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第1章
転校生は未来からやってきた俺の娘
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ゴールデンウィーク明けでまだカラダが目覚めていない、とか、春眠暁を覚えず、とかではなく、いつものように俺は教室の自分の席に着くと、カバンを机の横にかけて、すぐさま机に突っ伏して、眠りに入った。
いつもと違うことと言えば、ふと目に入った隣の席の神保凛子がポニーテールになっていたな、と薄れ行く意識の中で思ったことと眠りに落ちてから目覚めるまでだいぶ時間が経っていたこと。
起きたときには、すでに一限目の日本史が始まっていた。そして、いつもと違うことがもう一つあった。
「千石くん、起きたの?」
日本史の白山先生が教卓に真っ直ぐ伸ばした両手をつきながら、俺を見て言う。黒板の半分が文字で埋め尽くされていたから、だいぶ寝てしまったようだ。
俺は、すみません、というように頭をぺこりと下げて、カバンから教科書を出す。
何人かの生徒がこちらを見て笑っている。
隣の神保凛子は何も起きていないかのように白山先生の次の言葉を待っている。きっと今、彼女の中では、俺のことなんて意識の端にもとまっていないのだろう。
教科書を開こうとしたとき、後ろからシャーペンの芯を出すカチカチっという音がした。
ん?
俺は一番後ろの席に座っているはずだった。
窓際から二列目の一番後ろの席。誰もいるはずのない背後から音がした。俺は恐るおそる後ろを振り向いた。
そこには女の子がいた。
揃った前髪に長いまつげ、白い肌に少しピンクに色づいた頬が愛らしい女の子だ。笑顔でこちらを見返しくる。
ごめんなさい、と声を出してしまいそうだった。
何事もなかったように前を向き直す。
しかし、ん?誰だ?と思い直す。
隣の神保凛子はいつも通り授業に取り組んでいる。
「誰、この子」と迷惑を承知の上で、俺は神保凛子に訊いた。
神保凛子はやはり神保凛子だった。俺を無視して、ノートにペンを走らせている。それは悪意すら感じさせない完璧な無視だった。
俺はもう一度後ろを振り向いた。
後ろの席の女の子は振り向きざまの俺に囁いた。
「ねえ、パパ」
「パパ!」と俺は大きな声を出してしまった。教室中の視線が再び俺に集まる。白山先生はやれやれ、という表情で、俺が頭をぺこりと下げると、ため息を一つついて再び授業に戻った。
「教科書、見せて」と俺の背中をコツコツと叩きながら後ろの女の子が言う。
俺は何も言わずに教科書を渡した。心の中で、落書きがいっぱいあるよ、と呟きながら。
「ありがとう。パパ」
俺はドキッとしたが、頬杖をついて気にしないフリをして、白山先生の色っぽい口元を見るでもなく見ていた。隣の凛子が怪訝な目でこちらを見ているような気がしたが、白山先生の口元を眺めながらこのまま授業を終えるのが、俺にとってはベストで、唯一残された選択肢のように思えた。
そう、いつもとは違っていた。後ろの席に、自分のことをパパと呼ぶ女の子がいたのだ。
休み時間になると、廊下側の席の日比谷良樹が走ってやってきた。
「なんだよパパって?」と俺の首に腕を回しながら言ってきた。
俺がどう答えていいか考えあぐねていると、日比谷は俺の椅子の背もたれに腰をひっかけて、後ろの転校生に声を掛けた。
「はじめまして、日比谷良樹です。よろしく」
「あ、はじめまして、春日小春です。よろしく」
周りのクラスメイトたちは日比谷と春日のやり取りを興味深そうに見ていた。
「転校生の小春ちゃん、お前の好みの感じじゃないか」と日比谷はこちらを見て言う。
「転校生?」
「お前寝てて知らなかったんだな。転校生だよ」
「ふうん」
このクラスの中で神保凛子だけは転校生に興味がないようで、授業が終わったというのにまだ日本史の教科書を開いたまま、ノートに何かを書いている。
近くの席の他の女子たちは日比谷に続けとばかりに、たちまち転校生を囲んで、質問攻めにしていた。
「どこの学校から来たの?」
「部活は何やってたの?」
だんだん転校生を取り囲む女子の人数は増えて、俺と日比谷は居場所を失い、黒板の前に立って、身体を温め合うミツバチの群れのような女子の集団とそのすぐ脇で別次元の人みたいな神保凛子を眺めていた。
「お前、やっぱりいつも神保のこと見てるよな」
「だから、そんなことないって」
「それは恋っていうやつだよ、たぶん」
「だから違うって」
「見た目はまあまあかわいいけど、あの性格だからな。あれで少しでも笑えば、モテるんだろうけどな」
「そうか?」
ゴールデンウィーク前まではポニーテールではなく、その長く黒い髪を下ろしていた。
授業中に何度も髪を耳にかけながらノートを取る姿が印象的だった。そして時折、思い出したようにその柔らかな黒髪がさらさらと耳元から離れ、下に垂れると、その透けそうに白い細い指で再び耳にかける。
「ポニーテールになったな」
「あ、ほんとだ。今気づいた」と俺はつい嘘をついてしまった。
物理の志村先生はいつも始業ベルの鳴る2分前にやってくる。
「おい、もうすぐ授業始めるからな」
俺と日比谷は追い出されるように教壇から降りて、それぞれの席に戻った。
決して怖い先生ではなく、むしろ優しさに満ち、誰からも好かれている先生だ。
ちなみに俺の所属する科学部の顧問でもある。
少し頭髪が薄くて定年間近で同情を誘いやすいところも好かれている理由の一つかもしれない。
だから、転校生を囲む女子たちも志村先生が来たことに気づくと、パラパラと自分の席に戻っていた。それでもまだ名残り惜しそうに転校生と話していた女子もいたが、またあとでね、と言って手を振りながら去って行った。
俺が席に座ると、また後ろの転校生が背中をノックしてきた。振り返ると、またさっきの笑顔があった。
「お昼休みにでも少し話せないかな?」
「え?」
「いいでしょ?」
「まあいいけど」
「あ、それと教科書貸して」
だから俺は仕方なく頬杖をついて、今度の一時間は、志村先生の薄くなった頭髪を見るともなく見ていた。
無性に今というこの時間が儚いものに思えた。なぜかはわからない。
昼休みになると、お弁当を持って転校生のところに数人の女子がやってきたが、「ごめんね、転校の手続きとかあるから」と言って、俺に目配せをして教室を出た。
俺もそれとなく教室を出た。
「本当にこの書類を先生に渡さなきゃいけないの」と言って、俺も付き添って職員室まで行き、一分もせずに転校生は職員室から出て来た。
「昼ご飯は?」と俺は訊く。
「購買とかあるの?」
「あるよ」
「ついでに少し学校の中、案内して。まずは購買ね」
それから購買で焼きそばパンと牛乳とかを買って、体育館の場所やら音楽室やらを案内して、屋上へ行った。
屋上にはキャッチボールをしている男子生徒やケラケラ笑いながらお弁当を食べている女子生徒がいた。
俺と転校生は日陰になっている貯水槽の脇に腰を下ろした。五月とはいえ、空にはすでに夏の雲が浮かんでいた。
「私、この学校やっぱり通ってたような気がする」
「え?」
「未来でもこの学校に通ってたんだと思う。だって、体育館も運動場もこの屋上もすごく見たことがあるような気がする」
「そういえば、俺のこと、さっきパパって呼んでたけど、なんなの?」
「私、あなたの娘よ」
「面白い冗談だね」
「ほんと」
俺はとりあえず笑ってみた。
転校生はまっすぐに真剣な眼差しで俺を見つめている。
「うそ?」
「ほんと」
俺の笑い方はどこかひきつっていたかもしれない。
「未来から来たの。パパに会うために」
「パパって誰?」
「千石太一」
「でも君の名前は、春日さん、だっけ?」
「春日っていうのは、この時代に来たときに用意されていた名前。本当は千石。千石小春」
「よし、百歩譲って君が俺の娘だったと信じるとして、君はなんで未来からわざわざやってきたの? さっき俺に会うためにって言ってたけど」
「この時代のパパに何かを伝えるため」
「何かを?」
「そう、何かを。忘れちゃったけど」
「忘れた?」
小春は思い出そうと腕を組んで、眉間に皺を寄せている。俺も何かを思い出そうとするときは、こんな仕草をしているような気がする。
「今、思い出せるのはね、千石太一という人が私のパパだということと、パパに何かを伝えなきゃいけない、ということだけ。まあ自分の名前とかそれくらいはわかるけど」
「無茶苦茶だな」
「記憶がすごくぼんやりしてるの。眠りから覚めたあとに見た夢のことをぼんやりとしか思い出せないみたいに」
腕時計を見ると、昼休みも残り十五分しかなかったから、とりあえずパンを食べることにした。眉間に皺を寄せて、まだ思い出そうと苦戦している小春にも食べるように促した。
「じゃあさ、どうやって未来から来たの?」
「覚えてないけど、気づいたらとあるアパートの一室にいて。誰かが制服とかメモ書きとかを置いてくれてて。私がパパに会いにくることを知っていたみたい」
「誰かが?」
「メモには、名前とかもなくて」
ちょうどパンを食べ終えたところで、予鈴が鳴り、ちらほらと周りの生徒たちが教室へ戻って行く。
「俺の娘だっていう証拠みたいなのはあるの?」
「そうそう、そう訊かれたらこれを見せなさい、ってメモと一緒に部屋に置いてあったものがあるの」
小春は制服のポケットから携帯電話を取り出すと、そこに保存されていた画像を俺に見せた。
そこに写っていたのは、生まれたばかりの赤ちゃんを抱えた俺だった。赤ちゃんを見て微笑んでいる俺はいくらか今よりも大人っぽい。
「この赤ちゃんが君で、これが未来の俺?」
「そう」
「え? ほんとに俺の娘なの?」
「そうだよ」
「じゃあ、俺も結婚して子どもを産むってこと?」
「そういうことじゃない?」
「えっ、その娘が未来からやってきた?」
「うん。目の前にいる」
ようやく驚きがやってきた。
信じられない。転校生は俺の娘だったのだ。安っぽいSF小説みたいなことが起きている。
「ま、まあ、とりあえず教室へ戻ろう。あ、それと、俺のことをパパって呼ぶのはダメだから」
「面倒なことになるから?」
ちゃんとわかってるじゃないか。
「俺は君のことを春日さんと呼ぶ。君は俺のことを千石くんと呼ぶ。いい?」
「わかった。パパ」と小春は俺の顔をニヤッとして覗き込んだ。
まったく、やれやれ、だ。
午後の授業はなにも頭に入ってこなかった。
隣の席では、ポニーテールの神保凛子が真面目にノートをとっている。
いつもと何も変わらないようだし、いつもと全く違うようにも思える。
どうやら俺の世界に何か少しズレみたいなものが生じてしまっているようだった。
いつもと違うことと言えば、ふと目に入った隣の席の神保凛子がポニーテールになっていたな、と薄れ行く意識の中で思ったことと眠りに落ちてから目覚めるまでだいぶ時間が経っていたこと。
起きたときには、すでに一限目の日本史が始まっていた。そして、いつもと違うことがもう一つあった。
「千石くん、起きたの?」
日本史の白山先生が教卓に真っ直ぐ伸ばした両手をつきながら、俺を見て言う。黒板の半分が文字で埋め尽くされていたから、だいぶ寝てしまったようだ。
俺は、すみません、というように頭をぺこりと下げて、カバンから教科書を出す。
何人かの生徒がこちらを見て笑っている。
隣の神保凛子は何も起きていないかのように白山先生の次の言葉を待っている。きっと今、彼女の中では、俺のことなんて意識の端にもとまっていないのだろう。
教科書を開こうとしたとき、後ろからシャーペンの芯を出すカチカチっという音がした。
ん?
俺は一番後ろの席に座っているはずだった。
窓際から二列目の一番後ろの席。誰もいるはずのない背後から音がした。俺は恐るおそる後ろを振り向いた。
そこには女の子がいた。
揃った前髪に長いまつげ、白い肌に少しピンクに色づいた頬が愛らしい女の子だ。笑顔でこちらを見返しくる。
ごめんなさい、と声を出してしまいそうだった。
何事もなかったように前を向き直す。
しかし、ん?誰だ?と思い直す。
隣の神保凛子はいつも通り授業に取り組んでいる。
「誰、この子」と迷惑を承知の上で、俺は神保凛子に訊いた。
神保凛子はやはり神保凛子だった。俺を無視して、ノートにペンを走らせている。それは悪意すら感じさせない完璧な無視だった。
俺はもう一度後ろを振り向いた。
後ろの席の女の子は振り向きざまの俺に囁いた。
「ねえ、パパ」
「パパ!」と俺は大きな声を出してしまった。教室中の視線が再び俺に集まる。白山先生はやれやれ、という表情で、俺が頭をぺこりと下げると、ため息を一つついて再び授業に戻った。
「教科書、見せて」と俺の背中をコツコツと叩きながら後ろの女の子が言う。
俺は何も言わずに教科書を渡した。心の中で、落書きがいっぱいあるよ、と呟きながら。
「ありがとう。パパ」
俺はドキッとしたが、頬杖をついて気にしないフリをして、白山先生の色っぽい口元を見るでもなく見ていた。隣の凛子が怪訝な目でこちらを見ているような気がしたが、白山先生の口元を眺めながらこのまま授業を終えるのが、俺にとってはベストで、唯一残された選択肢のように思えた。
そう、いつもとは違っていた。後ろの席に、自分のことをパパと呼ぶ女の子がいたのだ。
休み時間になると、廊下側の席の日比谷良樹が走ってやってきた。
「なんだよパパって?」と俺の首に腕を回しながら言ってきた。
俺がどう答えていいか考えあぐねていると、日比谷は俺の椅子の背もたれに腰をひっかけて、後ろの転校生に声を掛けた。
「はじめまして、日比谷良樹です。よろしく」
「あ、はじめまして、春日小春です。よろしく」
周りのクラスメイトたちは日比谷と春日のやり取りを興味深そうに見ていた。
「転校生の小春ちゃん、お前の好みの感じじゃないか」と日比谷はこちらを見て言う。
「転校生?」
「お前寝てて知らなかったんだな。転校生だよ」
「ふうん」
このクラスの中で神保凛子だけは転校生に興味がないようで、授業が終わったというのにまだ日本史の教科書を開いたまま、ノートに何かを書いている。
近くの席の他の女子たちは日比谷に続けとばかりに、たちまち転校生を囲んで、質問攻めにしていた。
「どこの学校から来たの?」
「部活は何やってたの?」
だんだん転校生を取り囲む女子の人数は増えて、俺と日比谷は居場所を失い、黒板の前に立って、身体を温め合うミツバチの群れのような女子の集団とそのすぐ脇で別次元の人みたいな神保凛子を眺めていた。
「お前、やっぱりいつも神保のこと見てるよな」
「だから、そんなことないって」
「それは恋っていうやつだよ、たぶん」
「だから違うって」
「見た目はまあまあかわいいけど、あの性格だからな。あれで少しでも笑えば、モテるんだろうけどな」
「そうか?」
ゴールデンウィーク前まではポニーテールではなく、その長く黒い髪を下ろしていた。
授業中に何度も髪を耳にかけながらノートを取る姿が印象的だった。そして時折、思い出したようにその柔らかな黒髪がさらさらと耳元から離れ、下に垂れると、その透けそうに白い細い指で再び耳にかける。
「ポニーテールになったな」
「あ、ほんとだ。今気づいた」と俺はつい嘘をついてしまった。
物理の志村先生はいつも始業ベルの鳴る2分前にやってくる。
「おい、もうすぐ授業始めるからな」
俺と日比谷は追い出されるように教壇から降りて、それぞれの席に戻った。
決して怖い先生ではなく、むしろ優しさに満ち、誰からも好かれている先生だ。
ちなみに俺の所属する科学部の顧問でもある。
少し頭髪が薄くて定年間近で同情を誘いやすいところも好かれている理由の一つかもしれない。
だから、転校生を囲む女子たちも志村先生が来たことに気づくと、パラパラと自分の席に戻っていた。それでもまだ名残り惜しそうに転校生と話していた女子もいたが、またあとでね、と言って手を振りながら去って行った。
俺が席に座ると、また後ろの転校生が背中をノックしてきた。振り返ると、またさっきの笑顔があった。
「お昼休みにでも少し話せないかな?」
「え?」
「いいでしょ?」
「まあいいけど」
「あ、それと教科書貸して」
だから俺は仕方なく頬杖をついて、今度の一時間は、志村先生の薄くなった頭髪を見るともなく見ていた。
無性に今というこの時間が儚いものに思えた。なぜかはわからない。
昼休みになると、お弁当を持って転校生のところに数人の女子がやってきたが、「ごめんね、転校の手続きとかあるから」と言って、俺に目配せをして教室を出た。
俺もそれとなく教室を出た。
「本当にこの書類を先生に渡さなきゃいけないの」と言って、俺も付き添って職員室まで行き、一分もせずに転校生は職員室から出て来た。
「昼ご飯は?」と俺は訊く。
「購買とかあるの?」
「あるよ」
「ついでに少し学校の中、案内して。まずは購買ね」
それから購買で焼きそばパンと牛乳とかを買って、体育館の場所やら音楽室やらを案内して、屋上へ行った。
屋上にはキャッチボールをしている男子生徒やケラケラ笑いながらお弁当を食べている女子生徒がいた。
俺と転校生は日陰になっている貯水槽の脇に腰を下ろした。五月とはいえ、空にはすでに夏の雲が浮かんでいた。
「私、この学校やっぱり通ってたような気がする」
「え?」
「未来でもこの学校に通ってたんだと思う。だって、体育館も運動場もこの屋上もすごく見たことがあるような気がする」
「そういえば、俺のこと、さっきパパって呼んでたけど、なんなの?」
「私、あなたの娘よ」
「面白い冗談だね」
「ほんと」
俺はとりあえず笑ってみた。
転校生はまっすぐに真剣な眼差しで俺を見つめている。
「うそ?」
「ほんと」
俺の笑い方はどこかひきつっていたかもしれない。
「未来から来たの。パパに会うために」
「パパって誰?」
「千石太一」
「でも君の名前は、春日さん、だっけ?」
「春日っていうのは、この時代に来たときに用意されていた名前。本当は千石。千石小春」
「よし、百歩譲って君が俺の娘だったと信じるとして、君はなんで未来からわざわざやってきたの? さっき俺に会うためにって言ってたけど」
「この時代のパパに何かを伝えるため」
「何かを?」
「そう、何かを。忘れちゃったけど」
「忘れた?」
小春は思い出そうと腕を組んで、眉間に皺を寄せている。俺も何かを思い出そうとするときは、こんな仕草をしているような気がする。
「今、思い出せるのはね、千石太一という人が私のパパだということと、パパに何かを伝えなきゃいけない、ということだけ。まあ自分の名前とかそれくらいはわかるけど」
「無茶苦茶だな」
「記憶がすごくぼんやりしてるの。眠りから覚めたあとに見た夢のことをぼんやりとしか思い出せないみたいに」
腕時計を見ると、昼休みも残り十五分しかなかったから、とりあえずパンを食べることにした。眉間に皺を寄せて、まだ思い出そうと苦戦している小春にも食べるように促した。
「じゃあさ、どうやって未来から来たの?」
「覚えてないけど、気づいたらとあるアパートの一室にいて。誰かが制服とかメモ書きとかを置いてくれてて。私がパパに会いにくることを知っていたみたい」
「誰かが?」
「メモには、名前とかもなくて」
ちょうどパンを食べ終えたところで、予鈴が鳴り、ちらほらと周りの生徒たちが教室へ戻って行く。
「俺の娘だっていう証拠みたいなのはあるの?」
「そうそう、そう訊かれたらこれを見せなさい、ってメモと一緒に部屋に置いてあったものがあるの」
小春は制服のポケットから携帯電話を取り出すと、そこに保存されていた画像を俺に見せた。
そこに写っていたのは、生まれたばかりの赤ちゃんを抱えた俺だった。赤ちゃんを見て微笑んでいる俺はいくらか今よりも大人っぽい。
「この赤ちゃんが君で、これが未来の俺?」
「そう」
「え? ほんとに俺の娘なの?」
「そうだよ」
「じゃあ、俺も結婚して子どもを産むってこと?」
「そういうことじゃない?」
「えっ、その娘が未来からやってきた?」
「うん。目の前にいる」
ようやく驚きがやってきた。
信じられない。転校生は俺の娘だったのだ。安っぽいSF小説みたいなことが起きている。
「ま、まあ、とりあえず教室へ戻ろう。あ、それと、俺のことをパパって呼ぶのはダメだから」
「面倒なことになるから?」
ちゃんとわかってるじゃないか。
「俺は君のことを春日さんと呼ぶ。君は俺のことを千石くんと呼ぶ。いい?」
「わかった。パパ」と小春は俺の顔をニヤッとして覗き込んだ。
まったく、やれやれ、だ。
午後の授業はなにも頭に入ってこなかった。
隣の席では、ポニーテールの神保凛子が真面目にノートをとっている。
いつもと何も変わらないようだし、いつもと全く違うようにも思える。
どうやら俺の世界に何か少しズレみたいなものが生じてしまっているようだった。
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