商人の男と貴族の女~婚約破棄から始まる成り上がり~

葉月奈津・男

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【ディアナ編】

第1話 公爵夫人とその娘 ①

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 私の名はディアナ。
 現国王の姉であり、今では公爵家夫人だ。

 夫は、かつて王女だった私の近侍を務めた騎士である。
 物心ついたころから側にいた。
 年齢は一回り以上も上。
 幼い私が暗殺されかけたとき、身を挺して守ってくれた。

 そして、ショックで口もきけなくなった私を。
 部屋に引きこもり、表情を失くした私を。
 救ったことで、爵位を得た。

 私は救われた?
 そうではない。

 調教されただけだ。
 この男の合図に合わせてセリフを口にし、行動するように。

 気が付けば、彼は私の身分に相応しくなるような肩書を有していた。
 そして、今や公爵だ。

「今日はごちそうだぞ」
 夫がそう言って、皿を床に置いた。

「ありがとうございます」
 私は、きらびやかなドレスの裾をつまみ、優雅にカーテシーをする。
 公爵夫人として、恥じぬ所作。
 幼い頃から叩き込まれた礼儀作法は、今もなお身体に染みついている。

 ただ、事情を知らぬ者が見れば、奇妙に映るかもしれない。
 夫に対して、ここまで丁寧に礼を尽くす妻など、そうはいないのだから。

「施しに感謝を」
 王族の娘としての威厳を込めて、声を発する。
 そして私は、静かに膝を折り、皿へと顔を近づけた。

 その瞬間、背後から重みがのしかかる。
 頭が押さえつけられ、皿に顔が沈む。
 冷たい感触と、鼻腔を突く匂い。
 頬に何かがべったりと張りついた。

「行儀が悪い」
 夫の声が、頭上から降ってくる。
「お前は、食事の作法だけは直らないな」

 そう。
 亡き母が教えてくれた、たった一つの“正しい食べ方”。
 それだけは、どうしても手放せなかった。
 私が、私である最後の砦。

「申し訳ありません」
 私は顔を上げ、丁寧に謝罪する。
 そして、再び食事を始めた。

 手を使わずに食べるのが、夫が決めた“テーブルマナー”だ。
 口を開け、大きく噛み、音を立てて咀嚼する。
 皿の中身が減るよりも、床にこぼれる方が多い。
 それでも、私は食べ続ける。
 音を立て、空気を吸い込み、舌を這わせて。

「ごちそう様でした」
 食べ終えた私は、立ち上がり、深く頭を下げた。
 ドレスの裾を整え、微笑む。

「うまかったか」
「はい。美味でございました」

 夫は満足げに頷く。
 その笑顔に、背筋が凍る。

「今日の肉は、セレリィが飼っていた鳥のものだ。羽をむしったら、死んだそうでな」

「そうでございましたか」
 口元だけが笑い、声には何の感情も宿らない。

「おや、吐かないのか? もう一皿用意させたというのに」
 夫が手を振ると、扉の向こうから“犬”が皿を運んできた。

「残ってしまったな。これは、セレリィにも手伝ってもらわねば」

「わ、私が食べますわ!」
 思わず声が上ずる。

「お腹がいっぱいではないのかね?」

「腹ごなしに、“犬”とベッドもある運動場で運動してまいります」
 そう言って、にこやかに頭を下げる。

 夫は満足そうに頷いた。
「お前は“犬”と戯れるのが好きだからな」

「はい。運動は大切ですから」

 ジフンのことは、もう仕方がない。
 でも――娘には、影響させたくない。
 あの子だけは、守らなければならない。
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