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第3部 仇(あだ)

94 母と子終話:テルケン・カトン終話

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  人物紹介
 ホラズム側
スルターン・テキッシュ:ホラズム帝国の先代の君主。

テルケン・カトン:テキッシュの正妻。カンクリの王女。

マリク・シャー:先代テキッシュとテルケン・カトンの間の長子。

スルターン・ムハンマド:ホラズム帝国の現君主。先代テキッシュとテルケン・カトンの間の子。

ニザーム・アル・ムルク:名目的には皇太子ウーズラーグ・シャーのワジール。実質は、テルケン・カトンのワジール(財産官)。この逃避行にも同行した。
  人物紹介終了



 テルケンは眼下の土塁を見ておった。このイーラール城のものではない。逃走を阻むために、モンゴル軍がこのぐるりに築いたものだ。

 そしてそれきり一向にモンゴル軍は動かぬ。攻めて来る素振りさえ見せぬ。この城の堅固を恐れて、というより兵を無為に失うことを恐れてのことであろう。何より囲んでさえおれば、いずれは食糧が尽き水が尽き、降伏開城せざるを得ぬと知ってのことであろう。

 攻め手が誰かは知らぬが、チンギスも賢明な将を持っておるではないか。あの男、あの余りにも鼻につく男を使者として送って来たゆえ、その臣には恵まれておらぬのではと期待しておったが、残念ながらそうではなかったらしい。

 食糧も水もまだ一年分くらいはあった。幸い城に籠もるは少数であった。あと一年我慢すれば・・・・・・。モンゴル軍はあきらめて帰るのか。

 あるいは我らの援軍が助けに来るということはあるのか。我らの籠城を知っておるであろうに、既に囲まれて三ヶ月を過ぎようというのに、いかなる部隊も至らぬ。

 ニザーム・アル・ムルクに命じて救援依頼の早馬をウルゲンチへと派遣させたのだが。しかも度々。

 どういうことだ。全ての早馬が捕らえられたとでもいうのか。この城をモンゴル軍が囲んでおり、それを知ってなおカンクリ勢が来ぬことは何を意味するのか。

 かえすがえすも、憎らしきはあの情けなき助言を送って来た息子であり、許し難きはそれに乗った己の浅はかさよ。

 これまで夫と息子は、我の兄弟と共に様々な国を滅ぼして来た。その支配者たちは我らの手により殺された。そのうちの幾人かはテルケン自ら命を下し、処刑の上、遺体をアムダリヤ川に投げ捨てさせた。女たちはホラズムとカンクリの男たちのものとなった。

 こたびそれが我らに回って来たということであろうか。

 何ゆえ我が息子は逃げ回っておるのか。あの者が正しいということがあるのか。

 何ゆえ我が兄弟は助けに来ないのか。そうせぬ、あるいはそうできぬ訳あってのことか。モンゴル軍恐ろしと。モンゴル軍にはかなわぬと。そのように想いなしたのか。

 テルケンはこの後も毎日眼下の土塁を見ながら、そのことを考え続けた。これまでそうして来た如くに。そして実際にそうすることにより、カンクリを導いて来たのであった。ホラズムを強大にして来たのであった。『考え、最善の道を求めよ。それが女王カトンたるべき者の務めである』そう母から教わったままに。

 もし夫テキシュがまだ存命であったなら。

 もし長子のマリク・シャーが生きておったなら。

 もし己が男であったなら。

 そこまで考え至ると、テルケンは自らが愚かな幻想にひたらんとしておることに気付き、考えることに、最善の道を求めることに己を無理矢理引き戻した。

 とはいえ彼女はこの堂々巡りを繰り返さざるを得なかった。そして攻囲開始から四ヶ月後、遂に一つの結論に達した。我が息子がろくに考えもせず手を出したその相手が、最悪であったのだと。

 テルケンは降伏開城した。

 全てが雪に閉ざされればモンゴル軍は引き退くかもしれませぬとのイーラールの守備隊長の進言を、虚しい願望に過ぎぬと退けて。



 この後テルケンたちはチンギスの下に連行された。モンゴル軍は、貴賤・老若を問わず、女を処刑することはない。敵国の一方の首魁たるテルケンにも、それは適用された。彼女は西征軍の帰還に際して、モンゴル本土へ連行される。そして彼の地で亡くなったのはヒジュラ暦630年(西暦1232~3)のことであった。

 他方、同行したニザーム・アル・ムルクである。この者は、己は文官ゆえ命までは奪われぬであろうとの淡い期待を抱いておったが、拷問にかけられた後、処刑された。



 実は、ブハーラー戦のときに、この者の兄弟であるイマームのマジド・ウッディーン・マスウードもまたチンギスに処刑されておる。ブハーラーの商人と共に隊商虐殺をなすべくスルターンをそそのかした人物である。しかし、処刑理由はそれではなく、あくまでスルターンの側近とみなされたゆえであった。スルターンがその敬慕の余り授けたサドルという称号があだとなったのであった。

 この称号は、ブハーラーにては本来の宗教的なものに留まることなく、政治的な権力者の響きを持つゆえに。かつてこのサドルを帯びた者こそがこの都城を代々統治したのであった。政治権力に敏感なチンギスの注意を引いてしまったのである。

 この2人はその生前はとても仲が悪かったが、共にホラズム帝国の実質的な支配者たる母子の近しい身となるを得た。それゆえにこそ少なからずの富貴と名誉に恵まれたのであるが、最後にはその身を滅ぼすこととなったのであった。



(イマームがスルターンをそそのかした話は第1部第6章『展開4(謀略4)』にあります)
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