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「え……もう……ない……だと!?」

目を見開いた悪魔は、光の収まった魔法陣の上で絶望の表情を浮かべた。
私が昨日自暴自棄に陥って描いた魔法陣の上に突如現れたことから、それが悪魔であることが推察された。
悪魔ってそんなに人間らしい表情を浮かべるんですね。
本の中の悪魔といえば似たり笑いとか人を睥睨した表情だとか、血に塗れて笑っているイメージが強いのに、案外親しみやすいところもあるのかもしれないな、と思う。
薄く燐光を纏う男は、酷く見目が良く、人間離れした美しさだ。老若男女に好かれるであろう清潔感のある美貌であるにもかかわらず、妖艶な空気も待ち合わせている。

「……いやっ! しかし! 贄がなければ悪魔召喚出来ないはずだが?」

寝起きの耳から大きな怒鳴り声が響き、うるさいなと思ったがこの悪魔は自分が呼び出した悪魔で、こちらの呼びかけに応えてくれただけで全く悪くない。


「はぁ、……まぁ……確かに呼び出した時にはありましたけど……ちょっとタイムラグがありすぎじゃないですか? 悪魔降霊の儀式をしたの昨日なんですけど」

ふわ、とあくびを噛み殺して、布団を引き寄せた。
窓の外にはもう日の光が差している。
角度からして……お昼より少し早いぐらいだろうか。
昨日夜更かししたからといって寝過ぎてしまった。
お腹が物悲しげに、ぐぅ、と鳴いている。
喉も渇ききっている。

「あちらとこちらを行き来するにはそれ相応の制約があるんだ、仕方ないだろう」

なるほど、悪魔界にもいろいろしがらみがあるらしい。
悪魔は切れ長の真っ黒な瞳に青みがかった黒髪に、体のラインのわかるピッタリとしたスーツのような服を着ている。
細身の体ではあるが、きっちりと筋肉のついた完璧な体躯である。

「と言うか、もしや……キミの隣にねているその男に……?」

女の左隣には、幸せそうな顔を隠そうともせず、男が寝ている。
さぞかし満足したのだろう。
女が体を起こしていることで、二人でかけていた布団はめくれあがり、多数の歯形のついた上半身が曝け出されている。
悪魔の瞳が女を責めるようにじっとりと細められる。
女は、その視線を受け止めるようにして隣りで幸せそうな男をみた。

「……」

先に沈黙に耐えきれなくなったのは女の方だった。
なるほど悪魔は忍耐強い。

「いや、違うんです。本当は元の世界に返してもらおうと思って悪魔で呼び出すかって思って昨日真夜中に昨日儀式したんですよね。……なんかこの世界の異世界人の扱いって優遇してるようでめっちゃアレなんで」

なぜ浮気現場の言い訳のようなことをしているのか甚だ謎だが、口がぺらぺらと話し出してしまう。

「昨日の夜から朝の間にキミは処女では無くなった、と!?」

悪魔は驚き、嘆いている。

「まぁ……なんやかんやあって……」

「なんやかんやとは?」

「そこ気になります?」

「後学のためにたのむ」

「悪魔って勤勉なんですね」

女は真顔で悪魔を見つめる。本来ならばこの悪魔に処女を捧げていたのだと思えば多少の情がわく。
呼び出した責任は取るべきだろう。
女は、昨日のことを思い出して、なるべく簡潔に話を述べた。

「処女をささげる!? そ、そんな大事なものを悪魔にあげるなんて!(悲鳴)俺が君を一生幸せにする! とか言われて、まぁめっちゃ怒られて泣かれて、絆されちゃった☆ てへ」

「俺の処女……」

悪魔は、話を聞きながらも、ぼそりとつぶやいている。
未練はあるんだろう。
だけどもう、処女は売り切れてしまったのだ。
早い者勝ちの世知辛さというやつだ。
初物は一度きりなのだ……。

「というわけで、もう贄も無いですしお帰りください」

魔法陣を指差しつつ、女は悪魔にさよならの挨拶をするイメージを整えた。
というか、異世界召喚された私が元の世界に帰れないのに、悪魔は悠々と元の世界に帰れるのってめちゃくちゃずるいな。

「イヤだ」

さもその答えが当たり前のように拒絶され、女は混乱した。
断固とした意思を感じる声だ。
まろやかなテノールの音程は妙にみみざわりがいい。声まで悪魔。

「え?」

「イヤだと言ったんだ。こっちに来るまでにめちゃくちゃ大変だったんだ。ありとあらゆる許可証を作成して朝になってようやくこちらに来れた」

つまりは、なにか成果を得てから帰りたい、ということか……
確かにそうだろう。
せっかく何時間もかけて書類を提出してやってきたのに何の成果もありませんでした!じゃ、やるせなかろう。
同じ召喚された側の仲間として女は理解を示した。

「といってももう贄がないですよ?」

「そこで寝ている男の処女でもかまわん」

きっぱりとした声は涼やかに女の耳を打った。

「え!? そんな……そうなんですか?」

召喚者本人のものでなくてもいいのであれば、地下組織からいい感じの子を買ってきたらよかったなどと非人道的なことがすぐさまおもい浮かぶあたり、女はこの世界に染まり、毒されている。

「致し方ない、が、本人の同意がなければ贄としていただたくことはできない」

そうなのか、悪魔界はコンプラ意識が高いな。まさか本人の同意が必要とは。
それじゃぁ、奴隷を買ってきていてもダメだったかな。
本人がイヤだって思ってたらだめなんだもんな。
自ら悪魔様に処女をささげますっ!っていう気概が必要とは……

「うーん、それじゃ、私が決めるわけにも行かないので一度起こしますね」

「そうしろ」

悪魔は、静かに女の行動を見ている。

女は図太く隣で眠り続けている男を揺さぶり起こす。
あまりにも寝汚く起きないので、頬を張った。

ぱーん、と軽やかな音がする。
目を白黒して驚き、飛び起きた男は、目の前に堂々たる姿で立ちふさがる悪魔を見て素っ頓狂な声をあげた。

「ぇえ?! ほんとに悪魔に来ちゃったんだ!?」

昨日の深夜女が行っていたことを知っている男はうわぁ、と声を窄める。
男の尻のあたりには女の初めての鮮血が多少なりとも付着しているだろう。

「そう~、でももう処女ないから……そんで、手ぶらで帰りたくないから男の処女でいいから差し出せって言うんだけど……」

「………」

多少なりともこの事態には男にも非はある。
男もそう思うのか、多少気まずそうな顔をしている。

「まさか」

「貴様……処女ではないのか!?」

女と悪魔が疑念の眼差しで男の尻のあたりを凝視しているのを感じて、座りが悪いのか、もぞもぞと尻を動かしている。

「いえ、普通にイヤだなって思ってただけです」

「彼女が元の世界に帰るのもイヤだし、男の処女を悪魔に引き渡すのもイヤだし……」

「お断りって出来るんですよね?」

顔立ちはさほど頭が良さそうには見えない男は、寝起きの動きの悪い頭で答えた。

「そうか、それなら仕方ない。同意がなければ意味がないからな」

「どうします? 帰還されますか?」

「……そうだな、今日一日人間の生活を見て回ってから帰るとしよう」

「なるほど、観光ですね」

この悪魔ものしずかに見せかけてミーハー属性だな。
別に観光して悪いことはない。

「召喚者から一定距離しか離れることができないのだ。一緒に着いてきてくれるな?」

「おっふ、なるほどです」

でも、私昨日ハジメテハジメテして腰とか股関節とか痛いんですけど。
観光で歩き回るのか……

イヤな顔をしてしまったのか、悪魔がふむ、と考えるとすいっと指を一振りした。
なんの動作? と思っていたら、悪魔は「初夜のあとは身体がツラいだろう? 痛みを緩和する呪をかけた」と言う。
なるほど、数々の処女を食い散らかしてきた悪魔は経験値が高いな。きちんと心遣いまでしてくれるとは。

「俺も行く」

「え? いいけど、疲れてない? てか仕事じゃない?」

そういえばとうに勤務開始時間は過ぎてるけども、大丈夫なんか?
私はまだ自暴自棄中なので仕事とか知らんけど。

「今日は休んだ」

「へー」

「では、二人で、私を案内してくれ」

こころなし弾んだ声で悪魔は微笑んだ。

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