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第3部 仇(あだ)

45:ブハーラー戦14:本丸戦6:亡霊5

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人物紹介 モンゴル側

チンギス・カン:モンゴル帝国の君主

耶律(ヤリツ) 阿海(アハイ):チンギスの家臣。キタイ族。

耶律 綿思哥(メンスゲ):阿海の次男。
ブハーラー本丸攻めの先遣隊を率いるも負傷する。

人物紹介終了




 百人隊長の薬師奴(ヤクシヌ)はメンスゲより指揮を引き継いだ。
 顔を出せば、すぐそこに矢が飛んで来る状況もまた同時にであった。

(このXX奴という名であるが、仏教が盛んであったキタイでは、しばしば見られる。ムスリムの間でもアブド・アッラー(神の奴)という名が好んで用いられる。興味深い対応といえよう)

 そもそも野天にての騎馬の戦いならば、矢というものは、そうそう狙い通りに当たるものではない。
 風もあるし、更には互いに騎馬を駆けさせてである。
 ところで、今ここではどうか。
 そもそも室内ゆえ、最大の外乱要因たる風が無い。
 またこちらから部屋への進入路は一つ。
 ゆえに、相手はおおよその見当をつけて、待ち受ければ良い。
 そしてこちらが姿をさらした途端、矢を放てば良いのだ。
 まさに狙い撃ってくださいといわんばかりであった。
 おまけに敵は何の危険にもさらされぬ。
 そして場所を動かぬなら、一射目より二射目、二射目より三射目が精度が上がるのは、当然といえた。

 更にいえば、敵は当然建物の構造を把握しておる。
 その間取りから退路まで全てだ。
 対して、こちらはそれを確認するためだけでも、実際、命がけであった。
 つい先ほど自ら顔を出してみたところ、そのわずかの間も敵は見逃してくれなかった。
 矢がすんでのところで顔に当たるところであり、たまがり上がり、更には肝を冷やしたのであった。
 メンスゲ殿からいきなり引き継いだということもあり、どこか己にも急く気持ちがあったか。
 とにかく自省し、まずはの手はうった。

 危険を冒して先ほど見た感じでは、それほど広くない。
 余り家具などは置かれていないようであった。
 恐らく休憩所か寝所であろう。
 相手側に隠れるものがないなら、『一気に』とは想わぬものでもない。
 とはいえ、いきなり身をさらせば、射られるだけ。
 阿呆という他ない。
 ゆえに待っておったのだ。

(メンスゲ殿は少し功にはやられたのであろう)
 正直、そう想う。
(ただ、それも致し方なきか)
 とも想う。
 これだけ有力な将が顔をそろえるカンの軍勢である。
 当然、功をあげる機会は少ない。
 そしてそれをつかみ取ってきたお父上に託されたならば、
(当然、力は入ろう)

 やがて身を隠せるほどの盾が、いくつも来た。
 配下の兵3人にそれぞれ盾を持たせる。
 そして、それを前面に押し立てつつ、横並びになるよう展開させる。
 これで入口をほぼふさぐ形となる。
 盾に次次と矢が当たるのが分かる。
 無論、こちらが姿をさらすことはない。
 そしてこれ以上、押し出すつもりもない。
 その態勢で待つ。
 効果無しと分かれば、当然、敵は矢を射るのを止める。
 そして次の一手に出るはずだからである。

 決死の兵といえど、矢の無駄撃ちは嫌うものだ。
 死ぬからどうでも良いなどとは、人はなかなかならぬ。
 口で何と言おうが、心のどこかで自らは生き延びるのではと考え、それに従って動く。
 さかしらさを棄てるのは、言うほど簡単ではない。
 そしてそうである以上、我らは敵の動きを読み、追い込むことができる。

 十中八九逃げよう。
 そう推測し得た。
 そしてしばらくすると、実際に多くの足音が聞こえだした。
 それがしなくなってからも、少し待った。
 それからようやくであった。
 盾を持つ兵たちの背後から、己が顔を出して前方を確認したのは。
 焦って追いかけ、死に物狂いの反撃をくらう必要は無かった。

 我らの役割は、巻き狩りにおける勢子せこと同じである。
 獲物を追い立てれば、それで良い。
 本丸の周囲には、カンの軍勢がひしめいておるのだ。
 それでも、全軍が都城の内に入った訳ではなく、外に留まった部隊もおる。
 どこに隠れようと、いずれ見つかる。

 室内を通り抜けた先には、別の通廊があり、左右に通じておった。
 手分けして進むことにする。
 百人隊五隊ずつに別れ、左方を己が率いて進んだ。

 少し進むと上と下、どちらにも通じる階段があった。
 事前に入手した情報によれば、今我らがおる4階が最上階。
 となれば、上に向かうは屋上ということになる。

 それから再び盾をかざしつつ階段に近付く。
 上方から矢を射かけて来た。
「どうやら、上へ逃げたようだな」
 かたわらに来た百人隊長が話しかける。
「解せぬな」
「そうか? 上を取るは、戦の常道」
「しかしこの状況では、自らの逃げ道を塞ぐことになる」
「下に逃げようと、同じであろう。
 それに奴らは死を覚悟しておると聞く」
 我は、死を覚悟した者であっても云々との持論を展開する気は無かった。
 ゆえに提案する。
「そなたは百人隊4隊を率いて上に向かってくれ。我は念のために下を調べて来る」
「よし。あい分かった」
 その者は、功は既に己が手にあるも同然と想いなしたか、うながされるまま、号令も早々に、急ぎ上に向かう。
 我は自隊にかたわらによけて留まれと命じた後、おもむろに下を覗く。
 そもそも灯りが乏しいのに、そこは更に乏しいようで、暗く沈んでおった。
 そのゆえもあって、動く者の姿が確認できないのは仕方ないとしても、何の音も聞こえてこぬということは
――我の見当外れか?

 とはいえ、確かめる必要はあろう。
 こちらの部隊は余るほどと言って良い。
 このまま下の階の捜索を続けても、問題にはならぬだろう。

 我は右方へ向かった隊へ伝令を発した。
 階段の存在と左方部隊の展開の詳細を伝えると共に、そのまま右方の捜索を続行せよと命じた。

 それから盾を持って、身を隠しつつ、少しずつ降りてゆく。
 百人隊も後に続く。
 我は3階、そして2階、そして1階に降りた。
 途中の階に留まるとは想えなかったゆえだ。
 それなら、上階に逃げるはず。

 それから通廊にしろ部屋にしろ、手当たり次第に当たらせた。

 一人の者がこちらに駆けて来るのが見えた。
 ずい分と慌ててであった。
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