実家を追放された地味令嬢、呪われた『氷の騎士』様の元へ身代わり婚。枯れた庭を癒やしていたら、旦那様の呪いも解いてしまい溺愛ルート突入です!

黒崎隼人

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第05話「来訪する魔術師と黒き枯死の影」

 不穏な赤い空が見えた夜から数日が過ぎても、アスター侯爵領の空気はどこか張り詰めていた。
 リゼットは毎朝、祈るような気持ちでカーテンを開ける。庭の草花たちが無事であることを確認して安堵の息を吐くのが、日課のようになっていた。

「……おはよう。今日も元気ね」

 リゼットは花壇のパンジーに水をやりながら、優しく声をかけた。
 アスター邸の敷地内は、リゼットの力によって清浄な空気に満たされている。しかし、塀の向こう側からは、風に乗って微かに腐敗臭や、乾いた土の匂いが漂ってくることがあった。
 植物たちのざわめきも止まらない。遠くの森や畑から、『苦しい』『乾いた』という悲鳴が、風の音に混じって届くのだ。

(黒枯病……)

 リゼットは胸元で手を握り締めた。
 ギルバートはあれ以来、頻繁に領内の視察に出かけ、夜遅くまで書斎に籠もることが増えた。彼の顔色は優れない。呪いの傷が痛むのか、時折眉間を寄せてこめかみを押さえている姿を見かけると、リゼットの胸は締め付けられるように痛んだ。

 そんなある日の午後、一台の馬車が屋敷の門をくぐった。
 アスター家の紋章ではなく、王家の紋章が入った豪華な馬車だ。車輪が軋む音と共に玄関前に止まると、中から一人の男が降り立った。

「ほう……これは驚いた」

 男は地面に足を下ろすなり、大仰に目を見開いて周囲を見回した。
 長い紫紺のローブを纏い、片眼鏡をかけた知的な風貌の男性だ。年齢は三十代半ばほどだろうか。色素の薄い灰色の髪を後ろで束ね、手には大きな杖を持っている。

 庭で作業をしていたリゼットは、突然の来客に慌てて道具を置いた。

「い、いらっしゃいませ。アスター侯爵様へのご用でしょうか?」

 リゼットが恐る恐る声をかけると、男は片眼鏡の奥の瞳を細め、興味深そうにリゼットを、いや、リゼットの背後に広がる庭を凝視した。

「君がここの庭師かね? ……いや、ただの庭師にしては、纏っている気配が妙だな」

「え、あの……」

「この土地の『気』が、ここだけ異常に活性化している。外の世界は死にかけているというのに、ここはまるで、精霊の加護を受けた聖域のようだ」

 彼は杖の先で地面を軽く小突いた。すると、そこから小さな光の粒が舞い上がったように見えた。

「やはりか。……興味深い」

「オーギュスト、勝手に入り込むなと言ったはずだ」

 玄関から、低い声が響いた。
 ギルバートが不機嫌そうな顔で立っている。来客の気配に気づいて出てきたのだろう。

「やあ、ギルバート! 相変わらず愛想のない顔だね。友人の来訪をもっと喜んでくれたまえよ」

「友人ではない。悪友だ」

 ギルバートはため息をつき、リゼットに視線を向けた。

「リゼット、紹介しよう。こいつはオーギュスト。王宮に巣食う変人……もとい、宮廷魔術師団長だ」

「宮廷魔術師……!?」

 リゼットは驚いて目を丸くした。国一番の魔術師が、なぜこんな辺境の地に。

「紹介に刺があるなぁ。まあいい。私はオーギュスト・ヴァレンタイン。今回の黒枯病の調査でこの地に来たのだが……まさか、こんな面白いものが見られるとはね」

 オーギュストは意味深な笑みを浮かべ、再びリゼットを見た。その視線は、珍しい実験動物を見る学者のようで、リゼットは背筋が寒くなるのを感じた。

「立ち話もなんだから、中へ入れ」

 ギルバートはリゼットを背に庇うようにして立ち、オーギュストを屋敷の中へと促した。その背中は、明確にリゼットをオーギュストの視線から遮断していた。

 応接間に通されたオーギュストは、出された紅茶の香りを優雅に楽しんだ後、真剣な表情で切り出した。

「さて、ギルバート。君の報告書は読んだよ。この領地周辺でも黒枯病の被害が拡大しているそうだな」

「ああ。村の作物は全滅に近い。備蓄も底をつきかけている。王都からの支援がなければ、冬を越せるかどうか……。それに、現場に残された痕跡。あれは隣国で禁止されている術式に似ていた。……やはり、亡命したあの男、『ド・ブロイ』が関与しているのか?」

「確証はないが、状況証拠は揃いつつある。奴がこの国への復讐を企んでいるとすれば、この黒枯病も……」

 オーギュストは深刻そうに顎に手を当てた。
 ギルバートの声は重い。領主としての責任感が、彼を押し潰そうとしているのがわかる。

「王都も似たようなものさ。原因が特定できず、どの魔術師の浄化魔法も効かない。……だが」

 オーギュストはカップを置き、鋭い視線を窓の外に向けた。そこには、リゼットが手入れをした中庭が見える。

「君の屋敷だけは例外だ。ここには黒枯病の影が一切ない。それどころか、死にかけていたはずの君の母親の薔薇までもが、狂い咲いている」

 ギルバートの眉がピクリと動いた。

「……偶然だ。庭の手入れが行き届いているだけだろう」

「とぼけるなよ、ギルバート。私は魔術の専門家だ。あそこには、通常の魔術とは異なる、もっと根源的な力が働いている」

 オーギュストの視線が、部屋の隅に控えていたリゼットに向けられた。

「彼女だね? この奇跡を起こしているのは」

 リゼットは心臓が止まるかと思った。
 バレてしまった。隠していた力が、秘密が、白日の下に晒される。
 リゼットは青ざめ、震える手でエプロンの裾を握りしめた。

「……彼女は関係ない」

 ギルバートが強い口調で遮った。

「彼女はただの客だ。ベルヴァーン家から来た令嬢で、庭いじりが好きなだけだ」

「ほう、ベルヴァーン家の。……『無能』と噂されていた次女か。なるほど、灯台下暗しとはこのことか」

 オーギュストは納得したように頷き、立ち上がってリゼットの前に歩み寄った。
 ギルバートが制止しようと腰を浮かせたが、オーギュストはそれを手で制し、リゼットの目の高さに合わせて屈み込んだ。

「お嬢さん、怖がらないでくれ。私は君を糾弾しに来たわけではない」

 彼の瞳は、先ほどまでの冷徹な観察者のものではなく、純粋な探究心と、わずかな敬意に満ちていた。

「君、植物の声が聞こえるだろう?」

「……え?」

「触れると温かくなり、枯れたものが蘇る。幼い頃からそうだったのではないかな?」

 リゼットは動揺し、瞳を揺らした。誰にも言えなかったこと。母にさえ否定された感覚を、この人は知っているのだろうか。

「……は、はい。……植物たちが、泣いているのがわかるんです。だから、元気になってほしくて……」

 消え入りそうな声で答えると、オーギュストは満足げに微笑んだ。

「やはりそうだ。君の力は魔術ではない。もっと古く、希少な……古代精霊魔法の系譜だ」

「精霊……魔法?」

「『生命賦与(ライフ・ギフト)』。自らの生命力を分け与え、対象の活性化を促す力。文献でしか見たことがなかったが、まさか実在するとは」

 オーギュストの表情が、ふっと真剣なものに変わる。

「だが、お嬢さん。この力は『諸刃の剣』だ。貴女自身の魂を削って分け与えているに等しい。枯れた花を一輪咲かせる程度なら問題ないが……もし大規模に使えば、貴女の命そのものが燃え尽きてしまう危険がある。決して無理をしてはいけないよ」

「……はい、肝に銘じます」

 リゼットがおずおずと頷くと、オーギュストは立ち上がり、ギルバートに向き直った。

「ギルバート、君も気づいていただろう? 彼女の力が、この国を救う唯一の鍵になるかもしれないということに」

 ギルバートは苦渋の表情で黙り込んだ。彼は知っていたのだ。リゼットの力が普通ではないことを。そして、それを公にすることが何を意味するかも。

「彼女を王都へ連れて行く。国王陛下に謁見させるべきだ」

 オーギュストの提案に、リゼットは息を呑んだ。
 王都へ。あの華やかで、冷たい場所へ。また、見世物にされるのだろうか。それとも、異端として裁かれるのだろうか。

「断る」

 冷ややかな、しかし激情をはらんだ声が響いた。
 ギルバートが立ち上がり、オーギュストを睨みつけていた。

「彼女は俺の客人だ。お前の実験道具でもなければ、国のための道具でもない」

「道具扱いなどするつもりはない。だが、このままでは国が滅ぶぞ? 多くの民が飢え、死んでいく。それを救える可能性があるのに、見過ごせと言うのか」

 オーギュストの正論に、ギルバートは言葉を詰まらせた。
 領主として、騎士団長として、民を見捨てることはできない。しかし、目の前の震える少女を犠牲にすることも、彼にはできなかった。

「……リゼット」

 ギルバートが苦しげに名を呼ぶ。
 リゼットは顔を上げた。二人の男性の間で、彼女の心は揺れ動いていた。
 怖い。けれど、このまま黒枯病が広がれば、大好きな植物たちも、そしてこの屋敷も、やがては飲み込まれてしまう。

「私……」

 言葉を発しようとしたその時、窓ガラスがガタガタと激しく震えた。
 ただの風ではない。地面の底から響くような地鳴りと共に、空が一気に暗転する。

「なんだ!?」

 ギルバートが窓へ駆け寄る。
 彼の視線の先、領地の境界付近の森から、黒い霧のようなものが噴き出し、津波のように押し寄せてくるのが見えた。

「瘴気だ! 黒枯病が、活性化している……!」

 オーギュストが叫ぶ。
 安息の日々は、唐突に終わりを告げようとしていた。

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