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呪禁
暁僧正 弐
今生の別れを口にする真済は、妻戸から覗く2つの眼から視線を逸らすことが出来ず。
神仏のご加護を得た女院に取り憑けず、命婦に憑いたのか?
考えたとて答えなど出ぬ上に、時もない。
揺るぎなきことは、これから恐ろしさに身を縮めることになる女院を知りつつ、立ち去らねばならぬということ。
「離したくない……本心でした。己が招いた物の怪を置いて去るのは辛い。いや、これは綺麗事やも知れぬ」
「ウチ、わかるで。その気持ち」
「わかるんかい! 」
真顔の咲耶にすかさず突っ込むが、否定も肯定も求めていない西田は「で? 」短く急かす。
一目、姿を焼き付けようと女院を見、立ち上がれば妻戸はピタリ、閉じられていた。それでも見間違いを疑うことはない。
衣を整え 妻戸へ寄れば、待ってましたとばかりに、軋む音を鳴らしながら戸が開く。陽が落ちる時分、誰の声も聞こえず、法師蝉の声もなく。ただ下ろされた御簾を突き抜け、茜色の光が局を染め上げていた。
「美しい、私はこの光景を生涯忘れないでしょう」
誰に向けるでもなく独りごちれば、何食わぬ顔で灯りを塗籠へ差し入れる命婦を一瞥し、渡殿へ足を向ける。
御簾の中には女房らがいるはずだが、気配は感じず又、誰1人声を掛ける者はない。
―― 関わることを避けられる人間になってしまったか。まぁ、それはそうだろう。
気が楽といえば楽だ。最後に関わる者は、女院の壺から、ずっと追って来る衣擦れの主だろう。
―― 声はかけぬ。
鈍色の袍に隠れた拳をグッと固くし、胸を反らせ歩く。
「恥ずべきことなど何もない。ここで背を丸め、コソコソ逃げ去れば真済ではなく、紀僧正が――、真言の――、東寺長者が――、すべて私の不名誉だけに終わらず、突き詰めれば師の名を汚すことになると、そればかり考えておりました」
渡殿を折れ、又、折れる。幾度も繰り返した後、とうとう声が掛かった。
「紀僧正」
「……」
真済は足を止めた。
背越しに聞こえたのは、数人が一斉に話したような音。その中でも、ハッキリ聞き取れたのは 命婦のおっとりとした柔和な声と、それとは真逆な厳かな音。忘れたくても忘れられない、藪椿の物の怪の声だ。
「私の局でお話しませぬか? 」
「ふふふ、ご冗談を。艶めいた噂話の的になるほど、若くはございません」
「お話ししたきことがございます」
「それでも。早朝には都を出る予定でおりますので」
「大切なお話……」
「それは誰の? 命婦殿か? それとも……? 」
「……」
「……」
「……」
「……何もなければこれにて。息災で」
『待て』
背後の声がひとつに絞られたことで真済は、振り返った。喪に服す灰色の衣は、夕焼けに染まり頭から裾まで、まるで血を浴びたよう。
顔は間違いなく命婦であるが、声はあの男に違いない。
『そなたは何故、変わらぬのだ? 』
何が変わらぬと言うのか? 怪訝に思うが命婦は、湿った目を向けるのみ。
「この状況、変わり果てたと思うておりますが……如何に? 」
問いに対して女の唇が動くことはなかった。
「これにておさらば」
命婦へ告げた言葉を、弟子らにも繰り返す。
見送り不要と言いつけ、夜のうちに別れを惜しむが、言い残す事も特になく。
泣き咽ぶ弟子を遠ざけ、早々に荷造りをした。
袖を通すのは、師から贈られた素絹、手にするのは遠い昔、空海が手ずから持たせた数珠。
雨乞いの名声から、内裏に足を踏み入れた日が、鮮やかに浮かぶ。
「思えばあれが、そなたを呼び込んだのだな? 」
真済の傍ら、燭台の炎が ゾゾゾゾ……
細かい雑音を混ざらせ、ゆらり、ゆらり、高く伸びれば、中に鈍色の僧が現れた。
穏やかな笑みも、嘲笑も消え失せた物の怪の色は、何処か陰りがある。
「どうした? 私が去るのが面白くないのか? てっきり、高笑いを響かせると思うたが……ハッ、ハハ」
腹に手をやり、物の怪を真似たが 炎に燻る影は、表情を変えぬ。
「はて? どうした? 」
『面白うない』
「それは失礼致した」
『そなたはどん底に堕ちたのではないか? 』
「ふむ、堕ちた」
『何故、そのように笑うておられる? 』
「頭を抱える様を見たかったのか? やたらと関わって来ると思ったが、やはり皇統に害をなすというのは、本音ではなかったのだな。狙いは紀氏か……」
『紀氏……? 何故、そう思う? 』
「そなたが弓削道鏡ならばと」
強弱を繰り返す火柱が ハタと止まれば、中に棲む僧までピタリ、動きが止まる。
ゆるり視線を向けた物の怪の顔に、人間味を感じ取り、自然と喉が鳴った。
「やはり……当たりか」
神仏のご加護を得た女院に取り憑けず、命婦に憑いたのか?
考えたとて答えなど出ぬ上に、時もない。
揺るぎなきことは、これから恐ろしさに身を縮めることになる女院を知りつつ、立ち去らねばならぬということ。
「離したくない……本心でした。己が招いた物の怪を置いて去るのは辛い。いや、これは綺麗事やも知れぬ」
「ウチ、わかるで。その気持ち」
「わかるんかい! 」
真顔の咲耶にすかさず突っ込むが、否定も肯定も求めていない西田は「で? 」短く急かす。
一目、姿を焼き付けようと女院を見、立ち上がれば妻戸はピタリ、閉じられていた。それでも見間違いを疑うことはない。
衣を整え 妻戸へ寄れば、待ってましたとばかりに、軋む音を鳴らしながら戸が開く。陽が落ちる時分、誰の声も聞こえず、法師蝉の声もなく。ただ下ろされた御簾を突き抜け、茜色の光が局を染め上げていた。
「美しい、私はこの光景を生涯忘れないでしょう」
誰に向けるでもなく独りごちれば、何食わぬ顔で灯りを塗籠へ差し入れる命婦を一瞥し、渡殿へ足を向ける。
御簾の中には女房らがいるはずだが、気配は感じず又、誰1人声を掛ける者はない。
―― 関わることを避けられる人間になってしまったか。まぁ、それはそうだろう。
気が楽といえば楽だ。最後に関わる者は、女院の壺から、ずっと追って来る衣擦れの主だろう。
―― 声はかけぬ。
鈍色の袍に隠れた拳をグッと固くし、胸を反らせ歩く。
「恥ずべきことなど何もない。ここで背を丸め、コソコソ逃げ去れば真済ではなく、紀僧正が――、真言の――、東寺長者が――、すべて私の不名誉だけに終わらず、突き詰めれば師の名を汚すことになると、そればかり考えておりました」
渡殿を折れ、又、折れる。幾度も繰り返した後、とうとう声が掛かった。
「紀僧正」
「……」
真済は足を止めた。
背越しに聞こえたのは、数人が一斉に話したような音。その中でも、ハッキリ聞き取れたのは 命婦のおっとりとした柔和な声と、それとは真逆な厳かな音。忘れたくても忘れられない、藪椿の物の怪の声だ。
「私の局でお話しませぬか? 」
「ふふふ、ご冗談を。艶めいた噂話の的になるほど、若くはございません」
「お話ししたきことがございます」
「それでも。早朝には都を出る予定でおりますので」
「大切なお話……」
「それは誰の? 命婦殿か? それとも……? 」
「……」
「……」
「……」
「……何もなければこれにて。息災で」
『待て』
背後の声がひとつに絞られたことで真済は、振り返った。喪に服す灰色の衣は、夕焼けに染まり頭から裾まで、まるで血を浴びたよう。
顔は間違いなく命婦であるが、声はあの男に違いない。
『そなたは何故、変わらぬのだ? 』
何が変わらぬと言うのか? 怪訝に思うが命婦は、湿った目を向けるのみ。
「この状況、変わり果てたと思うておりますが……如何に? 」
問いに対して女の唇が動くことはなかった。
「これにておさらば」
命婦へ告げた言葉を、弟子らにも繰り返す。
見送り不要と言いつけ、夜のうちに別れを惜しむが、言い残す事も特になく。
泣き咽ぶ弟子を遠ざけ、早々に荷造りをした。
袖を通すのは、師から贈られた素絹、手にするのは遠い昔、空海が手ずから持たせた数珠。
雨乞いの名声から、内裏に足を踏み入れた日が、鮮やかに浮かぶ。
「思えばあれが、そなたを呼び込んだのだな? 」
真済の傍ら、燭台の炎が ゾゾゾゾ……
細かい雑音を混ざらせ、ゆらり、ゆらり、高く伸びれば、中に鈍色の僧が現れた。
穏やかな笑みも、嘲笑も消え失せた物の怪の色は、何処か陰りがある。
「どうした? 私が去るのが面白くないのか? てっきり、高笑いを響かせると思うたが……ハッ、ハハ」
腹に手をやり、物の怪を真似たが 炎に燻る影は、表情を変えぬ。
「はて? どうした? 」
『面白うない』
「それは失礼致した」
『そなたはどん底に堕ちたのではないか? 』
「ふむ、堕ちた」
『何故、そのように笑うておられる? 』
「頭を抱える様を見たかったのか? やたらと関わって来ると思ったが、やはり皇統に害をなすというのは、本音ではなかったのだな。狙いは紀氏か……」
『紀氏……? 何故、そう思う? 』
「そなたが弓削道鏡ならばと」
強弱を繰り返す火柱が ハタと止まれば、中に棲む僧までピタリ、動きが止まる。
ゆるり視線を向けた物の怪の顔に、人間味を感じ取り、自然と喉が鳴った。
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