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第3部 仇(あだ)

67:オトラル戦終話:イナルチュク

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  登場人物紹介
 ホラズム側
イナルチュク・カン:オトラルの城主。カンクリ勢。
  人物紹介終了



 軍議の決定を受けて、モンゴル軍の矛先は再びオトラルへと向くこととなった。

 他方イナルチュク側の護衛はわずか二人という状況であった。この内の一人はイナルチュクを幼き頃から知り、そして自らの子、というより孫の如くに育てたアター・ベグであった。かなり高齢であるが、最後までイナルチュク・カンのお側を離れませぬぞと意気盛んであった。

(注 アター・ベグ:トルコ語。アターは「父」の意。王子にとって「父代わりをなすベグ(臣・将)」の意。ベグはノヤンとほぼ同意である)

 もう一人は、居残り部隊が最後になした突撃への参加を願うも、モンゴル軍より足に受けた矢傷のためにそれが果たせず、心ならずも残った者であった。父も弟二人もこたびのオトラル戦にて殺されたゆえに、ここでその仇を晴らすことを願っておった。



 この残った三人を捕らえるためだけに、今やモンゴルの大軍が取り囲んでおった。ただこれだけの圧倒的な数の差にもかかわらず、イナルチュクたちがいまだ捕らえられずにおるのは、一つにはこのオトラルの堅城を活用しておるゆえ。イナルチュクは本丸に高くそびえる小塔の一つに逃げ込んでおった。いかな大軍とはいえ、せいぜい人一人通れる螺旋階段では、その利を活かせぬ。

 ただ何よりは、イナルチュクについて生け捕りの厳命が出されておったゆえ。これは当然イナルチュクの命を重んじてなどではなく、戦死の誉れを許すことなく、生きて捕らえ、その犯した罪の重さを自覚させた上で、死を賜ること。それこそ、この者に最もふさわしいとチンギスが考えたゆえに他ならぬ。



 とはいえ、こうなってみれば、モンゴル兵は我こそが君命を成し遂げん、大功を立てんと迫って来ておった。最早逃げ場のない高所に追い込んだと喜び勇んで。



 1時間ほど前のこと。この時には、モンゴル兵は逃げ込んだ場所を嗅ぎ当てるを得なかったのであろう、未だ階段下に姿を現わしてはおらなかった。

 イナルチュクたちは塔の1番上の部屋に至ると、そこにあった棚・机・長椅子など、3人がかり――1人は老人、1人は足をひきずっておったが――で動かせる物は何であれ、螺旋階段に落とし、塞ぐことを試みた。おかげでイナルチュクたちのおるその部屋は随分と広く感じられた。

 イナルチュクは妻子とここから外を眺めた折のことを一瞬想い出した。モンゴルに囲まれる前に、妻子については外に逃がした。決してこの時のことを予見した訳ではなかったが。小窓より外を見る。無数の兵が本丸のあちこちに群がり見えた。それが全てモンゴル軍であるは明らかであった。自ずと妻子の顔は消え去った。



 そして今はまさに自らここを死に場所と思いなし、まだまだ捕らえられてなるものかと、そして1人でも道連れにせんとするイナルチュクであった。

 モンゴル兵は1方では障害物をどかしつつ、その1本しかない階段を、他方では別の者たちが外壁にハシゴをかけて、上がって来ようとしておった。

 螺旋階段の方から突破を図る者に対しては2人の護衛が矢を放ち、ハシゴを上って来る者に対してはイナルチュク自らレンガを放った。矢に限りがあったからである。レンガの1撃で殺すことはできなくとも、当たった衝撃でこの高みから敵を落とすことができれば、同じことであった。また矢を放つのと異なり、窓から身を乗り出す必要がないという点で望ましくさえあった。

 螺旋階段側のモンゴル軍は、ある程度障害物を除き終わると、突撃を図る者が現れた。これまでの如くの障害物越しに階段の敵が矢を射かけて来る分には、こちらも扉の影に身を隠しつつ応射して敵が上るのを防ぐことができた。

 しかし盾で頭と上体をかばいながら突撃を図る敵を防ぐには、二人の護衛はまさに身の危険を顧みずに体を乗り出して、敵が達する前に突撃兵の足を狙い撃つ必要があった。階段の敵兵からは絶好の的となる。といってこの部屋への突破を許してはそれまでである。足の満足に動かぬ兵と老人では満足に戦えぬは明らかであった。

 突撃兵3人は途上で足を射抜かれ、そこに倒れ伏したり転がり落ちたりした。しかし4人目の突撃の時、階段からの矢の1本が護衛兵を倒した。残る老アター・ベグは何とか4人目の足を射抜くも、5人目の突撃を許してしまい、命を奪われた。

 それを見たイナルチュクは、それでも剣を抜き迎え討たんとした。しかし次々と階段を上って来た兵たちが用いる長棒により、転ばされ更には抑え付けられ遂に捕らえられた。

 あくまで3人で抗ったにしてではあれ、それまでにイナルチュクたちも少なからずのモンゴル兵を殺しており、塔の下にも階段にもしかばねが転がっておった。


(オトラル戦編 完)
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