれることもなかった。
ひたすら軍議を重ねて、主要戦略、更には出軍の日程や合流の詳細を決めた後は、皆、早々に戻った。
当然、準備のためであった。
問責の使者としてスルターンの下に赴き殺されたブグラー。
その息子たちは、是が非にも西征に付き従い、自身で父の仇を討ちたいと願い出た。
チンギスの答えは次の如くのものであった。
「そなたらの気持ちは良く分かる。しかしよくよく考えよ。そなたらは父を亡くしたばかり。
我が経験を語り聞かそう。
我は昔、子供の時分に父を亡くした。その後、同族たるタイチウトに追われて、ひたすら逃げ回った。
生き延びるためよ。無論、まずは我がため。
ただ、亡くなった父上のため、また懸命に我が家を支えておる母上を想ってでもあった。
我が殺されたならば、タイチウトは勢いに乗って、次は次弟カサルを、次は三弟カチウンを、次は末弟オッチギンをとなってしまう。
それを最も望んでおらぬが、まさに我が父母であるは明らかであったゆえに。
そなたも亡くなった父のことを想うなら、
そして夫を亡くし、我がホエルン・母上と同じく一人で一家を支えんとしておる母のことを想うなら、
まずは生きよ。
それにこう言っては何だが、我らはホラズムと戦をしに行くのだ。
そなたらに何ができよう。馬扱いはどうか。弓にて敵を射殺せるのか。
例えそなたらが前線に赴くを望み、我がそれを許したとしても、そこを担う隊長たちには、足手まとい扱いされるだけであろう。
といって、そなたらを父と同じ任務、使者として赴かせ、殺されてしまっては、どうなる。我はそなたらの父ブグラーに受けた恩を仇で返すことになってしまう。」
チンギスはここで玉座より立ち上がり、檀上より降りた。ひざまずく両人の前で、自らもまたしゃがみこむ。そのまま二人の息子の頭を柔らかく抱えて、
「頼む。ここは我に免じて、自ら仇を討つはあきらめてくれ。我らに託してくれ。必ず仇は討つ。」
二人の力の無い「はい」との返事を聞くと、チンギスはその姿勢のまま、次の如くに告げた。
「我が出軍した後、ここの留守営はオッチギンに託すことになる。兄の方はそこにて仕えをなせ。
弟の方は母親の面倒をしっかりと見よ。」
兄の次の返事は力強かったが、弟の方はなかなか返事をせぬ。
「二人ともオッチギンの下にやり、母を放って置くとなっては、クランが納得せぬであろう。」
チンギスはしばし考える風であったが、やがて次の如くに告げた。
「ならば、こうしよう。
そなたらとその母親がどうするかは、クランに決めさせよう。
想うところがあるならば、母親と共に直接訴えよ。」
そこで一息入れ、笑みを浮かべて、最後に次の如く付け加えた。
「良いか。母親をないがしろにするなよ。クランを怒らせると、我ではかばいきれぬぞ。」
そう告げられた相手は笑うどころか、ただただかしこまるばかりであった。
チンギスは更に次の如くに続けた。
「そのクランだが、己も戦に行くというて聞かぬ。
前線には決して出さぬぞ。行っても足手まといになるだけぞ。そなたが赴いて何をなし得るというのか。
そう、いくら言い聞かせても、聞く耳を持たぬ。
仕方のないことよ。あの者もまた武人のむすめ。
我が母などは、トクを自らたずさえてタイチウトとやり合ったのだからな。
そなたらは知らぬかもしれぬが、トクをたずさえるは、その軍にて最も勇猛なるゆえに、先陣を委ねられる将よ。
そういえば、そなたらはまだ嫁をもろうておらぬのだろう。
もしフェルトの民(遊牧民のこと)の娘をめとるならば、十分に覚悟してもらえよ。
あの駙馬どもは、我が妹や娘を随分とありがたがってもらったが、既に尻に敷かれておろう。」
チンギスは最後は自ら半ば笑いながら言ったのであったが。
やはりブグラーの息子二人はかしこまったままであった。
チンギスはあきらめたようであり、二人にシギ・クトクの下に戻るを許した。
後に、母と息子二人はクラン・カトンに呼ばれた。
母の方は、「我がおらぬ間はイェスイ・カトン預かりとし、遠国のホラズムの話でも披露してくれれば、イェスイ姉上もきっと喜びなさろう」と告げられた。
弟の方は「姉上のオルドの百人隊長に仕えよ」とされた。
それから立ち上がり、弓矢を持って「案ずるな、ブグラーの仇は我が必ず討つ」と息まくを見せられる段となれば、母はただただ涙を流し、子二人は涙をたたえつつもようやく笑みを浮かべるを得たのだった。
注 フェルトの民:厳密に言えば、フェルト製の天幕に住まう民。
フェルトの特徴は織る手間が要らぬこと。よって織機も必要としない。材料はあふれるほどにある羊毛である。まさに遊牧民にとって望ましきものである。
モンゴルの天幕の外周を覆う白い布が、このフェルト製なのである。
注 イェスイ: 第3オルドの主。タタルの王女。往時、各々のオルドの主たる后妃もまた軍隊を持っており、この隊長の位は百人隊長であるが、実質千人隊長に等しい。
恐らくそこに集うほとんどの者はそれをなす理由を知っておったろうが、チンギスはあらためてそれを自ら告げた。
反対する者は皆無であった。
またこの時ジェベがグチュルクの首を持ち帰ったことも、チンギスは皆に報せた。
通常ならば、歓声があがってもおかしくないほどの慶事であるが、チンギス自身も含め、そこに集う者たちの渋面が崩れることはなかった。
大集会につきものの宴が開かれることもなかった。
ひたすら軍議を重ねて、主要戦略、更には出軍の日程や合流の詳細を決めた後は、皆、早々に戻った。
当然、準備のためであった。
問責の使者としてスルターンの下に赴き殺されたブグラー。
その息子たちは、是が非にも西征に付き従い、自身で父の仇を討ちたいと願い出た。
チンギスの答えは次の如くのものであった。
「そなたらの気持ちは良く分かる。しかしよくよく考えよ。そなたらは父を亡くしたばかり。
我が経験を語り聞かそう。
我は昔、子供の時分に父を亡くした。その後、同族たるタイチウトに追われて、ひたすら逃げ回った。
生き延びるためよ。無論、まずは我がため。
ただ、亡くなった父上のため、また懸命に我が家を支えておる母上を想ってでもあった。
我が殺されたならば、タイチウトは勢いに乗って、次は次弟カサルを、次は三弟カチウンを、次は末弟オッチギンをとなってしまう。
それを最も望んでおらぬが、まさに我が父母であるは明らかであったゆえに。
そなたも亡くなった父のことを想うなら、
そして夫を亡くし、我がホエルン・母上と同じく一人で一家を支えんとしておる母のことを想うなら、
まずは生きよ。
それにこう言っては何だが、我らはホラズムと戦をしに行くのだ。
そなたらに何ができよう。馬扱いはどうか。弓にて敵を射殺せるのか。
例えそなたらが前線に赴くを望み、我がそれを許したとしても、そこを担う隊長たちには、足手まとい扱いされるだけであろう。
といって、そなたらを父と同じ任務、使者として赴かせ、殺されてしまっては、どうなる。我はそなたらの父ブグラーに受けた恩を仇で返すことになってしまう。」
チンギスはここで玉座より立ち上がり、檀上より降りた。ひざまずく両人の前で、自らもまたしゃがみこむ。そのまま二人の息子の頭を柔らかく抱えて、
「頼む。ここは我に免じて、自ら仇を討つはあきらめてくれ。我らに託してくれ。必ず仇は討つ。」
二人の力の無い「はい」との返事を聞くと、チンギスはその姿勢のまま、次の如くに告げた。
「我が出軍した後、ここの留守営はオッチギンに託すことになる。兄の方はそこにて仕えをなせ。
弟の方は母親の面倒をしっかりと見よ。」
兄の次の返事は力強かったが、弟の方はなかなか返事をせぬ。
「二人ともオッチギンの下にやり、母を放って置くとなっては、クランが納得せぬであろう。」
チンギスはしばし考える風であったが、やがて次の如くに告げた。
「ならば、こうしよう。
そなたらとその母親がどうするかは、クランに決めさせよう。
想うところがあるならば、母親と共に直接訴えよ。」
そこで一息入れ、笑みを浮かべて、最後に次の如く付け加えた。
「良いか。母親をないがしろにするなよ。クランを怒らせると、我ではかばいきれぬぞ。」
そう告げられた相手は笑うどころか、ただただかしこまるばかりであった。
チンギスは更に次の如くに続けた。
「そのクランだが、己も戦に行くというて聞かぬ。
前線には決して出さぬぞ。行っても足手まといになるだけぞ。そなたが赴いて何をなし得るというのか。
そう、いくら言い聞かせても、聞く耳を持たぬ。
仕方のないことよ。あの者もまた武人のむすめ。
我が母などは、トクを自らたずさえてタイチウトとやり合ったのだからな。
そなたらは知らぬかもしれぬが、トクをたずさえるは、その軍にて最も勇猛なるゆえに、先陣を委ねられる将よ。
そういえば、そなたらはまだ嫁をもろうておらぬのだろう。
もしフェルトの民(遊牧民のこと)の娘をめとるならば、十分に覚悟してもらえよ。
あの駙馬どもは、我が妹や娘を随分とありがたがってもらったが、既に尻に敷かれておろう。」
チンギスは最後は自ら半ば笑いながら言ったのであったが。
やはりブグラーの息子二人はかしこまったままであった。
チンギスはあきらめたようであり、二人にシギ・クトクの下に戻るを許した。
後に、母と息子二人はクラン・カトンに呼ばれた。
母の方は、「我がおらぬ間はイェスイ・カトン預かりとし、遠国のホラズムの話でも披露してくれれば、イェスイ姉上もきっと喜びなさろう」と告げられた。
弟の方は「姉上のオルドの百人隊長に仕えよ」とされた。
それから立ち上がり、弓矢を持って「案ずるな、ブグラーの仇は我が必ず討つ」と息まくを見せられる段となれば、母はただただ涙を流し、子二人は涙をたたえつつもようやく笑みを浮かべるを得たのだった。
注 フェルトの民:厳密に言えば、フェルト製の天幕に住まう民。
フェルトの特徴は織る手間が要らぬこと。よって織機も必要としない。材料はあふれるほどにある羊毛である。まさに遊牧民にとって望ましきものである。
モンゴルの天幕の外周を覆う白い布が、このフェルト製なのである。
注 イェスイ: 第3オルドの主。タタルの王女。往時、各々のオルドの主たる后妃もまた軍隊を持っており、この隊長の位は百人隊長であるが、実質千人隊長に等しい。
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