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第四十五話①『御礼』
しおりを挟むその後、何の後遺症もなく動けるようになった嶺歌は医務室を後にしていた。
そしてあれからずっと付き添っていてくれていた兜悟朗と共にお世話になった管理人に挨拶を終えてから形南たちと合流しそのまま帰宅した。
「あんた本当、良かったわねえ」
未だに夢のように思えていた兜悟朗との一件を何度も思い返しながら自宅のソファでボーッとしていると、唐突に母にそう言われる。
嶺歌は「え?」と声を返すと「え? じゃないわよ。命、大切にしなさいよ」と母に注意される。
嶺歌も望んで溺れたわけではないのだが、母の言う通り確かにもっと気をつけるべきだと学んでいた。
海に入る前にストレッチをしておくべきだったとそう思いながら嶺歌はつい先程まで側にいた兜悟朗の事を再び頭に浮かべる。
兜悟朗はあの後嶺歌を自宅まで送った際に両親と対面し、今回起こった事態を丁寧に説明してくれていた。
元気に回復をしたとは言っても、やはり大変な目にあった以上は今回の事を身内に報告するべきだと兜悟朗に強く言われ、その言葉に嶺歌も納得したのだ。
本当にもう問題がないのか明日また優秀な医者を呼んでくるとも言われている。これには形南からの声も入っていた。
(兜悟朗さん、かっこよかったなあ)
今日は色んな姿の兜悟朗を見られた気がする。溺れた事は怖かったが、正直、それ以上に兜悟朗との様々な出来事が今の嶺歌の心中を支配していた。
嶺歌はそのままソファで目を閉じると兜悟朗の逞しい筋肉を思い浮かべる。彼の腕は逞しく筋肉で盛り上がり、腹筋も割れていた。
兜悟朗はこれまでずっと肌を見せてこなかったため彼に筋肉があるのかすら謎であったが、今回の彼のあの姿を目にしてからそれは解明され、それがどうにも頭から離れない。何をしていても兜悟朗との出来事と共に彼の肉体を思い出している自分がいた。
(かっこいいとしか思えない……どうしよ)
嶺歌はそんなことを思いながら疲れがドッと出て、そのまま眠りにつく。
今回は形南や平尾にも心配をかけてしまった。今度二人にも何かお詫びをしよう。最後にそう考えながら嶺歌は夢の中へ入っていった。
夏休みも終わり、今日は始業式だ。
長期休暇は楽しかったが、学校も好きな嶺歌は久しぶりに会える友人たちと楽しく談笑しながら新学期を送る。
「い、和泉さん」
すると休み時間に平尾が教室までやってきた。昨日の今日だ。平尾は心配しているような様子で嶺歌に話し掛けてくる。
「も、もう平気なの? あれちゃんずっと心配してたからさ……」
「平気平気。昨日はありがとね。それに今日の放課後、医者を紹介してくれるみたいだから心配いらないよ」
嶺歌はそう言って平尾ににかっと笑みを向ける。
この夏休みの間で平尾に対する認識は変わってきている。昨日の形南を思いやる態度はもちろん、彼は弱々しい面を持ちながらも芯を持った強い男であるのだとそう感じるようになっていたからだ。
「そ、それなら……俺が言う事じゃないけど、あれちゃんにこまめにれ、連絡してあげてほしい……」
嶺歌の心配もしてくれつつ、しっかりと形南への気遣いを疎かにしないそんな彼に嶺歌は口元が緩んだ。
勿論任せてと言葉を返すとちょうど休み時間を終える合図の予鈴が鳴った。
平尾はじゃあまたと言って隣のクラスに戻っていく。途中平尾を不思議そうに見てくるクラスメイトが数人いたが、平尾はその目を避けるようにそそくさと教室を出て行く。
クラス内でそれなりに顔が広い方だと自負している嶺歌は、平尾が自分に会いにくればそれなりの注目を浴びるであろう事は理解しており、それを平尾も知っているはずだ。
だが目立つのが嫌いな彼がこのように嶺歌のクラスにわざわざ顔を出してまで会いに来たというのは何だか新鮮だった。形南の事を本当に大事に想っているのが伝わる。
(二人、進展しないかなあ)
そんな事を思いながら授業を受けた。
放課後になると既にリムジンが校門前に到着しており、形南と共に兜悟朗の姿が目に映る。
形南は嶺歌を見つけるとすぐに嶺歌! と声をあげてこちらに抱きついてきていた。
彼女は今日大事な稽古があるにもかかわらず嶺歌に一目会いたいからとわざわざ顔を見せてくれていたのである。
それは形南本人からではなく、平尾に聞いていた情報だった。嶺歌は形南の友達思いな姿勢に感銘を受けながら彼女の抱擁に応える。
「あれな、昨日ぶりだね。お迎えありがと」
「そのような事、当然ですのっ! 連絡も嬉しかったですのよ! お体の具合はどうかしら?」
「うん、全然平気! 医者の紹介もありがとうね」
そんな会話をしてから、静かにこちらに目線を送る兜悟朗とふいに目が合った。
嶺歌は一瞬顔が熱くなるが、そのまま彼に「兜悟朗さんも、今日はありがとうございます」と言葉を発する。
すると兜悟朗は柔らかな笑みを向けながら嶺歌に一歩近づき、当然の事で御座いますと丁寧な口調でそう告げてきた。
(やっぱり昨日の兜悟朗さんは、よっぽど取り乱してたんだな……)
彼の優しい穏やかな言葉遣いを耳にして、一日前の兜悟朗を思い出す。
昨日、彼が発していた台詞は敬語ではあったものの、普段の兜悟朗の発する言葉とは対照的であり、穏やかさも柔らかさも欠如していたのだ。それを改めて理解し、嶺歌は心が踊りそうになる。
(あたしの事、そこまで思ってくれてるんだって思ってもいいんだよね?)
「嶺歌さん」
ハッと我に返り、自身の名を呼ぶ彼に目を向けると兜悟朗はその大きな手を差し出し、リムジンの中へエスコートしようとしてくれている。
嶺歌は一旦冷静さを取り戻しありがとうございますとお礼を言いながら彼の手を取る。一日ぶりに触れる彼の体温は指先だけでも嶺歌の鼓動を促進させ、緊張感を一気に膨らませてきた。
そのままリムジンに乗車し、兜悟朗の素早くも丁寧なハンドル捌きで嶺歌は高円寺院家へと連れて行かれる事となった。
next→第四十五話②
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