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ケートスの心臓
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ミラが漂着した先には、緑が広がっていた。背後では、潮の砕ける音が遠くなり、代わりに、森が囁きを返した。手には、船長室からくすねた銃が握られている。
(ここまで来たからには、引き返せない。決められた場所から同じ音を聞き続けるのは、もうウンザリ)
ミラは森の入り口へ足を踏み入れた。獣道を進みながら、手近な樹皮に触れる。表面のひび割れは、どこをなぞっても途切れることがない。
海のほうから、低い音が聞こえた。
大気を震わすほどの響きが、自然のものではないと直感した。逃げるように、足がはやくなる。丈の低い草は踏めば折れ、緑の香りが立つ。腰の高さほどの葉が群れをつくり、薄緑の葉片が、ミラの走りに合わせて順に揺れる。
やがて、背の高い木々が密になった。頭上の隙間はほとんどなくなり、空の青さは葉のあいだからこぼれる点描《てんびょう》に変わっていた。遠くの枝で、鳥が笛のような鳴きを繰り返す。
さらに奥へと進む。斜めに伸びる蔓に沿って、細長いからだが二重三重に巻きついている。ミラの腕と同じくらいの太さ。先端が持ち上がり、ミラのほうを向く。口の割れ目がわずかに開くと、隙間から二つに裂けた舌が出た。ちろり、と空気を舐め、すぐに引っ込む。
ミラは反射的に銃を持つ手を持ち上げた。震えながらも、銃口は細長い頭のあたりを狙う。
「お願いだから、こっちに来ないで!」
絞り出した声は、自分が思っていたよりも高く、頼りなく響いた。引き金に力を込めようとしても、指がいうことを聞かない。恐怖に足がすくみ、からだは固まったまま。
「それ以上近づいたら──」
海のほうから大きな音が響いた。低い地鳴り。
細長いからだは、するするとほどけていく。縞模様は、蔓から離れ、音のしたほうとは逆へ向かって消えた。
手の力が抜ける。胸の鼓動はまだ速い。落ち着かせるように目をつむり、深呼吸をする。
耳を澄ますと、水の音がした。まとまった水が動いているような音。ミラはその音を目指して歩きを再開した。
土が柔らかくなる。濁った水たまりから、泥にまみれた長い口が、這い出してきた。外皮には岩石のような鱗が連なり、からだの脇から伸びた短い脚が、沼をつかんでは離す。
ミラは一歩も動けなかった。細長いからだよりも、ずっと大きく、強い敵意を感じる。咄嗟に銃を構える。引き金に指をかける──
ふたたび轟音が届いた。海からは徐々に離れているはずなのに、さっきよりも低く、はっきりとした地響き。
足の裏に、振動が伝わる。水たまりにも、鈍い波紋が走る。岩石の鱗はからだを反転させ、迷いもなく沼地の奥へと重い胴を引きずっていく。
頭上では、鳥が一斉に羽ばたいた。甲高い鳴き声が、空へ散っていく。ミラは、森のざわめきと、海からの響きに挟まれ、ただその場に立ち尽くした。
***
船は揺れず、静かに漂う。室内には、席が並んでいた。卓上には、地図が広がり、縦横に走る線が、刻一刻と描き換えられていく。
「ソナー照射、完了しました。反射信号の解析を開始します」
研究主任は報告を聞きながら、中央の席で卓を見つめていた。
「深部観測の粒子束、通過を確認。地殻の透過データまで取得が完了しています」
「事前の観測どおり、海と陸の分布に大きな変動があるわね」
年輪のような表示は、海域が盛り上がっては消え、陸と入れ替わる。
「周期的な海陸分布の崩壊と再構成を確認。岩石惑星という分類は変わりませんが、地表はかなり乱暴に書き換えられています」
「計算とも一致する。今回は、その実態を見に来た」
船長はそう言うと、表示を切り替えた。地表に散らばる光点が無数に現れた。大小ある個体がそれぞれ群れをなし、濃淡をつくる。
「生体反応の分布。個体ごとの推定寿命も一緒に出して」
棒が林立する。長さはまちまちだが、全体を眺めると高さの異なる二つの山が浮かび上がった。
「寿命分布、出ました。短命と長命に偏りが大きいです。平均的な寿命の種がほとんどいない」
「歪んでいる、という表現が近いわね」
「続けて繁殖様式の推定を表示します。ほとんどの種は、つがいと見られる組の単位で分布していますが……」
今度は、点の周囲に小さな輪が描かれた。輪の中には、二つずつの点がほぼ漏れなく入っている。ところどころ、輪と輪が重なって濃くなっている箇所もある。
「つがいを持たない個体が、二種存在します」
報告とともに、輪を持たない二点が拡大された。
「位置は、海域。深いところに、大きな反応。もう一体は……」
空中で待機している惑星調査船から、ほど近い森の入り口に浮かぶ小さな点。
「構造から推測するに、私たちの標準形に近い種の個体と推定されます」
標準形という言葉に、全員が顔を見合わせた。研究主任も息を詰める。小さな肩と頭部。全体の長さは、成体のそれよりも短い。
「在来の系統に、こういう形はあったかしら」
自らに問うように呟く。観測記録を頭の中で探る。這うように移動する大型の生物、群れを成す小型のもの。どれも、画面に映るシルエットとは異なっていた。
「つがいは検出されていません。単独の個体と推測します」
「当然よ。もともと、そこにいるはずのない種なんだから」
画面の隅で、数字が流れる。研究主任には見覚えがあった。
「ミラね。呆れた子。きっと、密航したに違いないわ」
研究主任は海域を見やった。もう一つ点がある。地表に紛れ込んだ自分の娘とは、比べものにならないほど大きい。
「もう一体は、水に棲む巨大な種のようね……」
「動きは遅いですが、海域を回遊しているようです」
研究主任は、片手で額を押さえた。ポツンと浮かぶ小さな点と、海域の大きな点。どちらも、この惑星の生態分布における例外として浮かび上がる。
「ミラの回収は私が行く。船長、許可を」
「降下ポッドと装備の使用を許可する。残りの者は引き続き調査を」
号令の合図で、乗員は持ち場に戻った。画面内では、二つの点が、それぞれの場所で光をにじませている。
***
小枝を踏み折る音が、続けざまに響く。葉を押し分ける衣擦れ。声が、風に混じって届いた。
「ミラ!」
母の声に、ミラは振り返った。木々のあいだから、白い姿が現れる。全身を覆う厚い布。顔の前には透明な面。慎重に足場を確かめながら近づいてくるのが見えた。
「……お母さん」
母はスーツの頭部を外し、脇に抱えた。
「ミラ。どうして、こんなところまで来たの」
ミラは思わず銃を背中に隠そうとして、途中でやめた。
「どうしてって……別の星の音を少し聞いてみたかったの」
「ここは、遊び場じゃないの。まだ安全が確認されていない惑星で、研究の場よ。危険で、責任も伴う。だから、あなたを連れていくことはできないと言ったはず」
「でも、もう来ちゃってる。お母さんだって分かってるでしょう。私はずっと、ここに来たかった。音を聞きたかったの」
「音なんて、ここじゃなくても聞こえるわ」
「違う」
言葉が、強く飛び出した。
「決められた場所で、決められた音だけ聞いても、意味がない。機械の音を聞いて、数字を眺めて、線を引くだけ。そんな……」
ミラは言い淀んだ。けれど、口から出てしまった言葉は止まらない。
「そんな、お母さんみたいな地味な生き方は、イヤなの」
言ったあとで、自分がなにを刺したのか理解した。母は、わずかに開いた口の形を戻してから、言葉を選んだ。
「地味かどうかは、どうでもいいの。私たちのしていることは、ここで生きているものを知るため、そしてこの広大な暗幕を測るための仕事よ」
ミラは母の瞳から目をそらした。
「学んで、学んで、やっとたどり着いた先が、机に向かっているだけなら、そんなのいらない。音に身を任せて生きていたい。私は……」
言葉の続きが、せり上がってくる。いまさら戻すことも、別の形に変えることもできなかった。
「私は、音を聞きたいの!」
森が、叫びを飲み込んだ。
次の瞬間、ぐらりと揺れた。地面が引かれるような感覚。ミラは踏ん張ろうとしたが、ぬかるんだ足もとがそれを許さない。
「ミラ!」
母が叫ぶ声が聞こえた。遅かった。森が、海のほうへ傾いた。木々が一斉にきしむ。幹に刻まれた無数のひび割れも、一つ残らず同じ方向へ引かれる。
海が、持ち上げられた。
水しぶきを上げながら、灰青《はいあお》の巨きなからだが姿を現した。滑らかな背が、海面を破って突き出る。白い腹には縦の溝が現れた。溝と溝のあいだがふくらみ、長い畝《うね》となって連なっている。
巨きなからだは、躍り出るように海面を離れた。勢いのまま落ちてくるはずの軌道を外れ、空中で向きを変えた。あり得ないことに、その場にとどまった。畝を持つ腹が、森を見下ろすように空を塞ぐ。
海の延長線上では、岩と土が、まるで柔らかいもののように持ち上げられ、進行方向へと、引き寄せられていく。
「こっちへ!」
母は近くの木にしがみつく。一本で幹を掴み、もう一本の腕を伸ばしてミラの手を握った。
「離さないで!」
言われるまでもなく、ミラは全力で握り返した。しかし、次の衝撃が迫る。海のほうから、さらに強いうねりが押し寄せた。泥が、天に向かって流れ出す。
体が軽くなった。森の床が遠ざかる。ミラは自分の足が地面から離れてしまったことに気づく。母も同じように宙に浮かび、木にしがみつく腕だけが二人を地面につなぎとめていた。
「まずいわ……このままじゃ、引き込まれる!」
細長い縞模様も、岩石の鱗も宙に浮かんでいた。掴むものを失った生物は、海のほうへ引きずられ、森の間を滑るように流れていく。
そのとき、頭上が暗くなった。
空を横切り、森を覆うように、鈍色《にびいろ》の円盤が滑り込む。
「船だ!」
ミラが叫んだ瞬間、目の前に光があふれる。足もとから引かれる感覚。重さの向きが変わる。握っていた手の力が弱まった。森が遠のき、巨きなからだの影が斜めに流れていく。
息をする間もなく、視界が切り替わった。
硬い床の感触が、背に伝わる。天井の光は、均一な明るさ。耳には、規則的な機械音が戻っていた。
「ディフダ、無事か。ミラも怪我はないか」
低い声がした。横を向くと、船長の顔があった。
「助かったわ。一本、持っていかれたけど、大丈夫。腕ならまた生えてくるもの」
声に合わせて、ミラは母の肩を確認した。再生可能な箇所といえど、痛々しい跡は、自らの軽率な行動を省みるのには十分だった。
「それより、この現象は一体なに」
「重力勾配の異常を検出。現在起きている事象は、局所的な重力場の乱れによるものと推定されます」
母は状況を整理するように目を閉じ、それから立ち上がる。
「ひとまず安全域まで離れてから、観測を継続」
研究主任である母が指示を出すと、周囲の乗員が動き始めた。
「ミラの処遇については──」
母の言葉に、船長は眉をひそめた。
「本来なら、拠点まで戻して待機させるところだが……いまの状況では、余計な航行は避けたい。しかし、このまま放っておくわけにもいかん」
母はミラを見た。ミラは視線を受け止めるしかなかった。
「観測の場に同席させる。目を離さずにいれば、少なくとも勝手な行動は防げる」
「子を前線に置くことになるぞ」
「構わない。そのほうがこの子の希望にも沿うでしょうし」
言葉の裏には、森でミラに言いそびれた回答も含まれていた。
短い沈黙のあと、船長はうなずいた。
「分かった。監視付きで、観測室への立ち入りを許可する。ただし、一人にはしないこと」
「約束する」
そう答えて、母は改めてミラのほうを向いた。叱責の目ではなく、複雑な色を帯びたまなざしだった。
「聞こえたでしょう。あなたはしばらく、ここで私たちと一緒にいることになる」
ミラは喉を鳴らした。
「……音は、聞こえる?」
母は驚いたように目を見開き、口元に笑みを寄せた。
「ええ。少なくとも退屈はしないでしょうね」
***
天井から、無機質な声が流れた。
『対象の映像を再生します』
「そこで止めて。外装の拡大を」
母が言うと、別の席から応じる声があった。
「倍率を上げます」
腹の畝をなぞるように、映像が拡大される。白い面の一部に、くっきりとした線が現れた。古傷でも痕でもない。記号のような列が、横に並んでいた。
『κῆτος』
見慣れない記号列に、乗員は首を傾げる。
「文字のようだが。どこかの系統に一致は」
「ありません。接触が可能な銀河に登録されている言語体系には該当なし」
報告を聞きながら、母は顎に手を当てた。
「なんらかの意思によって刻まれたと考えた方が良さそうね」
映像を見つめるミラの視界では、記号の線がほどけ、波線の形へと再構成された。その並びからパターンを予測し、文字は音へと変換されていく。
(キ……ト……キトス。いや違う、もっと伸ばす感じね)
周りに聞こえない程度の囁き声で、ミラは声に出してみた。
「……ケートス」
母が振り向く。周囲も視線を向けた。
「いま、なんと言ったの」
「記号。読めないけど、線がそう聞こえたから。ケートスって」
ミラはためらいながらも、はっきりと発音した。音のない線の組み合わせだったものに、一つの響きが結びつく。
「意味は分からなくても、呼び名は必要ね」
母の言葉に続いて、隣の乗員が、端末に入力を始める。
「対象に紐づけます。水に棲む巨大な種は、以後の表示名をケートスに」
呼び名を与えられた巨きなからだは、空に浮かびながら移動を続けていた。
「通り道で起きている変化を表示して」
母の指示に従い、卓上に惑星の平面図が広がり、ケートスの軌跡をなぞるように、色の濃い線が現れた。
「地表付近の重力場の乱れを反映しました。ケートスの通り道に沿って、水と地殻の持ち上がりと沈み込みが続いているようです。深部観測で得た海陸分布の履歴を重ねます」
平面図に、年輪のような模様が浮かび上がる。
「過去に地表の大きな書き換えがあったと見られる区域です。履歴を三次元構造として逆再生します」
年輪は層ごとに切り分けられ、図に沿って幾重にも積み重なった。
「隆起と沈降の列は、全てが一致しているわけではないけれど、地表を大きく書き換えてきた履歴は、ケートスの通り道で起きている現象と同一と見てよさそうね」
そのとき、警告灯が点いた。
『低周波域で規則性のある強い信号を検出。発信源はケートスの進行方向と一致。受信データを可聴域に変換します』
天井の音響装置から、空気の底を撫でるような低い音があふれ出した。音程には、高音がいくつも折り重なる。
ミラの耳の奥で、森で聞いた地鳴りがよみがえる。あのときはただ恐ろしいだけの響きだったものが、いまは伸び縮みする音の集まりとして聞き取れた。
「……歌ってる」
ミラがぽつりと言い、解析担当の声がすぐにそれを追い越した。
「時間ごとの変化を表示します」
横へ伸びる線は、ゆるやかな山と谷が並び、細い揺れが重ねられている。
「空間分布は」
「発信源付近の強度を重ねます」
図に、濃淡が生まれた。ケートスの位置を中心に、濃い縞が広がっては薄れ、また別の大きさで現れる。
「長距離のやり取りにしては、特定方向への偏りが弱すぎる。自己位置把握や環境の認識なら、もう少し規則的な走査になってもよさそうですが、それとも違う」
言葉は、別の候補を探しているようだったが、次の説明は出てこない。
「現時点では、用途を特定できません。構造も、短期間で解ける形ではなさそうです」
母はしばらく画面を見つめていた。数字と線が流れ続ける。
「記録を継続。解析系はこの信号を最優先で追って」
母が告げると、観測室のあちこちで端末の表示が切り替わった。
ミラは、母の横顔を見る。的確な指示で船全体の動きを決める研究主任として立っている。机に向かっているだけだと決めつけていた認識を、ミラは改めつつあった。
***
『重力異常域に再接近。推力を修正し、安全圏を維持します』
陽が沈み始めても、船は飛行と観測を継続する。真下では、水と岩と土が、重い布のように引きずられている。やがて、支えきれなくなる部分が現れた。布の端がちぎれ、抗いがたい速度で落ちていく。
巨大な塊が、海面に叩きつけられた。水煙が一斉に立ち上がる。
「落下地点の拡大を」
波が陸へ向かって走り、渓谷に入り込む。うしろのほうでは、海岸線が引きはがされるように後退し、かつて海だった場所がむき出しになっていた。
「大規模な浸水と海退が、同時に起きているわね」
母の声は抑えられていたが、その抑制がかえって事態の大きさを示していた。
「落下した地殻由来の崩壊も多数。沿岸斜面で地すべりが連鎖しています」
山肌が崩れ落ちる。崖が一度に滑り落ち、土砂が濁流となって谷を埋める。
「火山帯は」
地質担当が新たな表示を重ねた。既知の火山帯が赤い点で示されており、点滅している箇所がいくつもあった。
「ケートスが通過した付近では、地殻応力の変化と合わせて、噴火の徴候が強まっています」
拡大された映像では、山頂から赤い岩漿《がんしょう》が吹き上がり、灰の混じった黒煙が空を覆った。さらに上空、暗い雲の中で、白い閃光が走った。稲妻が雲の底を裂き、赤の光と交互に地表を照らす。
「深い対流が複数の層で発生。風速も強まっています」
「海底斜面の崩壊、多数。堆積層が一度に滑り落ちています」
「観測高度でのガス濃度、上昇を確認。吸収率に変化が出ています」
矢継ぎ早に報告を受けながら、母は黙って数字と線を見つめていた。
「仮に、いまこの惑星に文明を築いた生命が存在したとして」
船長は、言葉を探すように続けた。
「この規模の災害を、全て一度に受けたらどうなる」
「居住域は沿岸から消失が始まり、内陸も、河川沿いは流されるでしょう。農地も、交通も、電力網も、まとめて崩壊します」
地質担当が、感情のにじむ声で続けた。
「たとえ一部が生き残ったとしても、空気が変わる。気候は、容易に元には戻らない」
母は声を捻り出した。
「文明にとっては、致命傷ね」
ミラは、森で感じたあのうねりが、これほど大きな脅威になるとは想像もしていなかった。
調査船は、安全圏を保ちながらケートスと並走し、惑星が別の姿へと変貌していく様を、ただ見届けるしかなかった。
***
夜を迎えると、ケートスの長い背に、薄白い層がまとわりついているのが視認できた。
「粒径分布は」
「胞子とみられる粒子、微生物、小さな浮遊生物が混じる極小サイズ。特定の高さで密度が極端に上がり、霧のような層を作っています」
層のなかを、ケートスが進む。口が開いたときに霧が吸い込まれ、閉じるときには泡沫だけがうしろへ押し出される。
「海でやっていたことと変わらないのね」
「口を開き、上顎のひげで濾しとる。あの霧の層は、空に浮かぶ餌場と見ていいでしょう」
生体担当が別の画面を開いた。体内の循環を示す線が、心臓のまわりで脈を打っている。
「生命維持に必要なエネルギーは、海中と同じ循環で賄っていると考えられます。呼吸も代謝も、基本的な仕組みは変わらない。ただし、それだけでは足りません」
「足りない?」
ミラは言葉を追い、生体担当がうなずいた。
「長距離移動と、重力異常。それぞれの見積もりと比べても、エネルギー収支が合わない。いま見えている採餌の量だけでは到底足りない、という結論になります」
母は三次元投影を呼び出した。ケートスを中心に、矢印が同心円状に並んでいる。
「重力の偏りを、空間の歪みとして描き直した図よ」
母はミラのほうへ、投影の角度をずらした。
「矢印の束が密になっているところがある。重力異常の動力源は、〝心臓のコア〟である可能性が極めて高いわ」
ミラが顔を近づけると、矢印は一点に吸い込まれた。
惑星に沿って環状に走る線の上で、ケートスを示す光点が移動していく。
「速度を一定として計算すると、昼と夜を三百三十二回繰り返して、ケートスは惑星を一周します。一周にかかる時間は、この惑星の公転一回にかかる時間と合致します」
「誰かに定められたものか、自らの意思によるものか」
船長のひと言が、観測室の空気に重く響いた。
「生命維持と運動エネルギー。心臓のコアの出力。それらを重ねて仮定すると、ケートスは公転一万回分の時間をかけて海中でエネルギーを蓄え、周期的に惑星のリセットを実行している、と考えるのが有力ね」
地質担当が、横に長い断面図を呼び出した。
「地層と化石の照合が完了。大規模な崩壊と再堆積が、等間隔で繰り返し現れます。その間隔を、いまの公転の長さに合わせて数えると……少なくとも五十万回以上、リセットが行われた可能性が高い」
ミラは頭の中で数を並べた。公転一万回ごとに惑星をリセット、それを五十万回、さらに桁を重ねた。五十億。表示された地層には、自然のものとは思えない形も混じる。均一な材質の建造物が折れ曲がり、別の層には、規則性を感じさせる空隙《くうげき》の列が埋もれている。
なにかに気づいたように船長が立ち上がった。
「この惑星そのものが、進化を急がせて、文明を選び分けるための場だと考えたらどうだ」
室内が静まり返った。船長は、画面から目を外さないまま言葉を継いだ。
「ケートスは、そのために置かれた装置。つまり、篩《ふるい》だ。一定の間隔で惑星を混ぜ返し、そこで生存、もしくは惑星からの脱出ができない種は、強制的にリセットされる」
ミラは恐る恐る尋ねた。
「……そんなこと、一体誰が。なんのために」
船長は首を振った。
「この惑星が誕生した頃から動いているのか、途中から放たれたのか。いまもどこかで見ている者がいるのか、もう誰もいないのか。どの可能性も、否定はできん」
母は姿勢を変えず、その言葉を受け止めているように見えた。
「星々の引き合いで軌道が乱れること。恒星がいつか燃え尽きること。銀河の環境が変わること。惑星で誕生した生命には、〝刻限〟がある。それは、私たちに限った話ではない」
母は続けた。
「この惑星で誕生した生命も、別の星で誕生した生命も、それぞれの刻限のうちで、どこまで行けるかを試されている。一つの解き方として、ここにはケートスが存在しているのかもしれない」
会議の終了が告げられ、各自が持ち場を離れ始めた。ミラはその場に残ったまま、動けずにいた。足もとの床が、薄氷のように感じられる。
「ミラ」
母が近づいてきた。
「難しい話ばかりで、疲れたでしょう」
「うん。でも、少し分かった気もする」
「どんなふうに」
母は問いながら、ミラの横に並んだ。
「お母さんがやっていることは、机の枠におさまらない。惑星を調査することで、私たちの生き方、文明のあり方……まだ、うまく言葉にできないけど、広い面、長い線でこの世界を測って、小さな点を、生《せい》に繋げる」
母の横顔が、わずかに動いた。ミラは前を見て続ける。
「私はいままで、音に身を任せて生きていきたいと思っていた。森の囁き、海の響き、外の世界の音。意味なんか分からなくていいから、心地いい音の中にいたくて。でも、さっきから見ている数字とか線が、全てが音の別の形なんだって……これも音なんだって思ったら、耳で聞くだけじゃ足りない気がしてきた」
「それで、ミラはこの先どうしたいの」
「心地いい音だけを追いかけていたい気持ちは、まだある。けど、それだけじゃなくていいとも思った。どんな歌にも、どんな音にも意味はある。ケートスの歌を解明するの。私、やってみたい」
母はしばらく黙っていた。ミラは、叱られるかもしれないと思った。軽率すぎる、危険すぎる、と言われるかもしれない。
「同じ場所に立ってほしくないと思っていた」
ようやく母が口を開いた。
「ここは退屈でいて、危険でもある。数字と向き合う時間のほうが、音を聞いていられる時間よりずっと長い。それでも、あなたがここに立って、音を読みたいと言うなら、いまの私には、止める言葉を見つけられない」
ミラは母を見上げた。その横顔には、迷いと安堵が入り混じっているように見えた。
「あなたが全部を分かったわけでもないし、私が全部を話し切ったわけでもない。ただ、少なくともいまは、同じ方向を見ているわ」
ミラはうなずいた。決意の感触は、どこか心細かったが、同時に確かさもあった。
***
船内の灯りが落ちたあとも、観測機器の一部は動き続けていた。最低限の照明が残る廊下を進み、ミラは、誰もいない船長室へ向かった。
船に唯一ある観測窓。密航の際に使用したその窓からは、星の明るさが流れ込んでいた。
耳を澄ますと、低い音がかすかに届く。自分の居場所を知らせているのか。誰かを呼ぶ声なのか。答えのない憶測が、ミラの頭を駆け巡る。
星々の引き合い。恒星の寿命。銀河の流れ。どれも自分の手では触れられないほど遠いものだった。あらかじめ定められた刻限のうちで、遺せるもの、継ぐことのできるものは、なにか。
音に身を任せる生き方には、音を読むという選択肢もあった。いまはまだ、その小節を口ずさんでいるに過ぎない。
ミラは窓の向こうを見つめた。
空に浮かぶケートスは、なにを歌うのだろうか。
(ここまで来たからには、引き返せない。決められた場所から同じ音を聞き続けるのは、もうウンザリ)
ミラは森の入り口へ足を踏み入れた。獣道を進みながら、手近な樹皮に触れる。表面のひび割れは、どこをなぞっても途切れることがない。
海のほうから、低い音が聞こえた。
大気を震わすほどの響きが、自然のものではないと直感した。逃げるように、足がはやくなる。丈の低い草は踏めば折れ、緑の香りが立つ。腰の高さほどの葉が群れをつくり、薄緑の葉片が、ミラの走りに合わせて順に揺れる。
やがて、背の高い木々が密になった。頭上の隙間はほとんどなくなり、空の青さは葉のあいだからこぼれる点描《てんびょう》に変わっていた。遠くの枝で、鳥が笛のような鳴きを繰り返す。
さらに奥へと進む。斜めに伸びる蔓に沿って、細長いからだが二重三重に巻きついている。ミラの腕と同じくらいの太さ。先端が持ち上がり、ミラのほうを向く。口の割れ目がわずかに開くと、隙間から二つに裂けた舌が出た。ちろり、と空気を舐め、すぐに引っ込む。
ミラは反射的に銃を持つ手を持ち上げた。震えながらも、銃口は細長い頭のあたりを狙う。
「お願いだから、こっちに来ないで!」
絞り出した声は、自分が思っていたよりも高く、頼りなく響いた。引き金に力を込めようとしても、指がいうことを聞かない。恐怖に足がすくみ、からだは固まったまま。
「それ以上近づいたら──」
海のほうから大きな音が響いた。低い地鳴り。
細長いからだは、するするとほどけていく。縞模様は、蔓から離れ、音のしたほうとは逆へ向かって消えた。
手の力が抜ける。胸の鼓動はまだ速い。落ち着かせるように目をつむり、深呼吸をする。
耳を澄ますと、水の音がした。まとまった水が動いているような音。ミラはその音を目指して歩きを再開した。
土が柔らかくなる。濁った水たまりから、泥にまみれた長い口が、這い出してきた。外皮には岩石のような鱗が連なり、からだの脇から伸びた短い脚が、沼をつかんでは離す。
ミラは一歩も動けなかった。細長いからだよりも、ずっと大きく、強い敵意を感じる。咄嗟に銃を構える。引き金に指をかける──
ふたたび轟音が届いた。海からは徐々に離れているはずなのに、さっきよりも低く、はっきりとした地響き。
足の裏に、振動が伝わる。水たまりにも、鈍い波紋が走る。岩石の鱗はからだを反転させ、迷いもなく沼地の奥へと重い胴を引きずっていく。
頭上では、鳥が一斉に羽ばたいた。甲高い鳴き声が、空へ散っていく。ミラは、森のざわめきと、海からの響きに挟まれ、ただその場に立ち尽くした。
***
船は揺れず、静かに漂う。室内には、席が並んでいた。卓上には、地図が広がり、縦横に走る線が、刻一刻と描き換えられていく。
「ソナー照射、完了しました。反射信号の解析を開始します」
研究主任は報告を聞きながら、中央の席で卓を見つめていた。
「深部観測の粒子束、通過を確認。地殻の透過データまで取得が完了しています」
「事前の観測どおり、海と陸の分布に大きな変動があるわね」
年輪のような表示は、海域が盛り上がっては消え、陸と入れ替わる。
「周期的な海陸分布の崩壊と再構成を確認。岩石惑星という分類は変わりませんが、地表はかなり乱暴に書き換えられています」
「計算とも一致する。今回は、その実態を見に来た」
船長はそう言うと、表示を切り替えた。地表に散らばる光点が無数に現れた。大小ある個体がそれぞれ群れをなし、濃淡をつくる。
「生体反応の分布。個体ごとの推定寿命も一緒に出して」
棒が林立する。長さはまちまちだが、全体を眺めると高さの異なる二つの山が浮かび上がった。
「寿命分布、出ました。短命と長命に偏りが大きいです。平均的な寿命の種がほとんどいない」
「歪んでいる、という表現が近いわね」
「続けて繁殖様式の推定を表示します。ほとんどの種は、つがいと見られる組の単位で分布していますが……」
今度は、点の周囲に小さな輪が描かれた。輪の中には、二つずつの点がほぼ漏れなく入っている。ところどころ、輪と輪が重なって濃くなっている箇所もある。
「つがいを持たない個体が、二種存在します」
報告とともに、輪を持たない二点が拡大された。
「位置は、海域。深いところに、大きな反応。もう一体は……」
空中で待機している惑星調査船から、ほど近い森の入り口に浮かぶ小さな点。
「構造から推測するに、私たちの標準形に近い種の個体と推定されます」
標準形という言葉に、全員が顔を見合わせた。研究主任も息を詰める。小さな肩と頭部。全体の長さは、成体のそれよりも短い。
「在来の系統に、こういう形はあったかしら」
自らに問うように呟く。観測記録を頭の中で探る。這うように移動する大型の生物、群れを成す小型のもの。どれも、画面に映るシルエットとは異なっていた。
「つがいは検出されていません。単独の個体と推測します」
「当然よ。もともと、そこにいるはずのない種なんだから」
画面の隅で、数字が流れる。研究主任には見覚えがあった。
「ミラね。呆れた子。きっと、密航したに違いないわ」
研究主任は海域を見やった。もう一つ点がある。地表に紛れ込んだ自分の娘とは、比べものにならないほど大きい。
「もう一体は、水に棲む巨大な種のようね……」
「動きは遅いですが、海域を回遊しているようです」
研究主任は、片手で額を押さえた。ポツンと浮かぶ小さな点と、海域の大きな点。どちらも、この惑星の生態分布における例外として浮かび上がる。
「ミラの回収は私が行く。船長、許可を」
「降下ポッドと装備の使用を許可する。残りの者は引き続き調査を」
号令の合図で、乗員は持ち場に戻った。画面内では、二つの点が、それぞれの場所で光をにじませている。
***
小枝を踏み折る音が、続けざまに響く。葉を押し分ける衣擦れ。声が、風に混じって届いた。
「ミラ!」
母の声に、ミラは振り返った。木々のあいだから、白い姿が現れる。全身を覆う厚い布。顔の前には透明な面。慎重に足場を確かめながら近づいてくるのが見えた。
「……お母さん」
母はスーツの頭部を外し、脇に抱えた。
「ミラ。どうして、こんなところまで来たの」
ミラは思わず銃を背中に隠そうとして、途中でやめた。
「どうしてって……別の星の音を少し聞いてみたかったの」
「ここは、遊び場じゃないの。まだ安全が確認されていない惑星で、研究の場よ。危険で、責任も伴う。だから、あなたを連れていくことはできないと言ったはず」
「でも、もう来ちゃってる。お母さんだって分かってるでしょう。私はずっと、ここに来たかった。音を聞きたかったの」
「音なんて、ここじゃなくても聞こえるわ」
「違う」
言葉が、強く飛び出した。
「決められた場所で、決められた音だけ聞いても、意味がない。機械の音を聞いて、数字を眺めて、線を引くだけ。そんな……」
ミラは言い淀んだ。けれど、口から出てしまった言葉は止まらない。
「そんな、お母さんみたいな地味な生き方は、イヤなの」
言ったあとで、自分がなにを刺したのか理解した。母は、わずかに開いた口の形を戻してから、言葉を選んだ。
「地味かどうかは、どうでもいいの。私たちのしていることは、ここで生きているものを知るため、そしてこの広大な暗幕を測るための仕事よ」
ミラは母の瞳から目をそらした。
「学んで、学んで、やっとたどり着いた先が、机に向かっているだけなら、そんなのいらない。音に身を任せて生きていたい。私は……」
言葉の続きが、せり上がってくる。いまさら戻すことも、別の形に変えることもできなかった。
「私は、音を聞きたいの!」
森が、叫びを飲み込んだ。
次の瞬間、ぐらりと揺れた。地面が引かれるような感覚。ミラは踏ん張ろうとしたが、ぬかるんだ足もとがそれを許さない。
「ミラ!」
母が叫ぶ声が聞こえた。遅かった。森が、海のほうへ傾いた。木々が一斉にきしむ。幹に刻まれた無数のひび割れも、一つ残らず同じ方向へ引かれる。
海が、持ち上げられた。
水しぶきを上げながら、灰青《はいあお》の巨きなからだが姿を現した。滑らかな背が、海面を破って突き出る。白い腹には縦の溝が現れた。溝と溝のあいだがふくらみ、長い畝《うね》となって連なっている。
巨きなからだは、躍り出るように海面を離れた。勢いのまま落ちてくるはずの軌道を外れ、空中で向きを変えた。あり得ないことに、その場にとどまった。畝を持つ腹が、森を見下ろすように空を塞ぐ。
海の延長線上では、岩と土が、まるで柔らかいもののように持ち上げられ、進行方向へと、引き寄せられていく。
「こっちへ!」
母は近くの木にしがみつく。一本で幹を掴み、もう一本の腕を伸ばしてミラの手を握った。
「離さないで!」
言われるまでもなく、ミラは全力で握り返した。しかし、次の衝撃が迫る。海のほうから、さらに強いうねりが押し寄せた。泥が、天に向かって流れ出す。
体が軽くなった。森の床が遠ざかる。ミラは自分の足が地面から離れてしまったことに気づく。母も同じように宙に浮かび、木にしがみつく腕だけが二人を地面につなぎとめていた。
「まずいわ……このままじゃ、引き込まれる!」
細長い縞模様も、岩石の鱗も宙に浮かんでいた。掴むものを失った生物は、海のほうへ引きずられ、森の間を滑るように流れていく。
そのとき、頭上が暗くなった。
空を横切り、森を覆うように、鈍色《にびいろ》の円盤が滑り込む。
「船だ!」
ミラが叫んだ瞬間、目の前に光があふれる。足もとから引かれる感覚。重さの向きが変わる。握っていた手の力が弱まった。森が遠のき、巨きなからだの影が斜めに流れていく。
息をする間もなく、視界が切り替わった。
硬い床の感触が、背に伝わる。天井の光は、均一な明るさ。耳には、規則的な機械音が戻っていた。
「ディフダ、無事か。ミラも怪我はないか」
低い声がした。横を向くと、船長の顔があった。
「助かったわ。一本、持っていかれたけど、大丈夫。腕ならまた生えてくるもの」
声に合わせて、ミラは母の肩を確認した。再生可能な箇所といえど、痛々しい跡は、自らの軽率な行動を省みるのには十分だった。
「それより、この現象は一体なに」
「重力勾配の異常を検出。現在起きている事象は、局所的な重力場の乱れによるものと推定されます」
母は状況を整理するように目を閉じ、それから立ち上がる。
「ひとまず安全域まで離れてから、観測を継続」
研究主任である母が指示を出すと、周囲の乗員が動き始めた。
「ミラの処遇については──」
母の言葉に、船長は眉をひそめた。
「本来なら、拠点まで戻して待機させるところだが……いまの状況では、余計な航行は避けたい。しかし、このまま放っておくわけにもいかん」
母はミラを見た。ミラは視線を受け止めるしかなかった。
「観測の場に同席させる。目を離さずにいれば、少なくとも勝手な行動は防げる」
「子を前線に置くことになるぞ」
「構わない。そのほうがこの子の希望にも沿うでしょうし」
言葉の裏には、森でミラに言いそびれた回答も含まれていた。
短い沈黙のあと、船長はうなずいた。
「分かった。監視付きで、観測室への立ち入りを許可する。ただし、一人にはしないこと」
「約束する」
そう答えて、母は改めてミラのほうを向いた。叱責の目ではなく、複雑な色を帯びたまなざしだった。
「聞こえたでしょう。あなたはしばらく、ここで私たちと一緒にいることになる」
ミラは喉を鳴らした。
「……音は、聞こえる?」
母は驚いたように目を見開き、口元に笑みを寄せた。
「ええ。少なくとも退屈はしないでしょうね」
***
天井から、無機質な声が流れた。
『対象の映像を再生します』
「そこで止めて。外装の拡大を」
母が言うと、別の席から応じる声があった。
「倍率を上げます」
腹の畝をなぞるように、映像が拡大される。白い面の一部に、くっきりとした線が現れた。古傷でも痕でもない。記号のような列が、横に並んでいた。
『κῆτος』
見慣れない記号列に、乗員は首を傾げる。
「文字のようだが。どこかの系統に一致は」
「ありません。接触が可能な銀河に登録されている言語体系には該当なし」
報告を聞きながら、母は顎に手を当てた。
「なんらかの意思によって刻まれたと考えた方が良さそうね」
映像を見つめるミラの視界では、記号の線がほどけ、波線の形へと再構成された。その並びからパターンを予測し、文字は音へと変換されていく。
(キ……ト……キトス。いや違う、もっと伸ばす感じね)
周りに聞こえない程度の囁き声で、ミラは声に出してみた。
「……ケートス」
母が振り向く。周囲も視線を向けた。
「いま、なんと言ったの」
「記号。読めないけど、線がそう聞こえたから。ケートスって」
ミラはためらいながらも、はっきりと発音した。音のない線の組み合わせだったものに、一つの響きが結びつく。
「意味は分からなくても、呼び名は必要ね」
母の言葉に続いて、隣の乗員が、端末に入力を始める。
「対象に紐づけます。水に棲む巨大な種は、以後の表示名をケートスに」
呼び名を与えられた巨きなからだは、空に浮かびながら移動を続けていた。
「通り道で起きている変化を表示して」
母の指示に従い、卓上に惑星の平面図が広がり、ケートスの軌跡をなぞるように、色の濃い線が現れた。
「地表付近の重力場の乱れを反映しました。ケートスの通り道に沿って、水と地殻の持ち上がりと沈み込みが続いているようです。深部観測で得た海陸分布の履歴を重ねます」
平面図に、年輪のような模様が浮かび上がる。
「過去に地表の大きな書き換えがあったと見られる区域です。履歴を三次元構造として逆再生します」
年輪は層ごとに切り分けられ、図に沿って幾重にも積み重なった。
「隆起と沈降の列は、全てが一致しているわけではないけれど、地表を大きく書き換えてきた履歴は、ケートスの通り道で起きている現象と同一と見てよさそうね」
そのとき、警告灯が点いた。
『低周波域で規則性のある強い信号を検出。発信源はケートスの進行方向と一致。受信データを可聴域に変換します』
天井の音響装置から、空気の底を撫でるような低い音があふれ出した。音程には、高音がいくつも折り重なる。
ミラの耳の奥で、森で聞いた地鳴りがよみがえる。あのときはただ恐ろしいだけの響きだったものが、いまは伸び縮みする音の集まりとして聞き取れた。
「……歌ってる」
ミラがぽつりと言い、解析担当の声がすぐにそれを追い越した。
「時間ごとの変化を表示します」
横へ伸びる線は、ゆるやかな山と谷が並び、細い揺れが重ねられている。
「空間分布は」
「発信源付近の強度を重ねます」
図に、濃淡が生まれた。ケートスの位置を中心に、濃い縞が広がっては薄れ、また別の大きさで現れる。
「長距離のやり取りにしては、特定方向への偏りが弱すぎる。自己位置把握や環境の認識なら、もう少し規則的な走査になってもよさそうですが、それとも違う」
言葉は、別の候補を探しているようだったが、次の説明は出てこない。
「現時点では、用途を特定できません。構造も、短期間で解ける形ではなさそうです」
母はしばらく画面を見つめていた。数字と線が流れ続ける。
「記録を継続。解析系はこの信号を最優先で追って」
母が告げると、観測室のあちこちで端末の表示が切り替わった。
ミラは、母の横顔を見る。的確な指示で船全体の動きを決める研究主任として立っている。机に向かっているだけだと決めつけていた認識を、ミラは改めつつあった。
***
『重力異常域に再接近。推力を修正し、安全圏を維持します』
陽が沈み始めても、船は飛行と観測を継続する。真下では、水と岩と土が、重い布のように引きずられている。やがて、支えきれなくなる部分が現れた。布の端がちぎれ、抗いがたい速度で落ちていく。
巨大な塊が、海面に叩きつけられた。水煙が一斉に立ち上がる。
「落下地点の拡大を」
波が陸へ向かって走り、渓谷に入り込む。うしろのほうでは、海岸線が引きはがされるように後退し、かつて海だった場所がむき出しになっていた。
「大規模な浸水と海退が、同時に起きているわね」
母の声は抑えられていたが、その抑制がかえって事態の大きさを示していた。
「落下した地殻由来の崩壊も多数。沿岸斜面で地すべりが連鎖しています」
山肌が崩れ落ちる。崖が一度に滑り落ち、土砂が濁流となって谷を埋める。
「火山帯は」
地質担当が新たな表示を重ねた。既知の火山帯が赤い点で示されており、点滅している箇所がいくつもあった。
「ケートスが通過した付近では、地殻応力の変化と合わせて、噴火の徴候が強まっています」
拡大された映像では、山頂から赤い岩漿《がんしょう》が吹き上がり、灰の混じった黒煙が空を覆った。さらに上空、暗い雲の中で、白い閃光が走った。稲妻が雲の底を裂き、赤の光と交互に地表を照らす。
「深い対流が複数の層で発生。風速も強まっています」
「海底斜面の崩壊、多数。堆積層が一度に滑り落ちています」
「観測高度でのガス濃度、上昇を確認。吸収率に変化が出ています」
矢継ぎ早に報告を受けながら、母は黙って数字と線を見つめていた。
「仮に、いまこの惑星に文明を築いた生命が存在したとして」
船長は、言葉を探すように続けた。
「この規模の災害を、全て一度に受けたらどうなる」
「居住域は沿岸から消失が始まり、内陸も、河川沿いは流されるでしょう。農地も、交通も、電力網も、まとめて崩壊します」
地質担当が、感情のにじむ声で続けた。
「たとえ一部が生き残ったとしても、空気が変わる。気候は、容易に元には戻らない」
母は声を捻り出した。
「文明にとっては、致命傷ね」
ミラは、森で感じたあのうねりが、これほど大きな脅威になるとは想像もしていなかった。
調査船は、安全圏を保ちながらケートスと並走し、惑星が別の姿へと変貌していく様を、ただ見届けるしかなかった。
***
夜を迎えると、ケートスの長い背に、薄白い層がまとわりついているのが視認できた。
「粒径分布は」
「胞子とみられる粒子、微生物、小さな浮遊生物が混じる極小サイズ。特定の高さで密度が極端に上がり、霧のような層を作っています」
層のなかを、ケートスが進む。口が開いたときに霧が吸い込まれ、閉じるときには泡沫だけがうしろへ押し出される。
「海でやっていたことと変わらないのね」
「口を開き、上顎のひげで濾しとる。あの霧の層は、空に浮かぶ餌場と見ていいでしょう」
生体担当が別の画面を開いた。体内の循環を示す線が、心臓のまわりで脈を打っている。
「生命維持に必要なエネルギーは、海中と同じ循環で賄っていると考えられます。呼吸も代謝も、基本的な仕組みは変わらない。ただし、それだけでは足りません」
「足りない?」
ミラは言葉を追い、生体担当がうなずいた。
「長距離移動と、重力異常。それぞれの見積もりと比べても、エネルギー収支が合わない。いま見えている採餌の量だけでは到底足りない、という結論になります」
母は三次元投影を呼び出した。ケートスを中心に、矢印が同心円状に並んでいる。
「重力の偏りを、空間の歪みとして描き直した図よ」
母はミラのほうへ、投影の角度をずらした。
「矢印の束が密になっているところがある。重力異常の動力源は、〝心臓のコア〟である可能性が極めて高いわ」
ミラが顔を近づけると、矢印は一点に吸い込まれた。
惑星に沿って環状に走る線の上で、ケートスを示す光点が移動していく。
「速度を一定として計算すると、昼と夜を三百三十二回繰り返して、ケートスは惑星を一周します。一周にかかる時間は、この惑星の公転一回にかかる時間と合致します」
「誰かに定められたものか、自らの意思によるものか」
船長のひと言が、観測室の空気に重く響いた。
「生命維持と運動エネルギー。心臓のコアの出力。それらを重ねて仮定すると、ケートスは公転一万回分の時間をかけて海中でエネルギーを蓄え、周期的に惑星のリセットを実行している、と考えるのが有力ね」
地質担当が、横に長い断面図を呼び出した。
「地層と化石の照合が完了。大規模な崩壊と再堆積が、等間隔で繰り返し現れます。その間隔を、いまの公転の長さに合わせて数えると……少なくとも五十万回以上、リセットが行われた可能性が高い」
ミラは頭の中で数を並べた。公転一万回ごとに惑星をリセット、それを五十万回、さらに桁を重ねた。五十億。表示された地層には、自然のものとは思えない形も混じる。均一な材質の建造物が折れ曲がり、別の層には、規則性を感じさせる空隙《くうげき》の列が埋もれている。
なにかに気づいたように船長が立ち上がった。
「この惑星そのものが、進化を急がせて、文明を選び分けるための場だと考えたらどうだ」
室内が静まり返った。船長は、画面から目を外さないまま言葉を継いだ。
「ケートスは、そのために置かれた装置。つまり、篩《ふるい》だ。一定の間隔で惑星を混ぜ返し、そこで生存、もしくは惑星からの脱出ができない種は、強制的にリセットされる」
ミラは恐る恐る尋ねた。
「……そんなこと、一体誰が。なんのために」
船長は首を振った。
「この惑星が誕生した頃から動いているのか、途中から放たれたのか。いまもどこかで見ている者がいるのか、もう誰もいないのか。どの可能性も、否定はできん」
母は姿勢を変えず、その言葉を受け止めているように見えた。
「星々の引き合いで軌道が乱れること。恒星がいつか燃え尽きること。銀河の環境が変わること。惑星で誕生した生命には、〝刻限〟がある。それは、私たちに限った話ではない」
母は続けた。
「この惑星で誕生した生命も、別の星で誕生した生命も、それぞれの刻限のうちで、どこまで行けるかを試されている。一つの解き方として、ここにはケートスが存在しているのかもしれない」
会議の終了が告げられ、各自が持ち場を離れ始めた。ミラはその場に残ったまま、動けずにいた。足もとの床が、薄氷のように感じられる。
「ミラ」
母が近づいてきた。
「難しい話ばかりで、疲れたでしょう」
「うん。でも、少し分かった気もする」
「どんなふうに」
母は問いながら、ミラの横に並んだ。
「お母さんがやっていることは、机の枠におさまらない。惑星を調査することで、私たちの生き方、文明のあり方……まだ、うまく言葉にできないけど、広い面、長い線でこの世界を測って、小さな点を、生《せい》に繋げる」
母の横顔が、わずかに動いた。ミラは前を見て続ける。
「私はいままで、音に身を任せて生きていきたいと思っていた。森の囁き、海の響き、外の世界の音。意味なんか分からなくていいから、心地いい音の中にいたくて。でも、さっきから見ている数字とか線が、全てが音の別の形なんだって……これも音なんだって思ったら、耳で聞くだけじゃ足りない気がしてきた」
「それで、ミラはこの先どうしたいの」
「心地いい音だけを追いかけていたい気持ちは、まだある。けど、それだけじゃなくていいとも思った。どんな歌にも、どんな音にも意味はある。ケートスの歌を解明するの。私、やってみたい」
母はしばらく黙っていた。ミラは、叱られるかもしれないと思った。軽率すぎる、危険すぎる、と言われるかもしれない。
「同じ場所に立ってほしくないと思っていた」
ようやく母が口を開いた。
「ここは退屈でいて、危険でもある。数字と向き合う時間のほうが、音を聞いていられる時間よりずっと長い。それでも、あなたがここに立って、音を読みたいと言うなら、いまの私には、止める言葉を見つけられない」
ミラは母を見上げた。その横顔には、迷いと安堵が入り混じっているように見えた。
「あなたが全部を分かったわけでもないし、私が全部を話し切ったわけでもない。ただ、少なくともいまは、同じ方向を見ているわ」
ミラはうなずいた。決意の感触は、どこか心細かったが、同時に確かさもあった。
***
船内の灯りが落ちたあとも、観測機器の一部は動き続けていた。最低限の照明が残る廊下を進み、ミラは、誰もいない船長室へ向かった。
船に唯一ある観測窓。密航の際に使用したその窓からは、星の明るさが流れ込んでいた。
耳を澄ますと、低い音がかすかに届く。自分の居場所を知らせているのか。誰かを呼ぶ声なのか。答えのない憶測が、ミラの頭を駆け巡る。
星々の引き合い。恒星の寿命。銀河の流れ。どれも自分の手では触れられないほど遠いものだった。あらかじめ定められた刻限のうちで、遺せるもの、継ぐことのできるものは、なにか。
音に身を任せる生き方には、音を読むという選択肢もあった。いまはまだ、その小節を口ずさんでいるに過ぎない。
ミラは窓の向こうを見つめた。
空に浮かぶケートスは、なにを歌うのだろうか。
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