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前篇
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ぼくは、とある山奥にある施設の真っ白い部屋でひとり、ある病と向き合って生きている。年は十七歳。もう人生の半分をこの部屋で過ごしている。
朝の支度のため、ぼく専属の世話係――ここでは補助員と呼ばれる――がやってきて、丁寧な挨拶の後に遮光カーテンを引いてくれる。
レースカーテン越しでも、外はよく晴れていることがわかり、ぽかぽかと暖かそうだ。桜の季節もそろそろ終わりといったところかな、とは思ったけれど、別に桜に特別な思い入れはない。
今朝のぼくはすこぶる調子が悪かった。手足が鉛のように冷たく重い。起きあがろうとしたけれど、背中がきしんでマットに沈んでしまう。
すぐ横で着替えを用意してくれていた補助員に起きられそうにないことを伝えた。着替えは夕方の入浴の時間にすることにして、顔を拭いてもらい、朝食は栄養剤に切り替えてもらう。
まもなく運ばれてきたお世辞にもおいしいとはいえない液体を、手伝ってもらいながら無理やり飲み下したところで、今度は医師がやってくる。朝の体調観察の時間だ。
今日も視診や触診であちこちを確かめられる。僕との間に会話はなく、一方的に進む。
――病状は緩やかに進行していて、問題はない。
それだけ告げると、医師は部屋を出ていった。
手がうまく動かないぼくの代わりに、補助員がシャツのボタンを止めてくれる。いい歳をして情けないけれど、仕方がない。これからさらに不自由なことが増えていくだろう。
「また何かありましたらお呼びください」
「わかりました。ありがとうございます」
朝の仕事を終えた補助員が一礼をして、部屋から出ていくとぼくはひとりになる。とはいえ、寂しさは特に感じなくて、しんとした静けさが心地いい。
今から昼食までは自由時間だけど、天気がいいせいか頭がぼんやりする。無理をせず眠ることに決め、布団を被り目を閉じた。
僕のやらなければならないことは一日三食と三時の補完食を食べること。朝と夕方の体調観察を受けること。決まった時間に入浴して就寝すること。たまに部屋から出て精密検査を受けること。これだけ。
あとは全て自由な時間だ。
体調が悪ければひたすら眠るしかないけれど、良ければ部屋の中をなんとなく動いてみるか、支給された本を読む。
だから部屋にはベッドと洗面台、トイレ、小さな机と椅子、本を数十冊も収めればいっぱいになってしまうほどの小さな本棚しかない。
本は希望すれば何冊でも届けてもらえるけど、さすがに読みきれないので、週に三、四冊。読み切れるかどうかは体調しだいだ。最近はページがめくりにくくなってきたので、どうしたものかと考えながら目を閉じる。
これが、僕が生きる世界のほぼ全てだ。
ぼくは音のない白い部屋でひとり、淡々と代わり映えない日々を過ごす。時が満ちて命の火が消える日まで、細々と生かされる。
思えば生まれてからずっと、こうやって周りに与えられるがまま、言われるがまま、抜け殻のように過ごしている。
名もなき人間の人生は、きっと最期まで空っぽに違いなかった。
◆
今から半世紀ほど前の話だ。とある国の少年が原因不明の病に侵され、十代半ばでその生涯を閉じた。
謎の病は驚異的な速度で全世界に広まった。発病するのは七歳の子供のみ。感染性はない。発病すると十年前後の時をかけ、身体の自由を少しずつ奪いながら緩やかに進行、やがて死に至らしめる。
それからは、決して少なくない数の少年少女たちが病魔に捕まったという。人種や階級も関係なかった。貧民街に暮らす子も、ある国の第一王子も、同じように病に倒れ、命を奪われた。
遺伝子の突然変異、未知の病原体、あるいは大昔に起こった発電所の事故の影響、工業廃水による飲み水の汚染……仮説は色々と立てられたようだけど、現在に至るまで原因はよくわかっていない。
しかし、絶望的だった状況がある日突然大きく変わった。
病が最初に発生してから十数年の時が経ったころ、とある国の天才科学者が有効な特効薬を開発したのだ。薬はすぐに量産体制に入り、病が広がった時よりも早いスピードで全世界に行き渡った。その翌年には、この病で死ぬ子供はほとんどいなくなった。
今となっても、患者は発生し続けている。しかし、『子供がたまにかかる軽い病』と認識されているのみだ。もう誰も恐れたりはしない。
――まあ、『神からの贈り物』と、喜ぶ人はいるけれど。
ぼくは目を閉じた。その日は、そのまま目覚めることはできなかった。
◆
ある日、目を覚ますと、しとしとと雨が降っていた。
なぜか、雨の日は体調がいい。これまた原因は不明らしいが、みんな決まってそうなのだという。湿度とか、気圧とか。そのあたりが関係した話なのではないかと思う。
朝の日課をつつがなく終えたぼくは、足がちゃんと動かせることに気づいた。この調子なら車椅子に乗らずとも自分の足で歩けそうだ。
ドアの方を見る。部屋の外に出るのを禁止されているわけでもないし、他にも同じような人間がここには何人か収容されている。
でも、その日までを眠ったままで過ごす人間がほとんどで、ぼくみたいに歩き回っている人間はいない。部屋の外に出てもひとりには変わりなく、あまり意味のあることだとも思えない。
本棚を眺める。前に与えられた本は、全て読み尽くしてしまっていた。読み返したいものも特にない。次が入ってくるのは明日だ。
そう、ぼくは珍しく、暇つぶしに悩んでいた。しかし壁も床も天井も真っ白でシミのひとつもないこの部屋は、妄想や想像のきっかけなどあったものではない。ため息ひとつつき、ベッドに再び横たわると目を閉じた。
仕方がないので、雨の音に耳を傾けることにする。今日はしとしとと、柔らかい雨が降っている。他に音らしい音がほとんど聞こえないこの施設では、雨の音や風の音がよく通る。
音楽は嫌いだけど、自然が奏でる音は好きだった。雨粒が奏でる規則的なノイズは心地良く、目覚めたばかりなのに眠りに誘われる。抗うことに意味はないから、そのまま眠ってしまおうと思った時だった。
突然、雨音のリズムにメロディが乗る。澄んでいて、伸びやかな声だった。同じくらいの歳の女の子の歌声だと気づき、 驚きで、目と耳を大きく開いた。
新しく入った子だろうけど、よりによってこんな場所で、気持ちよさそうに歌うなんて相当変わっている。
綺麗な声に誘われるようにベッドから降り、三方の壁に順に耳を押し当てていく。思った通り、声の主は隣室にいるようだ。
歌は調子を変えながら降ったり止んだりして、雨の方は夜が深くなるまで降り続いていた。
ぼくは、その日はなかなか眠ることができなかった。
さて、自分でも笑ってしまうけれど、それからはずっと『彼女』のことが気になって仕方なかった。どんな子なのかを想像するのが楽しくなった。
声が綺麗なら、顔も可愛いはず。白くて細い四肢を想像すると、血の流れが変わるような感覚を覚えるようになった。欲情しているのだと気がついて、自分が情けなくなった。
そんなわけだから、隣にいるのはどんな人ですかなんて、恥ずかしくて補助員には聞けなかった。
だけどどうしてもどうしても気になって、体調がすぐれずに起きられない日も、耳だけはしっかりと澄ませていた。
雨の日だけではなく、晴れの日も、細く柔らかい歌が心地よく響いてくることに気がついた。ひとつとして知っている曲はなかったけれど、それでもぼくの心をしっかりと掴んで離さなかった。
次の雨の日。今日は歌声が違うところから聞こえてくることに気がついて、ドアをじっと見つめた。これを隔てた先は廊下、その突き当たりには長椅子が一つ置いてある。彼女はそこにいるに違いないと思った。
足はいちおう動く。ベッドから降り、鏡に向かうと髪を整えなおした。久々に補助員以外の人に会うから、念には念を入れる。こんなに心が弾んだのは生まれて初めてだった。
想定よりも足が重かったことにいらいらしながら、部屋のドアを開いた。定期検査以外で部屋の外に出るのはいつぶりだろうか、などと思いながら。
視界に色が飛び込んでくる。廊下の窓の向こうで、紫陽花が咲き始めていた。そういえば、そろそろ梅雨入りの時期だ。そのまま顔を横に向けると案の定、長椅子に腰掛けて歌を歌っている女の子が一人。いよいよ会えることに胸を膨らませながら、ゆっくりと近づいていく。
唐突に歌が止まる。
ぼくの存在に気づき固まってしまった彼女は、綺麗な歌声から想像していた容姿とは全然違った。
不健康に痩せた体。よく見ると長い髪は全体的に傷んでいて、肌にツヤはない。おまけにぽかんと開いたままの口から見える前歯はなぜか大きく欠けている。
ガッカリした。それはもうものすごく、ガッカリした。ぼくが勝手に想像を膨らませていただけで、彼女からしたら大変失礼な話だとはわかっているけど。
「ご、ごめんなさい。うるさかったです……よね」
「いや、歌、上手ですね」
堂々とした歌に反し、明らかに気の弱そうな声にたじろいでしまったけど、すかさず気を取りなおす。
彼女の容姿のことはともかくとして、その歌声に心惹かれていたのは事実だったから。目を見開いたままの彼女はびくりと肩を揺らし口を覆い、上目でぼくを見る。
「あ、ありがとう」
うん。やっぱり、全然可愛くない。だけど不思議なことに、少し朱の差した顔に胸の奥をくすぐられた気がした。
こんな暮らしをしていても、別に異性に興味がないわけではない。そうでなくても起きている人間は珍しいから、少し話をしてみようと思った。
隣にゆっくり腰をおろすと、彼女は分かりやすく身を震わせる。
重すぎる沈黙が落ちる。これからどうしようかと考えるぼくの隣で、彼女はじっと窓の外を見ている。一面に広がる紫陽花の花が、雨に打たれているのが見える。
「ここは紫陽花が綺麗だね」
「うん、たくさん植えてあるんだよね。ここは紫陽花、あっちは桜とか紅葉。外に出て見られるわけじゃないけど」
廊下にはあちこち椅子が置かれ、窓越しに花を楽しめるようになっている。ぼくらへの供物のつもりなのかな、という言葉は飲み込んだ。
ぎこちないながらも会話が繋がり始める。彼女が歌っていたのは近頃の流行りの歌らしい。どおりで聞き覚えがないわけだと言うと、彼女は目を丸くする。
「え、ひとつも知らなかったの? どれも有名だと思うけど」
「ここに来て結構経つんだ。それに、来る前は勉強と……まあ、習い事漬けで、テレビとかネットとか全然で」
「そっか、大事にされてたんだね」
何気ない一言は、ぼくの心のかさぶたを剥がして傷口をえぐった。噴き上がった感情を抑えることができなくて、つい語気が強くなってしまう。
「だったらここには来てないだろ。親に全部決められて自由も何もなくて、それも思うようにいかなかったから捨てられた。命のない着せ替え人形と同じだ」
ただ、皮肉なことに、ぼくはここに来てやっと自由を手に入れたと思っている。理想の子供が欲しかっただけの両親に散々振り回されて、最後には次の子を作ってやり直すから、お前はもういらないとここに連れてこられたのだ。
とはいえ、ここにきた当時には両親ともに四十をゆうに過ぎていたのに、そう簡単に次の子を授かれるのかという気もする。だいいち、ぼくはずっと一人っ子だった。あえて作らなかったのか、できなかったのかは知らないが。
ああ、ぼくのことを神からの贈り物だとか言ってたな。
ぼくを手放して、きっと今は至上の喜びの中にいるんだろうけど、我が子の命と引き換えの幸せが長く続くなんて思えない。地獄に堕ちてしまえばいい。
ぼんやり生かされるだけの真っ白な暮らしの中でも、両親への怨嗟は心の底で赤く燻っていて、眠る前には必ず二人の不幸を願った。人を呪わば穴二つとはいうけれど、これまでの仕打ちを思えば。
「っ、ごめんなさい……」
「……ごめん。言い方がきつかった。いいよ。お互い様だから」
彼女の泣きそうな声で我に返った。お互い様だなんて言ったからだろう。彼女もこわごわといった様子で身の上を話し始めた。
彼女は六人きょうだいの一番上だという。父親がろくでなしで、彼女の欠けた歯も父親の暴力によるものらしい。
隙を見て母親ときょうだい共に逃げたけれど、病弱な母の女手ひとつでとなると色々と無理があったと言う。きっと歯を治せなかったのも、薬を買えなかったのもそのせいなのだろう。
「本当はね、病気を治して歌手になりたかったんだ。いっぱい歌ってお金を稼いで、親孝行したいとか、そんなこと考えてた」
笑顔でこれだけ言うと、彼女の瞳が暗くなる。
「でも結局、ここに連れてこられたってわけか」
「ううん。去年くらいかな、やっと薬は買ってもらえたけど、ここの話を知ってたから一度も飲まなかったの。みんなのためにはこっちの方が確実だって思って。弟や妹たちには夢を叶えてほしいし、苦労ばっかりしたお母さんが、これからは幸せに生きてくれたらって」
彼女は笑っているが、ぼくは衝撃で何も言えないどころか、息をすることすらも忘れそうになった。まさか自分の意思でここに来たなんて。それも家族の幸せを祈るがゆえに、自分の命を捧げようなんて。
「……優しいんだ」
ようやくそれだけを絞り出したけれど、そんな言葉では片付かないほどの大きくて深い愛を感じていた。涙がこぼれ落ちる。涙腺がまだ生きていたことに驚いた。病のせいでとっくに枯れてしまったものだと思っていたのに。
「ありがとう……君も優しいね。割り切ってたつもりでも、死ぬのを待つだけって辛くって。眠らせてもらえるならそうしてもらおうかなと思ってたんだけど、やめてよかった」
「そっか」
薄い色の花が咲いたような、優しげな笑顔がとても美しく見えて、どきりとした。彼女の歌声も、この笑顔も。ぼくの胸の奥深く、柔らかい部分に確かに触れていた。
この時、ぼくと彼女のすっかり薄くなった運命が重なった。
朝の支度のため、ぼく専属の世話係――ここでは補助員と呼ばれる――がやってきて、丁寧な挨拶の後に遮光カーテンを引いてくれる。
レースカーテン越しでも、外はよく晴れていることがわかり、ぽかぽかと暖かそうだ。桜の季節もそろそろ終わりといったところかな、とは思ったけれど、別に桜に特別な思い入れはない。
今朝のぼくはすこぶる調子が悪かった。手足が鉛のように冷たく重い。起きあがろうとしたけれど、背中がきしんでマットに沈んでしまう。
すぐ横で着替えを用意してくれていた補助員に起きられそうにないことを伝えた。着替えは夕方の入浴の時間にすることにして、顔を拭いてもらい、朝食は栄養剤に切り替えてもらう。
まもなく運ばれてきたお世辞にもおいしいとはいえない液体を、手伝ってもらいながら無理やり飲み下したところで、今度は医師がやってくる。朝の体調観察の時間だ。
今日も視診や触診であちこちを確かめられる。僕との間に会話はなく、一方的に進む。
――病状は緩やかに進行していて、問題はない。
それだけ告げると、医師は部屋を出ていった。
手がうまく動かないぼくの代わりに、補助員がシャツのボタンを止めてくれる。いい歳をして情けないけれど、仕方がない。これからさらに不自由なことが増えていくだろう。
「また何かありましたらお呼びください」
「わかりました。ありがとうございます」
朝の仕事を終えた補助員が一礼をして、部屋から出ていくとぼくはひとりになる。とはいえ、寂しさは特に感じなくて、しんとした静けさが心地いい。
今から昼食までは自由時間だけど、天気がいいせいか頭がぼんやりする。無理をせず眠ることに決め、布団を被り目を閉じた。
僕のやらなければならないことは一日三食と三時の補完食を食べること。朝と夕方の体調観察を受けること。決まった時間に入浴して就寝すること。たまに部屋から出て精密検査を受けること。これだけ。
あとは全て自由な時間だ。
体調が悪ければひたすら眠るしかないけれど、良ければ部屋の中をなんとなく動いてみるか、支給された本を読む。
だから部屋にはベッドと洗面台、トイレ、小さな机と椅子、本を数十冊も収めればいっぱいになってしまうほどの小さな本棚しかない。
本は希望すれば何冊でも届けてもらえるけど、さすがに読みきれないので、週に三、四冊。読み切れるかどうかは体調しだいだ。最近はページがめくりにくくなってきたので、どうしたものかと考えながら目を閉じる。
これが、僕が生きる世界のほぼ全てだ。
ぼくは音のない白い部屋でひとり、淡々と代わり映えない日々を過ごす。時が満ちて命の火が消える日まで、細々と生かされる。
思えば生まれてからずっと、こうやって周りに与えられるがまま、言われるがまま、抜け殻のように過ごしている。
名もなき人間の人生は、きっと最期まで空っぽに違いなかった。
◆
今から半世紀ほど前の話だ。とある国の少年が原因不明の病に侵され、十代半ばでその生涯を閉じた。
謎の病は驚異的な速度で全世界に広まった。発病するのは七歳の子供のみ。感染性はない。発病すると十年前後の時をかけ、身体の自由を少しずつ奪いながら緩やかに進行、やがて死に至らしめる。
それからは、決して少なくない数の少年少女たちが病魔に捕まったという。人種や階級も関係なかった。貧民街に暮らす子も、ある国の第一王子も、同じように病に倒れ、命を奪われた。
遺伝子の突然変異、未知の病原体、あるいは大昔に起こった発電所の事故の影響、工業廃水による飲み水の汚染……仮説は色々と立てられたようだけど、現在に至るまで原因はよくわかっていない。
しかし、絶望的だった状況がある日突然大きく変わった。
病が最初に発生してから十数年の時が経ったころ、とある国の天才科学者が有効な特効薬を開発したのだ。薬はすぐに量産体制に入り、病が広がった時よりも早いスピードで全世界に行き渡った。その翌年には、この病で死ぬ子供はほとんどいなくなった。
今となっても、患者は発生し続けている。しかし、『子供がたまにかかる軽い病』と認識されているのみだ。もう誰も恐れたりはしない。
――まあ、『神からの贈り物』と、喜ぶ人はいるけれど。
ぼくは目を閉じた。その日は、そのまま目覚めることはできなかった。
◆
ある日、目を覚ますと、しとしとと雨が降っていた。
なぜか、雨の日は体調がいい。これまた原因は不明らしいが、みんな決まってそうなのだという。湿度とか、気圧とか。そのあたりが関係した話なのではないかと思う。
朝の日課をつつがなく終えたぼくは、足がちゃんと動かせることに気づいた。この調子なら車椅子に乗らずとも自分の足で歩けそうだ。
ドアの方を見る。部屋の外に出るのを禁止されているわけでもないし、他にも同じような人間がここには何人か収容されている。
でも、その日までを眠ったままで過ごす人間がほとんどで、ぼくみたいに歩き回っている人間はいない。部屋の外に出てもひとりには変わりなく、あまり意味のあることだとも思えない。
本棚を眺める。前に与えられた本は、全て読み尽くしてしまっていた。読み返したいものも特にない。次が入ってくるのは明日だ。
そう、ぼくは珍しく、暇つぶしに悩んでいた。しかし壁も床も天井も真っ白でシミのひとつもないこの部屋は、妄想や想像のきっかけなどあったものではない。ため息ひとつつき、ベッドに再び横たわると目を閉じた。
仕方がないので、雨の音に耳を傾けることにする。今日はしとしとと、柔らかい雨が降っている。他に音らしい音がほとんど聞こえないこの施設では、雨の音や風の音がよく通る。
音楽は嫌いだけど、自然が奏でる音は好きだった。雨粒が奏でる規則的なノイズは心地良く、目覚めたばかりなのに眠りに誘われる。抗うことに意味はないから、そのまま眠ってしまおうと思った時だった。
突然、雨音のリズムにメロディが乗る。澄んでいて、伸びやかな声だった。同じくらいの歳の女の子の歌声だと気づき、 驚きで、目と耳を大きく開いた。
新しく入った子だろうけど、よりによってこんな場所で、気持ちよさそうに歌うなんて相当変わっている。
綺麗な声に誘われるようにベッドから降り、三方の壁に順に耳を押し当てていく。思った通り、声の主は隣室にいるようだ。
歌は調子を変えながら降ったり止んだりして、雨の方は夜が深くなるまで降り続いていた。
ぼくは、その日はなかなか眠ることができなかった。
さて、自分でも笑ってしまうけれど、それからはずっと『彼女』のことが気になって仕方なかった。どんな子なのかを想像するのが楽しくなった。
声が綺麗なら、顔も可愛いはず。白くて細い四肢を想像すると、血の流れが変わるような感覚を覚えるようになった。欲情しているのだと気がついて、自分が情けなくなった。
そんなわけだから、隣にいるのはどんな人ですかなんて、恥ずかしくて補助員には聞けなかった。
だけどどうしてもどうしても気になって、体調がすぐれずに起きられない日も、耳だけはしっかりと澄ませていた。
雨の日だけではなく、晴れの日も、細く柔らかい歌が心地よく響いてくることに気がついた。ひとつとして知っている曲はなかったけれど、それでもぼくの心をしっかりと掴んで離さなかった。
次の雨の日。今日は歌声が違うところから聞こえてくることに気がついて、ドアをじっと見つめた。これを隔てた先は廊下、その突き当たりには長椅子が一つ置いてある。彼女はそこにいるに違いないと思った。
足はいちおう動く。ベッドから降り、鏡に向かうと髪を整えなおした。久々に補助員以外の人に会うから、念には念を入れる。こんなに心が弾んだのは生まれて初めてだった。
想定よりも足が重かったことにいらいらしながら、部屋のドアを開いた。定期検査以外で部屋の外に出るのはいつぶりだろうか、などと思いながら。
視界に色が飛び込んでくる。廊下の窓の向こうで、紫陽花が咲き始めていた。そういえば、そろそろ梅雨入りの時期だ。そのまま顔を横に向けると案の定、長椅子に腰掛けて歌を歌っている女の子が一人。いよいよ会えることに胸を膨らませながら、ゆっくりと近づいていく。
唐突に歌が止まる。
ぼくの存在に気づき固まってしまった彼女は、綺麗な歌声から想像していた容姿とは全然違った。
不健康に痩せた体。よく見ると長い髪は全体的に傷んでいて、肌にツヤはない。おまけにぽかんと開いたままの口から見える前歯はなぜか大きく欠けている。
ガッカリした。それはもうものすごく、ガッカリした。ぼくが勝手に想像を膨らませていただけで、彼女からしたら大変失礼な話だとはわかっているけど。
「ご、ごめんなさい。うるさかったです……よね」
「いや、歌、上手ですね」
堂々とした歌に反し、明らかに気の弱そうな声にたじろいでしまったけど、すかさず気を取りなおす。
彼女の容姿のことはともかくとして、その歌声に心惹かれていたのは事実だったから。目を見開いたままの彼女はびくりと肩を揺らし口を覆い、上目でぼくを見る。
「あ、ありがとう」
うん。やっぱり、全然可愛くない。だけど不思議なことに、少し朱の差した顔に胸の奥をくすぐられた気がした。
こんな暮らしをしていても、別に異性に興味がないわけではない。そうでなくても起きている人間は珍しいから、少し話をしてみようと思った。
隣にゆっくり腰をおろすと、彼女は分かりやすく身を震わせる。
重すぎる沈黙が落ちる。これからどうしようかと考えるぼくの隣で、彼女はじっと窓の外を見ている。一面に広がる紫陽花の花が、雨に打たれているのが見える。
「ここは紫陽花が綺麗だね」
「うん、たくさん植えてあるんだよね。ここは紫陽花、あっちは桜とか紅葉。外に出て見られるわけじゃないけど」
廊下にはあちこち椅子が置かれ、窓越しに花を楽しめるようになっている。ぼくらへの供物のつもりなのかな、という言葉は飲み込んだ。
ぎこちないながらも会話が繋がり始める。彼女が歌っていたのは近頃の流行りの歌らしい。どおりで聞き覚えがないわけだと言うと、彼女は目を丸くする。
「え、ひとつも知らなかったの? どれも有名だと思うけど」
「ここに来て結構経つんだ。それに、来る前は勉強と……まあ、習い事漬けで、テレビとかネットとか全然で」
「そっか、大事にされてたんだね」
何気ない一言は、ぼくの心のかさぶたを剥がして傷口をえぐった。噴き上がった感情を抑えることができなくて、つい語気が強くなってしまう。
「だったらここには来てないだろ。親に全部決められて自由も何もなくて、それも思うようにいかなかったから捨てられた。命のない着せ替え人形と同じだ」
ただ、皮肉なことに、ぼくはここに来てやっと自由を手に入れたと思っている。理想の子供が欲しかっただけの両親に散々振り回されて、最後には次の子を作ってやり直すから、お前はもういらないとここに連れてこられたのだ。
とはいえ、ここにきた当時には両親ともに四十をゆうに過ぎていたのに、そう簡単に次の子を授かれるのかという気もする。だいいち、ぼくはずっと一人っ子だった。あえて作らなかったのか、できなかったのかは知らないが。
ああ、ぼくのことを神からの贈り物だとか言ってたな。
ぼくを手放して、きっと今は至上の喜びの中にいるんだろうけど、我が子の命と引き換えの幸せが長く続くなんて思えない。地獄に堕ちてしまえばいい。
ぼんやり生かされるだけの真っ白な暮らしの中でも、両親への怨嗟は心の底で赤く燻っていて、眠る前には必ず二人の不幸を願った。人を呪わば穴二つとはいうけれど、これまでの仕打ちを思えば。
「っ、ごめんなさい……」
「……ごめん。言い方がきつかった。いいよ。お互い様だから」
彼女の泣きそうな声で我に返った。お互い様だなんて言ったからだろう。彼女もこわごわといった様子で身の上を話し始めた。
彼女は六人きょうだいの一番上だという。父親がろくでなしで、彼女の欠けた歯も父親の暴力によるものらしい。
隙を見て母親ときょうだい共に逃げたけれど、病弱な母の女手ひとつでとなると色々と無理があったと言う。きっと歯を治せなかったのも、薬を買えなかったのもそのせいなのだろう。
「本当はね、病気を治して歌手になりたかったんだ。いっぱい歌ってお金を稼いで、親孝行したいとか、そんなこと考えてた」
笑顔でこれだけ言うと、彼女の瞳が暗くなる。
「でも結局、ここに連れてこられたってわけか」
「ううん。去年くらいかな、やっと薬は買ってもらえたけど、ここの話を知ってたから一度も飲まなかったの。みんなのためにはこっちの方が確実だって思って。弟や妹たちには夢を叶えてほしいし、苦労ばっかりしたお母さんが、これからは幸せに生きてくれたらって」
彼女は笑っているが、ぼくは衝撃で何も言えないどころか、息をすることすらも忘れそうになった。まさか自分の意思でここに来たなんて。それも家族の幸せを祈るがゆえに、自分の命を捧げようなんて。
「……優しいんだ」
ようやくそれだけを絞り出したけれど、そんな言葉では片付かないほどの大きくて深い愛を感じていた。涙がこぼれ落ちる。涙腺がまだ生きていたことに驚いた。病のせいでとっくに枯れてしまったものだと思っていたのに。
「ありがとう……君も優しいね。割り切ってたつもりでも、死ぬのを待つだけって辛くって。眠らせてもらえるならそうしてもらおうかなと思ってたんだけど、やめてよかった」
「そっか」
薄い色の花が咲いたような、優しげな笑顔がとても美しく見えて、どきりとした。彼女の歌声も、この笑顔も。ぼくの胸の奥深く、柔らかい部分に確かに触れていた。
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