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第3部 仇(あだ)

74:サマルカンド戦4

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  人物紹介
 ホラズム側
タガイ・カン:テルケン・カトンの弟。スルターンにとっては叔父。カンクリの王族。サマルカンド城代。

バリシュマス・カン、サルシグ・カン、ウラグ・カン、シャイフ・カン:サマルカンドの守将。カンクリ勢。

アルプ・エル・カン:サマルカンドの守将。マムルーク部隊を率いる。

 モンゴル側
チンギス・カン:モンゴル帝国の君主。

ボオルチュ:チンギス筆頭の家臣。アルラト氏族。四駿(馬)の一人。

シギ・クトク:チンギスの寵臣。戦場で拾われ正妻ボルテに育てられた。タタルの王族。

トルン・チェルビ:チンギスの側近。コンゴタン氏族。スイケトゥ・チェルビの兄である。

スクナーク・テギン:カルルク勢。駙馬(チンギス一族の婿)。
  人物紹介終了



 準備は深更にまで及んだ。

 五百人ほど。結局突撃隊に志願して来たのはそれだけであった。夜にその状況を知り、タガイは数が足りぬのではないかと問うた。しかし、そもそも志願した者にせいと言ってきたのはそなたの方と、バリシュマスにはねつけられた。

 兵たちには逃走の時のために、わずかでも仮眠を取っておけとの命を出したが、実際にどれだけの者が眠ることができたのか。少なくともそれを命じたタガイ本人はできなかった。

 他方で先ほどまで続いておった投石はすっかり止んでおった。こちらの策にまんまとはまったのである。早めに攻撃を止めたのは、石を無駄にしたくないからであろう。兵に静けさが与えられることは僥倖といえた。明日のことを考えれば、眠られるに越したことはなかった。

 神に、いや、あの若き軍師にこそ感謝すべきとして、自信なげなウラグの様子を想い出す。生き残ってくれれば良いが。そう想わずにはいられなかった。

 他方、城内の投石機はモンゴル軍に利用されるのを嫌って、その夜のうちに全て破壊された。



 そしてまんじりともできぬ夜も――無理もない、自らの命がかかっておれば――やがては明ける。

 普段は馬の市が立っておる外城の南門内側の広場。その門近くにバリシュマスの突撃隊、その後方にタガイ率いる主力部隊が集結した。後者は広場には入りきらず、大通りにあふれて、長い隊列を組んだ。

 バリシュマスの隊と門の間には空間が空けてあり、そこに側道から象使いが象を連れて来る手はずとなっておった。

 象たちは軍勢を見て、更にはその発散する緊張と興奮を読み取ると、少なからずが言うことを聞かず、それ以上進むのを拒んだ。

 こうなっては人が押したり引いたりして何とかなる相手ではない。無理矢理動かそうと激しく象の足を木の棒で叩いておった一人の象使いが却って象に踏みつけられ、その血と内臓が広場を汚すのを見たバリシュマスは

「止めよ。不吉である。言うことを聞かぬ象は下げよ」と大喝した。

 集ったのは二十頭中の数頭に過ぎなかった。

 バリシュマスは城門を開けと命じた。

 象を先に外に出して、自らの部隊も後に続いた。それから象をモンゴル軍にけしかけよと命じたが、いくら頭上に乗る者が号令を発しても、また介添えの者が叩いても、動こうとせぬ。

 バリシュマスはこれにかかずらっておっては、時を逃すとあっさりとふんぎりを付けた。それに象作戦は口実に過ぎなかった。

 逃げたくはなかった。

 戦えればそれで良かった。

 槍を高く掲げると、

「勇をここに示さんと想う者はわしに続け。名を詩人たちに称えられたき者はわしに続け」

 そう大音声で呼ばわると、突撃を開始した。続くは、そもそもその覚悟に殉じるべく集った者たちである。遅れまじと、まなじりを決しときの声を上げ、馬を馳せさせる。



 モンゴル軍の方はといえば、てっきり贈り物が来るものと信じ込んでおり、それを待っておった。しかし開かれた門から出て来たのは敵の騎馬隊であった。

 前衛を任されておったはシギ・クトクの部隊であった。誰一人これから戦をする心構えはできておらぬ。それに加えて敵部隊の意図を図りかね、そのために対応が遅れた。

(我らでさえ万人隊。その後にはボオルチュがやはり万人隊を率いて控えておる。カンは更にその後ろである。まさかあの数でカン本陣への突破を図るつもりではあるまい。
 しかしそうでなければ、何のためにあの者たちは我らへと突撃をかけんとしておるのだ。まさか死ぬためだけに突っ込んで来ておる訳ではあるまい。あるいは我らの布陣を見透かして、あの小部隊で突破を試みるのか)

 シギ・クトクの隊は横に展開する形で布陣しておった。ボオルチュ隊もしかりである。そもそもがカンを守る役目の近衛隊ケシクテンのみは幾重にもカンを囲む如くに布陣しておったが。

「クトク・ノヤン。ご命令を」

 配下の者にうながされ、

「おう。そうであったな。きゃつらの勢いのままに引き入れ、包み込め」
 とまで言い、
「いや。それは止めだ。
 トルン・チェルビに隊を率いて迎え討つよう命じよ。
 スクナーク・テギンの隊にも出撃の準備をしておけと伝えよ。
 そして我が隊の者に厳命せよ。中央に密集して、敵の突撃に備えよ。一兵たりともここを通すな。カンに近づかせてはならぬ」

 サマルカンド攻囲に際して、チンギスは側近のトルンと駙馬のスクナークをシギ・クトクに授け、ゆえにクトクは前者を右翼に、後者を左翼に配し、各々に二千人隊を率いさせておった。

 猪突猛進して来る敵に対しては、引き入れた後に包囲殲滅を図るのが常策と知るシギ・クトクではあったが、敵の数の余りの少なさが気になり、そもそも引き入れこそ敵の狙いではないかとの疑心暗鬼に駆られ、策を変えたのであった。

 右翼の兵を率いてトルンが、突撃して来る敵の前に立ちふさがる。矢の間合いに入るや両軍射かけ合い、槍の間合いに入るや突き合った。射ぬかれるのは人の体であり、刺し貫かれるのもやはり人の体であった。一帯は倒れる人馬が増え続けても、激しき戦いが終わることはなかった。

 シギ・クトクは左翼のスクナークにトルンへの加勢を命じた。

 己は残りの部隊と共に密集して留まり、カンの下への突破を許さぬ布陣を保った。
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