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2話
あの日、厩舎の地面に平伏したまま「連行」されて以来、俺の生活は一変した。
雑用係として採用されたはずが、なぜか配属先は『団長室付専属下働き』という、騎士団の誰もが同情の目を向ける(あるいは嫉妬に狂う)謎のポジションに固定されたのだ。
(なんでだよっ!俺は空気になりたかったんだ。背景の石ころAとして、静かに余生を過ごしたかったんだぞっ!)
心の中でどれほど血を吐こうとも、現実の時間は無情に過ぎる。
今日は、ガラハドが隣国の国境付近に出没した魔物の討伐遠征から戻る日だった。
俺に与えられた最初の任務は、帰還した団長の甲冑の手入れ。本来なら専門の鍛冶工や従騎士がやるべき仕事だが、ガラハド直々の指名とあっては、ボーグ副団長も引きつった笑顔で俺に最高級の研磨剤と鹿革を押し付けるしかなかった。
夕刻。団長室の重厚な扉が開き、鉄と、微かに鼻を突く血の匂いを纏った冷気が流れ込んできた。
「……戻ったぞ」
現れたガラハドは、漆黒の塵にまみれていた。祝賀パレードの時の白銀の正装とは違う、実戦用の、鈍い光を放つ重甲冑。その表面には、魔物の爪痕だろうか、無数の細かい傷が不規則に刻まれている。
俺は条件反射でソファから飛び起き、床に跪いた。
「お、お疲れ様でしたっ、団長っ!直ちにお召し替えの準備をっ、あ、いえ、まずは鎧を、その……っ」
「動くな」
パニックで支離滅裂な俺の言葉を、地を這うような低い声が遮る。
ガラハドは大股で距離を詰めると、跪く俺の目の前で、自ら胸当ての留め金を外した。
カチャリ、と硬質な金属音が静かな部屋に響く。
「……何をしている。立て」
「は、はいっ!」
弾かれたように立ち上がった拍子に、抱えていた鹿革を落としそうになる。
ガラハドは俺の無様な様子を一瞥もせず、次々と篭手や肩当てを外し、執務机の上に並べていった。
最後に残ったのは、素肌の上に纏った漆黒のインナーシャツ姿。鍛え上げられた、岩のように強靭な肉体の輪郭が、薄暗い部屋の中で不気味なほどの存在感を放っている。
昨日の、あの肉食獣のような微笑みが脳裏を過ぎり、俺は生唾を飲み込んだ。
「さあ、始めろ」
ガラハドはソファに深く腰を下ろし、顎で机の上の甲冑を示した。
答えを求めるような視線ではない。これは絶対的な命令だ。
(落ち着け、俺。これはチャンスだ。ここで完璧な仕事をすれば、ガラハドは『ほう、こいつは無能だが、鎧を磨く腕だけはあるな。便利な道具として生かしておこう』と思うかもしれない。嫌われるのは無理でも、無害な道具として認識されれば、処刑フラグはへし折れるっ!)
そう、これは生存を賭けたメンテナンスなのだ。
俺は震える手で鹿革を拾い上げ、研磨剤を馴染ませると、まずは最も汚れの酷い胸当てに取り掛かった。
ゴシ、ゴシ、ゴシ……。
部屋には、布が金属を擦る単調な音だけが響く。
俺は雑念を振り払うように、必死に腕を動かした。魔物の返り血が焦げ付いたような汚れを、指先の感覚が無くなるほど力を込めて擦り落とす。
絹のシーツしか知らなかった俺の手は、昨日の労働ですでにボロボロだ。研磨剤が小さな傷口に染みて、針で刺されたような痛みを走らせるが、構っていられない。ガラハドの視線が、俺の背中に突き刺さっているのを感じるからだ。
あのエメラルドグリーンの瞳が、今、どんな色を湛えて俺を見ているのか。怖くて振り返ることなんてできない。
(もっと輝かせろ。一点の曇りもない、鏡のような表面にするんだ。そうすれば、彼は俺の中にある邪念に気づかない……)
無我夢中で磨き続けて、どれくらいの時間が経っただろう。
鈍い灰色だった胸当ては、天窓から差し込む月光を反射し、美しい白銀の輝きを取り戻していた。細かな傷跡さえも、まるで勲章のように誇らしく光っている。
「……できた」
思わず漏れた、安堵の溜息。
完璧だ。これなら文句は言わせないだろう。
俺は晴れやかな気分で、胸当てをガラハドの方へ向けようと振り返った。
「団長っ、終わりました……っ!」
だが、歓喜の声は、喉の奥で凍りついた。
ガラハドは、ソファから立ち上がり、いつの間にか俺のすぐ背後に立っていた。
至近距離。インナーシャツ越しに、彼の強靭な肉体が発する熱気が、俺の顔に直接吹き付けてくる。
そして、その瞳。
エメラルドグリーンの光は、月光よりも熱く、陶酔と、底なしの愛執を孕んで、濡れたように輝いていた。
「……ああ、なんと、美しい」
ガラハドの声は、震えていた。
彼は俺の手から、磨き上げられた胸当てを奪うように取り上げると、それを宝物でも扱うかのように愛おしげに抱きしめた。
「俺が遠征で纏った、魔の汚れ。それを、お前は……自分自身の身を削り、痛みすら厭わず、これほどまでに清めてくれたのか」
「えっ?あ、いえ、これは雑用係としての務めでしてっ!」
「隠すな。お前の手を見ればわかる」
ガラハドは胸当てを机に戻すと、俺の、研磨剤で白く汚れ、マメが潰れて赤く腫れ上がった両手を、自らの大きな手で包み込んだ。
騎士特有の、硬く、荒々しい、けれどひどく熱い手のひら。
「こんなにボロボロにして……。お前は、俺の身を守る鎧に、その無垢な魂を注ぎ込んだのだな。俺が戦場で傷つくのを恐れ、少しでも無事に帰ってこられるようにと、祈りを込めて……」
「違っ……全然違いますっ!ただの汚れ落としですっ、祈りなんて一ミリもっ!」
「お前のその謙虚さが、俺の心をどれほど締め付けるか、分かっているのか?」
ガラハドの手が、俺の手首を掴み、そのまま自らの胸元へと引き寄せた。
インナーシャツ越しに、彼の、早鐘のように打つ心臓の鼓動が、俺の指先に直接伝わってくる。
「ノエル。お前が俺のために捨てた地位、そしてこの傷だらけの手。そのすべてが、俺への愛の証明だ。俺は……俺は今、この命が、お前という存在によって生かされていると確信した」
ガラハドの顔が、近づいてくる。
陶酔に染まったエメラルドの瞳が、俺のすみれ色の瞳を絡め取り、逃げ場を完全に塞ぐ。
彼の熱い吐息が、俺の唇に触れそうな距離で囁かれた。
「お前が俺のために魂を削るなら、俺はこの命を賭けて、お前を守り抜く。この鎧のように、お前を一生、俺の腕の中で、一点の汚れもなく輝かせ続けてみせる」
(なんで……なんでそうなるんだよぉぉぉぉっ!俺はただの便利な道具になりたかっただけだぞっ!なんで『俺を愛しすぎて身を削る健気な伴侶候補』に爆速で昇格してんだよっ!)
叫びたい。
だが、ガラハドが浮かべた、世界で一番甘く、そして世界で一番重苦しい、狂気の独占欲に満ちた微笑みの前では、俺はただ、恐怖と、自分でも信じたくないほどの熱狂的な高揚感に、身を震わせることしかできなかった。
完璧に磨き上げられた鎧の表面には、月光を浴びて、とろけるような顔で俺を見つめる最強の騎士と、その腕の中で、絶望に顔を歪める元・当て馬の姿が、皮肉なほど鮮明に映し出されていた。
雑用係として採用されたはずが、なぜか配属先は『団長室付専属下働き』という、騎士団の誰もが同情の目を向ける(あるいは嫉妬に狂う)謎のポジションに固定されたのだ。
(なんでだよっ!俺は空気になりたかったんだ。背景の石ころAとして、静かに余生を過ごしたかったんだぞっ!)
心の中でどれほど血を吐こうとも、現実の時間は無情に過ぎる。
今日は、ガラハドが隣国の国境付近に出没した魔物の討伐遠征から戻る日だった。
俺に与えられた最初の任務は、帰還した団長の甲冑の手入れ。本来なら専門の鍛冶工や従騎士がやるべき仕事だが、ガラハド直々の指名とあっては、ボーグ副団長も引きつった笑顔で俺に最高級の研磨剤と鹿革を押し付けるしかなかった。
夕刻。団長室の重厚な扉が開き、鉄と、微かに鼻を突く血の匂いを纏った冷気が流れ込んできた。
「……戻ったぞ」
現れたガラハドは、漆黒の塵にまみれていた。祝賀パレードの時の白銀の正装とは違う、実戦用の、鈍い光を放つ重甲冑。その表面には、魔物の爪痕だろうか、無数の細かい傷が不規則に刻まれている。
俺は条件反射でソファから飛び起き、床に跪いた。
「お、お疲れ様でしたっ、団長っ!直ちにお召し替えの準備をっ、あ、いえ、まずは鎧を、その……っ」
「動くな」
パニックで支離滅裂な俺の言葉を、地を這うような低い声が遮る。
ガラハドは大股で距離を詰めると、跪く俺の目の前で、自ら胸当ての留め金を外した。
カチャリ、と硬質な金属音が静かな部屋に響く。
「……何をしている。立て」
「は、はいっ!」
弾かれたように立ち上がった拍子に、抱えていた鹿革を落としそうになる。
ガラハドは俺の無様な様子を一瞥もせず、次々と篭手や肩当てを外し、執務机の上に並べていった。
最後に残ったのは、素肌の上に纏った漆黒のインナーシャツ姿。鍛え上げられた、岩のように強靭な肉体の輪郭が、薄暗い部屋の中で不気味なほどの存在感を放っている。
昨日の、あの肉食獣のような微笑みが脳裏を過ぎり、俺は生唾を飲み込んだ。
「さあ、始めろ」
ガラハドはソファに深く腰を下ろし、顎で机の上の甲冑を示した。
答えを求めるような視線ではない。これは絶対的な命令だ。
(落ち着け、俺。これはチャンスだ。ここで完璧な仕事をすれば、ガラハドは『ほう、こいつは無能だが、鎧を磨く腕だけはあるな。便利な道具として生かしておこう』と思うかもしれない。嫌われるのは無理でも、無害な道具として認識されれば、処刑フラグはへし折れるっ!)
そう、これは生存を賭けたメンテナンスなのだ。
俺は震える手で鹿革を拾い上げ、研磨剤を馴染ませると、まずは最も汚れの酷い胸当てに取り掛かった。
ゴシ、ゴシ、ゴシ……。
部屋には、布が金属を擦る単調な音だけが響く。
俺は雑念を振り払うように、必死に腕を動かした。魔物の返り血が焦げ付いたような汚れを、指先の感覚が無くなるほど力を込めて擦り落とす。
絹のシーツしか知らなかった俺の手は、昨日の労働ですでにボロボロだ。研磨剤が小さな傷口に染みて、針で刺されたような痛みを走らせるが、構っていられない。ガラハドの視線が、俺の背中に突き刺さっているのを感じるからだ。
あのエメラルドグリーンの瞳が、今、どんな色を湛えて俺を見ているのか。怖くて振り返ることなんてできない。
(もっと輝かせろ。一点の曇りもない、鏡のような表面にするんだ。そうすれば、彼は俺の中にある邪念に気づかない……)
無我夢中で磨き続けて、どれくらいの時間が経っただろう。
鈍い灰色だった胸当ては、天窓から差し込む月光を反射し、美しい白銀の輝きを取り戻していた。細かな傷跡さえも、まるで勲章のように誇らしく光っている。
「……できた」
思わず漏れた、安堵の溜息。
完璧だ。これなら文句は言わせないだろう。
俺は晴れやかな気分で、胸当てをガラハドの方へ向けようと振り返った。
「団長っ、終わりました……っ!」
だが、歓喜の声は、喉の奥で凍りついた。
ガラハドは、ソファから立ち上がり、いつの間にか俺のすぐ背後に立っていた。
至近距離。インナーシャツ越しに、彼の強靭な肉体が発する熱気が、俺の顔に直接吹き付けてくる。
そして、その瞳。
エメラルドグリーンの光は、月光よりも熱く、陶酔と、底なしの愛執を孕んで、濡れたように輝いていた。
「……ああ、なんと、美しい」
ガラハドの声は、震えていた。
彼は俺の手から、磨き上げられた胸当てを奪うように取り上げると、それを宝物でも扱うかのように愛おしげに抱きしめた。
「俺が遠征で纏った、魔の汚れ。それを、お前は……自分自身の身を削り、痛みすら厭わず、これほどまでに清めてくれたのか」
「えっ?あ、いえ、これは雑用係としての務めでしてっ!」
「隠すな。お前の手を見ればわかる」
ガラハドは胸当てを机に戻すと、俺の、研磨剤で白く汚れ、マメが潰れて赤く腫れ上がった両手を、自らの大きな手で包み込んだ。
騎士特有の、硬く、荒々しい、けれどひどく熱い手のひら。
「こんなにボロボロにして……。お前は、俺の身を守る鎧に、その無垢な魂を注ぎ込んだのだな。俺が戦場で傷つくのを恐れ、少しでも無事に帰ってこられるようにと、祈りを込めて……」
「違っ……全然違いますっ!ただの汚れ落としですっ、祈りなんて一ミリもっ!」
「お前のその謙虚さが、俺の心をどれほど締め付けるか、分かっているのか?」
ガラハドの手が、俺の手首を掴み、そのまま自らの胸元へと引き寄せた。
インナーシャツ越しに、彼の、早鐘のように打つ心臓の鼓動が、俺の指先に直接伝わってくる。
「ノエル。お前が俺のために捨てた地位、そしてこの傷だらけの手。そのすべてが、俺への愛の証明だ。俺は……俺は今、この命が、お前という存在によって生かされていると確信した」
ガラハドの顔が、近づいてくる。
陶酔に染まったエメラルドの瞳が、俺のすみれ色の瞳を絡め取り、逃げ場を完全に塞ぐ。
彼の熱い吐息が、俺の唇に触れそうな距離で囁かれた。
「お前が俺のために魂を削るなら、俺はこの命を賭けて、お前を守り抜く。この鎧のように、お前を一生、俺の腕の中で、一点の汚れもなく輝かせ続けてみせる」
(なんで……なんでそうなるんだよぉぉぉぉっ!俺はただの便利な道具になりたかっただけだぞっ!なんで『俺を愛しすぎて身を削る健気な伴侶候補』に爆速で昇格してんだよっ!)
叫びたい。
だが、ガラハドが浮かべた、世界で一番甘く、そして世界で一番重苦しい、狂気の独占欲に満ちた微笑みの前では、俺はただ、恐怖と、自分でも信じたくないほどの熱狂的な高揚感に、身を震わせることしかできなかった。
完璧に磨き上げられた鎧の表面には、月光を浴びて、とろけるような顔で俺を見つめる最強の騎士と、その腕の中で、絶望に顔を歪める元・当て馬の姿が、皮肉なほど鮮明に映し出されていた。
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