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誠意と熱情に魅せられて
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日曜日。
私は午前中早い時間の新幹線に乗り、お昼前に新大阪駅に到着した。
忍の勤務先のホテルは駅から徒歩五分の好立地にあり、新幹線のホームからも立派な高層タワーがよく見える。
荷物を片手に提げた私は、わずかに歩を緩めた。
他の降車客に追い越されながら立ち止まり、ぼんやりとホテルのロゴを見つめる。
私は、今日、忍が出勤しているかどうかも知らない。
でも私はホテルを訪ねることは考えていなかったから、なにも問題はない。
なんせ、この間の気まずいやり取りの後だ。
きっと忍は、突然訪れた私に身構えるだろう。
警戒心を張り巡らし、二人になった時の態度を準備されてしまっては、私は大阪に来た目的を果たせず、トンボ帰りするだけになってしまう。
私は改札口からコンコースに出て、辺りを見渡した。
大阪の玄関口でもあるこの駅は、大きな荷物を持った人たちが行き交っている。
忍の引っ越しのお手伝いで来た時のことを思い浮かべて、私は在来線の改札口を目指した。
切符売り場で路線図を見上げ、忍のマンションの最寄駅への経路を確認する。
夜まで待つ覚悟で訪ねて行けば、忍が今日どんなシフトでも、会うことができるんじゃないかと考えていた。
私も明日は仕事だし、夜遅くまで待たずに済めばいいと願うけれど、目的を果たすことを考えれば、それもやむを得ない。
自分を鼓舞するつもりで、大きく胸を上下させて深呼吸した。
グッと顎を上げて上を向き、私は改札に向かって大きく一歩踏み出した。
去年一度来た時は、駅からの道を忍と並んで歩いた。
一年経った今、周りの風景はうろ覚えだけど、それほどわかりにくい入り組んだ道でもない。
私はちょっと殊勝な気分で辺りを見渡しながら歩き、駅から徒歩五分のはずのマンションに十分かけて到着した。
落ち着いたベージュの外壁が目印の、五階建ての単身者専用マンション。
ここの四階が忍の部屋だ。
間取りは1DKで、一人なら十分な広さだったはず。
外から見上げてみても、私には建物内の位置感覚が曖昧だ。
日曜日のお昼時だからか、ほとんどすべての窓のカーテンが空いているけど、どの窓が忍の部屋かはわからない。
忍は部屋にいるだろうか。
仕事で不在だろうか。
ここに来て緊張感を高めながら、私は総合エントランスに入った。
奥の自動ドアまで両側に郵便受けが並んでいて、その間を突っ切って進む。
スマホに忍の住所を表示して、部屋番号を確認してから、インターホンの呼び出し盤の前に立った。
意識してゆっくり、部屋番号を押す。
呼び出し盤から、部屋に鳴っているのと同じであろう電子音が聞こえた。
呑気な音が二回鳴ってやんだ後、応答はない。
それでも私は、固唾を飲んで反応を待った。
その時……。
『は~い?』
やっと応答があったと思ったら、聞こえてきたのは女性の声だった。
予期せぬ事態にギョッとして、私は大きく一歩後ずさってしまう。
なんで……なんで、忍の部屋から女の人が出るの!?
頭の中が一瞬真っ白になりかけて、私が部屋を間違えたのかと思った。
呼び出し盤に表示されている部屋番号と、スマホに登録してある忍の住所を、慌てて何度も見比べる。
でも、間違っていない。
それならどうして……とその先に思考を進めて、私の心臓はドクンと嫌な音を立てた。
そのまま強く打ち鳴り始め、鼓動のリズムを狂わせていく。
『あの……どちら様ですか?』
インターホンを押したっきり、無言の私に、室内から怪訝そうに訊ねかけられる。
頭でも心でも、限りなく嫌な予感が湧き上がってくるのを感じながら、私はゴクッと喉を鳴らした。
しっかりしろ……!と自分に発破をかけ、意を決して再び足を前に出す。
「あの……神尾さんの部屋ですよね……?」
ドクドクとやけに低い音で早鐘のように打つ胸に手を当て、私は声をひそめて探りかけた。
すると、中からの声がピタリとやむ。
相手が通話を切ったわけじゃないのは、『呼び出し』の赤いランプが点灯したままだからわかる。
相手の女性も、訪問者が女性だと知って息を殺している、そんな気配が伝わってくる。
静かな空気が大きく揺さぶられるのを感じて、私は自分を奮い立たせた。
ギュッと胸元を握りしめながら、一度大きく息を吸い込む。
「私、若槻と言います。神尾忍さんは……」
『……そちらで、待っていてください。今、降ります』
急いたように名乗った私を、静かに低めた声が遮った。
思わず言葉をのむと、呼び出し中のランプが消える。
建物内に続く自動ドアは閉ざされたまま。
私はそこから出てくる人を待って、バッグを持つ手にギュッと力を込めた。
カタカタと震えるのが、自分でもよくわかる。
やがて、自動ドアの向こうで、エレベーターが開くのが見えた。
そこから強張った表情でエントランスに出てきた女性を見て、私の心臓がマグマが湧くようにドクッと音を立てた。
あの人だった。
忍と一緒に研修に来ていた、フロントチームの同僚。
東京のホテルで会ったショートヘアが似合う美人が、部屋着と言っていいラフな服装で、私の前に現れた。
思わずひくりと喉を鳴らした私に、彼女が目を逸らして小さく頭を下げる。
「若槻……愛美さんですよね。東京では、挨拶もせずに失礼しました。私、時任静香と申します」
私の下の名前まで口にして確認しながら、彼女……時任さんは、ゆっくりと顔を上げた。
「はい。……私のことは、ご存じなんですね」
時任さんにつられて、私も顔が強張るのを感じた。
なんとか表情が固まらないように努力したけれど、頬の筋肉がピクピクと引き攣ってしまう。
私の問いかけに、彼女は一度こくんと頷いた。
「しの……神尾君の、遠距離恋愛中の彼女。……そう、聞いてます」
私と目線が合うのを避けるように、彼女は自分の靴の爪先辺りに目を落としている。
私はそんな時任さんに、思い切ってゆっくりと質問を突きつけた。
「あなたは忍の同僚の方ですよね。なんで……彼の部屋に?」
どんな答えが返ってくるか。
聞いた私の心臓は、自分でも怖くなるくらい拍動していた。
予想していた一番最悪の事態に、直面した。
それは自分でもよくわかっていた。
だけど、私以上に時任さんの方が緊張しているから、私は寸でのところで冷静さを保つことができた。
「ごめん……なさい。私……」
私の問いかけに謝罪をして、時任さんは蒼白になった顔を上げた。
涙を浮かべた目を、真っすぐ私に向けてくる。
彼女が、自分を忍のなにと名乗るのか。
どんな言葉が返ってきても、負い目を感じるのはこの人の方。
そんな傲慢な自信に、私は支えられていたのかもしれない。
なのに。
「私……神尾君が東京に彼女を残してきたのを知ってて、好きになってしまって。大阪にいる間だけでいいから、ってお願いして……『二番目の彼女』に、してもらったんです」
「っ、え……?」
時任さんの返事は、普通に聞き流すこともできないほど異質で、私は反射的に聞き返していた。
『彼女』に二番目があるなんて、まったく理解できない。
「二番目、って……」
私は呆然として、彼女の言葉を反芻した。
それを聞き拾った時任さんは、瞳に涙を湛えたまま、勢いよく首を縦に振る。
「神尾君にとっての一番の彼女は、若槻さんです。神尾君はいずれは東京に戻る人だし、その時が来るまでって約束で……」
忍をかばおうとしているのか、その声にはどこかムキになっているような力がこもっていた。
けれど、時任さんが必死に忍を擁護するにつれて、私の胸には止めどない違和感と嫌悪感が広がっていく。
常識と理性を持ったままじゃ、この人の言うことはおぞましすぎて、とても受け止められない。
最後には、彼女の声は耳に届かなくなり、私は寒くもないのに両肘を抱え込んだ。
同時に、私のバッグがドサッと音を立てて足元に落ちる。
それを、時任さんが拾おうとしてくれたのか、私の前で屈み込む。
私は午前中早い時間の新幹線に乗り、お昼前に新大阪駅に到着した。
忍の勤務先のホテルは駅から徒歩五分の好立地にあり、新幹線のホームからも立派な高層タワーがよく見える。
荷物を片手に提げた私は、わずかに歩を緩めた。
他の降車客に追い越されながら立ち止まり、ぼんやりとホテルのロゴを見つめる。
私は、今日、忍が出勤しているかどうかも知らない。
でも私はホテルを訪ねることは考えていなかったから、なにも問題はない。
なんせ、この間の気まずいやり取りの後だ。
きっと忍は、突然訪れた私に身構えるだろう。
警戒心を張り巡らし、二人になった時の態度を準備されてしまっては、私は大阪に来た目的を果たせず、トンボ帰りするだけになってしまう。
私は改札口からコンコースに出て、辺りを見渡した。
大阪の玄関口でもあるこの駅は、大きな荷物を持った人たちが行き交っている。
忍の引っ越しのお手伝いで来た時のことを思い浮かべて、私は在来線の改札口を目指した。
切符売り場で路線図を見上げ、忍のマンションの最寄駅への経路を確認する。
夜まで待つ覚悟で訪ねて行けば、忍が今日どんなシフトでも、会うことができるんじゃないかと考えていた。
私も明日は仕事だし、夜遅くまで待たずに済めばいいと願うけれど、目的を果たすことを考えれば、それもやむを得ない。
自分を鼓舞するつもりで、大きく胸を上下させて深呼吸した。
グッと顎を上げて上を向き、私は改札に向かって大きく一歩踏み出した。
去年一度来た時は、駅からの道を忍と並んで歩いた。
一年経った今、周りの風景はうろ覚えだけど、それほどわかりにくい入り組んだ道でもない。
私はちょっと殊勝な気分で辺りを見渡しながら歩き、駅から徒歩五分のはずのマンションに十分かけて到着した。
落ち着いたベージュの外壁が目印の、五階建ての単身者専用マンション。
ここの四階が忍の部屋だ。
間取りは1DKで、一人なら十分な広さだったはず。
外から見上げてみても、私には建物内の位置感覚が曖昧だ。
日曜日のお昼時だからか、ほとんどすべての窓のカーテンが空いているけど、どの窓が忍の部屋かはわからない。
忍は部屋にいるだろうか。
仕事で不在だろうか。
ここに来て緊張感を高めながら、私は総合エントランスに入った。
奥の自動ドアまで両側に郵便受けが並んでいて、その間を突っ切って進む。
スマホに忍の住所を表示して、部屋番号を確認してから、インターホンの呼び出し盤の前に立った。
意識してゆっくり、部屋番号を押す。
呼び出し盤から、部屋に鳴っているのと同じであろう電子音が聞こえた。
呑気な音が二回鳴ってやんだ後、応答はない。
それでも私は、固唾を飲んで反応を待った。
その時……。
『は~い?』
やっと応答があったと思ったら、聞こえてきたのは女性の声だった。
予期せぬ事態にギョッとして、私は大きく一歩後ずさってしまう。
なんで……なんで、忍の部屋から女の人が出るの!?
頭の中が一瞬真っ白になりかけて、私が部屋を間違えたのかと思った。
呼び出し盤に表示されている部屋番号と、スマホに登録してある忍の住所を、慌てて何度も見比べる。
でも、間違っていない。
それならどうして……とその先に思考を進めて、私の心臓はドクンと嫌な音を立てた。
そのまま強く打ち鳴り始め、鼓動のリズムを狂わせていく。
『あの……どちら様ですか?』
インターホンを押したっきり、無言の私に、室内から怪訝そうに訊ねかけられる。
頭でも心でも、限りなく嫌な予感が湧き上がってくるのを感じながら、私はゴクッと喉を鳴らした。
しっかりしろ……!と自分に発破をかけ、意を決して再び足を前に出す。
「あの……神尾さんの部屋ですよね……?」
ドクドクとやけに低い音で早鐘のように打つ胸に手を当て、私は声をひそめて探りかけた。
すると、中からの声がピタリとやむ。
相手が通話を切ったわけじゃないのは、『呼び出し』の赤いランプが点灯したままだからわかる。
相手の女性も、訪問者が女性だと知って息を殺している、そんな気配が伝わってくる。
静かな空気が大きく揺さぶられるのを感じて、私は自分を奮い立たせた。
ギュッと胸元を握りしめながら、一度大きく息を吸い込む。
「私、若槻と言います。神尾忍さんは……」
『……そちらで、待っていてください。今、降ります』
急いたように名乗った私を、静かに低めた声が遮った。
思わず言葉をのむと、呼び出し中のランプが消える。
建物内に続く自動ドアは閉ざされたまま。
私はそこから出てくる人を待って、バッグを持つ手にギュッと力を込めた。
カタカタと震えるのが、自分でもよくわかる。
やがて、自動ドアの向こうで、エレベーターが開くのが見えた。
そこから強張った表情でエントランスに出てきた女性を見て、私の心臓がマグマが湧くようにドクッと音を立てた。
あの人だった。
忍と一緒に研修に来ていた、フロントチームの同僚。
東京のホテルで会ったショートヘアが似合う美人が、部屋着と言っていいラフな服装で、私の前に現れた。
思わずひくりと喉を鳴らした私に、彼女が目を逸らして小さく頭を下げる。
「若槻……愛美さんですよね。東京では、挨拶もせずに失礼しました。私、時任静香と申します」
私の下の名前まで口にして確認しながら、彼女……時任さんは、ゆっくりと顔を上げた。
「はい。……私のことは、ご存じなんですね」
時任さんにつられて、私も顔が強張るのを感じた。
なんとか表情が固まらないように努力したけれど、頬の筋肉がピクピクと引き攣ってしまう。
私の問いかけに、彼女は一度こくんと頷いた。
「しの……神尾君の、遠距離恋愛中の彼女。……そう、聞いてます」
私と目線が合うのを避けるように、彼女は自分の靴の爪先辺りに目を落としている。
私はそんな時任さんに、思い切ってゆっくりと質問を突きつけた。
「あなたは忍の同僚の方ですよね。なんで……彼の部屋に?」
どんな答えが返ってくるか。
聞いた私の心臓は、自分でも怖くなるくらい拍動していた。
予想していた一番最悪の事態に、直面した。
それは自分でもよくわかっていた。
だけど、私以上に時任さんの方が緊張しているから、私は寸でのところで冷静さを保つことができた。
「ごめん……なさい。私……」
私の問いかけに謝罪をして、時任さんは蒼白になった顔を上げた。
涙を浮かべた目を、真っすぐ私に向けてくる。
彼女が、自分を忍のなにと名乗るのか。
どんな言葉が返ってきても、負い目を感じるのはこの人の方。
そんな傲慢な自信に、私は支えられていたのかもしれない。
なのに。
「私……神尾君が東京に彼女を残してきたのを知ってて、好きになってしまって。大阪にいる間だけでいいから、ってお願いして……『二番目の彼女』に、してもらったんです」
「っ、え……?」
時任さんの返事は、普通に聞き流すこともできないほど異質で、私は反射的に聞き返していた。
『彼女』に二番目があるなんて、まったく理解できない。
「二番目、って……」
私は呆然として、彼女の言葉を反芻した。
それを聞き拾った時任さんは、瞳に涙を湛えたまま、勢いよく首を縦に振る。
「神尾君にとっての一番の彼女は、若槻さんです。神尾君はいずれは東京に戻る人だし、その時が来るまでって約束で……」
忍をかばおうとしているのか、その声にはどこかムキになっているような力がこもっていた。
けれど、時任さんが必死に忍を擁護するにつれて、私の胸には止めどない違和感と嫌悪感が広がっていく。
常識と理性を持ったままじゃ、この人の言うことはおぞましすぎて、とても受け止められない。
最後には、彼女の声は耳に届かなくなり、私は寒くもないのに両肘を抱え込んだ。
同時に、私のバッグがドサッと音を立てて足元に落ちる。
それを、時任さんが拾おうとしてくれたのか、私の前で屈み込む。
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